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39 夜の追憶1

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 アタシは日本の木工職人の家に生まれた。ひとり娘だったから、それなりに金をかけて育てられたと思うよ。食べるものにも着るものにも不自由しなかったし、女学校も出た。そして父親の弟弟子おとうとでしと結婚した。良人おっとが30歳、アタシは17歳のときさ。戦争中だったからね、結婚式は質素だったよ。

 良人は真面目な人でね、博打は打たなかったし、酒は1日1合だけ。おまけに仕事人間でね、何が面白くて生きてるんだって人だったけど、結婚してからは変わった。自分で言うのもナンだけど、アタシにのめりこんだのさ。愛されてる自覚はあったよ。稼ぎのほとんどをアタシのために使おうとしていたしね。毎晩求められるんだから。そりゃ子宝に恵まれるってモンさ。

 アタシは良人との間に、ふたりの子どもをこさえた。男の子がひとり、女の子がひとり。息子が生まれたときにゃ、良人はずいぶん喜んでね。近所に酒だるをふるまって大騒ぎさ。だいぶ景気が悪くなってた時期だから、珍しかったんだろう。町内中から息子を見るために人が集まって、アタシゃ産後だってのに愛想しなきゃならなかった。まぁでも嬉しかったさ。良人を愛せてる自信はなかったが、息子は掛け値なしに可愛い。夫婦の仲はいっそう円満になって、こんどは娘ができた。

 だけどふたり目がお腹の中にいるときに、良人は出征したんだよ。30過ぎのあの人が戦争に駆り出されるなんて、思いもしなかったねえ。こりゃずいぶん戦局が悪くなってるんだと感じたモンさ。

 だからアタシは、良人に言った。とにかく自分の命だけは助かるように行動してほしいってね。ところが良人は、アタシが考えるよりもずいぶん立派な人だったのさ。良人が仲間の兵隊をかばって死んだということを、アタシが知ったのは戦後になってからだった。

 両親は空襲で死んだ。良人は戦地で死んだ。壁の薄い戦災者住宅に暮らしながら、アタシは呆然とするしかなかった。あれほどの絶望は、あとにも先にもなかったね。ふたりの子どもを抱えて、着の身着のまま、ろくな財産もない。日に日に痩せていく息子と、アタシのお乳が出ないせいで鳴き声すらあげなくなった娘。働こうにも、まともな仕事なんざありゃしない。

 誰ひとりアタシを助けてくれるやつはいなかった。なんせアタシだけじゃない。みんなひもじくて、自分の生活を守るのに精いっぱいだったから。焼け野原にゃ浮浪児がさまよっていた。街角には夜鷹が立っていた。復員兵は闇市でをやって袋叩きにあっていた。昨日までお国のためにと叫んでいたご立派な連中は、いまやみんな食べ物のことしか頭になかった。

 結局は人間だって動物とおんなじだってことさ。ケダモノは毎日、食べることだけ考えてサバンナをさまようだろ。衣食足りて礼節を知る、とはよくいったモンで、腹いっぱい食べてるからこそ、人間は文化を生み出すことが出来る。だけどその本性は動物と同じ。それを忘れたら人間という存在を見誤ることになる。

 アタシが身体を売ることになったきっかけは、隣に住んでいた40がらみの男だった。男は1合の米と引き換えに、アタシの身体を求めてきた。…その夜、息子は3日ぶりに芋を混ぜた飯を食べ、娘は重湯を吸った。

 美味くもない芋飯をかきこむ息子の姿がいじらしくてね。アタシは決意した。売れるものなら、せめて高く売りつけてやろう。アタシは進駐軍相手の街娼になった。手を叩いて客を呼び込むのさ。パンパンガールってやつだ。これでずいぶん人気だったんだよ。アタシゃ美人だったからねえ。最初は街角に立っていたんだけど、だんだん、将校の家に呼ばれるようになった。

 だけど兵隊よりも、将校のほうがずっと嫌らしいんだ。その頃には少しずつ英語ができるようになっていたアタシに、将校は言ったのさ。

「負け犬の夫と、どっちが具合がいいんだ?」

「おまえの夫を殺したのは俺だ」

「恥ずかしくないのか、このあばずれめ」

 アタシを辱めるために、将校はひどい言葉を言い続けた。たぶんその将校も病んでいたんだろう。だけど、それに付き合わされるアタシも、だんだん心がすり減っていった。嫌だと思う相手に身体を奪われるということは、ずいぶん消耗するモンだ。苦しくて苦しくて、将校の家の前まできて何時間も足がすくむようなこともあった。

 だけどその代わりに、大袋にいっぱいの小麦が手に入った。乾パンが手に入った。娘のための粉ミルクが手に入った。いまさら引き返すことはできなかった。

 苦しい行為だったからこそ、アタシには信仰が必要だった。みじめな自分を支えるための信仰――それは正しさってやつさ。アタシの良人は靖国に祀られている英霊で、アタシはその遺児を女手ひとつで育てている貞女だと。だからどんなに身をやつそうとも、心は錦なのだと。そう信じることで、将校からの辱めにたえることができていた。

 だけどあるとき――街角に立っているアタシに声をかけてきた男がいた。カーキ色の軍服を着た復員兵だった。男は、そのときのアタシには信じられないような安値で、アタシの身体を買おうとした。男を無視するアタシに、男は言った。

「お国のために戦った俺と寝るのはそんなに嫌か」

「アメ公の○○○はそんなにたまらんか」

「この売国奴の夜鷹め」

「何様のつもりだ。えっ、それで気位きぐらいは高いつもりか」

「おまえはあばずれのパン助だよ」

 酔った男の罵詈雑言にたえながら、アタシの中で何かが音をたてて壊れていった。自分でも道を間違えたことはわかっていたのさ。だけどそれを認めたくなくて。己の行いが、さも崇高な使命であるかのように思いこもうとした。

 だけど同じ日本人から見たアタシは、進駐軍に媚びを売るパンパンガールに過ぎなかった。その夜、アタシは将校に身を任せながら、ひどく泣きわめいた。将校はいっそう喜んで、アタシに侮蔑の言葉を吐き続けた。

 だけど考えてごらん。この世の中、誰だって何かの役割を演じているのさ。アタシが間違えたのは、立派な貞女の役割を演じようとしたことだ。ここはそんな世界じゃない。そんな時代じゃない。

 アタシが演じるべきだったのは、恥知らずの悪役だったのさ。

 それがわかってからは、アタシは奪われる側でいることをやめた。チンピラを金で雇い、将校の後ろ盾を使って、街娼の元締めの座をつかんだ。闇市の小さな縄張りのなかでアタシは女王になった。その頃のことさ、アタシを侮った女を、見せしめに殺したのは。アタシの最初の殺人さね。

 冷たいむくろとなった女を睥睨へいげいして、アタシは自分が還るべき道を失ったことを悟った。
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