蝶の鳴く山

春野わか

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 女性が凭れる棚の下部には左右二つの引き出しがあり、向かって左側が半分程開いていた。
 
 身を乗り出し、目に力が籠る。
 しかし、ぐっと堪えて力を抜いた。
 恐らく見てはいけないもの、見るべきではない物が其処に入っていると直感したからだ。

 女性がゆっくりと顔を上げた。
 縺れて顔に掛かる白髪の間から片目が覗いている。
 怨めしげにも哀しげにも見える眼差し。
 ふと荒祭から目を逸らし、開いている引き出しに右手を入れ、小さな物を指で摘まんで上に掲げた。
 闇の中なのに、銀色に鈍く光る丸い何か。

「欲しい? 」

「どうでもいい」

 それを目にした途端、深く埋もれた記憶に指先が触れた。
 全ての記憶を取り戻したいと願っていた。
 だが今、その糸口を掴み掛けながら、彼はそれを引くのを拒んだ。

 そして、女性の姿が闇と同化して消えた。

───

「私の名前は荒祭道真」

 周囲には白い光が満ちていた。
 目の前にいる医者に向かって、無意識に動いた唇が名を成す音を淡々と刻んだ。

 医者の背後から光が溢れていた。
 部屋を照らす光はランタンに依るものだ。

 医者が部屋にいる間だけ、小川に浮かぶ笹舟のように頼りないが、時間が緩く流れる。

 しかし「今日」も彼岸花は枯れていた。

「思い出されたのですか。それは良かった」

 湯気の立つ食膳を布団の傍らに置きながら応じる医者の大きな黒目は、瞬き一つしない。

 その後、暫し静寂が流れた。

「漢字の成り立ちは、お分かりですか? 」
 
 白米が盛られた茶碗に箸を付けようとすると、医者が語調強く問い掛けた。

 部屋の上部に開いた月の如き穴に、荒祭の目が吸い寄せられる。
 それは好奇心の芽生えを示す反応だった。
 穴は壁紙の一部として溶け込んで、今まで其処に在りながら無かったも同然だった。

 いや、今まで在ったのかすら定かでない程、気に止めた事は無かった。

 当然ながら外を覗いて陽の傾きや月の満ち欠け、自然の景色に心和ませ、時の変遷を読もうともしなかった。

 風も日月の光も雲も雨も草木の匂いも、そこから運ばれてきていたのだろうか。
 周囲に無関心な者の上を、形無き物は非情なまでに急速に通り過ぎていく。
 変化に気付かないうちに変化し、目を止めた時には枯れている。

 その小さな開口部から外を眺めるだけで、締め付けられるような不安も和らいでいたかもしれないのに。

 漸く穴の向こう側が気になり、荒祭は膝を立てた。

「先ずは食事を。冷めてしまいます」

 背後から掛けられた医者の声に関節が固まる。
 紐を引かれた人形のように布団の上に戻され、箸を取り茶碗を持った途端、荒祭の上目蓋が捲れ上がった。

 茶碗に盛られた白米がモゾモゾ動いていた。
 悲鳴にならない恐怖で息が詰まる。

 動じて定まらない視線が汁椀に浮かぶ糞虫の死骸に釘付けになった。

「ひっっひひーー」

 取り落とした茶碗から蛆虫が溢れ、畳の上で縺れ引っ付き、細かく畝りながら離れていく。 
 後退る足が食膳を蹴り、汁椀が引っくり返って糞虫の死骸が散らばった。

 後ろ手で反った身体を何とか立て直すと、壁の穴に向けて腕を伸ばした。

「助けて──」

 指先に固い感触。
 伸び上がり目を凝らし、何度も壁面を撫でる。
 壁に四角く穿たれた穴は、触れども叩けども、何処までも均一に壁でしか無かった。

 開口部と思っていたのは単なる壁の染みだった。

「前は開いていた。選んだのは貴方です」

 背後から掛けられた無機質な声に、荒祭は膝から崩折れた。

 だが、諦めきれず今度は這いずり棚に縋り付いた。
 この部屋から逃れる術を探し求めて。

 左右の溝の滑りが悪い引き出しを強引に開けた。
 右側に入っていたのは泥だらけの丸められたザック、ヘッドライト、タバコや空のペットボトル、煤けた跡が残る焚き火台に、湿ったオレンジ色のロープ。

 荒祭は目を瞠った。
 其れ等が嘗て自分が所有していた物というのは目で見て手で触れて分かった。

 しかし愛着は皆無で、今の自分に救いを与えてくれる物でも、求めている物でも無いのは明らかだった。

 直ぐに興味を失い、震える手で今度は左側を引き出した。
 表紙がボロボロのアルバムに、運転免許証
、車のキー、スマホ、財布。
 並みの人間であればスマホや運転免許証に真っ先に飛び付くだろう。

 だが彼が手に取ったのは古びたアルバムだった。

 1ページ目には、悪夢に現れた通りの新生児の写真が数枚。
 ペリっと音を立て、次のページを捲ると、やはり夢で何度も話し掛けてきた老女の面影のある若い女性が赤ん坊を抱く写真が貼られていた。

 荒祭の脳に急速に血が巡り、埋もれた記憶と写真が一瞬だけ手を結んだが、直ぐに離れ
熱が冷めていく。

 引き出しの内のアルバムが抜かれた箇所の四角い空白には、びっしりと銀色の小さな玉が隙間無く並んでいた。
 
 一つ詰まんで目線より上に翳す。
 曇りの無い銀色の玉は、小さくとも彼の今の姿を克明に無情に映した。

「ひーーっひーー」

 静寂と緩やかな時の流れに抗う叫喚。
 この場を囲う壁にせめてヒビを入れようとばかりに叫び続ける。
 叫びこそが彼に残された唯一の抵抗だった。

「其れ等は貴方が捨てた物。もう少しです。選ぶのは貴方だ」

 しかし、大死一番の叫びを医者の声が容易く包み込んでしまった。

「料理はお口に合わなかったようですね。また湯で身体を浄めねば」

 医者は何も見えていないかのように畳の上で蠢く蛆虫と糞虫の死骸を指で掬い箸で摘まみ、器に戻しながら彼の叫びを無視して時を巻いてしまった。

 荒祭は肩で息をしながら、医者の動きを目で追っていた。

「漢字の成り立ちを思い出せば良いのです。また毛髪が伸びていますから、浄めなければ 」

 雑然と投げられた医者の言葉に反応して、
髪の毛と髭に慌てて手を遣る。
 そこには絶望があった。
 名前を全て思い出したのに。
 また伸びている。
 過去には帰れず、現在という地に根を張れず、よって未来に咲く花も無い。

 成り立ち、成り立ち。
 荒祭の顔が引き攣れ、醜く歪む。

 今も尚、医者に全てを握られ、その手の内にある。
 全力で疾駆しても、手の平の上から逃れられない。
 何処かで聞いた、愚かな猿の話し。
 記憶の殘滓。
 自分を支える柱は既に無く、人形として意思を委ねるしかないと悟った。

 夕焼けが眩しかった。
 足元に視線を落とすと進む道の脇を小川が流れていた。
 笹舟が水勢で傾き、時に方向を失いつつも前に進んでいた。
 緑の田畑を焦がす巨大な夕陽よりもランタンの白色光が恋しく、後ろ髪を引かれた。
 引き出しに収められていたガラクタが脳裏に浮かぶ。

 どうでもいい。
 次は漢字の成り立ち──
 木の小屋が迫ってきた。
 全てが赤みを帯び、境界が霞んでいた。

 荒祭の足が止まった。
 
「さあ、入って」

 背後の声が強く背中を押す。
 振り返らずとも、医者が二人に増えている事を床に伸びる影で察した。

 衣類を捨て、全裸になり木の板の上に仰向けに寝る。
 剃刀を握った医者二人が夕陽を背負い、両脇から裸体を見下ろす。
 顔が逆光で良く見えない。

 徐々に鮮やかさを失っていく太陽。
 人も虫も光に吸い寄せられるが、明る過ぎる光に安息は無い。
 闇は恐怖を掻き立てるが、見なくて良いものを同時に隠蔽してくれる。

 しかし荒祭には昼も夜も無く、夢の中で目覚め、目覚めの内に眠りがあった。
 弱まる明度に身体の緊張が解けていくが、地平線に陽が沈めば白色光が取って変わる。
 消える事の無い人工の光。
 ランタンを求める限り安眠は得られない。

「漢字の成り立ちは?荒は……祭は……」

「道は……真は……」

 剃刀を操る医者達が、左右から玉遊びのように交互に問いを投げる。
 
 我は捨てた筈だった。

「覚えていないし思い出せない。思い出したくない」

 荒祭の瞳に意思が再び宿り、虜囚の鎖を引きちぎろうと藻掻いた。

「どちらか選べる。但し、選ばなければ、思い出せなければ回るだけ」

 医者の声が変質した。
 性別を超越して、機械が発する音を思わせた。

「選べない」

 此処から逃げたい。
 ずっと回り続けるのは嫌だ。
 だが「母」の言葉を思い出したくない。
 それが荒祭の答えだった。

「なら、選べないが答えという事……」

 黒目が大きく膨れ、福耳の耳朶が伸び、二人の声が重なり響いた。

「選べないんじゃなくて、選ばない!」
 
「それは許されない。ならば我等が選ぶだけ。思い出せなければ頭を切り開くしかない」

 荒祭の思考は途切れ皮膚に汗が滲む。
 
「頭を切り開けば思い出す」

 福耳が荒祭の顎下から右耳までを左腕で囲み、額の髪の生え際を右手で抑える。
 黒目の握るカミソリが迫ってくる。

 恐怖で金縛り状態の荒祭の額に刃が当てられ横に引かれた。
 カミソリなんかで頭骨まで断てる筈が無い。

 鋭い痛みと同時に生温い血が目頭を通り汗と混じり鼻の脇を流れていく。
 唇に血の味が染みた。

 耳に残るのは自身の絶叫。

 その後の事は良く覚えていない。

 

 
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