厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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光と影が交差する芽吹きの章

40.酔いのせい

 静かな夜だった。
 王都の邸は、舞踏会の余韻をすでに遠くに置き去りにし、深夜特有の落ち着いた気配に包まれている。

 ユフェミアは自室の窓辺に立ち、薄く開けたカーテン越しに、街路を照らす灯りをぼんやりと眺めていた。
 胸の奥が、妙にざわついている。
 理由は、わかっている。
「……」
 ユフェミアは小さく息を吐いた。

 これまでずっと、没落した家の名残を背負い、身一つで生き延びてきた。
 王都で生きるために覚えたのは、微笑み方と距離の取り方、危険の察し方と逃げ道の確保だ。
 誰かに寄りかかることなど、考えたこともなかった。
 ――まずは身を守ること。低く見られないこと。
 それが、いつの間にか、生き方そのものになっていた。

 だからこそ、舞踏会での出来事は、想定外だった。



 あの時。
 カイネにはさらりと説明したけれど。
 実のところ、ユフェミアは取るに足らないことで、しかしかなり危ない状況に陥っていた。


 ユフェミアは、いつものようにルーチェの周囲に控え、少し離れた位置から全体を見渡していた。
 視線を巡らせ、人の流れを読み、空気の変化に耳を澄ませる。
 そうしている時間は、決して苦ではない。むしろ、慣れ親しんだ役割だった。
 
 ほどなくして、男たちが近づいてきた。
 貴族の子弟だろう。酒の入った声、距離の近さ、ユフェミアの容貌への過剰な称賛。
 どれも慣れたものだ。
(……はいはい)
 心の中で呟きながら、ユフェミアは柔らかく笑い、言葉を選んでかわしていく。
 相手の自尊心を傷つけず、期待も持たせず、けれど一本の線を引いて、明確に踏み込ませない。
 こういうやり取りには、嫌というほど慣れていた。
 そのうちの一人と、少しだけ長く言葉を交わしていた。
「こちらの御令嬢に飲み物を」
「まあ。私、お酒はあまり、得意ではなくて……皆様にはしたない姿を見せてはいけませんから――」
「いやいや、酒ではありませんよ。果実を使った新しい飲み物で」
 合図を受けた給仕が運んできた飲み物からは、確かに酒精の香りは感じられなかった。
 色の淡い、果実を絞ったような飲み物。
(……あまり強く断るのも不自然かしら)
 もちろん、警戒心は持っていた。だから、給仕の持つ盆から直接、グラスを自分で取った。
 給仕は王宮所属の徽章を付けている。それに運ばれてくる時から今まで、視線も離していない。男はグラスに触れていなかった。
 だから大丈夫だと、判断した。少し舐めた味も、ごく普通の飲料に思えた。
 
 数口飲んで、――しばらく談笑を続けて。

(――っ!?)

 世界が、ゆらりと揺れた。
 一拍遅れて熱が駆け上がる。
(……酒じゃないなんて嘘、まさか何か混ぜられた?)
 恐怖が背筋を冷たく撫でた。
 後になって思えば――給仕も、ぐるだったのだろう。
「大丈夫ですか?」
 男の手が腕に触れた。

「……すみませんっ、失礼を、致します」
 声が震えないよう、必死に抑えながら言い、ユフェミアはまず、がむしゃらにその場を離れた。
 足がもつれる。
 視界が揺れる。
 まっすぐ歩けているかも怪しい。
 それでも、考えていたのは一つだけだった。
 ――ルーチェ様の近くで、乱れた姿を見せるわけにはいかない。

 ダリウスとルーチェの周囲は、今夜、最も注目される場所だ。
 自分がそこで大声で助けを求めて騒ぎを起こしたり……だらしのない姿で男性に縋っている姿を見られるなんて、どんな形で話が歪められるかわからない。

 だから、逃げた。
 ひたすら、人の少ない方へ。
 壁に背を預け、深く息を整える。
 周囲を確認するが、先程の男の姿は見えない。ユフェミアの警戒と逃走に、引くことにしたのだろう。
 ほぅ、と溜め息をついた。
 身体の奥が熱い気がして、ユフェミアは意識して呼吸をゆっくりと繰り返す。
 ……大丈夫。もう少し落ち着いたら、ここを離れましょう。
 そう自分に言い聞かせていた時。

「……あの女、やけに寂しそうじゃないか」
「一人でいるのが似合わない美人だな」
「壁の花にしておくには、惜しいだろう」
 先程とは別の男たちの声が、耳に入り込んでくる。気配に顔を上げると、二人、三人、四人――。
 酔いの回った視線が、値踏みするようにユフェミアを囲んでいた。
 ああいう手合いに囲まれるのは、慣れている。
 けれど、今からまれるのは困る。来ないで欲しい。
 そう願いながら、口元を少し開いた扇子で隠す。
 「今は話したくない」という上品な社交界のサインは、しかし酔った男たちにはあっけなく無視された。

「踊りませんか」
「せっかくの夜会ですから」
 ぞろぞろと取り囲まれてしまう。
「……申し訳ありません、今夜は――」
 飲んだものが本格的に身体に回り出したのか、頭の奥がぼんやりとして、言葉が遅れる。
 逃げなければ、と思うのに、ユフェミアの身体は動かなかった。
「一曲くらい、いいでしょう?」
 いつのまにか檻のように囲まれて、ふらつく身体で抜けられる状況ではなくなっていた。
「あの……私……」
「……本気で拒むならお逃げになればいいのに」
 男の一人が、ユフェミアにだけ聞こえる小声で、なじるように囁く。
「誰かに誘われるのを待っておられたのでは?」
「いえ、そんな……」
 辺りを見回すが、周囲の人々はユフェミアが困っていることに気づいていないらしい。
 囲まれているせいで、ユフェミアが体勢を崩しかけているのが見えないのだろう。

 息が熱い。頬が赤くなっているのが自分でもわかった。
 会場の熱気が身体にそのまま入ってくるような気がした。
「身体の調子が悪いご様子」
「踊れないのなら、奥の控え室で休みましょうか。介抱します」
 その言葉にぞわりと肌が粟立つ。
(嫌……!)
「大丈夫です……っ、少し暑いだけで……」
「当家の控え室に休める場が……」
「ほら、手を添えて運んで差し上げましょう」
 潤んだ視界の中に男たちの顔が歪み、ユフェミアは顔を背けた。
 激しい嫌悪感で、気分の悪さが増していく。
「すみません、私、少し酔っていますから……!」
 流石に少し大きな声で返したユフェミアに、男たちはますますにやついた。
「構いませんよ、寧ろ」

「や、失礼!」

 突然聞こえた明るい声に、ぱん、と檻が破られたようだった。

 見慣れた赤い髪。

 振り返った男たちの向こうに、にこやかながらも一切の隙を見せない笑みを浮かべたカイネがいた。
「恐れ入ります、――お嬢様、火急の用が」
「え?」
「こちらから呼び戻すよう、旦那様より仰せつかっています」
「なんだお前は、無礼な」
「いやぁ、申し訳ございませんね!しかし、主人の命でございまして!」

 明るく大きな声を出したカイネに、周囲の視線が向く。
 何事も起こっていないかのように場の空気を変える声に、周囲の人が悪気のない視線を向けた。
 ざわざわとこちらを見る人々に、男たちは顔を見合わせる。
 そして、舌打ちまじりに身を引いた。

 カイネはすぐ傍まで来ると、ユフェミアに腕を差し出す。
 先程までの明るい調子とは打って変わって、低く真剣な小声で囁いた。
「差し支えなければ、杖代わりに」
「……すみません」
 もはやどうしようもなく、何も取り繕えないままその腕に縋りつく。
 躊躇いはあった。
 年下の男性に、寄りかかるような真似をするなど。
 けれど、――その瞬間、ひどく、ほっとした。
(ああ……もう、大丈夫……)
 伝わる確かな温度と、揺るがない支え。
 たったそれだけで、張り詰めていたものが、静かにほどけていく。
 軽い調子の裏で、カイネは歩幅を合わせ、ユフェミアが体重を預けすぎないよう、けれど離れすぎないよう、絶妙な距離を保ってくれていた。





 回想は、そこで途切れた。
 ユフェミアは窓辺から離れ、ベッドに腰を下ろす。胸に手を当てると、まだ心臓の鼓動が少し早い。

 あの後、カイネはユフェミアの足取りがおかしいことに気づき、何でもないように声をかけ、さりげなく人の流れから外へ連れ出してくれた。
 大仰なことは言わない。詮索もしない。
 ただ、水を持ってきて、風に当たらせてくれた。
 ユフェミアが落ち着くまで、何も言わずに待っていてくれた。
 その距離感があまりに自然で。

(……恥ずかしい姿を見せてしまった)
 それでも、胸の奥に残る温度は、否定できなかった。
 その感覚を言葉にできないまま受け止める。
 カイネの姿が、何度も思い出される。軽い調子で割って入り、深刻さを装わず、けれど確かに自分を守ってくれたあの瞬間。
 差し出された腕に縋ったときの、あの安堵。

 これまでずっと、誰かに頼ったとしてもそれは演技で、それとなく一定の距離を置いていた。
 没落した家の生き残りとして、女である自分が身を守るには、期待を持たず、誰にも心を預けないことが一番安全だったからだ。
 王都で生き延びるための処世術として、それは間違っていなかったはずだ。
 ――それなのに。
(……踏み込まれすぎた)
(……いいえ、踏み込んで欲しいと、思ってしまったのは、私の方……)
 先程のことを思い出すたび、胸の内がざわつく。
 カイネが誰かに優しいのは、今に始まったことではない。
 軽そうに見えて職務には忠実だし、使用人たちとも仲が良く頼られて、旦那様と奥様を大切にする。
 クラリシエール邸の改修を差配していた時も、ユフェミアの意見を尊重してよく働いてくれていた。
 その延長線上に、今日の出来事もあったのだと、理性ではわかっている。

 そして、思い出してしまう。

 ――リヒト卿がイリアに軽々しく手ぇ出してたら、うっかり殺しかねませんし!
 ――え?まあ……そりゃあ大切ではありますよ、幼馴染ですからね。

 あの時の、何でもないような言い方。
 彼にとってイリアが大切な存在だと、照れも誤魔化しもなく、当たり前の事実として口にされた言葉。
(やっぱり、カイネとイリアは……)
 二人は、ユフェミアが辺境伯家に迎えられた時から、とても仲が良さそうだった。
 イリアもカイネを信頼している。同僚、というだけではないくらい心配し、頼りにしていることくらい、傍目にもわかる。
 気兼ねのない、けれど確かに想い合う二人。

 そんな相手がいる男性に、こんな視線を向けるなんて。こんなふうに心を揺らすなんて。
 自分は何をしているのだろう、と、強い自己嫌悪が胸を満たす。
 知られれば不快にさせるだけでは済まないだろう。年上の女からこんな、気持ちが悪いと思われても仕方ない。
 せっかく見つけた居心地の良い職場。こんなことで嫌われたくはなかった。

 ただ、揺れただけだ。
 ほんの一瞬、心が追いつかなかっただけ。
 そう自分に言い聞かせ、胸の奥に芽生えかけた感情を、そっと押し戻そうとした時だった。


 控えめな音が、扉を叩いた。
「夜分にすみません。そのままで結構ですよ」
 明るく、けれど落ち着いた声。聞き慣れたものだった。
「カイネ……?」
「やっぱり起きてらっしゃいましたか。……酔い覚ましの水と薬を持ってきました。必要でしたら、お飲みください」
 間を置いて、少しだけ声が和らぐ。
「扉の前に置いておきます。では」
 名残もなく、足音が遠ざかる。
 それきり廊下は再び静寂に包まれた。

 ユフェミアはしばらく、そのまま動けずにいた。
 胸の内が、妙にざわついている。
 やがて意を決して立ち上がり、そっと掛け金を外して扉を開ける。
 廊下の灯りの下、盆がひとつ置かれていた。透明な水の入ったグラスと、簡素な包み。そして、その端に添えられた小さな紙切れ。
『今日はお互いお疲れ様でした。どうかお大事に』
 それだけの短い言葉が書きつけられていた。
 ユフェミアは思わず、その手紙を手に取る。

 ……これは、酔いのせいだ。
 そうだ、すべて。
「……」
 どうしようもない気持ちのまま、ユフェミアは盆を部屋の机に置くと、静かに寝台に身を横たえた。
 胸の奥に残る温度から目を逸らすように、目を閉じて。
 闇の中で、舞踏会のざわめきと、彼の声だけが、いつまでも耳に残っていた。





 ユフェミアの部屋の前を離れ、カイネは静かな廊下を歩き出した。
 足音を殺して進みながら、胸の奥に、言葉にしづらいざらつきが残っているのを感じる。

 ――余計なことだったか?

 酔い覚ましの水と、短い伝言。
 それだけのはずだった。誰に対してもするように、いつもと同じように気を配っただけだ。
 しかし夜分に女性の部屋の前まで来たという事実が、今になってじわじわと意識に引っかかる。
(ちょっと踏み込みすぎたか)
(上品な方だし……僭越な男だと思われたかもなぁ)
 そう思いながらも、あのまま放っておくという選択肢は、やはり取れなかっただろうとも思う。
 舞踏会の喧騒の中で見たユフェミアの様子が、頭から離れない。

 ――顔色が、今思えば明らかにおかしかった。
 さらりと説明していたが、相当無理に飲まされたのかもしれない。
 頬は染まり、淡い紫の瞳は潤んで、焦点がわずかに揺れていた。
 何より――自分の手を取った瞬間のことを、思い出してしまう。

 杖代わりにと、そう言って差し出しただけの腕に、ユフェミアは一瞬、躊躇ってから縋るように身を寄せてきた。
 その力が、思ったよりも弱く、そして必死だった。
 体温と、驚くほどやわらかな感触。わずかに甘い香り。
 熱っぽい息がかかるほど近づいた時、伏せられた瞳が、妙に色を帯びて見えた。
 濡れた唇が艶めいて……

(……いや、やめろやめろ)

 ぱっぱと顔の前で手を振る。
 完全に失礼だ。相手は体調不良で、偶然そこに来たカイネを頼っただけなのに。これではユフェミアに群がっていた下衆と変わらない……

 それでも、否定しきれない感覚が残る。
 あのときのユフェミアは、普段の落ち着いた気品ある姿とは違って、危うげで――
 守られることを前提にしていない人が、ほんの一瞬だけ身を預けてきたように見えた。
(……ま、今回のことは旦那様の命令に従ったってことでお許し頂くとして……)
(つまりは分不相応な、役得だったんだろう)
 ひとりごちて、苦笑する。


(今度、イリアの奴にでも、適切な距離感かどうかを相談するか……)
 差し入れをしたことも、気遣いというより自己満足だったかもしれない。
 そう考えると、胸の奥が少しだけちくりと痛んだ。
 イリアに相談して、それで「馬鹿ね、わきまえなさい」とばっさり切られたら、なんだか気が楽になりそうだと思った。
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