ゲルマニウムについての考察

相原伊織

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ゲルマニウムについての考察

       ①

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 受付フロントで靴箱の鍵と引き換えに、バスタオルや岩盤浴用の着衣が入った手さげ袋を受け取った。浴場へと向かう階段を上りながら、山岸くんは会員登録の手違いに関する自分なりの考察を続けていた。
「確かに会員になったはずなんだけどな。まぁ思い違いかも知んねえけどさ」

 我々は共に26歳で、彼はつい2週間前まで少しは名の知れた若手美容師だった。僕のほうは東京の美術大学を卒業してからどこに就職するでもなく、ぱっとしないアルバイトを続けて食いつないでいた。お互いに人生の分岐点に立っているようだった。彼は仕事を辞め、僕も繰り返される同じ毎日に心底うんざりしていたからだ。閉塞感…。27歳という大人の男として申し分ない年齢を目前にして、僕は何一つ立ち上げられずにいる。限りのない堂々巡り。どこへも繋がらぬ袋小路に逃げ込んだ鼠にでもなった気分だ。一刻も早く、視界のひらけた場所へ抜け出たいと思いながらもただ燻っていた。

            ❇︎

 ろくに会話もせず脱衣所のロッカーに服をぶち込むと、まず我々は浴場で身体を洗った。
 山岸くんは美容師の仕事を辞めた後、つなぎのつもりでアパレル関係のアルバイトをしていた。その仕事上がりに、僕に電話してきてこの岩盤浴の施設に誘ってくれたわけだ。この施設は彼の家の最寄り駅から徒歩2分圏内にあったが、今まで何年もこの土地に住みながら全く気がつかなかった場所だった。僕も高校時代から何度もこの駅を利用していたし多少の土地勘もあったが、こんな施設が存在していたなんてまるで知らなかった。
「うちの風呂が壊れてさ。最近偶然知ったんだ。穴場だろ?」と彼は言った。日曜日の夜だったが浴場は良い感じに空いていたし、料金も安い。確かに悪くない施設だった。
 身体を洗いながら、我々は色々な話をした。とりとめのない話だ。
「旅行にでも来た気分だ。俺さ、こういうとこの備え付けのシャンプーとかボディーソープ好きなんだよね」
「そうか? 俺は信用しないね。風呂出た後で髪がごわごわになる。嫌いだね」
「ははは。ねぇ、いつかほんとに旅行にでも行けたらいいな。もちろん女の子も一緒にさ。4人で」
「まあな。…おまえまだ詩乃ちゃんのこと考えてんだろ? あっちはたぶん忘れてるぜ。女はすぐ忘れるからな。それに…」
「女は星の数ほどいる」
「そのとおり」
山岸くんはシェービングクリームの代わりに蜂蜜の香りのするボディーソープで顔を剃っていた。鼻の横まで剃っていた。山岸くん、そこには何も生えてないぜ? 言わなかったけど。
「今日さ、記念日だったんだ。詩乃との」
「へえ? 何かしたのか?」
「まさか。普段通りのメールならしたけどね」
「ふぅん。まぁ今のおまえじゃどうしようもないよな。それに詩乃ちゃんもそんなに馬鹿な女じゃないだろ。今のおまえとくっつくほどにはさ」
「そのとおり」
「でもなぁ。生きてると忘れられないことも、確かにある」
「美和子ちゃんとか?」
「まあね」
「引きずってはいないんだろ?」
「引きずってはいない、もちろん。俺はそんなくだらないことはしない。でも引きずることと忘れられないことは違う、そうだろ?」
「そうだね。それに…」
「俺にはもったいない女だ」
「今のきみにはね。でも嫉妬はするんだろう?」
「するさ。…さて。岩盤浴行こうぜ」

            ❇︎

 岩盤浴のフロアは3階にあった。岩盤浴用の着衣は手術着みたいな代物だった。3階へ続く階段は詩乃と行った伊豆の旅館と酷似していた。
「デジャヴュだ…」
「何か言ったか?」
「いや…デジャ・ヴュだ」
「そんな曲あったな。誰だっけ?」
「イングウェイ・J・マルムスティーン」

 3階で我々はまず、缶コーヒーを飲みながら煙草を吸った。彼は煙草を切らしていたので僕のを吸った。
「これ、灰なかなか落ちねぇな」
「ここ、中途半端な分煙だよね」

 本当に旅行にでも来ているみたいな気分だった。そして僕は、なんだか自分が切り取られた別の時空を生きているような感じがした。そう遠くない未来、宿泊している旅館で一服している成功した自分と入れ替わっているような感覚だ。まだ到達していない未来。まだ手にしていない(そして今のところ手にする見込みもない)成功。…幻想だ。こんな風に人は、自分の負うべき責任を先送りにしていけるものだろうか? その先に見える自身の姿を想像して、僕は怖くなった。何も手にできず、責任を先送りにするだけの時間すらもう残されていないに立ち尽くす男…。でもそれが真実だった。。その未来が気に入らないなら今すぐに手を打つしかない。死の際に立ち尽くす男の責任を、現在いま僕が引き受けるしかない。
〈自分の人生の責任はーーー〉
その男は言った。
〈一瞬ごとに、自分にあるんだ。きみは26歳であり、同時に26歳ではない。私が今、死を目前に死せないのと同じようにね。きみがやろうと思うだけでやらなかったことは、きみには死ぬまでできないだろう。そしてその結果として、私がいるのだ。? 
「そのとおり」と、僕は言った。

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