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十章 青い蓮
1、白い行列と青い蓮
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ここのところ長雨が続いている。水晶花樹の白い花が咲き誇る時期であるのに。愛らしい小花はどれも雨に打たれて、腐ったように見える。
今日も雨は、音もなく未央宮の屋根を濡らしている。
呂充儀が流産したとの噂を、翠鈴は耳にした。
未央宮で侍女として勤めることとなった南蕾が、呂充儀を見舞った。かつての主の体調が戻るまで、半月以上かかった。
「充儀さまは、たいそう気落ちなされて。薬湯すらも、ろくにお飲みになれない状態なんです」
見舞いから戻った南蕾は、つらそうに唇を噛む。
元いた宮に長居すらできなかっただろうに。南蕾の髪にも服にも、線香のにおいがまとわりついている。
ただ、青に染まっていた手の肌の色は戻っていた。
文彗宮に勤めていた頃に、何か染め物でもしていたのだろうか。
衣は司衣の管轄だが。緞帯や手帕を染める程度ならば、侍女に任せているのかもしれない。
翠鈴も南蕾も、丁子は流産の危険があるから飲んではならぬと進言した。
飲まない方がいい、という提言ではない。もっと強い禁止だ。
そのせいで南蕾は呂充儀の不興を買い、解雇された。あのまま文彗宮に留まれば、充儀や他の侍女から虐められていただろう。
だが、さすがに生まれる前に子を亡くした充儀や侍女は、訪れた南蕾を咎めることはなかった。
「充儀さまには、わたしたちの言葉は届かなかった。救えるはずの命だったのに」
翠鈴は奥歯を噛みしめる。どんなに「こうした方がいい」「あなたのためになる」と伝えても。むしろそのせいで恨まれることがある。
「お父上に顔向けができぬと、充儀さまは嘆いておいででした。侍女頭の晩溪さまが、ずっと慰めていらっしゃるようです」
「気落ちなさっているでしょうね」
翠鈴の問いに、南蕾はうなずいた。
「ご実家のお父さまから、早馬で手紙が届いたそうです。過ぎたことはしょうがない、次があるだろう、と」
南蕾の言葉に、翠鈴はため息をついた。
それは、また子を孕めばいいという意味だろうか。男児が生まれるまで、その子が帝位につくまで。何度でも。
だとすると、父親の慰めはあまりにも悲しくて重い。呂充儀にとっても、生まれることのなかった子にも。
◇◇◇
数日後、珍しく雨が止んだ。
朝食を終えて食堂から出た翠鈴は、後宮の通りで立ちどまった。由由は休日なので、まだ眠っている。翠鈴ひとりだ。
司燈は朝の仕事が済んでいるが。宮女、宦官はこれからが仕事のはずだ。なのに、辺りは人だかりができている。
ざわめきが波紋のように広がった。切れ切れに聞こえてくるのは「なに、あれ」「うわぁ」という怪訝な声と感嘆の声。両極端だ。
集まっているのが宮女だけなら、身長の高い翠鈴は視界が確保できるのだが。宦官が多いので、前方がよく見えない。
「やぁ。おはよう」
人垣の中に光柳と雲嵐が立っていた。普段なら、光柳がいれば注目が集まるのに。今日は誰も彼を見ていない。こんなことは初めてだ。
「何なんですか、これは」
「青蓮娘娘の行列だな」
光柳は、あごに手をあてて眉をひそめた。
「いくら君の背が高くとも、宦官の頭で見えにくいだろう」
ぐいっと翠鈴の体が持ちあげられた。つま先しか、地面についていない状態になる。
(え? え? 何ごと?)
理解が追いつかない。ふわっと香のいいにおいが間近で漂う。見れば、光柳の横顔が近い。
翠鈴の胴の部分に光柳が腕をまわして、体を引きあげられているのだとようやく分かった。
「時々いますよね。人だかりで、子を持ちあげている親とか、肩に乗せている親とか」
雲嵐が呆れた声を出す。
「呆れてないで、助けてください。雲嵐さま」
「助けろだと? 心外な。君にもよく見えるように、支えているというのに」
「背伸びなら自分でできます」
困っている翠鈴を眺めるのが面白いのか。雲嵐は、ただ眺めるだけだ。ちょっと意地が悪い。
「いいから、見なさい」
光柳に勧められて翠鈴は前方に目を向けた。
花が舞っていた。
青い花弁がはらはらと、湿った風に吹かれて踊りながら落ちていく。
灰色の雲の隙間から見える空の色は、天上の蒼。そこに花びらの深い青が重なる。どこかに連れて行かれそうな感覚だ。
落ちてくる青い花を翠鈴は手に取った。覚えのある匂いが鼻をかすめた。
「青い蓮だわ」
蓮は夏の花。咲くには時季が違う。しかも青い蓮など存在しない。睡蓮ならば青があるが、蓮は白と桃色だ。
てのひらに載せて見れば、かさりと音がした。それは紙で作った花弁だった。
「青い蓮の花は、青蓮娘娘の象徴。永遠に枯れない、恒久の命だ」
光柳の声は苦々しい。
人垣の向こうを翠鈴は見遣る。白い上衣と裙をまとった女性が十数人、籠に入った青い蓮を撒きながら歩いている。彼女たちは、頭にも白い布をかぶっている。
真っ白な集団と、降りしきる青。
たゆたうように聞こえてくるのは、歌のようでもあり読経のようでもあった。
「生まれることのなかった呂充儀の子を悼む行列だ。そうだろ? 雲嵐」
「はい。あれは天堂教の巫女です。青い蓮のなかから生まれた女神が青蓮娘娘。祝いごとにも弔いにも、青い蓮が用いられます。辺境などの地方に信者が多いようで、認知度は低いですね」
「かつては弱者を救う女神と言われていたな。ただ、この十数年で、教団の性質が変わってしまった」
光柳が説明を加える。
白い行列は進んでいく。
よく知る匂いが立つ。てのひらに載せた紙の花弁からだ。微かに甘くて刺激と、クセのある匂いが紙に染みている。
「これは丁子だわ」
嫌な予感がした。丁子を飲むなと訴えても、聞いてはくれなかった呂充儀。そして充儀が信仰する女神の匂いが同じだったから。
今日も雨は、音もなく未央宮の屋根を濡らしている。
呂充儀が流産したとの噂を、翠鈴は耳にした。
未央宮で侍女として勤めることとなった南蕾が、呂充儀を見舞った。かつての主の体調が戻るまで、半月以上かかった。
「充儀さまは、たいそう気落ちなされて。薬湯すらも、ろくにお飲みになれない状態なんです」
見舞いから戻った南蕾は、つらそうに唇を噛む。
元いた宮に長居すらできなかっただろうに。南蕾の髪にも服にも、線香のにおいがまとわりついている。
ただ、青に染まっていた手の肌の色は戻っていた。
文彗宮に勤めていた頃に、何か染め物でもしていたのだろうか。
衣は司衣の管轄だが。緞帯や手帕を染める程度ならば、侍女に任せているのかもしれない。
翠鈴も南蕾も、丁子は流産の危険があるから飲んではならぬと進言した。
飲まない方がいい、という提言ではない。もっと強い禁止だ。
そのせいで南蕾は呂充儀の不興を買い、解雇された。あのまま文彗宮に留まれば、充儀や他の侍女から虐められていただろう。
だが、さすがに生まれる前に子を亡くした充儀や侍女は、訪れた南蕾を咎めることはなかった。
「充儀さまには、わたしたちの言葉は届かなかった。救えるはずの命だったのに」
翠鈴は奥歯を噛みしめる。どんなに「こうした方がいい」「あなたのためになる」と伝えても。むしろそのせいで恨まれることがある。
「お父上に顔向けができぬと、充儀さまは嘆いておいででした。侍女頭の晩溪さまが、ずっと慰めていらっしゃるようです」
「気落ちなさっているでしょうね」
翠鈴の問いに、南蕾はうなずいた。
「ご実家のお父さまから、早馬で手紙が届いたそうです。過ぎたことはしょうがない、次があるだろう、と」
南蕾の言葉に、翠鈴はため息をついた。
それは、また子を孕めばいいという意味だろうか。男児が生まれるまで、その子が帝位につくまで。何度でも。
だとすると、父親の慰めはあまりにも悲しくて重い。呂充儀にとっても、生まれることのなかった子にも。
◇◇◇
数日後、珍しく雨が止んだ。
朝食を終えて食堂から出た翠鈴は、後宮の通りで立ちどまった。由由は休日なので、まだ眠っている。翠鈴ひとりだ。
司燈は朝の仕事が済んでいるが。宮女、宦官はこれからが仕事のはずだ。なのに、辺りは人だかりができている。
ざわめきが波紋のように広がった。切れ切れに聞こえてくるのは「なに、あれ」「うわぁ」という怪訝な声と感嘆の声。両極端だ。
集まっているのが宮女だけなら、身長の高い翠鈴は視界が確保できるのだが。宦官が多いので、前方がよく見えない。
「やぁ。おはよう」
人垣の中に光柳と雲嵐が立っていた。普段なら、光柳がいれば注目が集まるのに。今日は誰も彼を見ていない。こんなことは初めてだ。
「何なんですか、これは」
「青蓮娘娘の行列だな」
光柳は、あごに手をあてて眉をひそめた。
「いくら君の背が高くとも、宦官の頭で見えにくいだろう」
ぐいっと翠鈴の体が持ちあげられた。つま先しか、地面についていない状態になる。
(え? え? 何ごと?)
理解が追いつかない。ふわっと香のいいにおいが間近で漂う。見れば、光柳の横顔が近い。
翠鈴の胴の部分に光柳が腕をまわして、体を引きあげられているのだとようやく分かった。
「時々いますよね。人だかりで、子を持ちあげている親とか、肩に乗せている親とか」
雲嵐が呆れた声を出す。
「呆れてないで、助けてください。雲嵐さま」
「助けろだと? 心外な。君にもよく見えるように、支えているというのに」
「背伸びなら自分でできます」
困っている翠鈴を眺めるのが面白いのか。雲嵐は、ただ眺めるだけだ。ちょっと意地が悪い。
「いいから、見なさい」
光柳に勧められて翠鈴は前方に目を向けた。
花が舞っていた。
青い花弁がはらはらと、湿った風に吹かれて踊りながら落ちていく。
灰色の雲の隙間から見える空の色は、天上の蒼。そこに花びらの深い青が重なる。どこかに連れて行かれそうな感覚だ。
落ちてくる青い花を翠鈴は手に取った。覚えのある匂いが鼻をかすめた。
「青い蓮だわ」
蓮は夏の花。咲くには時季が違う。しかも青い蓮など存在しない。睡蓮ならば青があるが、蓮は白と桃色だ。
てのひらに載せて見れば、かさりと音がした。それは紙で作った花弁だった。
「青い蓮の花は、青蓮娘娘の象徴。永遠に枯れない、恒久の命だ」
光柳の声は苦々しい。
人垣の向こうを翠鈴は見遣る。白い上衣と裙をまとった女性が十数人、籠に入った青い蓮を撒きながら歩いている。彼女たちは、頭にも白い布をかぶっている。
真っ白な集団と、降りしきる青。
たゆたうように聞こえてくるのは、歌のようでもあり読経のようでもあった。
「生まれることのなかった呂充儀の子を悼む行列だ。そうだろ? 雲嵐」
「はい。あれは天堂教の巫女です。青い蓮のなかから生まれた女神が青蓮娘娘。祝いごとにも弔いにも、青い蓮が用いられます。辺境などの地方に信者が多いようで、認知度は低いですね」
「かつては弱者を救う女神と言われていたな。ただ、この十数年で、教団の性質が変わってしまった」
光柳が説明を加える。
白い行列は進んでいく。
よく知る匂いが立つ。てのひらに載せた紙の花弁からだ。微かに甘くて刺激と、クセのある匂いが紙に染みている。
「これは丁子だわ」
嫌な予感がした。丁子を飲むなと訴えても、聞いてはくれなかった呂充儀。そして充儀が信仰する女神の匂いが同じだったから。
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