【本編完結】厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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離れても想いはめぐる蔦の章

55.涙

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「奥様、落ち着いてください。ルヴァリエ鉱山付近、魔獣の捕縛に成功致しました。しかし辺境伯様は、捕縛の最中にアルベルト殿下を庇って魔獣の攻撃を受け、崖下に転落……お怪我を負われて現在は邸にて療治を受ける手筈となっております」
「お怪我……どの程度の」
 声が震える。
 私の隣にイリアが寄り添ってくれた。
 使者は続けた。
「はい、魔獣の攻撃と転落の衝撃で、一時は意識を失っておられました。本当に、発見が遅れれば危うかったかもしれません。医者はこれから、という段階ではありましたが、アルベルト殿下が情報の錯綜を警戒し、いち早く奥様のもとには連絡を、と」
「そう……」

 どくどくと心臓が落ち着かない。
(怪我のこと、もっと詳しく知りたい。どのようなご様子でいるのかしら。きっと痛みも……意識は……)
「奥様」
「イリア……」
「……旦那様は、きっと大丈夫でいらっしゃいます」
 彼女も少し顔が青い。
 けれど、私を励ますように立ってくれていた。
「……ありがとう、イリア。……取り乱してごめんなさい。まずはあなたもゆっくり休んで」
「はっ」
 使者が部屋を出ていく。
 気が抜けたのか、ふらりと身体が崩れかける。
「奥様!」
 支えたイリアが椅子に腰掛けさせてくれる。

 騒ぎに気づいたカイネと、少し遅れてユフェミアも、部屋にやって来た。
 事情を説明するイリアの声を、私はどこか遠くのもののように聞いていた。
 安堵と、不安と、心配と……ないまぜになった感情で、心が落ち着かない。

 しばらく三人が何やら相談して――カイネがこちらを見た。
 私の傍に跪く。
「……奥様。急ぎ、辺境に発つ準備をしましょう」
「え……」
「ご心配でしょう?」
 私を元気づけるように、にっと笑っていた。
「それにね、奥様の顔を見るのが旦那様にとっては一番の薬になるんじゃないか……と、俺は思うわけです」
「カイネ……」
「そうですね」
 ユフェミアにそっと手を取られる。
「でも、王都での仕事が……」
 魔獣が始末できたのならその報告。魔晶石鉱山の正式な再稼働の目処。
 王宮に伝えるのは私からが良いのだろう、と頭では理解していた。
 カイネが大袈裟に肩をすくめた。
「いーえ。その程度は俺でも対応できます。と言うより、させてくださいよ」
「でも……」
 そっと添えられたユフェミアの手の力が強くなる。
「ルーチェ様。魔獣の脅威が排された今、魔晶石の権利を有している私たちの方が立場は上です。真に困っている人々にはもう渡しているのですから、この上ほしがる方々など、こちらが無理をして対応して差し上げる必要はありません。せいぜい待たせておけばいいのです」
 微笑みながら、ユフェミアはしれっとそう口にした。

「……」
「奥様。戻られるのなら、私がお供致します。ジークも回復しましたから、連れていきましょう」
「イリアまで……」
 ……良いのだろうか。
 とてつもない我儘を言っているような気がしたけれど……

「さ、奥様。ご命令を」
 カイネが恭しく、演技めいた仕草で一礼する。
「……ありがとう」

 今は、その心遣いに甘えることにした。





 急ぎ、辺境へ戻ることになった。

 準備は驚くほど早かった。次の日には荷物がまとめられ、その翌日の早朝には、もう私の身体は馬車に揺られていた。
 馬車に乗り込むまでの間、私は何度も同じ動作を繰り返していた。
 指先を握り、ほどき、また握る。自分でも呆れるほど落ち着きがない。
 胸の奥が熱を持ち、呼吸が浅くなる。

 同行するのは、イリアと、護衛としてジーク。
 ジークは御者台の近くに陣取り、周囲に視線を走らせている。
 口数は少ないが、その背中から伝わってくる警戒心は揺るぎない。
 イリアは私の向かいに座り、いつもより少しだけ姿勢を正していた。視線が合うと、何か言おうとして、やめる。
 気遣いなのだとわかっているから、こちらからも何も言えない。

 カイネとユフェミアは王都に残ってもらうことにした。
 北の辺境に戻るのは、私の我儘だ。
 魔晶石の供給調整、価格交渉、貴族と商会の間に流れる情報の整理。
 一通りの交渉は終えたつもりだけれど、二人がいれば何かあっても安心だろう。
 本当は、一緒に来てほしかった。
 それが正直な気持ちだ。特にこの二人には、仕事の面でも精神的な面でも、無意識のうちに甘えている部分がある。
 それでも私は、領主の妻として判断した。

「こちらは任せてください」
 出立前、カイネはいつもと変わらぬ声でそう言い、深く頭を下げた。
「旦那様のお見舞いにうかがえないこと、どうかお許しくださいまし。早い快復を……王都から祈っております」
 ユフェミアも、静かに微笑んで頷いた。

 私が王都を離れることは、しばらく秘しておくことになった。
 わざわざ喧伝することでもありませんし、とカイネは言いつつ、よくよく護衛するようジークに言いつけていた。

 馬車が動き出す。
 白い門が遠ざかり、石畳の音が次第に規則的になっていく。

 私は窓の外へ視線を向けた。王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
 ここにはまだ、やり残したことが山ほどある。けれど今は、それよりも優先すべきものがある。
 イリアが、そっと私の手に触れた。
 何も言わない。ただ、温度だけが伝わってくる。

 大丈夫、と言われている気がした。





 ヴァルト辺境伯領に着いて。
 邸の門が見えた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
 石造りの門。見慣れたはずの城壁。土と鉄の匂い。
 その前に、人だかりができているのが見える。兵士たちが集まり、誰かを囲むように立っていた。

 考えるより先に、視界の中心にその姿が飛び込んできた。
 肩を貸されるように立っているひと。立ち姿は間違えようがない。
(……ダリウス様)
 次の瞬間、自分が何をしていたのか、正直よく覚えていない。
 馬車を降りた記憶も、イリアに呼び止められた声も、すべてが遠くなる。
 ただ、足だけが勝手に前へ出ていた。

 走る、というより、飛び出していた。

「――ダリウス様!」

 悲鳴のように。
 彼がこちらを見た、その一瞬の驚いた表情を最後に、私は勢いのまま胸に飛び込んでいた。
 腕が回される。強く、確かに抱きとめられる。
 鎧越しではない、体温が、はっきりと伝わってくる。

 兵士たちのどよめきが聞こえた気がする。
 誰かが慌てて目を逸らし、誰かが気まずそうに咳払いをする。けれど、そんなことはどうでもよかった。
 私は彼の胸元に額を押しつけ、息を吸った。
 血と薬草と、土埃と――それでも、間違いなく彼の匂い。
「……っ」
 声にならない音が喉から漏れる。
 視界が滲み、熱いものが次々と頬を伝って落ちていく。
 止めようとしても、まったく止まらない。
 心配で、不安で、逢いたくて。離れたくなくて。
 ずっと胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れ出していた。

「……お帰りなさいませ……」

 やっと、それだけを言った。
 本来私が言うべきは、ただいま帰りました、という言葉なのだろうけれど。
 彼の腕が、少しだけ強くなる。

「ああ、ただいま、だ」

 それで十分だった。
 私は彼の胸にしがみついたまま、子供のように泣いた。嗚咽も、体裁も、全部どうでもよかった。

 以前――初めて、ダリウス様の前で泣いてしまった時のことを思い出す。
 不安と安堵が折り重なって。
 自分でもどうにもならなくて。
 心の奥を見せてしまっても、この人なら大丈夫だと思えた、あの時のことを。

 周囲の兵士たちは、誰も何も言わなかった。
 ただ、どこか安堵したような空気が広がっているのを感じる。
 ダリウス様は少し笑っていた。
「ルーチェ……まさかあなたがそう走るとは思わなかったから……俺は、格好をつけて待っていたわけだ。それで少々、衝撃で骨が痛い」
「っ、すみませ、ん……だって……」
 涙で何も見えなくなりながら、私は何度も同じことを心の中で繰り返していた。
 よかった。
 本当によかった。
 それ以上の言葉は、まだ、見つからなかった。

「怪我は、……っ、お怪我は、どのような。落ちたと」
「ああ。……まあ、医者の見立てでは全身打撲で……何ヶ所か骨がやられたらしいな」
「らしい、って。他人事、みたいに」
「内部器官に損傷がなかったから、そうは長引かない。……だから、大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません!……ほんとに、ほんとに」

 ダリウス様はしきりに、受け身に成功しただの、途中で衝撃を和らげられただの、医者は本当に軽傷で驚いていただの、こんな怪我には慣れているしもっと重傷を負ったこともあるだの……色々と私を宥めるように話していたけれど。
 私の涙は全く止まらなかった。

 ――遅れて、ようやく周囲が目に入った。

 兵たちの列、その向こう。少し距離を取って立っていた青年が、静かに一歩前へ出る。
 第一王子アルベルト殿下だった。

 その所作は、どこか慎重で、しかし逃げる気配のないものだった。
 戦場の土埃がまだ靴に残り、旅装のまま。
 それでも背筋は伸び、王族としての立ち位置をはっきりと示している。
 アルベルト殿下は、まずダリウス様に向き直り、深く一礼した。

「ダリウス・ヴァルト辺境伯。貴殿が生きて戻ってくれたこと、そして魔獣を拘束するという判断を下してくれたこと――あらためて、心より感謝する」
 公の場で、明確に、礼として告げられる言葉だった。
 ダリウスが一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頭を下げる。
「アルベルト殿下のお力添えがあったからこそです」
 形式的な応酬のはずなのに、そこに含まれる実感は重かった。

 ダリウス様は私を軽く抱いたまま、静かに告げた。
「ヴァルト辺境伯家は、殿下から受けた恩を忘れはしません。そして……殿下の進まれる道に、敬意と、惜しまぬ支援を捧ぐでしょう」
 アルベルト殿下は頷き、そして、次に視線をこちらへ向けた。

「……夫人」
 呼ばれて、背筋が自然と伸びる。
「貴女の尽力にも、この国の王族として――いや、一人の人間として、礼を言いたい」
 そう言って、アルベルト殿下は私にも一礼した。
「……っ、お、恐れ入ります」
 しゃくりあげそうになって言葉を止める。
 感謝を受け取る資格があるかどうかなど、考えていなかった。
 ただ、必死に動いていたただけ。
 
(……どうしましょう。殿下の前でも、涙が止まらなくて……)
 ぐすぐす言ってみっともない。取り繕えない。
 そう思っていたら、ダリウス様が抱き込むようにして私の顔を隠してくれた。
 ぽんぽんと落ち着かせるように背を撫でて。
「……っ、う」
 そうされたら、また泣けてきていた。
 もはや取り繕っても無駄かもしれないと、私はその胸に縋りついていた。

「……」
 アルベルト殿下は、わずかに息を整えてから、続ける。
「僕は、これから王都へ戻るよ。帰る前に夫人にも直接御礼が言えてよかった」
 そして、一呼吸置いて。
「……亡き父王の服喪期間が、夏の終わりに明ける。その折、王都にて全貴族会議が開かれる」

 その言葉に、場の空気が張りつめる。
「必ず、二人にも出席してほしい。国として、そして王家として、今後を定める場になる」
 それは要請であり、同時に宣言だった。

 ダリウス様は頷いた。
「承知いたしました、殿下。……必ず」
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