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36 別離(エリーゼ視点)
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怯えをはらんだハンナの表情が、脳裏に焼きついて消えない。それが私に向けたものではないのだとしても、なにか酷く罪悪感がつのった。
あれは普通の反応じゃない。胸をかきむしり、涙を流し、うなされるハンナは、どう考えたってなにかを抱えているとしか思えなかった。
過去に何があったのだろう━━それとも現在進行系なのだろうか。そういえばハンナは平民出身で、それも娼婦の娘なのだという。…それは単なる噂に過ぎず、しかも今となっては不愉快な噂だけれど、もし噂が本当なのだとしたら、そこにハンナの悪夢の正体があるのかもしれなかった。
けれど、それをどうやって確かめればいいのだろう。私にはハンナのように、子飼いの諜報機関なんかないのだ。だとしたら、悪夢の正体はハンナから直接聞き出すしかない。
そこまで考えて、私はため息をついた。
そんなこと、聞けるわけがない。もちろん私だって、ハンナの心を軽くしてあげたいのだけれど、本人がいかにも言いたくなさそうだった。無理に聞き出そうとすれば、せっかく結ばれたばかりの私たちの新しい関係に、不和をもたらしてしまうかもしれない。
そうしてあれこれ考えているうちに、いつの間にか朝になっていた。カーマクゥラの使用人が、私を起こしにやってくる。いつもの部屋で朝食になるのかと思ったけれど、私の着替えを手伝ったあと、使用人は私をオザーシキへ案内した。
部屋に入ると朝食どころか、そこにはハンナがいた。皇帝陛下と会談したときのように、1段高い上座に座り、私を待っていた。よかった、少なくともいつもどおりのハンナに見える。ハンナの対面に置かれたクッションに座った私に、彼女が言う。
「エリーゼ、表に馬車を用意してある。それに乗ってアードルング家に戻りな」
「えっ、でも━━」
「ディートハルトは平民に落とされた。皇帝がアードルング家に見舞金を下賜した。これであんたが不名誉を受けることはなくなるだろ。元通り学園に通うといい」
…ハンナの言うことはもっともだった。ハンナはその言葉通りに、私を助けてくれた。そしてすべての問題が解決したいま、私がカーマクゥラに留まる意味はない。
ことの唐突さに、なんとなく違和感があったけれど、私はうなずいた。
「そう…色々とありがとう、ハンナ。それじゃ、次に会うのは学園ですわね」
「いいや、アタシはもう学園には通わない」
「どうして━━」
「このアタシに学園でのお勉強やコネクション作りが必要だと思うのかい?」
言われて気づく。そもそもハンナが学園にいた事自体が異常だったのだと。カーマクゥラの御前さまであるハンナが、貴族の子女に混じって通学していたということが、奇妙なことだった。ハンナは学園に通う必要などない。
「アタシゃ忙しいんだよ。兄の顔をたてて学園に入ったはいいけど、そのせいで鎌倉の実務が滞ってる。エリーゼ、あんたと同じさ。アタシたちはそれぞれ、本来あるべき形に戻るのさ」
ああ、ハンナの言うことは反論の余地なく正しい。私は反駁しかけて、口をつぐむしかなかった。だけど、まるで昨晩のことがなかったかのようなハンナのそぶりに、私は去り際、訊かずにはいられなかった。
「私たち、また会えるわよね?」
ハンナはうっすらと微笑んで、馬車に乗り込んだ私に言った。
「エリーゼ、幸せにおなり」
その言葉に不穏な気配を感じた私は、動き出した馬車の窓から、遠ざかってゆくハンナを見た。けれど彼女は、すでに私を見てはいなかった。なにかをこらえるように、じっと地面を見つめたままのハンナの姿が、私の目に少しずつ小さくなっていった。
それからひと月━━私は1度もハンナに会うことなく過ごした。学園に戻った私を待っていたのは、級友たちからの同情だった。べつに嫌な気持ちはしない。彼らは心から、私の境遇を嘆いてくれていたから。ハンナの言ったとおり、あの婚約破棄は私の不名誉にならなかった。
私はひと月の間に8回、愛の告白を受けた。男性が5人、女の子が3人だ。男性のほうはともかく━━私は3番目に告白してきた女の子に、訊かないわけにはいかなかった。
「あなたは御前さまから、なにか指示を受けたの?」
女の子は目を伏せて沈黙した。それが答えだった。
「そう…」
「で、でも、私がエリーゼさまをお慕いする気持ちは偽りではありません。カーマクゥラの使者が、背中を押してくれただけで、私は以前から…」
「わかっていますわ」
ハンナが無道なことをするはずがない。彼女はとても優しい女の子だから━━権力や財力を背景にして、そのケもない女の子に、私との関係を無理強いするようなことはしないだろう。いままで隠れていた同性愛指向の女の子に、なにか吹き込んだだけに違いない。
けれど私はショックを隠せなかった。あらためて理解した━━私はハンナに捨てられたのだ。ハンナは私を幸せにしようとしてくれている。だけど、私の想いに応えてはくれなかった。
私は空を仰いでつぶやく。
「なにもわかっていないんだから」
私は伴侶が欲しいわけじゃない。ハンナ・フォン・グレッツナーが欲しかったのだ。彼女が私の腕の中で、幸せそうに笑っていてくれたなら、私自身が幸せになる必要なんかなかったのに。
だから私は、グレッツナー家に、そしてカーマクゥラに何度も足を運んだ。けれどカーマクゥラは、私に対して堅く門を閉ざしたままだった。
ハンナはいまもひとりぼっちで、あの森の中のお屋敷に閉じこもっているのだろうか。悪夢はみていないだろうか。震えていないか、泣いてはいないのか。
私自身の望みよりも━━ただハンナのことだけが、私の心に暗く影を落としていた。
あれは普通の反応じゃない。胸をかきむしり、涙を流し、うなされるハンナは、どう考えたってなにかを抱えているとしか思えなかった。
過去に何があったのだろう━━それとも現在進行系なのだろうか。そういえばハンナは平民出身で、それも娼婦の娘なのだという。…それは単なる噂に過ぎず、しかも今となっては不愉快な噂だけれど、もし噂が本当なのだとしたら、そこにハンナの悪夢の正体があるのかもしれなかった。
けれど、それをどうやって確かめればいいのだろう。私にはハンナのように、子飼いの諜報機関なんかないのだ。だとしたら、悪夢の正体はハンナから直接聞き出すしかない。
そこまで考えて、私はため息をついた。
そんなこと、聞けるわけがない。もちろん私だって、ハンナの心を軽くしてあげたいのだけれど、本人がいかにも言いたくなさそうだった。無理に聞き出そうとすれば、せっかく結ばれたばかりの私たちの新しい関係に、不和をもたらしてしまうかもしれない。
そうしてあれこれ考えているうちに、いつの間にか朝になっていた。カーマクゥラの使用人が、私を起こしにやってくる。いつもの部屋で朝食になるのかと思ったけれど、私の着替えを手伝ったあと、使用人は私をオザーシキへ案内した。
部屋に入ると朝食どころか、そこにはハンナがいた。皇帝陛下と会談したときのように、1段高い上座に座り、私を待っていた。よかった、少なくともいつもどおりのハンナに見える。ハンナの対面に置かれたクッションに座った私に、彼女が言う。
「エリーゼ、表に馬車を用意してある。それに乗ってアードルング家に戻りな」
「えっ、でも━━」
「ディートハルトは平民に落とされた。皇帝がアードルング家に見舞金を下賜した。これであんたが不名誉を受けることはなくなるだろ。元通り学園に通うといい」
…ハンナの言うことはもっともだった。ハンナはその言葉通りに、私を助けてくれた。そしてすべての問題が解決したいま、私がカーマクゥラに留まる意味はない。
ことの唐突さに、なんとなく違和感があったけれど、私はうなずいた。
「そう…色々とありがとう、ハンナ。それじゃ、次に会うのは学園ですわね」
「いいや、アタシはもう学園には通わない」
「どうして━━」
「このアタシに学園でのお勉強やコネクション作りが必要だと思うのかい?」
言われて気づく。そもそもハンナが学園にいた事自体が異常だったのだと。カーマクゥラの御前さまであるハンナが、貴族の子女に混じって通学していたということが、奇妙なことだった。ハンナは学園に通う必要などない。
「アタシゃ忙しいんだよ。兄の顔をたてて学園に入ったはいいけど、そのせいで鎌倉の実務が滞ってる。エリーゼ、あんたと同じさ。アタシたちはそれぞれ、本来あるべき形に戻るのさ」
ああ、ハンナの言うことは反論の余地なく正しい。私は反駁しかけて、口をつぐむしかなかった。だけど、まるで昨晩のことがなかったかのようなハンナのそぶりに、私は去り際、訊かずにはいられなかった。
「私たち、また会えるわよね?」
ハンナはうっすらと微笑んで、馬車に乗り込んだ私に言った。
「エリーゼ、幸せにおなり」
その言葉に不穏な気配を感じた私は、動き出した馬車の窓から、遠ざかってゆくハンナを見た。けれど彼女は、すでに私を見てはいなかった。なにかをこらえるように、じっと地面を見つめたままのハンナの姿が、私の目に少しずつ小さくなっていった。
それからひと月━━私は1度もハンナに会うことなく過ごした。学園に戻った私を待っていたのは、級友たちからの同情だった。べつに嫌な気持ちはしない。彼らは心から、私の境遇を嘆いてくれていたから。ハンナの言ったとおり、あの婚約破棄は私の不名誉にならなかった。
私はひと月の間に8回、愛の告白を受けた。男性が5人、女の子が3人だ。男性のほうはともかく━━私は3番目に告白してきた女の子に、訊かないわけにはいかなかった。
「あなたは御前さまから、なにか指示を受けたの?」
女の子は目を伏せて沈黙した。それが答えだった。
「そう…」
「で、でも、私がエリーゼさまをお慕いする気持ちは偽りではありません。カーマクゥラの使者が、背中を押してくれただけで、私は以前から…」
「わかっていますわ」
ハンナが無道なことをするはずがない。彼女はとても優しい女の子だから━━権力や財力を背景にして、そのケもない女の子に、私との関係を無理強いするようなことはしないだろう。いままで隠れていた同性愛指向の女の子に、なにか吹き込んだだけに違いない。
けれど私はショックを隠せなかった。あらためて理解した━━私はハンナに捨てられたのだ。ハンナは私を幸せにしようとしてくれている。だけど、私の想いに応えてはくれなかった。
私は空を仰いでつぶやく。
「なにもわかっていないんだから」
私は伴侶が欲しいわけじゃない。ハンナ・フォン・グレッツナーが欲しかったのだ。彼女が私の腕の中で、幸せそうに笑っていてくれたなら、私自身が幸せになる必要なんかなかったのに。
だから私は、グレッツナー家に、そしてカーマクゥラに何度も足を運んだ。けれどカーマクゥラは、私に対して堅く門を閉ざしたままだった。
ハンナはいまもひとりぼっちで、あの森の中のお屋敷に閉じこもっているのだろうか。悪夢はみていないだろうか。震えていないか、泣いてはいないのか。
私自身の望みよりも━━ただハンナのことだけが、私の心に暗く影を落としていた。
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