猫と牛乳と涙

相原伊織

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又吉

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 又吉の育った家庭環境は恵まれたものではなかった。
 彼の父親はアルコール中毒で窃盗の常習者だった。けちな犯罪を繰り返しては警察の世話になり、人生の三分の一を塀の中で過ごした。もっとも又吉少年には父親が塀の内側に居るのか外側に居るのかを判別する機会はひと月に一度しか訪れなかった。すなわち、母親の給料日に金を奪いに来るか来ないかだ。母親が自らの時間・肉体・その他有形無形問わずあらゆる個人的資産を犠牲にして得た金、男はそれを一円残らずことごとく全てむしり取った。酒とギャンブルで使い果たして、それでも足りずに八百万円の借金を残して死んだ、又吉が中学に上がる年のことだった。父親の死を認識したその時、ほっとしたというのが彼の正直な感想だった。しかしその後がもっと酷かった。母親は男(もはや父親と思いたくもなかった)の残した借金を返済するために文字通り四苦八苦したが、完済するより前に堕落してしまった。以前は一滴も口にしなかった酒に肝臓をやられ、性病に悩まされるようになり、向精神薬やら避妊用のピルやら得体の知れない色とりどりの錠剤を十錠単位で胃に流し込んだ。若さも健康も誇りも尊厳もーーー無口で感受性の強い少年の母親として失うことが可能なすべての資格をーーー彼女は息子の目の前で失くしてしまったのだ。又吉が高校を卒業する頃(彼はアルバイトをしながら高校に三年間通った)、彼女の人生には可能性の断片のひとかけらさえ残されてはいなかった。全部あの男のせいだ…と又吉は思った。
 彼は小学生から高校生までの劣悪な環境の中で、一人でいる時間を最も有意義に過ごした。彼と似た境遇の同級生たちはこぞって煙草をふかしたり盗んだバイクで走り出したりセックスに明け暮れたり不良を気取って我が物顔で街を闊歩かっぽしたり最終的に拳を交えて分かり合ったり(あるいは分かり合った)して戯れていたが、又吉はそうではなかった。
 彼は、本に寄り添った。
 彼が初めて手にした本はカフカの『変身』で、それは十歳の頃小学校の図書館員に個人的に借り受けたものだった。又吉の通っていた学校の蔵書にはそういった類の本はーーーつまり、本当の意味で値打ちのある小説はーーーほとんど一冊も置いていなかったので、彼は市立図書館に毎日のように足を運ぶようになった(全国の小学校の本棚にいったい何冊の『グレート・ギャツビー』が並べられているだろう?)。
 カフカに始まり、同じドイツ語圏のトーマス・マンやヘッセを読んだ(『魔の山』と『車輪の下』が好きだった)。フランス文学からバルザック、マルセル・プルースト(バルザックとプルーストを読んだとき天才の意味を悟った)、モーパッサン(短編『月光』は六十三回くらい繰り返し読んだな)、スタンダールの『赤と黒』、アルベール・カミュの『異邦人』を読み、イタリアのダンテ『神曲』を読んだ。英国のディケンズ(大げさな文章でもやはり巧かった)、ジョン・キーツ(彼の詩より美しいものはちょっと思いつけない…!)、アイルランドのジョイス(『ダブリナーズ』は優れた本だった…それにしても『ユリシーズ』の翻訳の酷さときたら…!)。そしてなんといってもロシア文学! ドストエフスキー(『カラマーゾフの兄弟』は文学における奇跡だ)、トルストイ(ああ…『アンナ・カレーニナ』!)、そして綺羅星のようなチェーホフの短編群…。アメリカの作家も素晴らしいーーーヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』、フィッツジェラルドの『夜はやさし』、ヴォネガットの不思議な世界と、ピンチョンの入り組んだ迷宮…(ミスタ・ヴォネガットはエッセイも素晴らしかった)ーーーなにより、まごかたなき至高の散文音楽家、トルーマン・カポーティ! ラテンアメリカならガブリエル・ガルシア=マルケス(なんて偉大な作家なのだろう?)、バルガス・リョサ…、ドノソの『夜のみだらな鳥』、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』も面白かった。他にも沢山ある…。チャールズ・ブコウスキーとリチャード・ブローティガンの文体にはあまりにも衝撃を受けたし、エラリー・クイーンみたいなミステリーも、サスペンスもサイエンスフィクションもノワール小説も箴言集しんげんしゅうも読んだ。カントの『純粋理性批判』を理解して楽しめるまで読み込んだりもした。
 そんなわけで又吉は高校を卒業する頃にはちょっとしたーーーというにはいささか謙遜が過ぎるほど、熱心なーーー読書家になっていた。
 高校を卒業した又吉は朝刊の配達と他のアルバイトを掛け持ちして大学へ入る資金を集めた。彼の目的は大学で文学を学ぶこと、さらに言えば職業的小説家になることだった。
 その一年間は機械的な周期運動のように過ぎ去った。アルバイトと受験勉強、四時間の睡眠…。たまの休みには神保町へ出て古書店を何軒か回り、以前図書館で借りて読んだ本ばかりを安く手に入れ、翻訳者の違うものは全てチェックし、英語圏の気に入った作品に限っては中古のペーパーバックで原文を読んだ。高校卒業以来、又吉は新しい未読の本をただの一冊も開かなかった。ときには美味であると証明済みのワインを優雅に嗜む紳士のように、ときには分解したラジオの部品を虫眼鏡で一つ残らず点検する小学生のように、空いた時間があればそれらの本を何度も何度も読み返した。
 彼の生活は質素なものだった。運良く新聞配達員の寮に入ることができたので当面は家賃の心配は要らなかったし、友達付き合いもないので出費もほとんどなかった。金の使い方といっても、参考書代や食費を別にすれば例のささやかな古書収集と好物の缶コーヒーを一ダース単位で買うことくらいしか彼には思いつけなかった。貯金は順調だった。
 春が来て、彼は無事に大学へ入学することができた。青山学院の英米文学科と早稲田の文学部を受け、どちらもパスしたので後者を選んだ。そこで又吉は佐織と出会った。


 二十七歳の時に書いた小説が文芸誌の新人賞をとり、華々しくとは言えないまでも作家としてデビューしほそぼそと生き残ってきた又吉だが、正直なところ彼の書く本は全くと言っていいほど売れなくなっていた。これまでに同じ出版社から短編集を二冊、長編を三冊出した。新人賞をとったデビュー作こそ世間の話題にのぼったものの、それ以来売れ行きは壮年期男性の頭髪の生え際みたいに目に見えて後退していった。職業的小説家になって六年、相変わらずの古風なプロットに、似たり寄ったりな暗い結末…。登場人物の心理描写や映像的な文章にこそ見るべきものはあったが、彼のスタイルが文学の流行から外れていることは当の本人含め誰の目にも明らかだった。
 そんな折、彼のもとに一本の電話があった。又吉がこれまでに唯一愛した特別な女性…、佐織だ。十年前のあの夜の電話のように、唐突に。

             ❇︎

 十年前、佐織は又吉と別れた後すぐ、ウェブデザインを専門とする小さな事務所に就職し、職場の上司と結婚した。
 当時二十三歳の又吉は、大学を卒業したのちアルバイトで生計を立てながら小説を書き続けていた。一月のある日の午前四時頃、電話が鳴った。
「もしもし」
「久しぶり…又吉くん。あのね、…元気?」
「元気だよ、久しぶり。…なにかあった?」
「ううん…こわい夢を見たの。こんな時間に電話できる人、あなたしかいなくて…ごめんなさい」
佐織の声を聞くのは本当に久しぶりな気がした。別れたのは一年ちょっと前、二人きりで会うことがなくなってからもメールで連絡を取り合うことは続けていた。だいたい二週間に一度くらい。でも、こちらから掛けることはあっても佐織のほうから電話をもらったことはそれまでなかった。恋人同士でなくなってからもこんな明け方に電話を掛けてきてくれたことが、又吉は嬉しかった。
 こわい夢の話から又吉の近況の話まで色々しゃべり、佐織のほうは最近どうしているかという話に及んだところで彼女は言葉を切った。
「ねぇ、あのさ、…ほんとうに元気?」佐織が言う。
「元気だよ。どうした?」又吉は笑って答える。
「……報告があるの」
からだ中の毛穴が音を立てて塞がり、口の中がからからに渇いてゆくのを感じた。又吉は思わず缶コーヒーを大きくひとくち、口に含んだ。報告?
「あたしね、結婚するの。それでね、労働環境も良くはないし、お仕事はしばらくお休みすることになりそうなの。うん」
「…結婚…労働環境? …赤ちゃん?」
「……うん」
「………おめでとう」

 電話を切った後、又吉はひとり泣いた。泣けたら楽なんだろうな、と思う時いつも決まって涙は出てこなかったのに、その時彼には溢れ出る涙を止めることができなかった。生物学的見地から見て脱水症状に陥るのではないかと思われるような圧倒的な号泣だった。文学的見地から見ればその涙は底知れぬ後悔であり絶望そのものだった。涙となって溢れ出た後悔と絶望は彼を浸し、より濃密な後悔と絶望となって彼のからだ中に浸みわたっていった。頭の中では佐織の言葉がこだまのように繰り返し響いていたーーーあなたとの三年半があったから私はを愛せるし愛されてるって思えるの。ほんとうにありがとうーーー。三年半…。二人の上には実に様々な出来事が降りかかってきた。佐織の両親と又吉の確執…。彼女に対する母親の虐待行為、干渉しない父親。上京、同棲と敗北的撤退…。佐織の妊娠と、不本意な堕胎…。生活していくことの重みを分かち合い、生きていくシステムなり基盤を打ち立てるべく奮闘した三年半だった。喧嘩やいさかいもあったけれど、彼らは抱き合って忘れることができた。深く愛し合っていたし、その関係は死ぬまで続くと当たり前に思っていた、でも、そうではなかった…。
 又吉はからだ中に後悔と絶望を浸み込ませながら、佐織は果たして俺に何番目に電話してきたのだろうなと思った。何番目だったんだ? 考えればわかることじゃないか。(あの時俺たちの子どもを殺さなければ、今も佐織は隣に居ただろうか?)。俺がもっとまともだったら? は俺なんかよりずっとまともなんだろう。だからほんの数ヶ月で彼女は結婚を決めたんだ。三年半積み重ねても、俺にはできなかったーーー
 結局佐織の結婚式には招待されなかったし、そのまま連絡を取り合うこともなくなってしまった。月日は流れ又吉は作家として一応のデビューを飾り、佐織はどこか知らない土地で幸せな家庭を築いているはずだった。そんな彼女が、例えば休みの日に息子なり娘なりの手を引いて本屋に立ち寄った際、自分の本を手に取ってくれたら…ーーー「ねえ見て。これは昔お母さんが大好きだったひとが一生懸命書いたご本なんだよ。それを今、日本中の人が読んでるの。すごいと思わない?」ーーーいつかそんな日がくることを夢想しながら小説を書き続けた。そして再び電話のベルは鳴った。十年前のあの夜のように、唐突に…。

             ❇︎

「…もしもし?」
「久しぶり…又吉くん。あのね、…元気?」
深呼吸一回分の沈黙の後、又吉は声を上げて笑った。すると佐織も笑う。たまらなく懐かしい笑い方だ。又吉は幼い頃母親と二人で行った広い公園でタンポポの白い綿毛を飛ばしたことを思い出した。そしてすぐ後で、佐織と出会ったばかりの頃、彼女が初めて笑顔を見せた時も同じ情景が浮かんだことに思い当たった。
「どうして笑うのよ? わたし、なにか変なこと言ったかな」
「ううん。ただ十年ほど前に誰かさんからおんなしような電話があったなぁと思ってさ」
電話口で佐織が懐かしむように目を細めたーーー空気で分かるのだ。
「そっか…もうそんなになるのね。あなたも立派な作家さんだもんね。ほんとになっちゃうんだもん、驚いたよ」そして少し迷った後で付け足すように言った。「おめでとう」
又吉は照れ臭さを隠すみたいに音を立てて缶コーヒーをすすった。
「あっ! 缶コーヒーでしょ。飲み過ぎよ」
「娯楽なんだ。ところで、なにかあった? 最近どうしてるんだい?」
佐織の表情がこわばったように感じられた。彼女の口から軽い微笑が漏れる…でも、なにか違う。歩いていて何かにつまずいた時のような微笑。笑顔のレプリカみたいだな、と又吉は思うと同時に全身の毛穴が収縮するのを感じた。。口の中がからからに渇いていく…。? 佐織。

 彼女が電話口で泣いていることに気づいた。すすり泣くように漏れていた吐息は必死に声を押し殺した嗚咽に変わり、やがて号泣に変わった。又吉は彼女をなだめながら泣き止むのを待ち、自分がとっくの昔に離婚していたこと、ほとんど女手ひとつで育ててきた一人娘が最近心配なのだということを彼女自身の口から聞いた。泣き止んだ後の佐織は人がかわったように落ち着き払っていて、毅然とした母親らしい強さを身にまとっていた。これが普段の彼女なのだろうと又吉は思う。でも彼にはそれが、尋常ならざる努力と強がりで支えられているであろうことも容易に想像できた。彼女は肩の力を抜くべきなのだ。そしてできることなら自分の手でその細い肩を抱きしめてやりたいと、十年ぶりの電話を切った後でひとり思った。

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