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31 光
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汚らわしいったらありゃしない。エリーゼが皇太子妃だって?とんでもない話さ。
考えてもみなよ、いまいる皇太子妃が廃妃になって、その座にエリーゼがおさまったら━━エリーゼは宮廷で敵だらけになっちまう。皇太子妃の親族がだまってないだろうからね。
皇太子にしたところで、いまの皇太子妃とエリーゼを見比べるに決まってる。それでエリーゼに惚れてくれりゃまだしもだが、前の妻に想いを寄せたまんまエリーゼと夫婦になったりしたら、エリーゼは針のむしろだよ。ヴィルヘルムのやつ、とんでもない提案をもちこみやがって。
…だけど━━エリーゼの手を引っぱってお座敷を出たあと、アタシは少し思い直した。
エリーゼはどっちなんだろう。
恋に生きる女か、地位や権力にひかれる人間か。なにも色恋ばかりが女の生きる道ってわけじゃないさね。エリーゼはドロドロした宮廷の権力争いを勝ち抜いて、いずれ皇妃になる道を選びたかったのかもしれない。
だからエリーゼに与えた『鎌倉』の私室で彼女に向き合ったとき、アタシは訊いた。
「エリーゼは━━皇太子妃になりたかったかい?」
するとエリーゼは目をぱちくりさせた。そして少し寂しげな表情になった。
「…それが私にとっての平穏なら」
「平穏、とは程遠いだろうねえ。エリーゼが皇太子妃になったら、たぶん何度か毒殺されかけると思うよ」
「でしたら、よしますわ」
平穏という言葉に、違和感をおぼえる。なんだろうね、その言葉を口にしたときのアンニュイなエリーゼが、美しくもあり、哀しくも見えた。
訝る気持ちがアタシの顔に出たのかもしれない。エリーゼが語り始める。
「まえに話したことがあるでしょう?私、もう少しでラングハイム公の妻になっていたかもしれませんの。ラングハイム公は50を過ぎたおじさまで、おまけに6人も妻がいて、たぶん平民の妾もたくさん。そんな男性のところに嫁ぐことになった私の気持ちがおわかりになる?」
「まあ酷い話さ」
もうひとつつけ加えると、ラングハイム公はサディストで、妻をいたぶって楽しむ男だった。アタシが再起不能にしてやらなかったら、エリーゼもやつの犠牲になっていたわけさ。我ながらよくやったもんだよ。
エリーゼは両手をもじもじさせて、うつむき加減に語る。
「ですから私はディートハルトさまとの婚約に固執しましたの。平穏な人生を送るために━━少なくともディートハルトさまは、不誠実な男性ではないと知っていましたから」
「…あんた、ディートハルトに惚れてたわけじゃ」
「好きでもなんでもございませんわ。彼、美男子だから、幼かったころは自慢に思っていたけれど。…私、ひどい女かしら」
「とんでもない。ただ、アタシに言わせりゃ、いくらディートハルトが美男子でも、エリーゼの美しさに釣り合うアクセサリーじゃなかったと思うけどね」
アクセサリーという言葉に反応してエリーゼが噴き出した。笑いながら、エリーゼはさっぱりと言う。
「ですから、婚約破棄は自業自得なのです。ディートハルトさまは私の気持ちを見抜いていたみたいですから。あのまま彼と結婚して、ケヴィンさまとの仲を邪魔していたら、それこそ彼に申し訳なかったですわ」
ああ、よかった。エリーゼが落ち込んでいたらと思うと、気が気じゃなかったんだよ。どうやらエリーゼは、進路の問題として、婚約者を失ったことに不安だっただけみたいだ。だとしたらその不安はアタシの力で解決できる。
「ヴィルヘルムの前でも宣言したけどね、エリーゼ、あんたの縁談はアタシが預かったんだ。悪いようにはしないよ。男でも女でも、老人でも子どもでも、好きなのとくっつけてやるよ」
言ったとたん、エリーゼがふたたび目をぱちくりさせた。
「女でも…?」
「あ、いや、そういうこともあるだろ?ほら、ディートハルトはケヴィンとくっついたんだしさ。もちろんエリーゼは異性に魅力を感じるんだろうけど…」
アタシが言っても、エリーゼはうわの空だった。なんだかブツブツ言っている。「えっ、そういうのもアリですの」とか「いやでも、ハンナがそうだとは限らないし」とかずっとひとりでつぶやき続けてる。
「アタシがなんだって?」
「そこが問題なのですわ。社会的な問題はなくなっても、ハンナがそうでなくちゃ、結局…」
「結局、なんだってんだい?」
「ふわっ、ハンナ!」
ようやくエリーゼがアタシに気づいた。驚く顔まで美しい━━アタシは見惚れていた。エリーゼはアタシに何もかもを忘れさせてくれる。この娘と会っているときだけは、アタシから一切の背景が消える。闇の黒幕としての立場も、忌まわしい前世も。
少なくともこれまではそうだった。もしかしたら、これからも━━。
「そうよ、そうだわ。だったら━━すぅ、はぁ…、すぅ、はぁ…」
突然エリーゼが深呼吸をした。そして。
「ハンナ、こ、今夜から一緒に、わ、私と一緒の部屋で、休みましょう!」
「なんだって!」
エリーゼのとんでもない提案で━━頭の片隅から染み出してきた黒いヘドロが吹き飛んだ。そうさ、このまま忘れてしまえばいい。エリーゼと一緒なら、それができる。なにもかもをなかったことにできるかもしれない。
エリーゼはアタシの光だ。彼女がアタシのなにもかもを、白く消し去ってくれる。祈るような気持ちで、アタシはエリーゼの提案を受け入れた。
考えてもみなよ、いまいる皇太子妃が廃妃になって、その座にエリーゼがおさまったら━━エリーゼは宮廷で敵だらけになっちまう。皇太子妃の親族がだまってないだろうからね。
皇太子にしたところで、いまの皇太子妃とエリーゼを見比べるに決まってる。それでエリーゼに惚れてくれりゃまだしもだが、前の妻に想いを寄せたまんまエリーゼと夫婦になったりしたら、エリーゼは針のむしろだよ。ヴィルヘルムのやつ、とんでもない提案をもちこみやがって。
…だけど━━エリーゼの手を引っぱってお座敷を出たあと、アタシは少し思い直した。
エリーゼはどっちなんだろう。
恋に生きる女か、地位や権力にひかれる人間か。なにも色恋ばかりが女の生きる道ってわけじゃないさね。エリーゼはドロドロした宮廷の権力争いを勝ち抜いて、いずれ皇妃になる道を選びたかったのかもしれない。
だからエリーゼに与えた『鎌倉』の私室で彼女に向き合ったとき、アタシは訊いた。
「エリーゼは━━皇太子妃になりたかったかい?」
するとエリーゼは目をぱちくりさせた。そして少し寂しげな表情になった。
「…それが私にとっての平穏なら」
「平穏、とは程遠いだろうねえ。エリーゼが皇太子妃になったら、たぶん何度か毒殺されかけると思うよ」
「でしたら、よしますわ」
平穏という言葉に、違和感をおぼえる。なんだろうね、その言葉を口にしたときのアンニュイなエリーゼが、美しくもあり、哀しくも見えた。
訝る気持ちがアタシの顔に出たのかもしれない。エリーゼが語り始める。
「まえに話したことがあるでしょう?私、もう少しでラングハイム公の妻になっていたかもしれませんの。ラングハイム公は50を過ぎたおじさまで、おまけに6人も妻がいて、たぶん平民の妾もたくさん。そんな男性のところに嫁ぐことになった私の気持ちがおわかりになる?」
「まあ酷い話さ」
もうひとつつけ加えると、ラングハイム公はサディストで、妻をいたぶって楽しむ男だった。アタシが再起不能にしてやらなかったら、エリーゼもやつの犠牲になっていたわけさ。我ながらよくやったもんだよ。
エリーゼは両手をもじもじさせて、うつむき加減に語る。
「ですから私はディートハルトさまとの婚約に固執しましたの。平穏な人生を送るために━━少なくともディートハルトさまは、不誠実な男性ではないと知っていましたから」
「…あんた、ディートハルトに惚れてたわけじゃ」
「好きでもなんでもございませんわ。彼、美男子だから、幼かったころは自慢に思っていたけれど。…私、ひどい女かしら」
「とんでもない。ただ、アタシに言わせりゃ、いくらディートハルトが美男子でも、エリーゼの美しさに釣り合うアクセサリーじゃなかったと思うけどね」
アクセサリーという言葉に反応してエリーゼが噴き出した。笑いながら、エリーゼはさっぱりと言う。
「ですから、婚約破棄は自業自得なのです。ディートハルトさまは私の気持ちを見抜いていたみたいですから。あのまま彼と結婚して、ケヴィンさまとの仲を邪魔していたら、それこそ彼に申し訳なかったですわ」
ああ、よかった。エリーゼが落ち込んでいたらと思うと、気が気じゃなかったんだよ。どうやらエリーゼは、進路の問題として、婚約者を失ったことに不安だっただけみたいだ。だとしたらその不安はアタシの力で解決できる。
「ヴィルヘルムの前でも宣言したけどね、エリーゼ、あんたの縁談はアタシが預かったんだ。悪いようにはしないよ。男でも女でも、老人でも子どもでも、好きなのとくっつけてやるよ」
言ったとたん、エリーゼがふたたび目をぱちくりさせた。
「女でも…?」
「あ、いや、そういうこともあるだろ?ほら、ディートハルトはケヴィンとくっついたんだしさ。もちろんエリーゼは異性に魅力を感じるんだろうけど…」
アタシが言っても、エリーゼはうわの空だった。なんだかブツブツ言っている。「えっ、そういうのもアリですの」とか「いやでも、ハンナがそうだとは限らないし」とかずっとひとりでつぶやき続けてる。
「アタシがなんだって?」
「そこが問題なのですわ。社会的な問題はなくなっても、ハンナがそうでなくちゃ、結局…」
「結局、なんだってんだい?」
「ふわっ、ハンナ!」
ようやくエリーゼがアタシに気づいた。驚く顔まで美しい━━アタシは見惚れていた。エリーゼはアタシに何もかもを忘れさせてくれる。この娘と会っているときだけは、アタシから一切の背景が消える。闇の黒幕としての立場も、忌まわしい前世も。
少なくともこれまではそうだった。もしかしたら、これからも━━。
「そうよ、そうだわ。だったら━━すぅ、はぁ…、すぅ、はぁ…」
突然エリーゼが深呼吸をした。そして。
「ハンナ、こ、今夜から一緒に、わ、私と一緒の部屋で、休みましょう!」
「なんだって!」
エリーゼのとんでもない提案で━━頭の片隅から染み出してきた黒いヘドロが吹き飛んだ。そうさ、このまま忘れてしまえばいい。エリーゼと一緒なら、それができる。なにもかもをなかったことにできるかもしれない。
エリーゼはアタシの光だ。彼女がアタシのなにもかもを、白く消し去ってくれる。祈るような気持ちで、アタシはエリーゼの提案を受け入れた。
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