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35 罪人
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気遣わしげなエリーゼの視線を振り払い、アタシはふらつく足取りで屋敷を彷徨った。やがて執務室に行き着くと、座布団にどかりと座って闇を見つめる。
何ヶ月ぶりだろう、あの夢を見たのは。死ぬことを決めたときから、嘘のように悪夢を見ることはなくなっていたというのに。
数ヶ月前━━パーティーの席で、ラングハイム公に殺されるように仕組んだアタシの企みは、結局失敗した。ラングハイム公を追いつめすぎたんだ。あの男はアタシと相対して発狂してしまった。その夜、アタシは兄であるコンラートとひとつ約束をしたのさ。
学園に通う3年間は、死を考えず生きるということ。コンラートはその3年で、アタシが変わることを願っていた。死を望むアタシの気持ちが変化することを。アタシを変えてくれる運命の人が現れることを。
だけどね、そんな夢のような話はないのさ。アタシはやっぱり、死んで地獄に落ちるべき人間なんだ。だけど恩人であるコンラートには逆らえない。たった3年、アタシは辛抱することにした。
学園にいる間、アタシはどんなときも死を願っていた。3年経ったら死ねる。それだけを考えて過ごしていた。
ところがいつしかアタシは、気づかないうちに自分の罪を忘れていた。死を考えることもなくなった。理由はわかるだろ、エリーゼのことで頭がいっぱいだったのさ。
それがなぜだかわからなかったけれど━━今夜、アタシはその理由を理解してしまった。アタシはエリーゼに恋をしていたんだ。ずいぶん遅い初恋さ。
エリーゼが身体にふれてきたとき、電流を流されたような、でも甘い痺れがアタシを狂わせた。エリーゼにされるがまま、アタシは快楽をむさぼった。あれほどの幸せがこの世にあるだなんて、思いもしなかったよ。
愛する人に触れられること。想いを通わせること。互いに互いの存在を求め合うこと。それはどんな美食より行楽より、アタシの心を満たした。
だから━━アタシは思い出した。
アタシはおぞましい罪人で、幸せになる権利なんざ、これっぽっちもありゃしないってことを。
あのエリーゼが。この世の誰よりも美しいあの娘が。こんなアタシを好いてくれたんだ。だけどそれはしらみと呼ばれたアタシが受け取っていいものじゃない。アタシが幸せになっていいわけがない。
文机の引き出しから短刀を取り出して、アタシは考えた。コンラートとの約束を破ることになるかもしれないけれど、アタシはこれ以上、たえられそうにない。ただ。
いまここでアタシが死ねば、エリーゼは責任を感じるだろう。それだけは避けなければならない。あの娘の幸せは、叶えてやらなければ。
「御前さま━━よもや良くないことをお考えではありますまいな」
闇の中から声が聞こえる。フリッツだ。
「御前さまは、我ら裏影のことを考えてくださらぬ」
「なにを言い出すんだい」
「この私めが、御前さま亡き後、のうのうと生きていられると思し召されますか」
「殉死するっていうのかい」
「当然でございましょう」
「ほお、あんたも偉くなったモンだねえ。己の命をたてにして、主人を脅そうってのかい。差し出口をたたくな!」
けれどフリッツは引き下がらなかった。
「いいや、聞けませぬ。いかな御前さまのおおせとはいえ、聞くわけにはまいりませぬ。どうかその短刀をおおさめくださいますよう」
ふん、面倒なやつの忠義を受けてしまったもんさ。アタシはしぶしぶ、短刀を引き出しにしまった。それでようやくフリッツの気配が消えたが、これは考えなくちゃならないことだよ。3年のうちに裏影を遠ざけなくちゃ、おちおち死ぬこともできやしない。
そしてなによりエリーゼだ。
結局のところ、アタシがやるべきことは変わらない。エリーゼのために縁談を━━いや、あの娘が同性愛者だというのなら、結婚は無理としても、パートナーを見つけてやらなければならない。
そして少しでもはやくアタシのことを忘れるように、エリーゼをアタシから遠ざけなくちゃ。
胸が痛かった。心が叫び声をあげていた。いまならその理由がわかる。アタシは想いあった愛しい人と、別れなければならない。まるで身体をふたつに引き裂かれるような気持ちだ。涙が次から次に溢れてきて、止まってくれそうにない。
「エリーゼ、エリーゼっ」
暗闇に向かってその名を呼ぶ。最初で最後の恋人の名を。決して手の届かない、清らかな花の名を。アタシはどぶ泥の中から呼び続ける。
だけどその呼びかけに応えるものはない。ただ静かに、夏の夜の静寂が広がるだけだ。
そして━━激しい痛みと引きかえに、闇の中からアタシを呪う、亡者たちの声は遠ざかった。彼らが言っている━━それでいいのだと。おまえが幸せになることは許さないと。おまえには不幸がお似合いだと。ずっとずっとその場所で、苦しみ続けることがおまえに与えられた罰だと。
地の底からおぞましい声が響いている。
痛みを知るために、アタシは異世界に転生した。この世界はアタシのために用意された、暗く淀んだ牢獄だった。
何ヶ月ぶりだろう、あの夢を見たのは。死ぬことを決めたときから、嘘のように悪夢を見ることはなくなっていたというのに。
数ヶ月前━━パーティーの席で、ラングハイム公に殺されるように仕組んだアタシの企みは、結局失敗した。ラングハイム公を追いつめすぎたんだ。あの男はアタシと相対して発狂してしまった。その夜、アタシは兄であるコンラートとひとつ約束をしたのさ。
学園に通う3年間は、死を考えず生きるということ。コンラートはその3年で、アタシが変わることを願っていた。死を望むアタシの気持ちが変化することを。アタシを変えてくれる運命の人が現れることを。
だけどね、そんな夢のような話はないのさ。アタシはやっぱり、死んで地獄に落ちるべき人間なんだ。だけど恩人であるコンラートには逆らえない。たった3年、アタシは辛抱することにした。
学園にいる間、アタシはどんなときも死を願っていた。3年経ったら死ねる。それだけを考えて過ごしていた。
ところがいつしかアタシは、気づかないうちに自分の罪を忘れていた。死を考えることもなくなった。理由はわかるだろ、エリーゼのことで頭がいっぱいだったのさ。
それがなぜだかわからなかったけれど━━今夜、アタシはその理由を理解してしまった。アタシはエリーゼに恋をしていたんだ。ずいぶん遅い初恋さ。
エリーゼが身体にふれてきたとき、電流を流されたような、でも甘い痺れがアタシを狂わせた。エリーゼにされるがまま、アタシは快楽をむさぼった。あれほどの幸せがこの世にあるだなんて、思いもしなかったよ。
愛する人に触れられること。想いを通わせること。互いに互いの存在を求め合うこと。それはどんな美食より行楽より、アタシの心を満たした。
だから━━アタシは思い出した。
アタシはおぞましい罪人で、幸せになる権利なんざ、これっぽっちもありゃしないってことを。
あのエリーゼが。この世の誰よりも美しいあの娘が。こんなアタシを好いてくれたんだ。だけどそれはしらみと呼ばれたアタシが受け取っていいものじゃない。アタシが幸せになっていいわけがない。
文机の引き出しから短刀を取り出して、アタシは考えた。コンラートとの約束を破ることになるかもしれないけれど、アタシはこれ以上、たえられそうにない。ただ。
いまここでアタシが死ねば、エリーゼは責任を感じるだろう。それだけは避けなければならない。あの娘の幸せは、叶えてやらなければ。
「御前さま━━よもや良くないことをお考えではありますまいな」
闇の中から声が聞こえる。フリッツだ。
「御前さまは、我ら裏影のことを考えてくださらぬ」
「なにを言い出すんだい」
「この私めが、御前さま亡き後、のうのうと生きていられると思し召されますか」
「殉死するっていうのかい」
「当然でございましょう」
「ほお、あんたも偉くなったモンだねえ。己の命をたてにして、主人を脅そうってのかい。差し出口をたたくな!」
けれどフリッツは引き下がらなかった。
「いいや、聞けませぬ。いかな御前さまのおおせとはいえ、聞くわけにはまいりませぬ。どうかその短刀をおおさめくださいますよう」
ふん、面倒なやつの忠義を受けてしまったもんさ。アタシはしぶしぶ、短刀を引き出しにしまった。それでようやくフリッツの気配が消えたが、これは考えなくちゃならないことだよ。3年のうちに裏影を遠ざけなくちゃ、おちおち死ぬこともできやしない。
そしてなによりエリーゼだ。
結局のところ、アタシがやるべきことは変わらない。エリーゼのために縁談を━━いや、あの娘が同性愛者だというのなら、結婚は無理としても、パートナーを見つけてやらなければならない。
そして少しでもはやくアタシのことを忘れるように、エリーゼをアタシから遠ざけなくちゃ。
胸が痛かった。心が叫び声をあげていた。いまならその理由がわかる。アタシは想いあった愛しい人と、別れなければならない。まるで身体をふたつに引き裂かれるような気持ちだ。涙が次から次に溢れてきて、止まってくれそうにない。
「エリーゼ、エリーゼっ」
暗闇に向かってその名を呼ぶ。最初で最後の恋人の名を。決して手の届かない、清らかな花の名を。アタシはどぶ泥の中から呼び続ける。
だけどその呼びかけに応えるものはない。ただ静かに、夏の夜の静寂が広がるだけだ。
そして━━激しい痛みと引きかえに、闇の中からアタシを呪う、亡者たちの声は遠ざかった。彼らが言っている━━それでいいのだと。おまえが幸せになることは許さないと。おまえには不幸がお似合いだと。ずっとずっとその場所で、苦しみ続けることがおまえに与えられた罰だと。
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