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四章

キルトとマリポーザ

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 白い雲の間を縫ってキルトは軽やかに飛んで行く。
『お願い! 絶対ぜったい手を離さないでね!』
 マリポーザはキルトにしがみつきながら精霊語で懇願した。
『ええ? なんで?』
 キルトは真顔でマリポーザを見る。この顔は本気でわかっていない顔だ。マリポーザはぞっとする。落ちたら死んじゃうから! と言いたかったのだが、マリポーザは精霊語での「死」という単語を知らない。
『えーっと、落ちたら消えてしまうから』
 ほかに言い方が思いつかなかったので、マリポーザはそう言った。するとキルトの顔つきが変わる。真剣な顔をしてマリポーザに聞く。
『高いところから落ちると、マリポーザ消えちゃうの?』
『そう、そうなの』
 マリポーザは頷く。するとキルトは手を握る力を強めた。
『じゃあ、絶対この手を離さないよ。僕良い子だもん。マリポーザを消しちゃったら大変だからね』
『ありがとう。キルトは優しい子ね』
『当たり前さ!』
 当たり前と言いつつも褒められて嬉しかったのか、キルトはくるくると宙返りをした。マリポーザは目を回したが、力強く握ってくるキルトの手に安堵を覚える。

 鳥の鳴き声が聞こえて周りを見渡すと、グースの群れが「V」の字の形を作って隣を飛んでいる。眼下には赤い岩山と大地が果てしなく続く。大地を這うように細い川が流れ、野牛の群れが喉を潤す姿が小さく見えた。
 しばらく飛んでいると連綿と連なる岩山が割れ、緑の地平線が見えて来た。岩山を越え草原を越えると、白い砂浜が現れた。
『これは海? 私見るの初めて! 本当に海って大きいのね』
 マリポーザは視界いっぱいに広がる青い水に歓声をあげる。白い砂浜の前方にはどこまでも澄んだ水が続き、真っ平らな水平線が見える。

『なに言ってるの、これは湖だよ』
 キルトは呆れたように言った。
『え、でも……』
 マリポーザは困惑した。もうすでに足元には水しか見えない。遥か後方に先程の白い砂浜が霞んで見えたが、ほかには見渡す限り水しかなかった。一面の青。下にはさざ波の揺らめきしか見えない。

『驚くのも無理はないよね。なんてったって、これはこの世界で一番大きな湖だから』
 キルトは得意そうに言った。
『この湖にはたくさん島があるんだ。その中で一番大きな島が、アンジームのお気に入り。だからアンジームに会いたいときには、そこに行くのが一番早いよ。
 それにしても「海だ」なんて言ったのはマリポーザだけだよ。精霊はみんなこの湖のことを知ってる。マリポーザは何にも知らないんだねぇ』
『私は精霊じゃなくて人間だもの』
 むっとしてマリポーザが言う。

『同じことじゃないか。人間は何も知らないんだ。僕たちはこの世界のことは何でも知ってるのに』
 キルトはおかしくて仕方がない、というように笑った。
『精霊が精霊のことを知ってるのは当たり前でしょ。人間にしか知らないことだってたくさんあるわ』
 悔しかったのでマリポーザは言い返す。
『たとえば?』
 嫌みではなく、興味津々といった感じでキルトは聞く。
『えーっと、たとえば、美味しいケーキのお店とか、皇帝陛下のお名前とか……』
『変なのー。ケーキとか皇帝って何か知らないけど、そんなの人間の中の小さなことじゃないか。世界で一番大きな湖とか、一番高い山だとか、そういう世界全体の話じゃ全然ないじゃない』
『そ、そうよね……』
 一蹴されてマリポーザは頷いた。自分でも随分と小さい例だとは思っていたのだ。

 しょんぼりしたマリポーザの顔を覗き込み、キルトはまずいと思ったのか話題を変える。
『見えて来たよ』
 キルトが指した先を見ると、鬱蒼とした森に囲まれた島が見えてきた。
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