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11、離婚を告げて
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足音が聞こえた。
開いたままのブレフトの書斎のドアを、ノックする音も。
「失礼するよ」
凛とした声に、ユリアーナはふり返った。手にはペーパーナイフを持ったままで。
目に映る人の姿が、幻かと思った。
床に散乱した便箋や書類、ヘルダがぶつかったのか棚からは本が落ちている。取り乱すヘルダをなだめながら、メイド達は部屋を出ていく。そして外套を頭からすっぽりとかぶったブレフトが、床にへたり込んでいる。
そんな惨状のなかで、入り口に立つレオンは清らかに澄んで見えた。
「迎えに来たよ。ユリアーナ」
レオンが手を差し伸べてきた。
「どうして? いらっしゃるって伺っていませんでした」
「手紙は出したんだが。そこにいる……たぶんそれはクラーセン伯爵かな? もうとっくに届いているはずだよ。それに以前、街でクラーセン家の馬車を見かけたから。走り書きではあるが警告はさせてもらった。まぁ、こちらの伯爵はろくに読みもしなかったんだろうね」」
困ったようにレオンは微笑んだ。
「三年も遅れてしまったな。ユリアーナ。君の結婚を知らされたのは、外国にいた時だったから。間に合わなかったが」
「なぜ、今こちらに?」
レオンはユリアーナの手を取った。そして握りしめていたペーパーナイフを受けとる。
ヘルダを守りたかったわけではない。けれど、勝手に体が動いた。ブレフトから凶器を奪わなければならないと、必死だった。
たぶんそれはクラーセン伯爵家の名誉を守るためだ。
ユリアーナは三年間、クラーセン家の人間だったのだから。責務を果たそうと無我夢中だったから。
「君をこの檻から解放しにきたんだよ」
「でも、わたくしはこのブレフトの妻で、クラーセン家の嫁で……」
いくら別れたくとも、この国では女性からは離婚を要求できない。せっかく仕事ができるようになったのに、その報酬もブレフトに奪われてしまう。
惨めで苦しくて。それでも伯爵夫人という立場である以上、悔しさを笑顔の下に隠さなければならない。
夫が刃傷沙汰という不祥事を起こすのを、未然に防がなければならない。女主人に、雑巾の水を飲ませようとした愛人の命を守らなければならない。
なんて理不尽で、なんて馬鹿げているのか。
(本当にここは、わたくしを閉じこめる檻だわ)
ユリアーナは手を引こうとした。けれど、レオンは彼女の手首をぐっと握りしめる。
「法が変わった。議会に働きかけたおかげで、愛人のいる夫への離婚を妻から申し立てることができるようになったんだ。次兄が議員だからね、立ち回ってもらった。さらに夫人が得た収入を、夫が奪う権利は無効になる」
「レオン。あなた……わたくしのために?」
ベイレフェルト夫人が話していた。
ユリアーナが結婚してからの三年間。レオンはずっと多忙であったと。
離婚のことも、妻の財産のことも。反対は多かっただろうに、すでに議会で可決して、国王に奏上されたらしい。
「檻を壊したところで、愛しい人が連れ戻されるのでは意味がない。俺は剣を持つ騎士ではないが、茨を切って道を開くことはできる」
レオンがユリアーナの両肩に手をかけた。
彼の手の重みを、感触を、何年ぶりに感じたことだろう。
そして、ゆっくりと体を反対に向ける。外套をかぶったブレフトの方へ。
「さぁ、ユリアーナ」
こくりとユリアーナは頷いた。
息を大きく吸って、気持ちを静める。
そして、この国で女性からは初めての言葉を口にする。
「ブレフトさま。あなたと離婚いたします」
しゃがみこんだブレフトの体が、びくりと震えるのが布越しに分かった。部屋に残った使用人たちは息を呑んだ。
史上初の妻からの離婚宣言に立ち会ったのだと。誰もが動きをとめた。
「い、いやだ……」
ただひとり、ブレフトだけがか細い声を発した。
「ダメだ。ユリアーナはぼくのものだ。妻は夫に従うのが当たり前だ。離婚? あり得ない。彼女はぼくの妻なんだ」
「妻? 一度も顧みることもなく、捨てていたくせに? 若いメイドと一緒になって愚弄していたくせに? 今になってユリアーナが大事だと気づいたとか、愚かなことを言うんじゃないだろうな」
レオンの声は、冷ややかだった。
「ユリアーナがお前を愛していたのなら、こちらも諦めるしかない。少しでも大事にされていたのなら、彼女のことを忘れるしかない。だが、そんな事実はどこにもなかった」
ブレフトが外套を剥いで、ユリアーナの足にしがみつく。
スカートの布ごと、ユリアーナはふくらはぎに手を回された。
「ブレフトさま」
「そうだ。お前の夫はぼくだ。これからは一緒に出かけるし、寝室も共にする。このクラーセン家をふたりで守っていこう。ぼく達は夫婦なんだから」
握りしめてくるブレフトの力は強い。
ユリアーナは床に這いつくばる状態の夫を、見おろした。
未だかつて自分には向けられたことのない笑顔だった。初めて目にした夫の笑顔は、無邪気そのものだった。
「ヘルダにいじめられたお前をかばわなかったことを、謝れというのなら、いくらでも謝ってやるから。そうすれば気が済むのだろう?」
なんと軽い謝罪をしようとしているのだろう。
ユリアーナは眩暈を覚えた。
ブレフトは反省などこれっぽちもしてないし、ユリアーナが傷ついたことを考えもしない。考える必要がないからだ。
被害者であるユリアーナも加害者であるヘルダも、共にこの男に傷つけられている。本物の気味の悪い化け物だ。
ユリアーナは一歩を踏みだした。
妻の決意など、感性の鈍い夫には分からない。きっと希望の光が見えたのだろう、ブレフトが顔を輝かせる。
「ユリアーナ? なんで睨むんだ? どうして怒っているんだ?」
ブレフトの声は徐々に小さくなり、目の光が失せた。
「わたくしは、すでに離婚を告げました。撤回は致しません」
ユリアーナの凛とした声が響いた。
開いたままのブレフトの書斎のドアを、ノックする音も。
「失礼するよ」
凛とした声に、ユリアーナはふり返った。手にはペーパーナイフを持ったままで。
目に映る人の姿が、幻かと思った。
床に散乱した便箋や書類、ヘルダがぶつかったのか棚からは本が落ちている。取り乱すヘルダをなだめながら、メイド達は部屋を出ていく。そして外套を頭からすっぽりとかぶったブレフトが、床にへたり込んでいる。
そんな惨状のなかで、入り口に立つレオンは清らかに澄んで見えた。
「迎えに来たよ。ユリアーナ」
レオンが手を差し伸べてきた。
「どうして? いらっしゃるって伺っていませんでした」
「手紙は出したんだが。そこにいる……たぶんそれはクラーセン伯爵かな? もうとっくに届いているはずだよ。それに以前、街でクラーセン家の馬車を見かけたから。走り書きではあるが警告はさせてもらった。まぁ、こちらの伯爵はろくに読みもしなかったんだろうね」」
困ったようにレオンは微笑んだ。
「三年も遅れてしまったな。ユリアーナ。君の結婚を知らされたのは、外国にいた時だったから。間に合わなかったが」
「なぜ、今こちらに?」
レオンはユリアーナの手を取った。そして握りしめていたペーパーナイフを受けとる。
ヘルダを守りたかったわけではない。けれど、勝手に体が動いた。ブレフトから凶器を奪わなければならないと、必死だった。
たぶんそれはクラーセン伯爵家の名誉を守るためだ。
ユリアーナは三年間、クラーセン家の人間だったのだから。責務を果たそうと無我夢中だったから。
「君をこの檻から解放しにきたんだよ」
「でも、わたくしはこのブレフトの妻で、クラーセン家の嫁で……」
いくら別れたくとも、この国では女性からは離婚を要求できない。せっかく仕事ができるようになったのに、その報酬もブレフトに奪われてしまう。
惨めで苦しくて。それでも伯爵夫人という立場である以上、悔しさを笑顔の下に隠さなければならない。
夫が刃傷沙汰という不祥事を起こすのを、未然に防がなければならない。女主人に、雑巾の水を飲ませようとした愛人の命を守らなければならない。
なんて理不尽で、なんて馬鹿げているのか。
(本当にここは、わたくしを閉じこめる檻だわ)
ユリアーナは手を引こうとした。けれど、レオンは彼女の手首をぐっと握りしめる。
「法が変わった。議会に働きかけたおかげで、愛人のいる夫への離婚を妻から申し立てることができるようになったんだ。次兄が議員だからね、立ち回ってもらった。さらに夫人が得た収入を、夫が奪う権利は無効になる」
「レオン。あなた……わたくしのために?」
ベイレフェルト夫人が話していた。
ユリアーナが結婚してからの三年間。レオンはずっと多忙であったと。
離婚のことも、妻の財産のことも。反対は多かっただろうに、すでに議会で可決して、国王に奏上されたらしい。
「檻を壊したところで、愛しい人が連れ戻されるのでは意味がない。俺は剣を持つ騎士ではないが、茨を切って道を開くことはできる」
レオンがユリアーナの両肩に手をかけた。
彼の手の重みを、感触を、何年ぶりに感じたことだろう。
そして、ゆっくりと体を反対に向ける。外套をかぶったブレフトの方へ。
「さぁ、ユリアーナ」
こくりとユリアーナは頷いた。
息を大きく吸って、気持ちを静める。
そして、この国で女性からは初めての言葉を口にする。
「ブレフトさま。あなたと離婚いたします」
しゃがみこんだブレフトの体が、びくりと震えるのが布越しに分かった。部屋に残った使用人たちは息を呑んだ。
史上初の妻からの離婚宣言に立ち会ったのだと。誰もが動きをとめた。
「い、いやだ……」
ただひとり、ブレフトだけがか細い声を発した。
「ダメだ。ユリアーナはぼくのものだ。妻は夫に従うのが当たり前だ。離婚? あり得ない。彼女はぼくの妻なんだ」
「妻? 一度も顧みることもなく、捨てていたくせに? 若いメイドと一緒になって愚弄していたくせに? 今になってユリアーナが大事だと気づいたとか、愚かなことを言うんじゃないだろうな」
レオンの声は、冷ややかだった。
「ユリアーナがお前を愛していたのなら、こちらも諦めるしかない。少しでも大事にされていたのなら、彼女のことを忘れるしかない。だが、そんな事実はどこにもなかった」
ブレフトが外套を剥いで、ユリアーナの足にしがみつく。
スカートの布ごと、ユリアーナはふくらはぎに手を回された。
「ブレフトさま」
「そうだ。お前の夫はぼくだ。これからは一緒に出かけるし、寝室も共にする。このクラーセン家をふたりで守っていこう。ぼく達は夫婦なんだから」
握りしめてくるブレフトの力は強い。
ユリアーナは床に這いつくばる状態の夫を、見おろした。
未だかつて自分には向けられたことのない笑顔だった。初めて目にした夫の笑顔は、無邪気そのものだった。
「ヘルダにいじめられたお前をかばわなかったことを、謝れというのなら、いくらでも謝ってやるから。そうすれば気が済むのだろう?」
なんと軽い謝罪をしようとしているのだろう。
ユリアーナは眩暈を覚えた。
ブレフトは反省などこれっぽちもしてないし、ユリアーナが傷ついたことを考えもしない。考える必要がないからだ。
被害者であるユリアーナも加害者であるヘルダも、共にこの男に傷つけられている。本物の気味の悪い化け物だ。
ユリアーナは一歩を踏みだした。
妻の決意など、感性の鈍い夫には分からない。きっと希望の光が見えたのだろう、ブレフトが顔を輝かせる。
「ユリアーナ? なんで睨むんだ? どうして怒っているんだ?」
ブレフトの声は徐々に小さくなり、目の光が失せた。
「わたくしは、すでに離婚を告げました。撤回は致しません」
ユリアーナの凛とした声が響いた。
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