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42 しなやかな腕の祈り

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 悪夢は見なかった。ひどく穏やかな気持ちで目覚めると、暖かな布団の中に甘い香りが広がっていた。柔らかい感触がアタシを包んでいた。母の腕に抱かれた幼いころに戻ったような━━それはアタシがずっと求めていた安らぎだった。

「エリーゼ」

 声をかけると、アタシを抱きしめていた少女の身体がかすかに動いて、彼女はうっすらとまぶたを開いた。

「おはよう、ハンナ」

「アタシは、こんな━━こんな幸せが許されていいんだろうか」

 するとエリーゼは、アタシの髪を撫で、とびきり優しい顔で微笑むんだ。

「ハンナ、私に溺れて」

「そんな、それじゃ、ダメなやつみたいじゃないか」

 女に溺れるだなんて、上は王侯貴族から下は貧民まで、ロクデナシだって相場がきまってる。そういう場合にはたいてい、手痛いしっぺ返しが待っているモンだ━━だけどエリーゼは言う。

「以前から思っていたことですけれど、ハンナ、あなたは禁欲的すぎますわ。はじめは10代の女の子によくある潔癖症かと思っていたのだけれど、あなた、もう100年以上生きているのでしょう?」

「そう言うエリーゼだって、15歳とは思えないよ」

「私を誰だと思っていますの?アードルング家のエリーゼよ?3大美女ですのよ?手に入らないものなんて、なにもなかったわ。贅も悦も味わいつくしてきましたわ。もしあなたが清廉なヒロインだったら、たぶん私は悪役ですわ」

 笑って、エリーゼはアタシの首筋にキスをした。悪い女さ。アタシは経験で知っている。これは何もかもを手に入れる女の顔だ。男たちを溺死させる女の顔だ。海のように広く深く、澄み切った浅瀬と深い淀みをあわせもつ。夜には月明かりを映し、昼には吸い込まれそうに青く光っている。そんな女の表情だ。

「私に抱かれているあいだは、あなたは何も考えなくていいのですわ。ただ私だけを見ていれば…」

 エリーゼは言う。歌うような声でアタシを蕩かす。

「だけど、アタシは━━」

「それ、それがだめ。なにも考えられないようにしてさしあげましょうか?私、ずっと我慢していますのよ。あなたの体調が万全ではないから…」

 エリーゼがアタシの唇を奪う。触れ合うだけの優しいキスだ。それだけで頭の芯がぼうっとする。

「かわいいひと…」

 クスクスとエリーゼが笑う。頬が熱くなった。

「あ、アタシゃ100歳の婆さんなんだよっ。からかうのはおよし」

「100年間もこんな可愛いままで生きてきたのね。娼婦だったというのが信じられないわ。とってもなんですもの」

「それは━━たぶん初恋だから」

 アタシは思わず告白していた。だっていまさらなんだよ。エリーゼはアタシの情けないところも、汚いところも、もう全部知っている。だから━━だけどエリーゼは、今日いちばん驚いた顔をした。

「ほんとうに…?」

「だって、アタシはこんな感情を知らない」

 たくさんの男に抱かれた。子どももいた。だけど、そこにときめくような甘酸っぱい気持ちはなかった。エリーゼがはじめてなんだよ。アタシはエリーゼに出会って、はじめて恋を知った。

「はじめてエリーゼと出会ったとき、目を奪われたんだ。こんなに神々しいものが、この世には存在するのかってね」

「私も…!」

 エリーゼが子どもみたいに瞳を輝かせた。

「あなたをひと目見たときに、心を射抜かれましたわ。妖精のように愛らしくて、だけど毅然としていて、汚れを知らないその姿をドロドロに汚したくて━━」

「汚す…」

 エリーゼがアタシのことを禁欲的と言った意味がわかったような気がする。アタシ自身はそんなつもりなかったけど、確かにアタシは、はじめてエリーゼを見たときに、この娘のように欲望じみたものは感じなかった。こりゃ、エリーゼにと笑われても否定できない。

 アタシはこれまで、男女の欲に溺れるやつらを、心のどこかで馬鹿にしてきた。それはアタシが生きてきた時代の、夜の世界では、破滅を意味していたからだ。だけど、愛する人に求められることは、こんなにも嬉しい。男に金も身体も貢いだ娼婦たちは、きっとこんな気持ちだったんだろう。

 そのとき、白い顔がフラッシュバックした。骨にはりついた皮のようになって死んだ女の顔だ。顔にたかったハエを、もはや払う気力すらなくなって、路地裏にうずくまって子守唄を歌っていた女。

 あの女はアタシから金を騙しとって、男と逃げた。ロクでもない男さ。新しい生活のために女がもってきた金を、ひと晩で博打に溶かすような男だ。だけど女は男を愛していた。アタシに捕まったあとも、女は男の身を案じていた。あのときアタシはせせら笑ったが、誰にもそんな権利はない。

 女は死んだ。ヒロポンを打たれて。ろくに食べられないまま、客を取り続けて。惚れた男との仲を引き裂かれて。好いてもいない男に抱かれて。欲望を吐き出す便器のようにあつかわれて。ことが済んだら用なしの汚物のようにあつかわれて。あの悲しみを、あの苦しみを、アタシはあのとき笑っていたんだ。

 そして路地裏で女の骸と対面して━━あのときアタシは。

「ハンナ?」

 いつのまにか震えていたアタシを、エリーゼはふたたび強く抱きしめる。涙がこみあげてきて、アタシはエリーゼの胸に顔をうずめた。

「アタシは、怖くてっ…」

「ええ」

「ホントはずっと、ずっと怖かったんだ」

「わかっていますわ」

 声が震える。涙がこぼれる。エリーゼはそんなアタシを、ずっと慰めてくれた。柔らかな手つきで髪を撫でる。触れ合った肌からぬくもりが伝わる。優しい匂いがして、涙がとまらなくなった。だけど涙といっしょに、胸の痛みが薄らいでいく。

 汚れも苦しみもすべてを飲み込んで、波を揺らす海のように、エリーゼはアタシのすべてを包み込む。いつか世界が消えてなくなるのだとしても、いまこの瞬間の実在だけは、狂おしいほどにそこに感じられた。

 
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