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一章
6、一人の食堂
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廊下を進んでいると、奥からパチパチと拍手の音が聞こえた。
「お見事ですね、璠瑞雪」
見れば、尚食局の長官である斉一桐が立っていた。局の名と同じく、長官も「尚食」と呼ばれる。
一桐は、骨太な体格で堂々たる貫禄がある。今は女官たちを指導する立場だが、節くれだった一桐の指は長年包丁を握り、鍋を振るってきた証だ。
「今のわたしは『夏瑞雪』ですよ、一桐さま」
「まぁ、他に誰もおらぬのだから、いいでしょう? 欣然の可愛い姪っ子を別の姓で呼ぶのは心苦しいのよ」
「はぁ、そうですか」
長官である尚食に対する口調や態度ではないが、二人きりのときは瑞雪の口調はくだけたものになる。一桐は叔母の親友であるからだ。
「あなたが孫時宜や他の女官にいじめられているのを見たら、心が痛んでね。女官たちを蹴散らしてやろうかと思っているほどよ」
「いえ、さすがにお心だけで充分です」
大きな体を揺らしながら突進する尚食に弾き飛ばされる女官たち。「尚食、ご乱心か」と、新たな伝説が生まれてしまうではないか。
そもそも薬命司を復活させたのも、その座に瑞雪を就かせたのも斉一桐の一存だ。長官である尚食といわくつきの薬命司につながりがあると知られてはまずい。
ふと廊下の奥から、料理の匂いが流れてきた。
どうやら厨房で燻製をしているようで、その煙だ。少し刺激のある匂いがする。
「一桐さま。燻製材は茶葉と、これは樟ですか?」
「そう、陛下の昼食を用意しているところですよ」
樟を燻製材に用いる料理は限られる。瑞雪は「樟茶鴨ですね」と推測した。
樟茶鴨は鴨肉や家鴨の肉を燻製にしてから蒸し上げて、さらに油で揚げるという手の込んだ料理だ。小麦の生地を薄く伸ばして焼いた薄餅で巻いて食べるとおいしい。
「鴨は血を養うし、樟は効能が豊富です。樟の香りはツンとしますが、気分転換にもなりますし記憶力も高まりますね」
「ええ、ええ。薄餅で巻くのもよろしいですが、柔らかく炊いた糯米に合わせるのもおいしいですよ」
北方の岷国では小麦と大麦が多く栽培されている。南部でしか採れぬ糯米は貴重品だ。
一桐の言葉に刺激され、瑞雪の胃が空腹を訴えて鳴った。さすがに恥ずかしくて、瑞雪は照れ笑いを浮かべる。
「欣然の教えは、薬膳でなくとも身についていますね。瑞雪」
「恐れ入ります、一桐さま」
礼を告げる瑞雪の前で、一桐はなぜか左右の腕を広げている。そのままで動くわけでもない。どうしたのだろう? と瑞雪は首を傾げた。
「ああ、困るのですよ。私が後宮入りを勧めたばかりに、女官たちから意地悪をされて。それでも頑張るあなたを私は抱きしめてあげたいのです」
「え、さすがにそれは」
瑞雪は辺りを見回した。幸い廊下に人はいないが、いつ調理場から女官が現れるか分からない。
「私はあなたが赤子の頃から知っているのです。里帰りした欣然と私の後を、幼いあなたが一生懸命追いかけてきていたでしょう。それがまるで昨日のことのよう」
うっとりと天井を見つめる一桐の目には、きっとよちよち歩きの瑞雪が映っているのだろう。
一桐と欣然の二人ともしゃがんで腕を広げて、どちらに瑞雪が行くのかを競っていたのを覚えている。三歳くらいの頃だろうか。
さすがに叔母の欣然ばかりを選ぶわけにもいかないので、子供ながらに気を遣って、何度か一桐の腕にも飛び込んだことがある。
友人の姪であるのに、小さい瑞雪を抱き上げて満面の笑みを浮かべる一桐。
ああ、自分が存在しているだけで喜んでくれる人がいる。そんな難しいことは、当時は理解できなかったけれど。今ならとても大事にされていたのだと分かる。
「本当は『一桐さま』ではなく『一桐おばさま』と呼んでほしくて仕方がないの」
「すみません、無理です」
瑞雪は顔の前で手を振った。
ただでさえ目立ちたくないのだ。尚食の主席女官と親しいなどと、周囲に知られたくない。
「ええ、ええ。勿論、公私を弁えていますからね、無理は言えませんけど」
瑞雪に薬草や薬膳について教えてくれた叔母の欣然。そして後宮で陰ながら瑞雪を守ってくれる一桐。
今は叔母はいないが、二人の存在がなければほぼ孤立状態の白苑後宮で頑張ることはできなかった。皇帝である文護が瑞雪を指名したのも、一桐の推薦あってのことだろう。
「欣然はどうしているのかしら。南方と言っても広いですし、便りを出しても届くはずもないですしね」
「……はい」
かつては一桐の隣に当たり前のようにいた叔母の不在を思い、瑞雪は眉を下げた。
本当ならこうして白苑後宮で一桐と会話しているのは、叔母であったはずなのだ。
「引き留めてごめんなさいね、瑞雪。時間があるなら昼食をとっていらっしゃい。お腹がすいたでしょう?」
紅梅の世話や皇帝の勅命と、あまりにも慌ただしくて。一桐に指摘されて初めて瑞雪は、自分が空腹であることを思い出した。
瑞雪は表に出て、食堂へと向かった。
昼を過ぎているので、食堂内に人は少ない。かつては一日二食であり、午後に饅頭などの点心とお茶をとる習慣があったが、今は一日三食に戻っている。
点心は湯気が出るほどの蒸し立てでないと美味しくないと文句が出たことと、昼食をとるよりものんびりと休んでしまうからだ。
かつては皇帝や皇族の料理は尚膳監に属する宦官が作っていた。今は尚膳監は存在せず、尚食局の女官が調理や配膳を担当している。
(高級食材を扱っても、自分たちの口に入るわけじゃないしね)
今日の昼食の献立は豆腐干の炒め物とミル貝の湯引きだ。豆腐干は押して水分を抜き切った豆腐で、歯ごたえがいい。
「ちょうどよかったわ。ミル貝が余ってね。どうしたものかと思っていたのよ」
食堂の厨房で働く女官が、瑞雪の皿にどっさりとミル貝を盛った。
京師である伊河は海に近く、魚介類もよく食べる。今日はミル貝が豊漁だったのだろう。
伊河は北方に位置するが、潮の流れの関係で湾内は海水が温かいのでミル貝も生息しているのだろう。
「貝にしては、見た目がいびつですから。皆さん、食べず嫌いするんでしょうか」
「だと思うよ。大きな貝殻から、だらんと管が伸びているのが気持ち悪いわね。味はおいしいんだけどさ」
年を取った調理担当の女官は醤油と魚露で作ったたれを、山盛りのミル貝に添えてくれた。貝には熱した花生油とごま油がかけられているので、香りが高い。添えてあるのは小麦で作った饅頭だ。
食堂では薬命司ということで差別は受けないのは、ありがたい。
(ミル貝は確かのぼせやめまい、不眠に効くわね。あとは動悸と寝汗だったかな)
ずっと以前に欣然に教えてもらったことを、瑞雪は思い出す。
(そうだ。確か髪にもいいのよね)
髪は腎の華といわれる。ミル貝は肝と腎を補うので、髪にハリがでて美しくなるはず。
食堂で同席する人もいないので、一人で席に着いた瑞雪は箸でミル貝を口に運んだ。
コリコリした歯ごたえと、うまみが口に広がる。醤油だけでなく魚露と、油のコクも混じってとてもおいしい。
体にも美容にもいいのに、ミル貝の見た目が悪いからと食べないのは勿体ない。
調理場からは、調理の女官たちの話し声が聞こえてくる。手の空いた人から賄いを食べているのだろう。
外の水場で洗った食器を竹ざるに入れ、重そうに運んでいる者もいる。
(いいなぁ。人の気配があるのって)
味の薄い茎茶を飲みながら、瑞雪は瞼を閉じた。
白苑後宮では瑞雪は一人だ。仕事でも、こうした休憩でも共に語らう友人はいない。尚食の一桐には子供の頃からかわいがってもらっているけれど、上官なのだから甘えることはできない。
誰かと会話がしたいわけではないが、人気のない薬命司の部屋はいつも寂しい。
(あー、そういえば時宜さんは嫌味を言いに来てたっけ)
ケンカ腰のあれを会話と言っていいのかどうか。ちぎった饅頭を咀嚼しながら瑞雪は首を傾げた。
「お見事ですね、璠瑞雪」
見れば、尚食局の長官である斉一桐が立っていた。局の名と同じく、長官も「尚食」と呼ばれる。
一桐は、骨太な体格で堂々たる貫禄がある。今は女官たちを指導する立場だが、節くれだった一桐の指は長年包丁を握り、鍋を振るってきた証だ。
「今のわたしは『夏瑞雪』ですよ、一桐さま」
「まぁ、他に誰もおらぬのだから、いいでしょう? 欣然の可愛い姪っ子を別の姓で呼ぶのは心苦しいのよ」
「はぁ、そうですか」
長官である尚食に対する口調や態度ではないが、二人きりのときは瑞雪の口調はくだけたものになる。一桐は叔母の親友であるからだ。
「あなたが孫時宜や他の女官にいじめられているのを見たら、心が痛んでね。女官たちを蹴散らしてやろうかと思っているほどよ」
「いえ、さすがにお心だけで充分です」
大きな体を揺らしながら突進する尚食に弾き飛ばされる女官たち。「尚食、ご乱心か」と、新たな伝説が生まれてしまうではないか。
そもそも薬命司を復活させたのも、その座に瑞雪を就かせたのも斉一桐の一存だ。長官である尚食といわくつきの薬命司につながりがあると知られてはまずい。
ふと廊下の奥から、料理の匂いが流れてきた。
どうやら厨房で燻製をしているようで、その煙だ。少し刺激のある匂いがする。
「一桐さま。燻製材は茶葉と、これは樟ですか?」
「そう、陛下の昼食を用意しているところですよ」
樟を燻製材に用いる料理は限られる。瑞雪は「樟茶鴨ですね」と推測した。
樟茶鴨は鴨肉や家鴨の肉を燻製にしてから蒸し上げて、さらに油で揚げるという手の込んだ料理だ。小麦の生地を薄く伸ばして焼いた薄餅で巻いて食べるとおいしい。
「鴨は血を養うし、樟は効能が豊富です。樟の香りはツンとしますが、気分転換にもなりますし記憶力も高まりますね」
「ええ、ええ。薄餅で巻くのもよろしいですが、柔らかく炊いた糯米に合わせるのもおいしいですよ」
北方の岷国では小麦と大麦が多く栽培されている。南部でしか採れぬ糯米は貴重品だ。
一桐の言葉に刺激され、瑞雪の胃が空腹を訴えて鳴った。さすがに恥ずかしくて、瑞雪は照れ笑いを浮かべる。
「欣然の教えは、薬膳でなくとも身についていますね。瑞雪」
「恐れ入ります、一桐さま」
礼を告げる瑞雪の前で、一桐はなぜか左右の腕を広げている。そのままで動くわけでもない。どうしたのだろう? と瑞雪は首を傾げた。
「ああ、困るのですよ。私が後宮入りを勧めたばかりに、女官たちから意地悪をされて。それでも頑張るあなたを私は抱きしめてあげたいのです」
「え、さすがにそれは」
瑞雪は辺りを見回した。幸い廊下に人はいないが、いつ調理場から女官が現れるか分からない。
「私はあなたが赤子の頃から知っているのです。里帰りした欣然と私の後を、幼いあなたが一生懸命追いかけてきていたでしょう。それがまるで昨日のことのよう」
うっとりと天井を見つめる一桐の目には、きっとよちよち歩きの瑞雪が映っているのだろう。
一桐と欣然の二人ともしゃがんで腕を広げて、どちらに瑞雪が行くのかを競っていたのを覚えている。三歳くらいの頃だろうか。
さすがに叔母の欣然ばかりを選ぶわけにもいかないので、子供ながらに気を遣って、何度か一桐の腕にも飛び込んだことがある。
友人の姪であるのに、小さい瑞雪を抱き上げて満面の笑みを浮かべる一桐。
ああ、自分が存在しているだけで喜んでくれる人がいる。そんな難しいことは、当時は理解できなかったけれど。今ならとても大事にされていたのだと分かる。
「本当は『一桐さま』ではなく『一桐おばさま』と呼んでほしくて仕方がないの」
「すみません、無理です」
瑞雪は顔の前で手を振った。
ただでさえ目立ちたくないのだ。尚食の主席女官と親しいなどと、周囲に知られたくない。
「ええ、ええ。勿論、公私を弁えていますからね、無理は言えませんけど」
瑞雪に薬草や薬膳について教えてくれた叔母の欣然。そして後宮で陰ながら瑞雪を守ってくれる一桐。
今は叔母はいないが、二人の存在がなければほぼ孤立状態の白苑後宮で頑張ることはできなかった。皇帝である文護が瑞雪を指名したのも、一桐の推薦あってのことだろう。
「欣然はどうしているのかしら。南方と言っても広いですし、便りを出しても届くはずもないですしね」
「……はい」
かつては一桐の隣に当たり前のようにいた叔母の不在を思い、瑞雪は眉を下げた。
本当ならこうして白苑後宮で一桐と会話しているのは、叔母であったはずなのだ。
「引き留めてごめんなさいね、瑞雪。時間があるなら昼食をとっていらっしゃい。お腹がすいたでしょう?」
紅梅の世話や皇帝の勅命と、あまりにも慌ただしくて。一桐に指摘されて初めて瑞雪は、自分が空腹であることを思い出した。
瑞雪は表に出て、食堂へと向かった。
昼を過ぎているので、食堂内に人は少ない。かつては一日二食であり、午後に饅頭などの点心とお茶をとる習慣があったが、今は一日三食に戻っている。
点心は湯気が出るほどの蒸し立てでないと美味しくないと文句が出たことと、昼食をとるよりものんびりと休んでしまうからだ。
かつては皇帝や皇族の料理は尚膳監に属する宦官が作っていた。今は尚膳監は存在せず、尚食局の女官が調理や配膳を担当している。
(高級食材を扱っても、自分たちの口に入るわけじゃないしね)
今日の昼食の献立は豆腐干の炒め物とミル貝の湯引きだ。豆腐干は押して水分を抜き切った豆腐で、歯ごたえがいい。
「ちょうどよかったわ。ミル貝が余ってね。どうしたものかと思っていたのよ」
食堂の厨房で働く女官が、瑞雪の皿にどっさりとミル貝を盛った。
京師である伊河は海に近く、魚介類もよく食べる。今日はミル貝が豊漁だったのだろう。
伊河は北方に位置するが、潮の流れの関係で湾内は海水が温かいのでミル貝も生息しているのだろう。
「貝にしては、見た目がいびつですから。皆さん、食べず嫌いするんでしょうか」
「だと思うよ。大きな貝殻から、だらんと管が伸びているのが気持ち悪いわね。味はおいしいんだけどさ」
年を取った調理担当の女官は醤油と魚露で作ったたれを、山盛りのミル貝に添えてくれた。貝には熱した花生油とごま油がかけられているので、香りが高い。添えてあるのは小麦で作った饅頭だ。
食堂では薬命司ということで差別は受けないのは、ありがたい。
(ミル貝は確かのぼせやめまい、不眠に効くわね。あとは動悸と寝汗だったかな)
ずっと以前に欣然に教えてもらったことを、瑞雪は思い出す。
(そうだ。確か髪にもいいのよね)
髪は腎の華といわれる。ミル貝は肝と腎を補うので、髪にハリがでて美しくなるはず。
食堂で同席する人もいないので、一人で席に着いた瑞雪は箸でミル貝を口に運んだ。
コリコリした歯ごたえと、うまみが口に広がる。醤油だけでなく魚露と、油のコクも混じってとてもおいしい。
体にも美容にもいいのに、ミル貝の見た目が悪いからと食べないのは勿体ない。
調理場からは、調理の女官たちの話し声が聞こえてくる。手の空いた人から賄いを食べているのだろう。
外の水場で洗った食器を竹ざるに入れ、重そうに運んでいる者もいる。
(いいなぁ。人の気配があるのって)
味の薄い茎茶を飲みながら、瑞雪は瞼を閉じた。
白苑後宮では瑞雪は一人だ。仕事でも、こうした休憩でも共に語らう友人はいない。尚食の一桐には子供の頃からかわいがってもらっているけれど、上官なのだから甘えることはできない。
誰かと会話がしたいわけではないが、人気のない薬命司の部屋はいつも寂しい。
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