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41 悪人正機(エリーゼ視点)

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 作り話と言い切るには、あまりにも生々しい告白だった。転生という概念について、私は初めて知ったのだけれど、否定することはできなかった。

 そしてハンナの犯してきた罪が、私にとっては心の底から━━。

「━━どうだっていい」

 心の声が漏れ出して、ハンナがギョッとしてしまった。だけど女ってそういうものじゃなくって?それを女の愚かしさと言う人もあるだろうけれど、そうではないでしょう。これは正しく、強さというべきものだわ。

 女にとって大事なことは━━ハンナがそうであったように、身近な人の幸せだ。それ以外を無視してしまえることが女の強さだ。法や正義を重んじるのは、男が弱い生き物だからでしょう。どうしてハンナがの犠牲にならなくてはいけないの。

「ハンナは━━善悪という言葉に囚われすぎていますわ」

「だけど…だけどエリーゼ」

「まずは私の話をお聞きになって」

 私はハンナのために説話を語り聞かせる。男たちが生み出した『教会』の教えに反する物語だ。だけど私はずっと、神官が語る『善き生き方』に疑問をもっていた。そんなもので人が救われるのなら、とうの昔に悲劇という言葉は失くなっていたはずだ。

 ハンナの瞳が救いを求めている。地の底から必死に腕を伸ばしている。私はその手をつかもうと、人類が囚われた闇のなかに声を響かせる。

「…あるところに生まれついての殺人者がいました。彼は人を殺すのが大好きで、理由もなく、己の快楽のために人を殺しました。男も、女も、子どもですらも、区別なく殺人者は殺し続けました。その犠牲者は100人以上にもなりました」

 ハンナの淀んだ眼が私を見ている。いまはただ、彼女の体力だけが気がかりだった。だから私は語り続ける。

「神様は殺人者のふるまいに驚いて、犠牲者を憐れみ、時間を巻き戻しました。そして殺人者が最初のひとりを殺すまえに、殺人者を天罰の雷で引き裂いて殺しました。神様はこう考えたのです。これで死んだものはひとりで済む。100人の命が救われたのだ。私は善き行いをした」

 いかにも神官が教えそうな短絡的な考えだ。私はだから、想像の翼を広げる。

「ところが、本来なら殺人者に殺されるはずだった男が、神様のおかげで殺されることなく生活を続けました。男は行商人でした。行商人はネプの街で疫病にかかり、ストラの街に移動したあと、疫病のせいで死んでしまいました。ネプの街で流行した疫病が、行商人のせいでストラの街に伝播したのです。この疫病で、ストラの街では1000人の犠牲者が出ました。神様の天罰が、100人で済んだはずの犠牲者を1000に増やしたのです━━地獄への道は、善意で舗装されていた」

 私はハンナをじっと見すえた。

「それでも神様の行いは善行といえますか?」

「いったい、なにが言いたいんだい」

 善とはなにか。悪とはなにか。善因があり、善果があると『教会』は説く。悪因があり、悪果があると説く。だけど、だとしたら何が善因で、何が悪因なのだろう。それを理解できる存在など、この世のどこにいるというのだろう。少なくともそれは、人間がたどり着ける領域にはない。ことがそう単純だったら、世界はこれほど美しくなかった。私たちは、途方もなく醜くも、美しい世界に生きている。

「未来を見通せない人間が、善悪の判断などできるはずがないと言っているのですわ。善行のつもりでやったことが、最悪の結果を生むこともあれば、悪行のつもりでやったことが、より多くの人を救うこともあります。ハンナ、あなたは未来を予知することができないのに、どうして自分のやったことが、悪だと言い切ることができるのですか?」

 ハンナの表情に戸惑いが現れた。

「だけど、だとしても、アタシが殺したあの女は━━あの男はアタシのせいで…」

「運命が彼らを死なせたのですわ」

「そんな、馬鹿な!」

「誰も彼もが懸命に生きました。ハンナはハンナの生を。売春婦は売春婦の生を。債務者は債務者の生を━━懸命に生きたのです。その結果、死んだものもいれば、救われたものもいたかもしれない。未来を見通すことができない私たちは、ただ目の前の生を懸命に生きるしかないのですわ。前非を悔いたところで、死んだものが生き返ることはないのですから」

 納得し難い様子のハンナだけれど、揺さぶられているのは見ていてわかる。だから私はハンナとの距離をつめ、彼女の細い身体を抱きしめた。

「前非を悔いて、生き返るものはいないけれど、同じことを繰り返さないことはできますわ。善悪なんてこの世にはないけれど、より住みよい社会をつくることはできるでしょう。そのために、あなたが前世でやったようなことは、繰り返してはならないのです。それは悪いことだからではなく、より住みよい社会を築くためです」

 社会秩序のための規範に、善悪なんていう形而上学の概念を持ち出したことが、人類の不幸だと私は思う。悪を排除し善を広めれば、あたかも理想郷を建設しうるような錯覚を人間にもたらすからだ。だけど善も悪も、本当は存在しないものだ。それは机上の概念でしかなく、現実にあてはめるのは無理がある。

 悪人なんてどこにもいない。そこには人の営みがあるだけだ。

「ハンナ、どうか自分を責めることをおやめになって。あなたが生きた泥濘の中のあがきを、いったい誰が否定できるというのです」

 かすかに震えるハンナの肩を強く抱いて、冷たい身体を温めるように包み込む。彼女の震えが止まった。祈りをこめた私の腕の中で、ハンナはゆっくりと目を閉じる。ハッとして確認すると、彼女はかすかに寝息をたてていた。たぶん、限界だったんだろう。

 これでいい。私はこれから、ハンナが目覚めるまでそばに付き添う。そして彼女の身体を回復させて、一緒に学園に通うのだ。大事なのは、ハンナの罪悪感を取り除くことだ。それには理屈よりも、ただそばにいることが大切だと私は思う。

 本当に説得力をもっているのは、言葉なんかじゃなく、肌のぬくもりなのだから。
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