「お産の手伝いなど下女の仕事だ」と追放された産婆令嬢、公爵夫人の難産を、誰も取り上げられなかった

Lihito

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命を迎える手

 産声が、聞こえなかった。

 公爵邸の奥の間。産褥さんじょくの部屋は、あるべき声に満ちていなかった。代わりに聞こえるのは、産婦の苦しげな呻き声と、慌てふためく侍女たちの足音。

「逆子だ——誰か、取り上げられる者はいないのか!」

 医師の叫びが廊下にまで響いた。この医師は内科が専門で、お産の経験はほとんどない。宮廷医師の肩書きがあっても、赤子を取り上げたことは片手で数えるほどだ。

 侍女の一人が震える声で言った。

「フィリーネ様がいらっしゃれば——」

「あの女はもういない! 追い出されたんだ!」

 公爵が産褥の間の外で壁を殴った。顔は蒼白で、手が震えている。

 三ヶ月前まで、この家の出産は全てあの女が取り仕切っていた。赤子の位置を手で確かめ、産婦の呼吸を整え、どんな難産でも母子ともに無事に取り上げてきた。二十年間、一度の事故もなく。

 だがその女は——「お産の手伝いなど下女の仕事だ」という一言で、追い出された。



   *



 始まりを思い出すと、いつも母の手の温もりが蘇る。

 わたし——フィリーネ・フォン・ヴァイデンフェルトの最初の記憶は、母の大きな掌が妊婦のお腹にそっと触れる場面だった。薄暗い部屋の中、蝋燭の灯りに照らされた母の横顔は、真剣で、けれどどこまでも穏やかだった。

「フィリーネ、ここに手を当ててごらん」

 母がわたしの小さな手を、妊婦のお腹に導いた。温かかった。お腹の中で、何かが動いた。

「あ——動いた」

「この子は元気な子よ。頭が下にあるから、お産は順調にいくわ」

「どうして触るだけで分かるの?」

「赤ちゃんの形が、手のひらに伝わるの。頭はこう、丸くて硬い。お尻はもう少し柔らかい。背中はなめらかに丸くて、手足がある側はごつごつしている。何百回も触れば、目で見るより正確に分かるようになるわ」

 母はヴァイデンフェルト男爵家に嫁いだ産婆だった。

 王都で最も腕の確かな産婆として、貴族から庶民まで、二十年間で三百を超えるお産を取り上げた。母が産室に入れば、どんなに不安な産婦も呼吸が落ち着いた。「あの方の手が触れると、痛みが和らぐ」と噂されたが、それは魔法ではない。産婦の体に合わせて姿勢を変えさせ、呼吸を導き、赤子の位置を手で少しずつ整える——気の遠くなるような経験と技術の積み重ねだった。

 けれど、それがなぜ安全なお産につながるかを知る者は少なかった。

 貴族たちは「お産は女の仕事」と軽く見ていた。医師が立ち会えば十分で、産婆は湯を沸かして布を用意するだけの存在——そう思われていた。

「お母さまがいなくなったら、赤ちゃんたちはどうなるの?」

 幼い頃、母に訊いたことがある。

「さあ、どうなるかしら。でもね、フィリーネ——お産というのは、うまくいって当たり前だと思われているの。無事に生まれたら『良かった良かった』で終わり。産婆が何をしたかなんて、誰も覚えていない。だから、覚えられないのが一番の成功よ」

「覚えられないのに?」

「ええ。良いお産は何事もなく終わるの。赤ちゃんが泣いて、お母さんが笑って、みんなが喜んで。何事もなかったことが、一番難しいのよ」

 母が倒れたのは、五年前のことだ。

 遺されたのは産婆の手引書と、使い込まれた革の診察鞄。そして、わたしのこの手。

 母譲りの、大きくて温かい掌。お腹に触れるだけで赤子の位置と状態を感じ取れる感覚。母はそれを「命を迎える手」と呼んだ。

 三年前からわたしが母の仕事を引き継ぎ、王都の貴族家に出入りする産婆となった。



   *



 産婆の仕事は、お産の日だけではない。

 妊娠がわかった日から始まり、産後の肥立ちが落ち着くまで続く。十ヶ月以上の長い付き合いだ。

 まず、月に一度の触診。お腹に手を当てて、赤子の育ち具合を確かめる。大きさ、位置、動き。母体の状態——むくみがないか、顔色はどうか、食事は摂れているか。

 産婦ごとに記録をつけている。手帳には、担当する十数名の産婦の名前と、月ごとの経過が細かく書き込んである。

 赤い印は、経過に注意が必要な産婦。高齢、初産、過去に難産の経験がある者。

 青い印は、順調な産婦。けれど「順調」でも油断はできない。お産は最後の最後まで何が起こるか分からない。

 黄色の印は、出産間近。いつ呼ばれてもいいように、産褥に必要な道具を揃えて待機する。

 記録はそれだけではない。産婦の体質、家族の病歴、過去のお産の経過。食べ物の好み。眠れているかどうか。夫との関係が安定しているか——これも大事だ。心労が重なると、お産に響く。

 産後の手当ても、わたしの仕事だ。産褥の布を毎日替え、産婦の体を温かい薬湯で拭き、乳の出が悪ければ胸を温めてほぐす。赤子の臍の緒の消毒。黄疸が出ていないか、呼吸が浅くないか、体重が減りすぎていないか。母も子も、産後一月は最も危うい時期だ。

 そして何より大切なのは、産婦との信頼関係だ。お産は恐い。特に初めての産婦は、陣痛の激しさに恐怖を覚える。その恐怖が体を強張らせ、お産を長引かせ、母子ともに危険にさらす。

 だからわたしは、妊娠初期から何度も通って顔を合わせ、お腹に触れ、不安を聞き、呼吸の仕方を教える。お産の日に初めて会う医師よりも、十ヶ月間ずっとそばにいた産婆の声の方が、産婦の体は安心する。

 この手間を、誰も知らなかった。

「フィリーネ、また出かけるのか」

 支度をしていると、ルートヴィヒが不機嫌な顔で声をかけてきた。

 わたしの婚約者——宮廷医師ルートヴィヒ・フォン・ゲルストナー。医師の家系に生まれ、宮廷医師の地位を若くして得た秀才。内科の知識は確かだが、お産に関しては教科書で読んだことしか知らない。

「クライン男爵夫人の触診に参ります。来月がご出産の予定ですので——」

「触診など医師の仕事だ。産婆風情が出しゃばるな」

「赤子の位置を確認するのは、手の感覚が——」

「科学的な方法で確認すればいい。手で触って分かるなどと、まやかしだ」

 わたしは何も言わなかった。

 ルートヴィヒの言う「科学的な方法」では、赤子の微妙な位置のずれは分からない。頭が下を向いているか、横を向いているか、臍の緒が首に巻いていないか——それを感じ取れるのは、何百回もお腹に触れてきた手だけだ。

 けれど、ルートヴィヒにとっては——産婆は医師の下働きにすぎなかった。



   *



 婚約破棄は、宮廷の茶会で告げられた。

 貴婦人たちが集う華やかな席で。

「フィリーネ。婚約を破棄する」

 ルートヴィヒは紅茶のカップを置いて、涼しい顔で言った。周囲の貴婦人たちが息を呑んだ。

「……理由を伺っても、よろしいですか」

「お産の手伝いなど下女の仕事だ。宮廷医師の妻がそのようなことをしていては、体面が保てん」

 ルートヴィヒの目は冷たかった。明晰な頭脳の持ち主だが、その明晰さは自分の世界の中だけで完結している。

「医学は進歩している。産婆のまやかしなど、もう時代遅れだ」

 わたしは立ち上がって、一礼した。

「何か、持っていくものは」

「母の手引書と、診察鞄だけ」

 去り際に、わたしは一度だけ振り返った。

「ルートヴィヒ様。ひとつだけ——グロスマン公爵夫人のご出産が来月に控えています。逆子の兆候がありますので、今のうちに——」

「逆子なら帝王切開で対処する。医学の仕事だ」

「切開は母体への負担が非常に大きく、事前に位置を矯正できれば——」

「もういい。医師に任せろ」

 それが、わたしたちの最後の会話だった。

 逆子を矯正する技術は、教科書には載っていない。何百回もお腹に触れてきた手だけが知っている、微妙な圧と角度の技。それを「まやかし」と切り捨てたこの人には——伝わらなかった。



   *



 王都を出る日、わたしは担当していた産婦たちに挨拶回りをした。

 一人ひとりのお腹に最後に触れて、経過を確認した。記録の引き継ぎ書を、後任の産婆——まだ見つかっていなかったが——のために書き残した。

「フィリーネ様、本当に行ってしまわれるのですか」

 臨月のクライン男爵夫人が、わたしの手を握って涙ぐんだ。

「大丈夫です。お体は順調ですし、赤ちゃんも元気に動いています。きっと安産ですわ」

「でも、フィリーネ様にお産を取り上げていただけると思って、ずっと安心していたのに……」

 胸が詰まった。けれど、笑顔を見せた。産婦を不安にさせるわけにはいかない。

「どなたが取り上げても、この子は元気に生まれますわ。わたしが太鼓判を押します」

 夫人の手を、そっと握り返した。十ヶ月間、毎月触れてきた手だ。もう触れることはないだろう。

 革鞄ひとつ。母の手引書と、診察鞄。鞄の中には、へその緒を切る鋏、清潔な布、産褥用の薬草。母から受け継いだ道具一式。

 前を向いた。



   *



 リンデの町に着いたのは、王都を出てから馬車で五日後のことだった。

 山あいの、緑の深い小さな町。農家が多く、子供も多い。けれど産婆がいない。一番近い産婆は、隣町まで馬で半日。急なお産には間に合わないことも多いという。

「フィリーネ・フォン・ヴァイデンフェルト様ですね」

 出迎えてくれたのは、カール・リンデンベルクという男だった。

 町の診療所を一人で切り盛りしている医師。三十前。都会の医学院を出た後、故郷のこの町に戻ったという。

 温かい茶色の目。大きな手。白衣の袖をまくった腕には、農作業を手伝った時の日焼けが残っている。穏やかな笑顔が印象的だったが、その笑顔の奥に疲れが見えた。

「産婆に来ていただけるとは——正直、信じられないくらいです」

「そんなにお困りだったのですか」

「ここ数年で三件、お産の時に間に合わなくて……。どれも無事ではあったんですが、僕一人では限界で。お産の介助は、内科の知識だけではどうにもならない」

 その言葉に、わたしの胸が震えた。

 ルートヴィヒは「医師に任せろ」と言った。この人は「医師だけではどうにもならない」と認めている。

「診療所を見せていただけますか」

「はい。ただ……かなり狭くて」

 案内された診療所は、石造りの小さな建物だった。診察室と薬棚と、簡素な寝台が二つ。産褥用の設備は——何もなかった。

「お産は、今までどこで?」

「産婦の自宅です。呼ばれたら駆けつけますが、僕にできるのは……正直、そばにいることくらいで」

 カールが申し訳なさそうに頭を掻いた。

「教科書は読みました。でも、教科書通りにいかない時に何をすればいいか、分からないんです」

 わたしは革鞄を開いて、中の道具を見せた。

「お産は、教科書通りにいかないのが普通です。だからこそ、経験と手の感覚が必要なんです」

「手の感覚……」

「お腹に触れるだけで、赤子の位置と大きさ、母体の状態が分かります。何百回も触れてきた手が、覚えているんです」

 カールの目が、大きくなった。

「……それは、僕がどれだけ本を読んでも身につかない技術ですね」

「ええ。でも、あなたの医学の知識はわたしにはないものです。一緒にやれば——」

「最強ですね」

 カールが笑った。子供のように無邪気な笑顔だった。疲れが消えて、目がきらきらしている。

 わたしも、つられて笑った。

 ——この人と一緒なら、この町のお産を守れる。直感的に、そう思った。

 診療所の隣に、小さな空き部屋を整えてもらった。産褥室として使うためだ。寝台を入れ、清潔な布を何枚も用意し、薬草の棚を作った。母の鞄の中身を棚に並べると、殺風景だった部屋に産室の空気が生まれた。

「ここなら——安心してお産ができます」

 カールが部屋を見て、静かに頷いた。

「僕がここに来てから三年間、ずっと欲しかった場所だ」

「カール先生がこの町を守ってきたからこそ、わたしの仕事ができるんです」

「お互い様ですよ」

 お互い様。その言葉が、静かに胸に落ちた。



   *



 リンデの町での最初のお産は、着いてから二週間後だった。

 農家の若い妻。初産。陣痛が始まってから、カールと一緒に駆けつけた。

 産婦の手を握り、呼吸を整えさせる。お腹に手を当てて、赤子の位置を確認する。

「大丈夫。赤ちゃんは元気よ。頭がちゃんと下を向いている。あなたの体も、ちゃんと準備ができているわ」

「痛い……怖い……」

「怖くないわ。わたしがここにいるから。息を——そう、ゆっくり、長く吐いて」

 カールが隣で、産婦の体温と脈拍を確認している。医師の知識と産婆の手が、役割を分担して一つのお産を支える。

 ——出産は、三時間で終わった。

 元気な泣き声が、小さな家に響いた。

「生まれた——」

 カールの声が震えていた。目が赤い。

「カール先生、泣いているんですか」

「泣いてない。……泣いてない」

「泣いてますよ」

「だって——僕がここに来てから、初めてなんです。最初から最後まで、安心してお産を見届けられたのは」

 産婦が赤子を胸に抱いて、疲れた顔で笑っている。夫が妻の手を握って、ぼろぼろ泣いている。

 わたしは清潔な布で赤子の体を拭きながら、静かに微笑んだ。

 ——この瞬間のために、わたしはこの手を持って生まれたのだ。

 産婦がわたしの手を取った。

「ありがとうございます。あなたの手が温かくて……怖くなかった」

 その言葉が、胸の奥に落ちた。王都では一度も聞けなかった言葉だ。

 「お産の手伝いなど下女の仕事」——そう言われた手が、今、命を迎えている。



   *



 町での評判はすぐに広がった。

 二ヶ月で、町内と近隣の村から合わせて七件のお産を取り上げた。全て母子ともに無事。うち二件は臍の緒が首に巻きついていたが、お腹の上から手で赤子の位置を調整して、無事に自然分娩に導いた。

 カールが診療所の記録を見せてくれた。

「フィリーネさんが来る前の三年間で、お産の合併症が四件。来てからはゼロです」

「それは、カール先生の医学的なサポートがあるからですわ」

「いや、僕は産婦の脈を測っていただけです。赤子を回したのも、産婦の恐怖を和らげたのも、全部あなたの手だ」

 カールがまっすぐな目でわたしを見た。この人の目には、嘘がない。

「あなたの手は——命を迎えるためにある手だ」

 母と同じことを言う人がいた。

 母は「命を迎える手」と呼んだ。カールもまた、同じ言葉で——。

「……ありがとうございます」

「こちらこそ。あなたが来てくれて、僕は——」

 カールが言いかけて、口をつぐんだ。何か言おうとして、やめて、代わりに窓の外を見た。耳が少し赤い。

「僕は——この町で医師を続けていく自信が持てました。一人じゃなくなったので」

 一人じゃなくなった。

 その言葉の温度が、わたしの胸に長く残った。

 ある晩、往診の帰り道。夜空に星が溢れていた。王都では見えなかった、小さな星まで全部見える。

「きれい……」

「ああ。この町の唯一の自慢です」

 カールが隣を歩いている。往診の鞄を持ってくれている。わたしの鞄は重い。母の道具が全部入っているから。

「重いでしょう。自分で持ちますわ」

「いいんです。……あなたの手は、明日もお産があるかもしれないから。疲れさせたくない」

 そう言って、カールはわたしの手をちらりと見た。大きな、母譲りの手。

「いい手ですよね。温かくて、安心する手だ」

 暗くてよかった。顔が赤くなっているのが、見えないから。

「……お世辞が上手ですね、カール先生」

「お世辞じゃないです。本気で——」

 カールが急に黙って、早歩きになった。わたしも少し歩調を速めた。二人の間に、星明かりだけが揺れていた。



   *



 王都の異変が届いたのは、わたしが去ってから三ヶ月後のことだった。

 グロスマン公爵夫人のお産が、難産になった。

 逆子だった。わたしが最後に警告した通りの。

 宮廷医師ルートヴィヒが立ち会ったが、逆子の矯正技術は持っていなかった。「帝王切開で対処する」と宣言したが——切開には高い技術と経験が必要で、ルートヴィヒは外科医ではない。

 結果、切開は行われたが手際が悪く、出血が多量だった。赤子は取り上げられたが、公爵夫人は産後の肥立ちが悪く、長く床に伏せることになった。

 次の知らせはさらに重かった。

「王都で——ルートヴィヒ殿が、複数の貴族家から出入り禁止を言い渡されたそうです。グロスマン公爵夫人の件で、『あの医師にお産を任せるのは危険だ』と」

 カールが眉をひそめた。

「逆子の矯正ができていれば、切開する必要すらなかったんですよね」

「はい。お腹の上から手で少しずつ赤子を回す技術です。熟練した産婆なら、八割以上の確率で矯正できます。母は失敗したことがありませんでした」

「その技術を持つ産婆を追い出して、自分でやろうとした結果が——これですか」

「……ええ」

 わたしは窓の外を見た。リンデの町の、穏やかな景色。山の向こうに、王都がある。

「フィリーネさん。あなたのせいでは——」

「わかっています」

 わかっている。追い出したのはあちらだ。「下女の仕事」と蔑み、「まやかし」と切り捨て、「医師に任せろ」と言ったのはあちらだ。

 けれど——お産で苦しんだ公爵夫人は、何も悪くない。お腹の中の赤子も。ただ、適切な手がそばになかっただけだ。



   *



 そして——ルートヴィヒが来た。

 わたしが去ってから四ヶ月後の昼下がり。診療所の前に、王都の紋章入りの馬車が止まった。

 ルートヴィヒ・フォン・ゲルストナー。

 相変わらず身なりは整っていたが、目の下に隈があった。王都での評判が落ちて、眠れない夜が続いているのだろう。

「フィリーネ」

「お久しぶりです、ルートヴィヒ様」

「戻れ。王都の産婦たちが——」

「お断りいたします」

 わたしの声は静かだった。

「ふざけるな。公爵夫人が——」

「公爵夫人の逆子について、わたしは最後にお伝えしました。事前に矯正すれば帝王切開は避けられると。それを『まやかし』と仰ったのは、ルートヴィヒ様です」

「あれは——状況が——」

「わたしの手を『まやかし』と呼び、お産を『下女の仕事』と蔑み、二十年間の技術を——『時代遅れ』と」

 ルートヴィヒが唇を引き結んだ。

「今はそんなことを——」

「ええ。今はそんなことを言っている場合ではありませんわね。ですからこそ申し上げます」

 わたしはルートヴィヒの目を見た。

「わたしが取り上げたお産で、母子に事故が起きたことは何度ありますか」

「……ゼロだ」

「それは、医学だけの成果ですか」

 ルートヴィヒは答えなかった。

 背後で、診療所の扉が開いた。

 カールが出てきた。白衣のまま。穏やかな表情だったが、ルートヴィヒの前に立った時——その目には、患者を守る医師の静かな覚悟があった。

「失礼ですが——ルートヴィヒ・フォン・ゲルストナー殿ですか」

「誰だ」

「リンデの町で診療所をやっている、カール・リンデンベルクです。医学院の後輩にあたります」

 カールは一礼した。礼儀正しく、けれど——退かない姿勢だった。

「フィリーネさんがこの町に来てから、お産の合併症はゼロです。七件のお産を全て、母子ともに無事に取り上げています。うち二件は臍の緒の巻絡で、通常なら緊急切開の適応でした。それを手技だけで解決した」

「素人の手技に頼るなど——」

「素人? 二十年間、三百件以上のお産を事故なく取り上げた技術が、素人ですか」

 カールの声が、僅かに硬くなった。

「先輩。僕は教科書で学びました。けれど、教科書に載っていない技術がある。お腹の上から赤子を回す手技は、何百回もの経験でしか身につかない。それを『まやかし』と呼んだのは——医学への冒涜ではなく、お産への無知です」

 後輩から「無知」と言われたルートヴィヒの顔が、紙のように白くなった。



   *



 わたしは診療所に戻り、用意しておいた包みを取り出した。

 産褥用の薬草と、逆子矯正の手技を図解した文書。母の手引書から、最低限必要な知識を抜き出したもの。

「これを、お持ちください」

「……これは」

「逆子の矯正手順を、図にまとめたものです。熟練の産婆でなくても、これを見れば基本的な手順は分かります。それと、産褥用の薬草の使い方も添えてあります」

 ルートヴィヒが文書に目を通した。医師の目で、内容の正確さを確認している。——認めたくないが、これが必要だと分かっている顔だった。

「これだけで、全てのお産に対処できるのか」

「いいえ。これは最低限の知識です。本当に必要なのは、経験を積んだ産婆の手です。王都にも腕のいい産婆はいるはず。探してください」

 手紙を一通、添えた。

『命は嘘をつきません。誰の手で迎えられたか、母と子の体が覚えています。

 この文書は、王都のお産を守るために書いたものです。あなたのためではありません。

 わたしは、わたしの手を必要としてくれる場所にいます』

 ルートヴィヒの手が震えた。

「……すまなかった」

「お気持ちだけ、頂戴いたします」

 馬車が去っていくのを、診療所の前で見送った。カールが隣にいた。

「よかったんですか」

「はい。後悔はありません」

「……公爵夫人のことも、心配しているんでしょう」

「赤ちゃんは無事でしたから。夫人も、きっと回復されますわ」

 カールが、そっとわたしの手に触れた。大きな、温かい手。医師の手。

「あなたの手は、ここにあるべきです」

 わたしは——その手を、握り返した。

「……ありがとう。カール先生」

「カールでいいです」

「では——カール」

 名前を呼んだら、カールの耳が真っ赤になった。この人は本当に、隠し事ができない。



   *



 後日談。

 グロスマン公爵夫人の件は、王宮で問題になった。産後の経過が長引き、公爵家が正式に苦情を申し立てたのだ。

 調査の結果、ルートヴィヒが前任の産婆から事前に逆子の警告を受けていたにも関わらず、「医師に任せろ」と取り合わなかった事実が明るみに出た。警告を無視した上での不適切な処置として、宮廷医師の資格が半年間停止された。

 事実上の追放だった。宮廷医師の資格停止は、復帰したとしても信用が戻らないことを意味する。貴族家の多くが担当医の変更を申し出て、ルートヴィヒの患者は激減した。

 あの茶会で婚約破棄を見ていた貴婦人たちの間で、「お産を下女の仕事と呼んだ医師」という評判が広まった。貴婦人たちにとって、お産は命がけの大事だ。それを軽んじた医師に、我が身を任せようとは誰も思わなかった。

 わたしは——それを聞いても、何も思わなかった。ルートヴィヒへの怒りも、ましてや同情も。ただ、もう関係のない人だった。

 ただ一つだけ、心に残ったことがある。わたしがかつて担当していた産婦たちの間で、「あの産婆様を追い出した医師」という評判が広まったという話だ。産婦たちにとって、十ヶ月間寄り添ってくれた産婆は命の恩人だ。その恩人を「下女」と呼んだ医師に、我が子の命を預けたいと思う母親はいなかった。

 あの若い洗い女——いや、若い侍女。わたしの触診を見守ってくれていた侍女が、産婦たちの声を宮廷に伝えたのだという。小さな声だが、母の声は強い。



   *



 リンデの町の診療所で、今日もお産の準備をしている。

 来週、農家の奥さんが出産予定だ。三人目。経過は順調。赤ちゃんも元気に動いている。

「フィリーネさん、来週の件ですが」

 カールが白衣のポケットから手帳を取り出す。往診の予定を確認している。

「万が一に備えて、僕も待機しておきますね」

「三人目ですし、たぶん安産ですわ。でも——ありがとうございます。いてくださると安心します」

「いてほしいなら、いつでもいます」

 カールが少し照れたように目を逸らした。「医師として」と付け足そうとして、やめたのが分かった。

 最近、カールの「医師として」が減ってきている。代わりに、ただ「僕は」と言うことが増えた。わたしも気づいている。気づいていて、嬉しいと思っている自分にも、気づいている。

 先日、夜中にお産で呼ばれた帰り道でのことだった。無事に取り上げた赤子の泣き声がまだ耳に残っている中、カールが松明を持って迎えに来てくれていた。

「待っていてくださったんですか。朝まで寝ていてくださって良かったのに」

「一人で夜道を歩かせるわけにいかないでしょう」

「産婆は夜道に慣れていますわ」

「僕が慣れていないんです。あなたが夜出かけて、帰ってこない間、落ち着かなくて」

 その言葉の意味に気づいて、二人とも黙った。夜道に虫の声だけが響いていた。

 カールが先に口を開いた。

「……医師としてじゃなく。ただの——カールとして。心配だったんです」

 わたしは松明の明かりの中で、カールの顔を見た。耳が赤い。けれど目は逸らさなかった。

「……ありがとう、カール」

 名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど柔らかかった。

 診療所の窓辺に、小さな花が飾ってある。先日お産を取り上げた家から、お礼にいただいた野の花だ。

「フィリーネさん」

「はい」

「この町に来てくれて——本当に、よかったです」

「わたしも。ここに来られて、よかったです」

 窓から差し込む午後の光が、診療所を温かく照らしている。

 母の革鞄が、椅子の上で静かに光を受けている。何百回ものお産を支えてきた道具が詰まった鞄。これからも、命を迎え続ける鞄。

 ——命は嘘をつきません。誰の手で迎えられたか、母と子の体が覚えています。

 わたしはもう、命を軽んじる人のそばにはいない。

 この手で、この町で、わたしを必要としてくれる人のために——命を迎え続ける。

 診療所の窓辺の花が、午後の風に揺れている。

 リンデの町は、今日も穏やかだった。


【完】


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お読みいただきありがとうございます!

「異世界ファンタジー短編集(完結版)」にて、本作のようなジャンル近めの一話完結短編をまとめています。

本作も一定期間後にそちらへ収録予定ですので、作者ページからぜひお気に入り登録しておいてください!
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