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一章

粛正の影

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「ちっ」
 ジョルディは自分の馬に乗ったまま馬車と並走する。手が届きそうなほど近くなったところで、ジョルディが自分の馬から馬車に飛び移った。
 ジョルディは馬車の手綱をとり、たくみにさばく。いななき暴れていた馬は、ようやく落ち着きを取り戻す。

「よーしよし、もう大丈夫だ」
 ジョルディは馬車から降りると馬の首を優しく叩いた。
「大丈夫ですか?」
 フェリペは馬車に向かって叫ぶ。

 飛んできた矢の数本はフェリペが落としたが、一本は馬車に刺さってアルトゥーロの頬をかすっていた。フェルナンドが医療用品を抱えて走り寄る。アルトゥーロはかすった矢の矢尻を確認する。毒は塗られていないようだ。胸を撫で下ろす。
「問題ない。かすり傷だ」

 フェルナンドが手際よくアルトゥーロの傷の処置を始めた。ジョルディが矢が飛んできた方向に走ろうとするのをフェリペは止める。もうすでに敵の気配は消えていた。
 そのまましばらく警戒を続けたが、もう襲ってくる気配はない。隊は再び、次の村に向かって進み出した。


「警告か……?」
 フェリペは過去の襲撃を思い出しながら呟いた。あのあとも二、三回襲われたが、幸い重傷者も死者も出ていない。
「精霊信仰の輩だろうか」
 アルトゥーロは皮肉めいた笑みを浮かべながら、リンゴを片手で掴んで大きな口でかじりつく。

 インヴィエルノ帝国では、太陽神を信仰することが一般的だ。しかし民間信仰として精霊を祀る地域も少なくない。精霊を信仰する人々にとっては、精霊を使役する「精霊使い」は不遜で罰当たりな者以外何者でもないだろう。なかには殺意を抱く過激な人間がいてもおかしくない。

「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」
「皇帝を面白く思ってない連中かもしれん」
「その可能性もあります」
 フェリペは赤ワインをあおり、チーズをつまむ。アルトゥーロは自分のワインを揺らしながら、赤い液体を見つめる。

「前女帝の時の粛正で、多くの敵を作っただろうからな」
 現皇帝が帝位に就く際に、当然のごとく政治闘争は起きた。正統な皇帝の血筋を引く前女帝コンステラシオンは、夫が病死をした直後、一人息子のアマデーオを確実に次期皇帝にするために、粛正に乗り出した。夫とその愛人との間にできた幼子や、コンステラシオンの兄弟とその子どもなど、多くの者が処刑や投獄の対象となった。

「お前のところは逃れてよかったな」
「僕のところは、正統な血筋を引いていませんから。皇帝陛下と従兄弟とはいえ、父方の血が同じなだけで。偉い方々の帝位争いとは無縁な、しがない一貴族なんです」
 フェリペはおどけて肩をすくめる。
「これからどうなるかは、わからないけどな」
「それはお互い様ですね」
アルトゥーロは苦笑をしてリンゴをかじった。

「ああ、そうだ。お前に手紙が届いていたぞ」
 アルトゥーロが、ポケットの中から鳥の形に折られた薄いピンクの手紙を取り出し、フェリペに差し出す。
「フアナからだ」
 フェリペは差出人の名前を見て満面の笑みになった。早速手紙を開く。

 手紙は兄の身を案じているという出だしから始まっていた。そして父が落馬をしたこと、そして幸い軽い怪我で済んだが父が大げさに騒いだおかげで家族が振り回された、ということを、冗談を交えながら家族の様子を面白おかしく綴ってあった。

 最後の締めには、「お兄様のエスコートで社交界デビューすることを楽しみにしていますのに、お兄様はなかなか帰って来てくださりません。私がお婆さんになる前に帰ってきてくださいませね」と書いてあり、フェリペは苦笑した。

「兄が冬山で凍死するかもしれない時に、妹は社交界デビューの心配をしていますよ。女性は暢気で羨ましい」
「その割には嬉しそうだがな」
 それはその通りだった。心配していることや、生活の不平不満を言い募られると気が重くなる。それよりも帝都での日常を楽しく報告してもらったほうが、よっぽど長旅で疲れたフェリペの心を慰めてくれた。
「可愛い妹がお婆さんになる前に、急いで帝都に帰るとしましょうか」
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