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34 報い
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闇の中で自分の足元だけが、やけにくっきりと浮かんで見えた。アタシが踏みしめているのは人間の身体だ。肩甲骨は翼のように飛びだしていた。アバラの本数が数えられるくらい、その女は痩せていた。皮膚が漆喰のように白いのは、女がすでに死んでいるからだろう。
ああ、あの夢だ。
理解すると少しずつ闇が薄らいでいく。アタシは死体の山のうえに立っている。アタシが殺した人間さ。どいつもこいつも、見覚えがある。かつてのアタシの債務者たちの顔さね。いまアタシが踏んでいる女は、最初に殺した女だ。
この女には、3万円という金を貸していたんだよ。まだアタシが街娼の元締めをやっていたときのことさ。当時の3万円っていったら、そこそこの金額だったね。女は子どもを病院へやるために、その金が必要だと言った。まだ甘いところが残っていたアタシは、同情半分に金を貸した。
3日後、女は子どもを置き去りにして、男と逃げた。
アタシは金で雇ったチンピラを使って、安宿で男と寝ていた女を捕まえた。3万円はすでになかった。聞けば男が博打でスッたんだという。アタシはなんだか可笑しくなって、笑いながら女の髪をつかみ、身体で返せと告げた。
ヒロポンを打って客を取らせると、そこそこ稼いでくれたねえ。3万円以上は充分稼いだけれど、アタシは女を許さなかった。許すわけにはいかなかった。夜の世界では、甘さをみせたらお仕舞だ。女を許したら、今度はアタシが骨までしゃぶられる羽目になる。
最後には骨と皮だけになって、女は死んだ。薄汚い路地裏に転がって、痩せこけた女は唄を歌っていた。たぶん故郷の子守唄さ。最期に薄っすらと微笑んで息絶えた女の顔が、足元からアタシをのぞきこんでいる。
ああ━━どうしてこれを忘れられるだなんて思ったんだろう。
そのとき死んでいたはずの女がにわかに動いた。棒切れみたいな手が、アタシの足をつかむ。アタシは短く悲鳴をあげて、女の手を払おうとする。
「死人のくせに未練がましく、すがるんじゃないよっ」
女の顔が醜く歪み、奈落の闇みたいな眼でアタシをじっと見つめた。
「あたしの幸せを返して」
女は言う。
「たった3万円ぽっちの金のために、あたしは、あんたに何もかも奪われたんだ」
「その3万円ぽっちを、作れなかったあんたが悪いんじゃないか!」
女が気味の悪い笑みを浮かべた。
「それがすべての始まりさ。あんたはいちども許すということをしなかった。弱い者から奪えるだけ奪った。家族のためだ?笑わせるんじゃないよ。あんたに奪われた弱い者にも、家族がいることを考えなかったのかい」
「弱いから悪いのさ!あれはそういう時代だった。強い者しか生き残れない世界だった。誰も━━誰もアタシに救いの手をさしのべちゃくれなかったじゃないか。救われるために、誰かから奪うことのなにが悪い!」
「だったら今度は、あんたが奪われる番だ」
女が言うと、足元の死体の山から、シュウシュウと声をあげて何十何百の蛇が這い出てくる。怖気をふるうようなムカデどもがアタシの足から腰へ、腰から胸へとのぼってくる。アタシは亡者たちに足を掴まれて、身動きすらままならない。
「離せっ、このっ」
「あばずれのパン助だよ」
背後から声がして振り返ると、あの男が立っていた。下卑た笑みを浮かべて、アタシの腕をつかみ、着ていた服を引きちぎる。そして男は、アタシを背後から乱暴した。
「いやだっ、はなせっ」
身をよじるアタシの首を、男の手がつかむ。
「ほら、見るがいい」
男に言われてはっと気づく。軍服を着た、出征するときの姿の良人が、蔑むような目で、手籠めにされるアタシを見ていた。
「あんた、み、見ないでおくれよ。どうか後生だから…」
「あばずれめ」
良人が言う。それもそのはずさ。いつの間にか、アタシに乱暴する背後の男の姿が、米兵に変わっていた。アタシは良人を殺した国の軍人に股をひらいているんだから。アタシはみっともないパン助なんだから。
「許しておくれよ、だって、子どもがひもじいと泣くんだ。誰も助けてくれないんだよォ」
良人に許しを請うアタシを、足元の亡者たちがゲタゲタと笑う。さぞ楽しいだろう。さぞ面白いだろう。金貸しのしらみが泣いて許しを請うているんだから。それでもアタシは、亡者たちに詫びるしかない。
「アタシが悪かった。なにもかもアタシが悪かったよっ、だからどうか、許しておくれよっ」
けれども亡者たちは笑うばかりだ。米兵がアタシの尻を叩き、屈辱的な言葉を浴びせかける。
そんな時間が、何時間、何十時間も続く。夢の世界には果てがないのさ。アタシはずっと生き地獄を味わい続ける。
「もう殺しとくれ、アタシを殺しとくれよォ」
すすりなくアタシを米兵が笑う。亡者が笑う。良人が蔑む。これはアタシに与えられた罰だ。奪い続け、傷つけ続け、殺し続けてきたアタシへの━━正当な報いなのさ。
アタシはずっとこうして、踏みにじられ続けるべきだったんだ。しらみと呼ばれた鬼畜が、許されて良いはずがないのだから。いまさら救われようだなんて、虫が良いにもほどがある。
アタシはなにもかも失くしたあのときに、死んでいるべきだったんだから。
ああ、あの夢だ。
理解すると少しずつ闇が薄らいでいく。アタシは死体の山のうえに立っている。アタシが殺した人間さ。どいつもこいつも、見覚えがある。かつてのアタシの債務者たちの顔さね。いまアタシが踏んでいる女は、最初に殺した女だ。
この女には、3万円という金を貸していたんだよ。まだアタシが街娼の元締めをやっていたときのことさ。当時の3万円っていったら、そこそこの金額だったね。女は子どもを病院へやるために、その金が必要だと言った。まだ甘いところが残っていたアタシは、同情半分に金を貸した。
3日後、女は子どもを置き去りにして、男と逃げた。
アタシは金で雇ったチンピラを使って、安宿で男と寝ていた女を捕まえた。3万円はすでになかった。聞けば男が博打でスッたんだという。アタシはなんだか可笑しくなって、笑いながら女の髪をつかみ、身体で返せと告げた。
ヒロポンを打って客を取らせると、そこそこ稼いでくれたねえ。3万円以上は充分稼いだけれど、アタシは女を許さなかった。許すわけにはいかなかった。夜の世界では、甘さをみせたらお仕舞だ。女を許したら、今度はアタシが骨までしゃぶられる羽目になる。
最後には骨と皮だけになって、女は死んだ。薄汚い路地裏に転がって、痩せこけた女は唄を歌っていた。たぶん故郷の子守唄さ。最期に薄っすらと微笑んで息絶えた女の顔が、足元からアタシをのぞきこんでいる。
ああ━━どうしてこれを忘れられるだなんて思ったんだろう。
そのとき死んでいたはずの女がにわかに動いた。棒切れみたいな手が、アタシの足をつかむ。アタシは短く悲鳴をあげて、女の手を払おうとする。
「死人のくせに未練がましく、すがるんじゃないよっ」
女の顔が醜く歪み、奈落の闇みたいな眼でアタシをじっと見つめた。
「あたしの幸せを返して」
女は言う。
「たった3万円ぽっちの金のために、あたしは、あんたに何もかも奪われたんだ」
「その3万円ぽっちを、作れなかったあんたが悪いんじゃないか!」
女が気味の悪い笑みを浮かべた。
「それがすべての始まりさ。あんたはいちども許すということをしなかった。弱い者から奪えるだけ奪った。家族のためだ?笑わせるんじゃないよ。あんたに奪われた弱い者にも、家族がいることを考えなかったのかい」
「弱いから悪いのさ!あれはそういう時代だった。強い者しか生き残れない世界だった。誰も━━誰もアタシに救いの手をさしのべちゃくれなかったじゃないか。救われるために、誰かから奪うことのなにが悪い!」
「だったら今度は、あんたが奪われる番だ」
女が言うと、足元の死体の山から、シュウシュウと声をあげて何十何百の蛇が這い出てくる。怖気をふるうようなムカデどもがアタシの足から腰へ、腰から胸へとのぼってくる。アタシは亡者たちに足を掴まれて、身動きすらままならない。
「離せっ、このっ」
「あばずれのパン助だよ」
背後から声がして振り返ると、あの男が立っていた。下卑た笑みを浮かべて、アタシの腕をつかみ、着ていた服を引きちぎる。そして男は、アタシを背後から乱暴した。
「いやだっ、はなせっ」
身をよじるアタシの首を、男の手がつかむ。
「ほら、見るがいい」
男に言われてはっと気づく。軍服を着た、出征するときの姿の良人が、蔑むような目で、手籠めにされるアタシを見ていた。
「あんた、み、見ないでおくれよ。どうか後生だから…」
「あばずれめ」
良人が言う。それもそのはずさ。いつの間にか、アタシに乱暴する背後の男の姿が、米兵に変わっていた。アタシは良人を殺した国の軍人に股をひらいているんだから。アタシはみっともないパン助なんだから。
「許しておくれよ、だって、子どもがひもじいと泣くんだ。誰も助けてくれないんだよォ」
良人に許しを請うアタシを、足元の亡者たちがゲタゲタと笑う。さぞ楽しいだろう。さぞ面白いだろう。金貸しのしらみが泣いて許しを請うているんだから。それでもアタシは、亡者たちに詫びるしかない。
「アタシが悪かった。なにもかもアタシが悪かったよっ、だからどうか、許しておくれよっ」
けれども亡者たちは笑うばかりだ。米兵がアタシの尻を叩き、屈辱的な言葉を浴びせかける。
そんな時間が、何時間、何十時間も続く。夢の世界には果てがないのさ。アタシはずっと生き地獄を味わい続ける。
「もう殺しとくれ、アタシを殺しとくれよォ」
すすりなくアタシを米兵が笑う。亡者が笑う。良人が蔑む。これはアタシに与えられた罰だ。奪い続け、傷つけ続け、殺し続けてきたアタシへの━━正当な報いなのさ。
アタシはずっとこうして、踏みにじられ続けるべきだったんだ。しらみと呼ばれた鬼畜が、許されて良いはずがないのだから。いまさら救われようだなんて、虫が良いにもほどがある。
アタシはなにもかも失くしたあのときに、死んでいるべきだったんだから。
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