海千山千の金貸しババア、弱小伯爵令嬢に生まれ変わる。~皇帝陛下をひざまずかせるまで止まらない成り上がりストーリー~

河内まもる

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 冷たい雨が彼女の身体を濡らしていた。

 こういった書き出しであれば、読者はたいてい、主人公が野外にたたずんでいる場面を想像する。

 しかし残念ながら、この物語の主人公である老婆がいまいる場所は、ひとり住まいの彼女の部屋だ。

 雨漏りがひどいのだ。

 老婆が20年来暮らしているこのアパートは、窓が割れ、壁が朽ち、畳はぶよぶよに歪んで、屋根が腐り果て、もはや住まいの用をしていない。

 老婆はそこで痩せた身体を猫のように丸めて、ひゅうひゅうと寝息を立てていた。

 ボロぎれをまとった彼女の肌は、火みたいに熱い。肺炎を起こしているのだ。

 それでも老婆は病院にかかることさえできない。理由はもちろん、金がないからだった。

 哀れに思うだろうか?

 だがこの状況もすべて、老婆の自業自得なのだ。


 老婆はかつて、『しらみ』とあだ名された高利貸しだった。
 目の飛び出るような高利の金を、その日の暮らしにも困る人々に貸し与え、ひと月も経たないうちから苛烈に取り立てた。

 たくさんの手下を使って、夜討ち朝駆け、債務者に取り立てという名の嫌がらせを繰り返した。
 ドアに督促状と中傷のビラを貼らせ、玄関先には腐った卵を投げつけた。

 なおも金を返さぬ無能な債務者は、潰れかけた町工場に送りこみ、事故を偽装して腕や足を潰し、多額の保険金を詐取した。
 それでも足りなければ債務者の女房に身体を売らせた。
 あげく、泣く子は「黙れ」とばかりに容赦なく蹴り飛ばした。

 老婆(当時は五十代だったが)の指図で、いくつもの家庭が崩壊した。
 四肢をなくした父親。夜ごと厚化粧をして夜の街に働きに出てゆく母親。子どもは乞食こじきの真似事をして腹を満たす。
 そんな家庭がいくつも生まれた。


 それでも老婆の心は痛まなかった。とうの昔に、そんな甘い感傷は捨て去っていた。
 あるいは麻痺していたのかもしれない。

 金貸しになる以前、かつて老婆は街娼だった。夫を戦争で亡くし、二人の子どもをかかえて、老婆(当時は二十代だ)は夜の街角に立っていた。
 子どもにひもじい思いをさせたくなかった。ただ生き抜くことに必死だった。

 自分の夫を殺したはずの進駐軍相手に身体を売り、どんな無様なマネでもした。
 老婆の夫は国のために戦ったはずだが、同じ国の人々は遺された彼女のことをパンパンガールと呼んでさげすんだ。

 同胞からのあざけりを耳にするとき、老婆は、進駐軍に身体を任せる以上に、魂を犯された気がした。

 夫の死。
 飢えに泣く子どもたち。
 同胞からも国家からも打ち捨てられた己。

 事実、誰も老婆に手を差し伸べなかったし、誰も彼女の献身を讃えることがなかった。


 だとしたらなぜ老婆だけが、国家や社会に対して、無償の忠誠を誓わなければならないのだろうか。
 自分だけが清く正しく生きなければならない理由が、もはや老婆には見つからなかった。

 少しずつ、老婆の中で何かが壊れはじめていた。
 やがて身体を売る年齢でもなくなったとき、老婆は街娼たちの元締めになっていた。
 そこから先は真っ逆さまだった。

 汚い仕事ほど金が儲かる。人を傷つけるほど生活が豊かになった。
 老婆が四十代半ばで金貸しをはじめると、彼女はしだいに汚らわしい『しらみ』と呼ばれるようになった。

 そんな老婆の心を、唯一支えていたのがふたりの子どもだった。家の外では酷薄な仮面をかぶり、家に帰ると優しい母親になった。
 娘は短大まで、息子は大学院まで行かせた。
 自慢の子どもたちだった。

 だが年齢を重ねるごとに、子どもたちは老婆を嫌悪するようになった。
 無理もない。子どもたちはなにをせずとも、どれほど努力しても、「あれがしらみの子どもだ」と蔑まれていたのだから。
 母親に向けられた憎悪や嫌悪が、そっくり同じように子どもたちにも向けられていたのだから。

 そして子どもたちは家を出て行った。独立などというめでたい話ではない。老婆は捨てられたのだ。
 連絡先さえ知らされず、愛する子どもたちはこつ然と家から消えてしまった。

 悲嘆に暮れる間もなく、老婆の商売は暗礁あんしょうに乗り上げた。法律が改正され、取締りが強化されて、非合法の金貸し業はたちゆかなくなった。
 『しらみ』の名はいつしか裏社会から消えていった。


 そしていま。

 朽ちかけたボロアパートである。3日間降り続いた雨があがり、さらに2日の時が経ったいま。
 老婆は虫の息だったが、それでもなお生きていた。
 この生命力があればこそ、裏社会にその名を轟かせてきたのだ。

 薄暗がりの中、老婆は這うようにゆっくりと立ち上がった。ちゃぶ台の上の財布を手に取ると、中身を勘定する。
 七十円。スーパーマーケットに行けば、なにか食べ物にありつけるだろう。

 ふらつく足どりで老婆は玄関を出た。浮浪者同然の格好だった。重い身体を引きずって、夕暮れの道を歩く。

 ふと、老婆の視界に若い女の姿が入ってきた。

 二十代だろうか、スーツを身にまとい、家路を急いでいる。そういえば、老婆の娘が家を出ていったのは、あのくらいの年齢のときだったかもしれない。だからこそ、その女性は老婆の目にとまったのかもしれなかった。

 もうろうとした意識の中で、老婆がなにを思ったかは知れない。しばしその場に立ち止まり、すれ違うまでその女性を見送った。

 すぐそばに横断歩道があった。歩行者信号が青になり、女性は歩道を渡ろうとした。そこに…

 止まれるはずのないスピードで、トラックが走ってくる。若い女性に向って。女性はスマートフォンを手にし、トラックには気づいていなかった。

「あぶない!」

 という老婆の声は、しかし音にならなかった。肺炎を患った彼女の喉は、3日も前にかれていた。
 だから。

 老婆は若い女性に向って突進した。トラックと女性が衝突するよりもわずかに早く、老婆は女性を突き飛ばした。無我夢中だった。

 しばらく経って。

 命を救われた女性の悲鳴が街路にこだました。自分の代わりに老婆が死んだこと、その光景が恐ろしかったのだろう。

 そう、ひと目で死んでいるとわかるくらい、老婆の身体はひどいありさまだった。

 救いようのない人生を歩んだ90歳の老婆は、救われようのない死に様でその生涯に幕を下ろした。

 そのかたわらには、老婆が救った女性の荷物だろう、1枚のコンシューマゲームのパッケージが転がっていた。


 あるいはここに、そのゲームのタイトルを記すことは、そぐわないことかもしれない。

 だが記さないわけにはいかないのである。

 なぜならば老婆は、そのゲームの世界に、主人公の少女として転生することになるのだから。

 本来ならば交通事故で亡くなるはずだった若い女性こそが、じつは乙女ゲームの主人公として転生する予定だったのだが、その平凡なシナリオは、老婆の最期の善行でぶちこわしになってしまった。

 かくして海千山千の因業ババアは、乙女ゲームの主人公として生まれ変わることとなる。

 この日発売されたばかりのその乙女ゲームのタイトルを『ビューティプリンス・ヴァイデンライヒ恋歌』という。
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