35 / 49
34 報い
しおりを挟む
闇の中で自分の足元だけが、やけにくっきりと浮かんで見えた。アタシが踏みしめているのは人間の身体だ。肩甲骨は翼のように飛びだしていた。アバラの本数が数えられるくらい、その女は痩せていた。皮膚が漆喰のように白いのは、女がすでに死んでいるからだろう。
ああ、あの夢だ。
理解すると少しずつ闇が薄らいでいく。アタシは死体の山のうえに立っている。アタシが殺した人間さ。どいつもこいつも、見覚えがある。かつてのアタシの債務者たちの顔さね。いまアタシが踏んでいる女は、最初に殺した女だ。
この女には、3万円という金を貸していたんだよ。まだアタシが街娼の元締めをやっていたときのことさ。当時の3万円っていったら、そこそこの金額だったね。女は子どもを病院へやるために、その金が必要だと言った。まだ甘いところが残っていたアタシは、同情半分に金を貸した。
3日後、女は子どもを置き去りにして、男と逃げた。
アタシは金で雇ったチンピラを使って、安宿で男と寝ていた女を捕まえた。3万円はすでになかった。聞けば男が博打でスッたんだという。アタシはなんだか可笑しくなって、笑いながら女の髪をつかみ、身体で返せと告げた。
ヒロポンを打って客を取らせると、そこそこ稼いでくれたねえ。3万円以上は充分稼いだけれど、アタシは女を許さなかった。許すわけにはいかなかった。夜の世界では、甘さをみせたらお仕舞だ。女を許したら、今度はアタシが骨までしゃぶられる羽目になる。
最後には骨と皮だけになって、女は死んだ。薄汚い路地裏に転がって、痩せこけた女は唄を歌っていた。たぶん故郷の子守唄さ。最期に薄っすらと微笑んで息絶えた女の顔が、足元からアタシをのぞきこんでいる。
ああ━━どうしてこれを忘れられるだなんて思ったんだろう。
そのとき死んでいたはずの女がにわかに動いた。棒切れみたいな手が、アタシの足をつかむ。アタシは短く悲鳴をあげて、女の手を払おうとする。
「死人のくせに未練がましく、すがるんじゃないよっ」
女の顔が醜く歪み、奈落の闇みたいな眼でアタシをじっと見つめた。
「あたしの幸せを返して」
女は言う。
「たった3万円ぽっちの金のために、あたしは、あんたに何もかも奪われたんだ」
「その3万円ぽっちを、作れなかったあんたが悪いんじゃないか!」
女が気味の悪い笑みを浮かべた。
「それがすべての始まりさ。あんたはいちども許すということをしなかった。弱い者から奪えるだけ奪った。家族のためだ?笑わせるんじゃないよ。あんたに奪われた弱い者にも、家族がいることを考えなかったのかい」
「弱いから悪いのさ!あれはそういう時代だった。強い者しか生き残れない世界だった。誰も━━誰もアタシに救いの手をさしのべちゃくれなかったじゃないか。救われるために、誰かから奪うことのなにが悪い!」
「だったら今度は、あんたが奪われる番だ」
女が言うと、足元の死体の山から、シュウシュウと声をあげて何十何百の蛇が這い出てくる。怖気をふるうようなムカデどもがアタシの足から腰へ、腰から胸へとのぼってくる。アタシは亡者たちに足を掴まれて、身動きすらままならない。
「離せっ、このっ」
「あばずれのパン助だよ」
背後から声がして振り返ると、あの男が立っていた。下卑た笑みを浮かべて、アタシの腕をつかみ、着ていた服を引きちぎる。そして男は、アタシを背後から乱暴した。
「いやだっ、はなせっ」
身をよじるアタシの首を、男の手がつかむ。
「ほら、見るがいい」
男に言われてはっと気づく。軍服を着た、出征するときの姿の良人が、蔑むような目で、手籠めにされるアタシを見ていた。
「あんた、み、見ないでおくれよ。どうか後生だから…」
「あばずれめ」
良人が言う。それもそのはずさ。いつの間にか、アタシに乱暴する背後の男の姿が、米兵に変わっていた。アタシは良人を殺した国の軍人に股をひらいているんだから。アタシはみっともないパン助なんだから。
「許しておくれよ、だって、子どもがひもじいと泣くんだ。誰も助けてくれないんだよォ」
良人に許しを請うアタシを、足元の亡者たちがゲタゲタと笑う。さぞ楽しいだろう。さぞ面白いだろう。金貸しのしらみが泣いて許しを請うているんだから。それでもアタシは、亡者たちに詫びるしかない。
「アタシが悪かった。なにもかもアタシが悪かったよっ、だからどうか、許しておくれよっ」
けれども亡者たちは笑うばかりだ。米兵がアタシの尻を叩き、屈辱的な言葉を浴びせかける。
そんな時間が、何時間、何十時間も続く。夢の世界には果てがないのさ。アタシはずっと生き地獄を味わい続ける。
「もう殺しとくれ、アタシを殺しとくれよォ」
すすりなくアタシを米兵が笑う。亡者が笑う。良人が蔑む。これはアタシに与えられた罰だ。奪い続け、傷つけ続け、殺し続けてきたアタシへの━━正当な報いなのさ。
アタシはずっとこうして、踏みにじられ続けるべきだったんだ。しらみと呼ばれた鬼畜が、許されて良いはずがないのだから。いまさら救われようだなんて、虫が良いにもほどがある。
アタシはなにもかも失くしたあのときに、死んでいるべきだったんだから。
ああ、あの夢だ。
理解すると少しずつ闇が薄らいでいく。アタシは死体の山のうえに立っている。アタシが殺した人間さ。どいつもこいつも、見覚えがある。かつてのアタシの債務者たちの顔さね。いまアタシが踏んでいる女は、最初に殺した女だ。
この女には、3万円という金を貸していたんだよ。まだアタシが街娼の元締めをやっていたときのことさ。当時の3万円っていったら、そこそこの金額だったね。女は子どもを病院へやるために、その金が必要だと言った。まだ甘いところが残っていたアタシは、同情半分に金を貸した。
3日後、女は子どもを置き去りにして、男と逃げた。
アタシは金で雇ったチンピラを使って、安宿で男と寝ていた女を捕まえた。3万円はすでになかった。聞けば男が博打でスッたんだという。アタシはなんだか可笑しくなって、笑いながら女の髪をつかみ、身体で返せと告げた。
ヒロポンを打って客を取らせると、そこそこ稼いでくれたねえ。3万円以上は充分稼いだけれど、アタシは女を許さなかった。許すわけにはいかなかった。夜の世界では、甘さをみせたらお仕舞だ。女を許したら、今度はアタシが骨までしゃぶられる羽目になる。
最後には骨と皮だけになって、女は死んだ。薄汚い路地裏に転がって、痩せこけた女は唄を歌っていた。たぶん故郷の子守唄さ。最期に薄っすらと微笑んで息絶えた女の顔が、足元からアタシをのぞきこんでいる。
ああ━━どうしてこれを忘れられるだなんて思ったんだろう。
そのとき死んでいたはずの女がにわかに動いた。棒切れみたいな手が、アタシの足をつかむ。アタシは短く悲鳴をあげて、女の手を払おうとする。
「死人のくせに未練がましく、すがるんじゃないよっ」
女の顔が醜く歪み、奈落の闇みたいな眼でアタシをじっと見つめた。
「あたしの幸せを返して」
女は言う。
「たった3万円ぽっちの金のために、あたしは、あんたに何もかも奪われたんだ」
「その3万円ぽっちを、作れなかったあんたが悪いんじゃないか!」
女が気味の悪い笑みを浮かべた。
「それがすべての始まりさ。あんたはいちども許すということをしなかった。弱い者から奪えるだけ奪った。家族のためだ?笑わせるんじゃないよ。あんたに奪われた弱い者にも、家族がいることを考えなかったのかい」
「弱いから悪いのさ!あれはそういう時代だった。強い者しか生き残れない世界だった。誰も━━誰もアタシに救いの手をさしのべちゃくれなかったじゃないか。救われるために、誰かから奪うことのなにが悪い!」
「だったら今度は、あんたが奪われる番だ」
女が言うと、足元の死体の山から、シュウシュウと声をあげて何十何百の蛇が這い出てくる。怖気をふるうようなムカデどもがアタシの足から腰へ、腰から胸へとのぼってくる。アタシは亡者たちに足を掴まれて、身動きすらままならない。
「離せっ、このっ」
「あばずれのパン助だよ」
背後から声がして振り返ると、あの男が立っていた。下卑た笑みを浮かべて、アタシの腕をつかみ、着ていた服を引きちぎる。そして男は、アタシを背後から乱暴した。
「いやだっ、はなせっ」
身をよじるアタシの首を、男の手がつかむ。
「ほら、見るがいい」
男に言われてはっと気づく。軍服を着た、出征するときの姿の良人が、蔑むような目で、手籠めにされるアタシを見ていた。
「あんた、み、見ないでおくれよ。どうか後生だから…」
「あばずれめ」
良人が言う。それもそのはずさ。いつの間にか、アタシに乱暴する背後の男の姿が、米兵に変わっていた。アタシは良人を殺した国の軍人に股をひらいているんだから。アタシはみっともないパン助なんだから。
「許しておくれよ、だって、子どもがひもじいと泣くんだ。誰も助けてくれないんだよォ」
良人に許しを請うアタシを、足元の亡者たちがゲタゲタと笑う。さぞ楽しいだろう。さぞ面白いだろう。金貸しのしらみが泣いて許しを請うているんだから。それでもアタシは、亡者たちに詫びるしかない。
「アタシが悪かった。なにもかもアタシが悪かったよっ、だからどうか、許しておくれよっ」
けれども亡者たちは笑うばかりだ。米兵がアタシの尻を叩き、屈辱的な言葉を浴びせかける。
そんな時間が、何時間、何十時間も続く。夢の世界には果てがないのさ。アタシはずっと生き地獄を味わい続ける。
「もう殺しとくれ、アタシを殺しとくれよォ」
すすりなくアタシを米兵が笑う。亡者が笑う。良人が蔑む。これはアタシに与えられた罰だ。奪い続け、傷つけ続け、殺し続けてきたアタシへの━━正当な報いなのさ。
アタシはずっとこうして、踏みにじられ続けるべきだったんだ。しらみと呼ばれた鬼畜が、許されて良いはずがないのだから。いまさら救われようだなんて、虫が良いにもほどがある。
アタシはなにもかも失くしたあのときに、死んでいるべきだったんだから。
0
あなたにおすすめの小説
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
図書館でうたた寝してたらいつの間にか王子と結婚することになりました
鳥花風星
恋愛
限られた人間しか入ることのできない王立図書館中枢部で司書として働く公爵令嬢ベル・シュパルツがお気に入りの場所で昼寝をしていると、目の前に見知らぬ男性がいた。
素性のわからないその男性は、たびたびベルの元を訪れてベルとたわいもない話をしていく。本を貸したりお茶を飲んだり、ありきたりな日々を何度か共に過ごしていたとある日、その男性から期間限定の婚約者になってほしいと懇願される。
とりあえず婚約を受けてはみたものの、その相手は実はこの国の第二王子、アーロンだった。
「俺は欲しいと思ったら何としてでも絶対に手に入れる人間なんだ」
「わざわざ始まるまでまたないで、今のうちに手を打ったってよくない?」
イチイ アキラ
恋愛
アスター公爵令嬢エステルは、夢をみる。それは先を映す夢。
ある日、夢をみた。
この国の未来を。
それをアルフレッド王太子に相談する。彼女を愛して止まない婚約者に。
彼は言う。
愛する君とぼくの国のためなら、未来を変えるのも仕方なくない?
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
冷遇妃ライフを満喫するはずが、皇帝陛下の溺愛ルートに捕まりました!?
由香
恋愛
冷遇妃として後宮の片隅で静かに暮らすはずだった翠鈴。
皇帝に呼ばれない日々は、むしろ自由で快適——そう思っていたのに。
ある夜、突然現れた皇帝に顎を掴まれ、深く口づけられる。
「誰が、お前を愛していないと言った」
守るための“冷遇”だったと明かされ、逃げ道を塞がれ、甘く囲われ、何度も唇を奪われて——。
これは冷遇妃のはずだった少女が、気づけば皇帝の唯一へと捕獲されてしまう甘く濃密な溺愛物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる