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第11章から第13章まで

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【第11章 京都御馬揃え騒動】

鷹狩り好きな近衛前久父子と信長との交流は私には本物に見えます。
近衛前久には本能寺の黒幕説がありますが、私的には白なんです。
父子の性格が妙に似ていて笑えます。
そして、この父子が何故信長と仲が良かったかも良く分かります。

近衛前久は前の将軍殺しの罪を問われて都を追われ、息子の信基と共に田舎を転々とします。
その間、上杉謙信や島津義久、顕如上人とも交流を深め、鷹狩りだけではなく、政治でも信長に本当に大きな力を貸し、頼りにされ、親友に近いような立ち位置にいた人です。

 蘭丸が主人公なので信基君に話しは変わりますが、元々不器用で直ぐ公家社会で讒言されて都を追われる父に付いて、田舎の武家社会でばかり幼い日を過ごしたせいか、公家らしくないマッチョな武士らしい性格に育ってしまったらしく、公家とはソリが合わず苦労します。

 手紙では、都を追われていた時だけではなく、五摂家の頂点という最高の家柄でありながら、信長の小姓達と仲良くする機会が多かったせいで、影で揶揄されたり、本人も益々武家に気持ちが傾倒してしまったというような事が書かれています。

 簡単に言えば、育った環境で武家寄りになり、思春期に都に戻っても公家社会に馴染めないばかりか、裏では近衛父子の事を良く思わない者達が蠢き、信基が親しくしようと頑張って話し掛けても、後で言葉尻をとらえて嘲笑い悪い噂を流すという陰湿なイジメを受けていたと激白しているのです。

 イジメ相談ダイヤルを教えてあげたくなりますね。
 そんな訳で、幼い頃一緒に遊んだのは武家の少年な訳だし、父子を厚遇してくれるのは信長で父は鷹狩り友達なので、必然的に同じ年くらいの信長の小姓達と仲良くなってしまう訳です。

 信長の小姓達と仲良かったまでは確かですが、固有名詞がないので、蘭丸と特別に仲が良かったかは分かりません。
 ただ蘭丸と信基はなーんと同い年。
 そして、お気に入りの蘭丸は必ず信長と一緒にいる常連メンバー。
 しかも小姓のトップだった彼は、信基と話す機会は一番多かったようには感じます。
 
 団平八程の仲良しではないかもしれませんが。

 その団平八の事を書き忘れていたので今書きますが、蘭丸が個人的に団平八に宛てた手紙が残っています。

「俺達が仲良しだってアピールしてくれてありがとな!大した用事じゃねえから安心してくれ!込み入った事は、右京ちゃんに言っておいたから詳しい事はソイツに聞いてくれ!」と中高生男子風に訳すとこんな感じです。

 この手紙にいくつかツッコミどころはありますが、ツッコミたいのは団平八の京都阿弥陀寺の墓の位置です。
 蘭丸、力丸、坊丸と年下の弟を守るかのように並ぶ仲良し三兄弟に割り込む墓1基。
 蘭丸と力丸の墓の間に団平八の墓が!かなり不自然に割り込んでいるのです。

 ただ、これは2000年代に成された事のようなので、余計な気を回し過ぎか、参拝者ウケを狙ったものなのかは分かりません。

 それにしても上の手紙を見て、あまり筆マメな感じがしないのと、原文を直訳すると、俺達が仲良しだから何かしてくれた事に対する礼ではなく、仲良しである事そのものを表した事に感謝しているように読めてしまいます。

 「あ、この子、俺と仲良しの蘭ちゃんだから皆宜しく!この子ね、蘭ちゃん!俺と仲いいの!すっげー仲いいから、皆マジ宜しくね!」といった感じでしょうか。
 でも、蘭丸が団平八と仲良しである事よりも、団平八が蘭丸と仲良しである事をアピールした方が相当恩恵ありそうですけど。結局一緒か.....。

 ルイスフロイスの安土までの危険な旅の様子は、ルイスフロイスの著書「日本史」に記されていました。
 
 左義長もあんな感じで信長公記に。
 でも、左義長と馬揃えの描写では、小姓の中に十把一絡げに組み込まれて蘭丸の衣装や名前は記されていません。 
残念!


 雪の降る琵琶湖に舟を浮かべ、連歌を詠みながら酒も飲む。
この優雅な情景は、天正二年頃の記録で、風流人光秀は坂本城で茶会や連歌をお決まりのメンバーと楽しんだりしている記録が残っています。

 公家の日記もそうですが、茶会記の記録も誰を招いて、どんな料理を出し、どんな持て成しをしたかなどが書かれていて参考になります。

 連歌なんて創作無理なので、実際詠まれた連歌です。

 細川忠興の美的センスは本当です。
 現代に生まれていたら、デザイナーになっていたかもしれません。
 忠興の愛刀、三十六歌仙の拵えは、スッゴいお洒落!ただ、刀の逸話もスッゴい....。

 現代ならデザイナーとか芸術家肌の人ってゲイが多いイメージですが、この時代は逆なのか、細川忠興は家中の男色を悉く禁じ、止めないカップルを窓際に追いやり精神的に追い詰め別れさせたという逸話の持ち主。

 何故こんなに嫌ったかは推測ですが、男色の利点よりも、男色関係により出世したり依怙贔屓があったりする弊害を気にしたのではないかと。
 単に男色が嫌いなら、家臣にまで禁じる必要ないですから。

 忠興が統制面で男色を禁じたのなら
、秀吉は単に生理的に無理だっただけでしょう。

  蘭丸の父可成が宇佐山城で討ち死にし、近い場所に可成の役目を引き継ぐように坂本城を建てたのが光秀なので、良く本能寺の変は蘭丸が坂本城をおねだりして、信長が光秀の領地を取り上げようとしたからというのが理由として意外と巷の小説では使われています。

 直接変の原因になったとか、変の前にそんな話しがあったとは信じかたいですが、数年後には坂本城は蘭丸のものになっていてもおかしくはありません。

 統一後の動きって、秀吉も家康も、信長も変わらないような気がします。
 秀吉と仲が良かった長谷川秀一は跡継ぎがいなくて断絶。
 徳川幕府も改易とか良くやってますし。

 徳川幕府は旗本は江戸で、外様は地方ですから、当たり前ですが、信頼出来る側近は自分の近くに置きたいでしょう。
 朝廷に対するプレッシャーなんて、徳川の方が信長よりも酷い気がします。

 蘭丸の領地は美濃金山ですが、森家の本領としてずっと安堵してあげるつもりだったのかもしれません。
 蘭丸が坂本城主になっても、金山城は今度は坊丸に与えるとか。
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