蝶の鳴く山

春野わか

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 馴染みの無い風景だった。
 記憶を喪失していても、それは分かる。
 それでも僅かに開いた扉の隙間から薄日が差すように、呼吸が楽になった。

 小さな木の小屋の中に入ると簡素な脱衣場があって風呂場には丸い木の桶が置かれ湯が張られていた。
 記憶が曖昧とはいえ、随分と古風な、という感想が自ずと沸いた。

「身体の毛を剃りましょう」

 声に振り向くと医者が一人増えていた。
 福耳と黒目が大きいのと、二人。
 特徴は異なるのに何処か似ている。

 自分の世話をしに部屋を訪れたのは一人では無かったのだ。
 遠慮がちに息を吐く。
 驚きは僅かだった。

「服を脱いだら、其処に寝て下さい」

 二人の医者に言われるが儘、全裸になって木の板が敷かれた洗い場に身を横たえる。
 信者か人形のように、羞恥も反発も沸いてこない。

 ただ、風呂場の窓から射し込む朱の夕陽に懐かしさを覚えた。
 振り返るべき過去が無いというのに。

 医者達の握るカミソリが西陽を受け、反射光が瞼に当たる度、虹彩や眼筋が微かに収縮する。
 それ以外、彼が生者である事を示す動きは無く、人形か死者のように肌は青白く硬直していた。

 黙々と肌の上をカミソリが滑る。
 医者達は、仮面を嵌めたように無表情で、落陽を朱衣として纏った古の神官めいていた。

 髭や頭髪だけでなく、剃毛は全身に及んだ。
 監獄のような部屋に隔離され続け、「医者」を名乗る奇妙な老人に意思を委ね過ぎて
虜囚化した荒祭の脳に小さな点が滲む。

 その点は体毛を失うに従い大きくなっていく。

 カミソリが荒祭の陰部に当てられた。

 筋肉が抵抗を示し皮膚の下で盛り上がる。
 口の中が渇いて舌が引き攣り、汗が吹き出してくる。
 見開かれた双眸に虚構は映らず、真実の恐怖だけが広がっていた。

 脳に浮かんだ小さな点が内臓を圧迫していく。

 動いてはいけない。
 目を合わせてもいけない。
 何故?という言葉は粘着いた唾液に絡まって喉の奥で燻っている。

 名前を思い出す事に専心する。
 名前さえ思い出せば問題は解決する。
 荒祭は膨れる点を抑え込もうと拳を握り、息を止め闘った。
 
「何故? 」

 太陽の頭は地平線の上に僅かに残すのみとなり、辺りは闇に傾いていた。
 荒祭の苦渋の問いが静寂を乱した。

「何故? 」

 老人達の顔に影が落ち、茫洋として野晒しの地蔵に似ていた。

「もうすぐ終わります。何もかも」

 一人は返し、一人は逸らす。
 荒祭の問いは日輪と共に闇に呑まれた。
 
 ランタンの灯りが灯された。
 田舎の風景にそぐわない高輝度な白色光。
 剃毛が完了した身体は道化のように青白い。

 湯が身体に染み、重圧の中に微かな安息を生じさせた。
 
───

「此方です」

 白い光と声に導かれ、夜道を進む。
 穢れは体毛と共に落とされた。

 黒い垢は洗い流され、清心に戻った。

 真っ黒に塗り潰された無限大のキャンバスにポツンと打たれた白い点が、ゆっくり移動していく。
 ランタンの白光の円の外にある荒祭と医者の半身は闇に溶けていた。

 道々、我が消失していく。
 
 頭の中は空っぽで、いつの間に辿り着いたのか、畳の上に座っていた。
 そして二人の医者は一人に減っていた。

「何かありましたら、お呼び下さい」

 福耳の医者が言い置いて部屋から出て行く。
 部屋の広さや趣が以前と異なるように思えたが、些細な疑問を抱く事さえ禁忌としている。

「此処」にも時がある事は陽の傾きが示していた。
 それなのに、荒祭だけに接する時のみ途切れ途切れに跳んでいる。

 耳が痒い。
 闇の中、耳に手を遣る。
 堪らなく痒い。
 引きちぎりたくなる程の痒みが耳奥にあった。
 
 耳穴に人差し指を突っ込もうとしたが奥まで入らない。
 小指に代え、奥を掻き回す。
 ぬるぬるとした不快な感触に肌が粟立ち、言い様のない恐怖に凍り付く。

「う、ぐ、うう」

 無我夢中で掻き出そうともがく。
 何かがボタボタと畳の上に滴った。
 流血したかと一瞬動じるが、それは白く米粒の塊のようでいて蠢き、益々荒祭の肝を冷やした。

「痒い、痒い! 」

 とうとう感情が迸った。
 四方八方目暗がり。
 過去、現在、未来、全てが闇の中。

 掻き出しても掻き出しても、底無しに痒みが沸いてくる。
 錯乱状態で指をぐいぐい耳に押し込む。

 目が暗闇に慣れたのか、始めから感じていただけなのか。
 耳の中から沸いてくるのはウジ虫だと悟った。

「あああーーぎゃぎゃっぎゃーー」

 赤ん坊のように泣き叫ぶ。
 此処は墓場だ。
 土の下に生きた儘埋められているようなものだ。

 頭を抱えて胎児のように丸くなる彼の目の前にぼおっと裸の女性が出現した。

「みちまさ……名前は……」

 囁く声が大きく響いた。

「みちまさ? 」

「字は……こう書く……」

 荒祭の問いには答えず、女性はメモ帳に「道真」と漢字を記して見せた。

 この漢字の成り立ちはと耳に何度も吹き込まれる。
 自分の名前は「荒祭道真」。
 それさえ分かれば十分なのに。
 
 それなのに女性は、一つ一つの漢字を象形に分解して原点を訥々と語り続けた。

 荒祭は記憶にも耳にも留めまいと心を塞いだ。
 名前以上を欲してはいけない。
 夢から覚めたら、医者に全て思い出したと告げるのだ。
 そうすれば闇は明け、過去も現在も未来も繋がるだろう。

「知る必要無い」

 明瞭な声で抵抗した。
 自分の声が山に木霊するようにワンワンと耳の奥で繰り返される。

「成り立ちを知らなければ、ずっと回り続ける。止まるか、進むのか。選べる」

 女性は読経のように淡々と声を響かせた。

 何処かで聞いたような言葉。
 脳内に平たく貼り付いているアメーバが強い反応を示す。

 名前の音の並びを思い出しただけではダメだという事か。
 漢字まで分かったら次は由来。

「名前の成り立ちを知らなければ回り続ける。どうする? 」

 女性の声が女性らしからぬ低音に転じた。
 変声器を通したような神経を逆撫でする独特な響き。
 殆んど顔の筋肉も唇も動かしていない為、全ての言葉が口蓋にぶつかり、内側に籠っているような。

 体内で燃える苛立ちで、これが返答と言わんばかりに女性を突き飛ばした。
 そこまで強く押したつもりは無いのに、部屋の左隅にある棚に背面から激突する。

 だらりと両腕を畳に垂らし、俯いた顔に髪が掛かる。
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