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二章

触れない本

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 弟子としてのマリポーザの仕事は、主に研究の手伝いと、アルトゥーロの身の回りの世話をすることだった。常にアルトゥーロの側にいて、書籍や道具を運んだり、精霊術に関する資料をまとめたりする。直接アルトゥーロが精霊術に関する授業をすることはあまりなかったが、手伝いを通して少しずつ精霊術に関する知識が身に付いていった。

 ある日、アルトゥーロの研究所の一室で、マリポーザはいつものように、散らかった資料を整頓していた。正午を過ぎていたが、アルトゥーロはまだ寝ている。
 昨日も明け方近くまで研究をしていたのだろう。部屋の至る所に散らばっている、よくわからない複雑な記号が並んだ紙を魔方陣用の文字のほうに分類し、棚にまとめる。

 精霊術で使う言語は二種類ある。一つはアルトゥーロが「精霊語」と呼ぶ言語。これは精霊と会話をする時に使う言葉だ。インヴィエルノ帝国が使う言語とは、文法も単語も異なる。そして精霊語には文字がない。書き留めるために便宜上、精霊語の発音をインヴィエルノ帝国の文字にあてて書いていた。そのため、書いてある精霊語は、意味がわからなくても読んで発音することはできた。

 しかしもう一つの、魔法陣に使っている文字は、発音も意味も不明だった。アルトゥーロが旅の途中で見つけた古い石碑や遺跡などから集めたもので、ひとつひとつの文字の意味はわかっていない。ただ、それらを組み合わせた魔法陣がどのように作用するかだけが、わかっていた。それも数は少なく、ほんの一部の魔法陣のみではあったが。
「あれ?」
 マリポーザは、手に何かが触れたような気がして、机の上に目を凝らす。冬の陽光を反射して、キラキラと微かに光るものがあった。
 よく見ると輪郭からして、手のひらにすっぽりと収まるサイズの分厚い本のようであった。しかし全体的に透明で、よくよく見ないと気がつかない。触ってみようと手を伸ばすが、手が本をすり抜ける。
「お前にそれは触れんぞ」
 背後から声がして、マリポーザは思わず小さな悲鳴をあげる。そして後ろを振り向いて胸を撫で下ろした。

「マエストロ、驚かさないでくださいよ」
 アルトゥーロは意に介さず、机のそばに寄って来て無造作に本を手に取った。
「これは俺以外には触れない」
「それ、なんですか?」
「辞書だ。精霊語の単語や文章が、わかる範囲で書き留めてある。それに対応した翻訳もな。いままで研究してわかった精霊語のすべてがここに書いてある」
「ええ!? そんな大事な物、その辺に無造作に置いておかないでくださいよ!」
 盗まれたりしたらどうするんですか、と抗議するマリポーザに、アルトゥーロは涼しい顔で受け流す。
「俺以外は触れないからな、誰も盗めない」
「でも書類に埋もれて、大事な辞書が失くなるかもしれませんよね?」
 アルトゥーロはしばらく沈黙した後、何事もなかったかのように一言「朝食を用意してくれ」と言った。
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