猫と牛乳と涙

相原伊織

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猫と牛乳

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 その夜も佐織さおりからの着信があった。又吉またよしは仕事の手を止め、缶コーヒーをひとくち口に含んでゆっくりと飲み下し、電話を取った。
「もしもし」
「遅くにごめんなさい。お仕事中だった?」
時刻はいつものように午前一時をまわっていた。しかしその日の佐織の声はいつもより幾分疲れ、やつれているように聞こえた。
「いいんだ。ちょうど筆が止まっていたところさ。ところで今夜もいつものやつをご所望しょもうなのかな? おたくのお嬢さんは」
佐織は微笑しながら答える、「そうなの。悪いとは思うんだけど今日もお願いできないかな。今日のキーワードは『猫』と『牛乳』だって」。電話口で彼女の微笑を聞くたび、それは又吉にレプリカという単語を連想させた。路上で何かにつまずいたような微笑。決して精巧とは言えない模造品…。そんな表情を取りつくろった彼女の声を聞くたび、やるせない寂しさが夕立のように又吉の心を通り過ぎた。「仕事のほうは順調なの?」
「まあね。今やってるのはくだらない文芸雑誌に載る短編だよ。でもさっきも言ったようにちょうど筆が止まっていたとこなんだ。それに載っても誰も読まない」
「あたしはあなたの書いた小説は全部読んでるよ。もうちょっと明るい話があってもいいとは思うけれど」
「ありがとう。君は親切な人だ」そう言った後又吉は缶コーヒーをひとくち飲み、こう付け足した。「それかられいもね」
「あの子はあなたのお話を読み聞かせてからじゃないと寝付かないの。だからこうしていつも電話してるわけだけど…迷惑だったら断ってくれていいんだよ?」
「迷惑なんかじゃない、もちろん。むしろ君んとこの小さな読者に感謝したいくらいだよ。俺の書くものを喜んでくれる…光栄の至りだ」
「作家のかがみね」そう言って佐織は笑った。
「すぐにメールで送るよ」新たな寂しさが彼の心に降り注ぐ。でも今度はそれが通り過ぎるのを待たずに、又吉は電話を切った。

             ❇︎

「『猫が一匹いた。彼の名はマタリ。前世ではマタリ族という民族のリーダーだった。一族を守るための戦いで若くして死んでしまったけれど、英雄として称えられた。それで、猫として生まれ変わったのだ』」
「どうして守るためなのにしんじゃったの? えいゆうなのはしんじゃったからかなぁ…わかんないからお母さんに聞いてみてよ」
「そうねぇ…お母さんもわかんないな、ちょっと待ってね」
又吉が作った即席の物語を佐織が読み聞かせている時、玲はその物語についてよく質問した。佐織はその都度メールで又吉に答えを聞くわけだが、彼は朗読のテンポが削がれないくらい早く、数秒後には答えを返した。
「男として立ち上がらなければならなかったんだって。自分の命にかえても守らなきゃいけないものが彼にはあった、彼のおかげで一族みんなが守られたから英雄なんだよ、だって」
「ふぅん。そうだったんだ。でものおはなしではみんなよくしんじゃうねぇ」
玲はくすくす笑いながらそう言った。質問の答えには納得したようだった。「それでそれで?」
すぐに話の続きが送られてくる。
「『もちろん、マタリにはそんな記憶残ってないけどね。彼はまだ若い猫だけど捨て猫だから、ある嵐の日に雨にうたれてびしょびしょになった。寒くて、みじめで、寂しかった。とてもミルクが飲みたかった。寒さと空腹で意識が遠のいていく、ひどく眠い…』」
「むにゃり…。もねむくなってきたなぁ」
「『マタリは暖かくて明るい場所で目覚めた。目の前にはミルクの入った白い小皿。おそるおそる舐めてみるとちょうどよい温度で、猫舌のマタリだけどチロチロたくさん飲んだ。空腹が癒えてゆくのがわかる…夢中で、チロチロ…』」
「チロチロかわいいなぁ」布団の上で、玲は手に持ったマグカップの中のホットミルクでマタリのしぐさを真似てみせた。
「もう。お行儀わるいと続き読んであげないよ?」
玲は素早く姿勢を正してまた質問する。
「ねぇねぇ、マタリが目覚めたのはどこなんだろう? だれがミルクをくれたのかな」
「ふむ…マタリが目覚めた場所は天国で、嵐の日に弱っているマタリを天国から見ていた神様たちが会議を開いたんだって。彼は前世で自らの命を投げうって一族を守った英雄だ、ここはひとつ彼を天国へ招待して、お腹いっぱい大好きなミルクをふるまってはどうだろう、って。それで、満場一致で神様たちの会議は幕を閉じ、マタリは天国に招待された」
「天国って…、マタリもやっぱりしんじゃったの?」玲は不安そうな顔つきで母親の目を覗き込んだ。
「まあまあ、大人しく続きを待ちましょう」佐織は携帯電話を枕元に置き、毛布を玲の腰のあたりまで優しく掛け直した。すぐに電話のバイブレーションが物語の結末を告げる。
「『ミルクは温かく、天国のような味がした。それはこれまでに味わったことも想像したこともないような素晴らしい味で、マタリの知っている言葉では言い表すことはできなかった。嵐の夜に彼を包んでいた惨めさや寂しさが、まばゆいばかりの太陽の光や天使たちの奏でる美しい調べと入れ代わった。温もりがマタリを包み込む…それはミルクの温もりであり、天国の温もりだった。彼はミルクを飲み終えると、穏やかな気持ちで一息つく。
 ぼくにミルクをくれたのは誰だろう…わからないな。ここはどこだろう? マタリは自分のいる場所がどこなのか考えた末に、本物の天国なんだろうなと思った。こんなに明るくて暖かいし、天使たちの美しい音楽も聴こえるし、ミルクは天国みたいに素晴らしい味がするんだもの。きっとそうに違いない。
 天国へようこそ、マタリくん。
と、優しい声が言った。きっと神様の声だ、とマタリは思う…。もう毎日お腹を空かせて路地を歩き回ったり、寒さに凍えて朝を待ちわびる必要もない。前世で勇敢にも自らの命と引きかえにみんなを守ったマタリは、夢のような世界の住民権を貰ったのだ。優しい声がマタリの耳にささやく… 天国へようこそ、マタリくん。』………おわり」
読み終えた本を閉じるように、佐織は携帯電話をパタンと閉じてみせた。「もうこんな時間。いい子はもう寝ましょうね、猫と牛乳のお話も読んだし」
ぱちぱちぱち…と玲は拍手した。
「すごい…いいお話だったね! でもさ、マタリはやっぱりしんじゃったんだね、お母さん」
佐織は疲労を押し殺した笑顔で我慢強く答えた、いつもどおりに。その声は優しい母親の温もりに溢れている…「そうだね。でもマタリにとってはそれが一番幸せだったんじゃないかな。もう戦わなくてもいいし、こわい! とか かなしい!って思うことも、きっとないもんね」
「もう泣くこともないんだね?」
にっこりと微笑んで肯くと娘がくるまっている毛布を首の下まで上げてやり、陶器のようにつるりとしたその額にそっと唇をつけた。
「おやすみ。涙のない夢をね、玲…」

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