50 / 78
三章
11、夢の中で【2】
しおりを挟む
姫さまは、もうお休みだろうか。
就寝の準備をした私は、脱いだ騎士服のポケットからハンカチを取り出した。
白く手触りのよいハンカチをそっと開くと、中から細い草の葉が現れた。
よかった、折れてもちぎれてもいない。
その草が縮んでしまわぬ内に、糸を同じ長さに切る。
定規で計ってもよいのだが。まぁ、これで問題はなかろう。出勤前に店に行って相談しておこう。
部屋の灯りを落とすと、窓から射しこむ光が夜の色に溶けていく。近くの宿舎で暮らす者も、そろそろ眠るのだろう。
微かに聞こえていた話し声も今はなく、ただ夜風が木々の葉を撫でる音だけが聞こえる。
夕食の後に飲んだレモンティーの香りが、まだ仄かに残っている。
私のような年齢ならば普通は酒を嗜むものだ。酒が飲めないわけではない。なのにどうしてだろうな、飲みたいという気持ちにならないのだ。
ふと寝室の壁に目をやると、かつて姫さまが描いてくださった私の絵が、ほんのりと柔らかな月光に照らされていた。
六歳くらいの頃の絵だろうか。それよりも幼い頃は、顔から手足が生えているような絵だったのに。ちゃんと胴体があることに当時は感動したものだ。
私と姫さまが手をつないで笑っている絵。
ああ、そうだな。二日酔いや、ぼうっとした頭で姫さまのお傍に上がることが嫌だったのだ。
「おやすみなさい、マルティナさま」
本人に聞こえるはずもないのに、私は囁いた。
◇◇◇
それが夢かどうか私には分からなかった。それほどに過去の記憶と寸分たがわぬ情景だったからだ。
「じゃあね、アレクにこうちゃをいれてさし……さします」
「さしあげます、ですね」
王宮の庭でいつものように、四歳ほどのマルティナさまのままごとに付き合っていた。
敷物から立ち上がったマルティナさまは、一目散に薔薇の植えてあるところへと向かう。
ああ、ころんだらどうするんですか? 走らないでください。薔薇には棘があるんですよ。
慌てて追いかけた私は、姫さまを背後から抱っこする。
「わぁ、アレク。ありがとう」
「どういたしまして」と答えようとしたのに、姫さまのお考えは私とは真逆だった。
赤い実をたっぷりとつけた薔薇に手を伸ばし、むしるように摘んでいくのだ。
な、なにしてるんですか。指が傷ついたらどうするんです。
慌てて姫さまをひっぱると、そのまま薔薇の枝もびよーんとついてくる。うわ、根っこから抜けたら庭師のじいさんに叱られるぞ。
たとえ相手が姫さまでも、だ。
「あのね、アレクにレモンのこうちゃをつくってさすの」
「さしあげるですね。それはレモンではなく、ローズヒップなのでは?」
「ひっぷ?」
両手からこぼれるほどの薔薇の実を摘んだ姫さまは、首をかしげて私を見やる。無論、抱っこした状態だから、足をぶらぶらさせながら。
「アレクー。あのね、カップとって」
「はいはい」
「それからね、いずみにいっておみずをくむのよ。こうちゃのはっぱもちぎってね」
「仰せのままに」
姫さまの仰る紅茶の葉っぱとやらは、腐葉土を作る為に庭師がつみあげている枯れ葉だ。片腕に姫さまを抱えたままで、私は左手で水を汲み枯れ葉をカップに突っ込んだ。
なんで自分で自分の紅茶もどきを作ってるんだ?
敷物の上に姫さまを座らせて、砕いた枯れ葉と水の入った茶色というかゴミのような液体を手渡す。
「うん、いいぐあいにおちゃがでてるわ」
「そうですか?」
声と表情に不信な気持ちが浮かぶのは、どうしようもないだろう。
不気味な液体に姫さまは摘んだばかりの薔薇の実を、ぶっこんだ。言葉は悪いが、まさにどさっと投げ入れたのだ。
さらにままごと用の木のスプーンで、薔薇の実を潰していく。
うわぁ、世も末みたいな飲み物ができた。薔薇の紅茶ときけば、さぞや優雅に思われるだろうが。バラの実はやたらと種が多く果肉部分が少ない。
つまり砕けた枯れ葉と小さな白い種と、潰れた赤いつやのある果皮が浮かんだ、誰かを呪うのかというような液体だ。
「はい、めちあがれ」
「召し上がれません」
考えるよりも先に言葉が出てきてしまった。また「まるてぃなのおちゃがのめないの?」と駄々をこねられるかと思ったが。今日は違った。
「レモンじゃないからだめなのね。うん、わかった」
お、聞き分けがいいぞ。
「じゃあ、マルティナがのむね」と姫さまはカップに口をつけようとなさる。待ってください、そんな汚いもの……いえ、腐りかけた葉を砕いた水を口に入れてはなりません。
「うーん、うーん。おやめください、マルティナさま。姫さまがお飲みになるくらいでしたら、この私が飲みますから……飲み干しますから、どうか」
月が煌々と四角く床を照らす真夜中、私は自分の呻き声で目を覚ました。
就寝の準備をした私は、脱いだ騎士服のポケットからハンカチを取り出した。
白く手触りのよいハンカチをそっと開くと、中から細い草の葉が現れた。
よかった、折れてもちぎれてもいない。
その草が縮んでしまわぬ内に、糸を同じ長さに切る。
定規で計ってもよいのだが。まぁ、これで問題はなかろう。出勤前に店に行って相談しておこう。
部屋の灯りを落とすと、窓から射しこむ光が夜の色に溶けていく。近くの宿舎で暮らす者も、そろそろ眠るのだろう。
微かに聞こえていた話し声も今はなく、ただ夜風が木々の葉を撫でる音だけが聞こえる。
夕食の後に飲んだレモンティーの香りが、まだ仄かに残っている。
私のような年齢ならば普通は酒を嗜むものだ。酒が飲めないわけではない。なのにどうしてだろうな、飲みたいという気持ちにならないのだ。
ふと寝室の壁に目をやると、かつて姫さまが描いてくださった私の絵が、ほんのりと柔らかな月光に照らされていた。
六歳くらいの頃の絵だろうか。それよりも幼い頃は、顔から手足が生えているような絵だったのに。ちゃんと胴体があることに当時は感動したものだ。
私と姫さまが手をつないで笑っている絵。
ああ、そうだな。二日酔いや、ぼうっとした頭で姫さまのお傍に上がることが嫌だったのだ。
「おやすみなさい、マルティナさま」
本人に聞こえるはずもないのに、私は囁いた。
◇◇◇
それが夢かどうか私には分からなかった。それほどに過去の記憶と寸分たがわぬ情景だったからだ。
「じゃあね、アレクにこうちゃをいれてさし……さします」
「さしあげます、ですね」
王宮の庭でいつものように、四歳ほどのマルティナさまのままごとに付き合っていた。
敷物から立ち上がったマルティナさまは、一目散に薔薇の植えてあるところへと向かう。
ああ、ころんだらどうするんですか? 走らないでください。薔薇には棘があるんですよ。
慌てて追いかけた私は、姫さまを背後から抱っこする。
「わぁ、アレク。ありがとう」
「どういたしまして」と答えようとしたのに、姫さまのお考えは私とは真逆だった。
赤い実をたっぷりとつけた薔薇に手を伸ばし、むしるように摘んでいくのだ。
な、なにしてるんですか。指が傷ついたらどうするんです。
慌てて姫さまをひっぱると、そのまま薔薇の枝もびよーんとついてくる。うわ、根っこから抜けたら庭師のじいさんに叱られるぞ。
たとえ相手が姫さまでも、だ。
「あのね、アレクにレモンのこうちゃをつくってさすの」
「さしあげるですね。それはレモンではなく、ローズヒップなのでは?」
「ひっぷ?」
両手からこぼれるほどの薔薇の実を摘んだ姫さまは、首をかしげて私を見やる。無論、抱っこした状態だから、足をぶらぶらさせながら。
「アレクー。あのね、カップとって」
「はいはい」
「それからね、いずみにいっておみずをくむのよ。こうちゃのはっぱもちぎってね」
「仰せのままに」
姫さまの仰る紅茶の葉っぱとやらは、腐葉土を作る為に庭師がつみあげている枯れ葉だ。片腕に姫さまを抱えたままで、私は左手で水を汲み枯れ葉をカップに突っ込んだ。
なんで自分で自分の紅茶もどきを作ってるんだ?
敷物の上に姫さまを座らせて、砕いた枯れ葉と水の入った茶色というかゴミのような液体を手渡す。
「うん、いいぐあいにおちゃがでてるわ」
「そうですか?」
声と表情に不信な気持ちが浮かぶのは、どうしようもないだろう。
不気味な液体に姫さまは摘んだばかりの薔薇の実を、ぶっこんだ。言葉は悪いが、まさにどさっと投げ入れたのだ。
さらにままごと用の木のスプーンで、薔薇の実を潰していく。
うわぁ、世も末みたいな飲み物ができた。薔薇の紅茶ときけば、さぞや優雅に思われるだろうが。バラの実はやたらと種が多く果肉部分が少ない。
つまり砕けた枯れ葉と小さな白い種と、潰れた赤いつやのある果皮が浮かんだ、誰かを呪うのかというような液体だ。
「はい、めちあがれ」
「召し上がれません」
考えるよりも先に言葉が出てきてしまった。また「まるてぃなのおちゃがのめないの?」と駄々をこねられるかと思ったが。今日は違った。
「レモンじゃないからだめなのね。うん、わかった」
お、聞き分けがいいぞ。
「じゃあ、マルティナがのむね」と姫さまはカップに口をつけようとなさる。待ってください、そんな汚いもの……いえ、腐りかけた葉を砕いた水を口に入れてはなりません。
「うーん、うーん。おやめください、マルティナさま。姫さまがお飲みになるくらいでしたら、この私が飲みますから……飲み干しますから、どうか」
月が煌々と四角く床を照らす真夜中、私は自分の呻き声で目を覚ました。
10
あなたにおすすめの小説
モンスターを癒やす森暮らしの薬師姫、騎士と出会う
甘塩ます☆
恋愛
冷たい地下牢で育った少女リラは、自身の出自を知らぬまま、ある日訪れた混乱に乗じて森へと逃げ出す。そこで彼女は、凶暴な瘴気に覆われた狼と出会うが、触れるだけでその瘴気を浄化する不思議な力があることに気づく。リラは狼を癒し、共に森で暮らすうち、他のモンスターたちとも心を通わせ、彼らの怪我や病を癒していく。モンスターたちは感謝の印に、彼女の知らない貴重な品々や硬貨を贈るのだった。
そんなある日、森に薬草採取に訪れた騎士アルベールと遭遇する。彼は、最近異常なほど穏やかな森のモンスターたちに違和感を覚えていた。世間知らずのリラは、自分を捕らえに来たのかと怯えるが、アルベールの差し出す「食料」と「服」に警戒を解き、彼を「飯をくれる仲間」と認識する。リラが彼に見せた、モンスターから贈られた膨大な量の希少な品々に、アルベールは度肝を抜かれる。リラの無垢さと、秘められた能力に気づき始めたアルベールは……
陰謀渦巻く世界で二人の運命はどうなるのか
これは政略結婚ではありません
絹乃
恋愛
勝気な第一王女のモニカには、初恋の人がいた。公爵家のクラウスだ。七歳の時の思い出が、モニカの初恋となった。クラウスはモニカよりも十三歳上。当時二十歳のクラウスにとって、モニカは当然恋愛の対象ではない。大人になったモニカとクラウスの間に縁談が持ちあがる。その返事の為にクラウスが王宮を訪れる日。人生で初めての緊張にモニカは動揺する。※『わたしのことがお嫌いなら、離縁してください』に出てくる王女のその後のお話です。
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
二度目の初恋は、穏やかな伯爵と
柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。
冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。
【完結】家族に愛されなかった辺境伯の娘は、敵国の堅物公爵閣下に攫われ真実の愛を知る
水月音子
恋愛
辺境を守るティフマ城の城主の娘であるマリアーナは、戦の代償として隣国の敵将アルベルトにその身を差し出した。
婚約者である第四王子と、父親である城主が犯した国境侵犯という罪を、自分の命でもって償うためだ。
だが――
「マリアーナ嬢を我が国に迎え入れ、現国王の甥である私、アルベルト・ルーベンソンの妻とする」
そう宣言されてマリアーナは隣国へと攫われる。
しかし、ルーベンソン公爵邸にて差し出された婚約契約書にある一文に疑念を覚える。
『婚約期間中あるいは婚姻後、子をもうけた場合、性別を問わず健康な子であれば、婚約もしくは結婚の継続の自由を委ねる』
さらには家庭教師から“精霊姫”の話を聞き、アルベルトの側近であるフランからも詳細を聞き出すと、自分の置かれた状況を理解する。
かつて自国が攫った“精霊姫”の血を継ぐマリアーナ。
そのマリアーナが子供を産めば、自分はもうこの国にとって必要ない存在のだ、と。
そうであれば、早く子を産んで身を引こう――。
そんなマリアーナの思いに気づかないアルベルトは、「婚約中に子を産み、自国へ戻りたい。結婚して公爵様の経歴に傷をつける必要はない」との彼女の言葉に激昂する。
アルベルトはアルベルトで、マリアーナの知らないところで実はずっと昔から、彼女を妻にすると決めていた。
ふたりは互いの立場からすれ違いつつも、少しずつ心を通わせていく。
【番外編】小さな姫さまは護衛騎士に恋してる
絹乃
恋愛
主従でありながら結婚式を挙げた護衛騎士のアレクと王女マルティナ。戸惑い照れつつも新婚2人のいちゃいちゃ、ラブラブの日々。また彼らの周囲の人々の日常を穏やかに優しく綴ります。※不定期更新です。一応Rをつけておきます。
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる