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一章
2、本当に悪趣味ね
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「ひどいですわ。わたしに何の非があるんですの。仰ってください」
よよ、と泣き真似をするマリーローズですが、床に倒れたダンが答えられるはずもありません。
令嬢たちは悲鳴を上げて駆け寄ってきました。ええ、伯爵令息であり今宵の主人公であるダンにではなく、マリーローズの元にです。
「お可哀想なお姉さま」
「あんな優男。お姉さまからふってしまえば、よろしいんです」
甘く芳しい香りをまとった令嬢たちが、愛らしい声でマリーローズを慰めてくれます。
ああ、天国だわ。
男嫌いのマリーローズはうっとりとしました。
乱暴で無神経な男なんて、大っ嫌い。
ええ、マリーローズはまだまだ恋を知らない、初心なねんねちゃんだったのです。
本人はそれに気づいていませんけどね。
「ま、待て。ローズマリー。ぼくの話を……ふぐっ」
「たかが実業家の娘でしかないわたくしが、次期伯爵であらせられるダンさまの婚約者だなんて、悪い冗談ですわ。これ以上わたくしの心を弄ばないでください」
持っていた扇子で顔を隠し、マリーローズは「よよ」と体をくねらせました。
そしてその隙に、鉄板の入った短靴でダンの向う脛を蹴飛ばすのです。
これは痛い、相当に痛い。と護衛達は顔をしかめました。
「ほんと酷い男だわ」
「こんなのが伯爵になるだなんて。国の行く末も心配ですわ」
つん、と顔を背けて、令嬢たちはダンに背を向けます。
だが、冷たい床に倒れ、誕生祝いの来客に憐みの眼差しを向けられながら、あろうことかダンはぞくぞくしていたのです。
ああ、もっと蹴ってほしい。足蹴にしてほしい。
マリーローズ、あなたの蹴りも突きも天下一品だ。あなたを怒らせるためならば、何だってしよう。常に間違ったローズマリーという名で呼ぶのも、彼女の怒りを買うためだ。
この身を捧げてもいい、縛り上げられてもいい。
あなたがぼくを蔑む瞳は、北の果てにあると言う氷河のように冷たく蒼く。ああ、思い出しただけでも心まで痺れてしまう。
そう、ダンは弩がつくMでした。
マリーローズも他の令嬢も、それを知れば「きもっ」とさらに侮蔑するでしょう。
本当に気持ち悪いですから。
婚約破棄なんて、ダンは本当は微塵も思っていませんでした。というか、そもそも婚約をしていないのです。
本当に婚約をしている状態で、あんなことを言えば冗談では済まなくなりますから。
でも輝かしい二十歳の誕生日に、来賓の前で踏みつけられる。そんな輝かしい栄光があるだろうか。
いつかマリーローズを妻に迎え、夜な夜な踏みつけてもらうために。いつか本当に婚約をとりつけなければ。
ダンは脳内がお花畑なので、自分のしていることがマリーローズに徹底的に嫌われていると気づきません。
ええ、自分の欲望が最優先です。
彼の恋は生涯実りません。
うっすらとダンの趣味に気づいた様子の護衛達は、憐みとも羨望ともつかぬ表情で伯爵令息を眺めていました。
――いいなぁ、お嬢さまに鎌ってもらえて。そういえば、御幼少のみぎりのお嬢さまの蹴りは素晴らしかったよな。
――お小さい頃から、正確に急所を狙ってきていたものな。あれは縮み上がった。
――もしお嬢さまが伯爵家に輿入れなさることがあれば、我らもお連れしてほしいものだ。
安心なさい。絶対にマリーリーズは伯爵家には嫁ぎません。
マリーローズだけが知らないことでした。脳内お花畑か、と蔑む男どもが実は彼女に踏みにじられるのを待ち望んでいることを。
滅びへ向かう美学。長い平和を謳歌し爛熟期にある王国では、現在そのような退廃的な文化が流行っているのでありました。
「あなた達、そんなに暇なら屋敷に帰ってはいかが?」
給仕から澄んだ酒の入ったグラスを受け取りながら、マリーローズは護衛達に声をかけました。感情のこもらない言葉で。
「いえ、我々はお嬢さまと共に」
「わたしに護衛なんていらないのよ。たかが準貴族の娘なんだから。お父さまが恐ろしいから、皆礼を尽くしてくれるけれど。わたしには何の魅力も、力もないわ」
そう、覚えのない婚約を破棄されるくらいにはね、とマリーローズは寂しそうに微笑みました。
それが芝居ではない証拠に、ステムの長いグラスを持つマリーローズの手は、小さく震えています。
傷ついておられる。お嬢さまが傷ついておられる。
ああ、苦しいんですね。ダンの悪趣味な冗談に心を傷められたのですね。
護衛達は、今にも感極まって涙を流しそうになりました。
一生お守りいたします、お嬢さま。そして隙あらば、いつか我々も足蹴にしてください。
マリーローズだけが知らないことでした。彼女はマゾヒストの属性のある男性を惹きつけてしまうことを。
彼女の男運の悪さは、繊細な心を持つ可憐なサディストの所為であることを。
今にも軽やかに澄んだ音を立てて砕けそうな、美しいクリスタル。それがマリーローズの心です。その繊細な心をほんの少しばかり傷つけて、そして滅多打ちにされたい。
本当に悪趣味です。
よよ、と泣き真似をするマリーローズですが、床に倒れたダンが答えられるはずもありません。
令嬢たちは悲鳴を上げて駆け寄ってきました。ええ、伯爵令息であり今宵の主人公であるダンにではなく、マリーローズの元にです。
「お可哀想なお姉さま」
「あんな優男。お姉さまからふってしまえば、よろしいんです」
甘く芳しい香りをまとった令嬢たちが、愛らしい声でマリーローズを慰めてくれます。
ああ、天国だわ。
男嫌いのマリーローズはうっとりとしました。
乱暴で無神経な男なんて、大っ嫌い。
ええ、マリーローズはまだまだ恋を知らない、初心なねんねちゃんだったのです。
本人はそれに気づいていませんけどね。
「ま、待て。ローズマリー。ぼくの話を……ふぐっ」
「たかが実業家の娘でしかないわたくしが、次期伯爵であらせられるダンさまの婚約者だなんて、悪い冗談ですわ。これ以上わたくしの心を弄ばないでください」
持っていた扇子で顔を隠し、マリーローズは「よよ」と体をくねらせました。
そしてその隙に、鉄板の入った短靴でダンの向う脛を蹴飛ばすのです。
これは痛い、相当に痛い。と護衛達は顔をしかめました。
「ほんと酷い男だわ」
「こんなのが伯爵になるだなんて。国の行く末も心配ですわ」
つん、と顔を背けて、令嬢たちはダンに背を向けます。
だが、冷たい床に倒れ、誕生祝いの来客に憐みの眼差しを向けられながら、あろうことかダンはぞくぞくしていたのです。
ああ、もっと蹴ってほしい。足蹴にしてほしい。
マリーローズ、あなたの蹴りも突きも天下一品だ。あなたを怒らせるためならば、何だってしよう。常に間違ったローズマリーという名で呼ぶのも、彼女の怒りを買うためだ。
この身を捧げてもいい、縛り上げられてもいい。
あなたがぼくを蔑む瞳は、北の果てにあると言う氷河のように冷たく蒼く。ああ、思い出しただけでも心まで痺れてしまう。
そう、ダンは弩がつくMでした。
マリーローズも他の令嬢も、それを知れば「きもっ」とさらに侮蔑するでしょう。
本当に気持ち悪いですから。
婚約破棄なんて、ダンは本当は微塵も思っていませんでした。というか、そもそも婚約をしていないのです。
本当に婚約をしている状態で、あんなことを言えば冗談では済まなくなりますから。
でも輝かしい二十歳の誕生日に、来賓の前で踏みつけられる。そんな輝かしい栄光があるだろうか。
いつかマリーローズを妻に迎え、夜な夜な踏みつけてもらうために。いつか本当に婚約をとりつけなければ。
ダンは脳内がお花畑なので、自分のしていることがマリーローズに徹底的に嫌われていると気づきません。
ええ、自分の欲望が最優先です。
彼の恋は生涯実りません。
うっすらとダンの趣味に気づいた様子の護衛達は、憐みとも羨望ともつかぬ表情で伯爵令息を眺めていました。
――いいなぁ、お嬢さまに鎌ってもらえて。そういえば、御幼少のみぎりのお嬢さまの蹴りは素晴らしかったよな。
――お小さい頃から、正確に急所を狙ってきていたものな。あれは縮み上がった。
――もしお嬢さまが伯爵家に輿入れなさることがあれば、我らもお連れしてほしいものだ。
安心なさい。絶対にマリーリーズは伯爵家には嫁ぎません。
マリーローズだけが知らないことでした。脳内お花畑か、と蔑む男どもが実は彼女に踏みにじられるのを待ち望んでいることを。
滅びへ向かう美学。長い平和を謳歌し爛熟期にある王国では、現在そのような退廃的な文化が流行っているのでありました。
「あなた達、そんなに暇なら屋敷に帰ってはいかが?」
給仕から澄んだ酒の入ったグラスを受け取りながら、マリーローズは護衛達に声をかけました。感情のこもらない言葉で。
「いえ、我々はお嬢さまと共に」
「わたしに護衛なんていらないのよ。たかが準貴族の娘なんだから。お父さまが恐ろしいから、皆礼を尽くしてくれるけれど。わたしには何の魅力も、力もないわ」
そう、覚えのない婚約を破棄されるくらいにはね、とマリーローズは寂しそうに微笑みました。
それが芝居ではない証拠に、ステムの長いグラスを持つマリーローズの手は、小さく震えています。
傷ついておられる。お嬢さまが傷ついておられる。
ああ、苦しいんですね。ダンの悪趣味な冗談に心を傷められたのですね。
護衛達は、今にも感極まって涙を流しそうになりました。
一生お守りいたします、お嬢さま。そして隙あらば、いつか我々も足蹴にしてください。
マリーローズだけが知らないことでした。彼女はマゾヒストの属性のある男性を惹きつけてしまうことを。
彼女の男運の悪さは、繊細な心を持つ可憐なサディストの所為であることを。
今にも軽やかに澄んだ音を立てて砕けそうな、美しいクリスタル。それがマリーローズの心です。その繊細な心をほんの少しばかり傷つけて、そして滅多打ちにされたい。
本当に悪趣味です。
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