蝶の鳴く山

春野わか

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───

 ザーザーザーザー

 海、砂浜──
 寝そべり伸ばした足に波が掛かる。
 レム睡眠時に見る夢が予兆として彼に訴え続けた。
 
 湿ったウェアの不快さとテントを叩く雨音で漸く目を覚ました。
 真っ先に捉えたのは風雨で波打つタープの影に、水を含んだウェアが張り付いた自分の足。
 いつの間に寝てしまったのか。
 酷い雨だった。
 木々のざわめきと、判然としない黒い影が不気味に蠢いている。

 ともかくライトだ。
 ザックを引き寄せヘッドライトを装着した。

 白色の光が頭の動きに合わせてクリアに状況を照らす。
 タープのお陰でテント内へは浸水していない。
 それだけでも幸いと肩の力が抜ける。
 山の天気は変わり易い。
 テントのファスナーも下ろさず寝てしまったのは迂闊だった。

 
 着替えはザックの中にある。
 膝下はビチャビチャと水が滴る有り様だが下着までは濡れていない。

 横殴りの雨にタープとポールが歪む。
 風はヒューヒューと枝葉はざわめき、頭を動かす度にヘッドライトが闇を切り取る。
 
 テントの耐水圧は20,000mmなので雨が染み込む心配はない。
 しっかりとロープは結ばれ、風雨に強いポールは時折たわむがテントに籠れば十分凌げるだろう。

 動揺は収まり、周囲を気にして光を巡らせる。
 揺れる彼岸花に一瞬白い光が当たった。
 逸らして直ぐに違和感を覚え、ライトを彼岸花に戻す。

 前後左右と風で煽られる、艶やかで瑞々しかった花弁は褐色に萎びていた。

「枯れてる……」

 花が枯れてるなんて今はどうでもいい。
 しかし抗う声は風雨と闇に呑まれた。
 違和感は萎れるどころか中央で膨れ、平常心を保とうとする勇気を押し潰す。
 
 じわりと何かが背を這い上り、緊張感で喉が鳴った。
 意に反してヘッドライトがジグザクと揺れ、タープの覆いを抜け先に伸びる。

 真の闇を自ら照らすのは禁忌だ。
 見てはいけない何かを見てしまうかもしれない。
 闇だからこそ魂が吸い寄せられてしまう。

 木々と夜が作る黒色の中に白色が置かれていた。

 不安と恐怖で圧され飛び出した眼球に、コピーして張り付けたような白いテントが映る。

 三角形のテントが闇の奥深くへと連なる様は不死原岳そのもののようだった。
 昼の光景が反転している。
 縮図として。
 ネガとポジ、黒は白に、白は黒に。

 表層だけ固めた常識という蓋が弾け飛ぶ。
 だらだらと蟀谷を汗が伝うも背筋は凍り、片や心臓はばくばくと熱く音を響かせる。

 ヘッドライトを伏せるか目を逸らせばいい。
 その発想が沸かない。

 動けない荒祭の目の代わりに光は更に捉えた。
 テント一つ一つに括り付けられ揺れている何かを。

 始めはランタンと思った。
 しかしライトははっきりとそれを切り取って彼に突き付けた。
 
 足を括られ黒髪振り乱し、頭頂だけが欠けた人形。
 逆さ吊りの彼岸花のように。
 強い雨風でクルリクルリと回り、白い顔を向けてくる。
 顔に解れた黒髪が掛かり、雨に濡れた恨めしげな顔、顔、顔。

 人気は無いのに何かがいる。
 密集する白いテントに吊るされた半分しか頭のない人形、枯れた彼岸花。
 答えは何だ。
 答えでは無い。
 何よりも大事なのは、其処にあった物は変化し、無かったものが突如として現れたという事だ。
 
 何もかもが異常だ。
 脳に指を入れて掻き回したくなる。
 平静を取り戻す手段を探るが精選出来ない。

「うあああーー」

 自分を保つ糸が切れて絶叫した。
 荒祭は降りしきる雨の中、暗闇に走り出た。

 此処にいたくない。
 理性も知識も邪魔だ。
 本能に従うべきだ。

 ヘッドライトの光が滅茶苦茶に闇から闇に移る。
 上下左右、ヘッドライトは自身の目だ。
 逃げ道を探しながら光が当たる度に目を逸らす。
 思考と目線が連動していない。

 今更目を逸らしても遅い。
 眼底には不気味な光景が焼き付いている。
 そして、その映像は即座に歪み、神経を溶かし恐怖を増幅させている。
 闇よりも、闇を照らす光はもっと恐ろしい。

 白に吸い寄せられる血走った目玉を、無理矢理引き剥がし黒に移る。
 白、黒、白、黒、白、黒、白、黒。

 手足も脳も視線もバラバラにちぐはぐで統制を失っている。
 進みながら退きながら。
 それを繰り返して彼岸花の紅に辿り着いた。
 漸く立ち止まった。
 息が荒く乱れている。
 逃げ場は此処だ。

 彼岸花を踏み潰して進む。
 ズブッズブズブ。
 雨で泥化した土に登山靴がめり込み、気持ちとテンポが噛み合わない。
 苛立ちと焦燥でヘッドライトが下に向いた。
 紅い花弁がドロドロの土に混ざっている。
 グロテスクな物を連想し掛け、目を背けた。

 光が前方に遠くまで伸びた。

 今度は青が舞っていた。
 いつの間にか風雨は和らぎ、荒い息遣いがそれを凌いだ。
 青から虹色、瑠璃色に発光する何かを映した糸雨はカーテンのようだった。

 全身びしょ濡れで、足元は泥濘に埋もれドロドロという現状を忘れさせる幻想的な光景だった。
 恐怖は消え、闇に浮かぶ燐光に目を奪われた。

「綺麗だ……」 

 思わず声が出た。
 瑠璃色の光が近付いてくる。
 
「蝶? 」

 闇に穿たれた光のトンネルを、無数の蝶が螺旋状に泳いでくる。
 先ず顔、肩、腰、順に羽が触れる。
 無数の大きな蝶に囲まれた。
 立ち尽くしている間に顔に三匹止まった。
 流石に手で払い除ける。

 ひらひらと三匹が離れる間に六匹が胸や肩に止まった。
 また払い除ける、すると今度は──

 青い鱗粉を吸い込んだせいか噎せてしまう。
 呼吸が詰まって恐怖心が再燃した。
 手で払う度に倍数になった蝶が身体を埋めていく。
 青色を纏いながら闇雲に泥を跳ね上げ走り出した。
 目の前が見えず前に進もうとする意思よりも縺れて遅れる足。

 強い向かい風の中必死に走る内に蝶が一匹一匹剥がれていく。
 少し気を緩めた瞬間、足が何かに取られて滑った。
 身体の傾きに従う光。
 彼を滑らせたのは、地面に埋もれた大量のパチンコ玉だった。

 地面の感覚が消失し、彼は気を失った。
 
 

 
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