48 / 51
四章
四章④ 無法魔術師と最後のピース
しおりを挟む
彼女が後ろ手に部屋の鍵をかけたことを確認して、僕はその体を優しく抱きしめた。
最初こそ僕の体を押しのけようとする彼女だが、その力はあまりにも弱く、それが形だけの抵抗であることはすぐに分かった。
少し汗の匂いがする彼女の首筋に唇を這わせていると、やがて震える彼女の腕が躊躇いがちに僕の体を抱き返してきた。
僕は両手で包み込むように彼女の顔に触れ、正面からその瞳を覗き込む。
薄いレンズの向こうに見える灰色の瞳は戸惑うように揺れているが、震えるその唇は何かを求めるように薄く開かれていた。
僕は何も言わずにその唇を塞ぎ、そのまま――。
※
「わたし、誰にでもこんなことするわけじゃないんですよ……ううん、違うわね。そもそもハワードくらいしか、わたしをそういうふうに見てくれる人がいなかっただけ……」
言い訳をするように、僕の腕の中でメディアが呟いた。
ベッドサイドのランプがほんのりと照らす室内は、そのわずかばかりの明かりでも十分に分かるほど色味がまったく感じられない。
寝具をはじめ、あらゆるものがベージュの濃淡で、設えられている家具も生活に必要な最低限のものしか揃えられていなかった。
白ではなくベージュなのも、きっとそのほうが汚れが目立ちにくいだろうという程度の理由なのだと思う。それほどまでに、この部屋には生活感を感じない。
「気にすることないさ。こんなのは、言ってみれば交通事故みたいなもんだよ」
「ふふっ……それなら、慰謝料を請求しなくちゃいけませんね」
力なくメディアが笑う。
昼過ぎに市民学校で再び会う約束を取りつけ、夜に彼女の家の近くにあるという創作料理のお店で待ち合わせをした。
メディアは服用している薬があるということでお酒は呑まなかったが、僕が気にせず呑む姿を見て触発でもされたのか『家でなら少しくらいは』と食後に誘ってくれた。
その時点で僕は酒なんかより別のことを期待していたし、それはひょっとしたら彼女も同様だったのかもしれない。
『あわよくば』なんてことは出会ったときからずっと思っていたし、彼女も何かのきまぐれでたまには僕みたいなイケメンと寝てみるのもいいかと判断したのだろう。
「実は昨日の話を聞いてから少し心配だったんだ。君はまだ本当の意味で『卒業』できていなかったんじゃないかってね」
ともあれ、腕の中で相変わらず物憂げな顔をしているメディアに僕が言った。
彼女は僕の肩に頭の端っこを乗せたまま、ほんの少しだけその肩が震える。
「卒業……しなきゃいけないんです。もう、何処を探しても彼はいないんですから……」
「本当は、ヘレナさんと交際をはじめたあともずっとハワードのことを?」
「分かりません。ただ、わたしにとってハワードは唯一の支えで、そこにいつしかヘレナが加わって、でも、わたしはどちらからも選ばれなかった」
いよいよ本格的にメディアの肩が震えはじめ、僕はその肩をそっと抱き寄せる。
涙を流している様子もなければ嗚咽を上げているわけでもないが、仮に見た目では何ともなさそうに見えたって、心がどうかは分からない。
「お父さんもいなくなって、わたしは一人ぼっちになって、だから、一人で生きていく強さを身につけなきゃって、最近はずっとそんなことばかり考えていました」
「別に一人で生きてく必要なんて、ないと思うけどな」
「でも、わたしのことなんて、誰も……」
「そんなことはないさ。君くらい魅力的なら、いつかきっといい人が見つかるよ」
「たとえば、あなたとか?」
「僕は、その……あんまりオススメはしないかな。いつ刺されて死ぬかも分からないしね」
メディアが頭の位置を変え、レンズ越しではない瞳でぼんやりと僕の顔を見つめてくる。
その口許にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「ふふっ……そのときは死神でも名乗ろうかしら……」
「本当は、聞きたいことがあったんだ」
「分かってます。そうじゃなきゃ、わたしなんかと関わろうとは思いませんよね」
「そんなことはないけど……まあ、それについてはまた今度話そう」
口許に浮かんでいた笑みが自嘲的なものに変わるのを感じて、僕はほとんど反射的に彼女の額にキスをする。
それが功を奏したのか、あるいは『また今度』というワードが何かしらの作用を果たしたのかは分からないが、ひとまず彼女の表情がそれ以上暗くなることはなかった。
僕はメディアに見えないようにそっと安堵の溜息を吐くと、改めて言葉を続ける。
「聞きたいのは、ハワードさんの父親についてさ」
「ハワードの、お父さん……」
「君も知ってるよね。ハワードさんの父親のこと」
「……ハワードが殺されたことと、何か関係があるんですか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、事実を確認しておきたくてさ。ハワードさんは、自分の父親が誰なのか知っていたのかな」
いつだったか、セオドール・ボルジアはハワード・ジョンソンを表向きでは認知していなかったが、陰ながら経済的に援助していたと言っていた。
それが本当であれば、彼らの関係は少なくとも僕たちが想像していたよりかは良好だったのかもしれない。
ただ、あのような演説の場でわざわざ言うようなことでもないし、わざわざ言うようでもないことを言うということは、つまり、その裏に何か意図があるということでもある。
「知っていたと思います。ハワードは、子どものころから自分がお父さんに捨てられた子だと言うことにずっと心を痛めていましたから」
「そのことは、君もハワードから聞かされていたのかい?」
「はい。ハワードのお母さんも、ときどき愚痴っぽく漏らしていました。わたしたち、家族ぐるみのつきあいでしたから」
「言いづらいかもしれないけど、お母さんが死んだとき、ハワードさんは……?」
「とても荒れていました。ハワードはおばさんのことをとても大切にしていて、それなのに周りは彼を親殺しのようにあつかって……」
まるで痛みを堪えるかのように、メディアがキュッと唇を噛んだ。
僕は何も言わずにその背中を優しくさすりながら、言葉の続きを待つ。
「ハワードは、それからわたしにも辛く当たるようになってきました」
「そうなのかい? でも、君たちはずっと関係を続けてたって……」
「ハワードの気持ちも分かるから、受けとめてあげなきゃって。おばさんがハワードのお父さんを脅迫しはじめたのは、わたしのお父さんのせいだから……」
「なんだって?」
メディアの父親――娘に乱暴をはたらいている時点で歪んだものを抱えていそうな人物とは思っていたが、すでにそこまで落ちぶれていたのか。
「それはつまり、君のお父さんが焚きつけたってこと?」
「はい。その当時、仕事をクビになってお金に困ってたから、おばさんを利用してハワードのお父さんからお金を巻き上げようとしていたんです。ハワードはおばさんを必死にとめていたみたいですけど、けっきょくあんなことに……」
「ひょっとして、君のお父さんとハワードさんのお母さんは……」
「はい。たぶん、そういう関係だったんだと思います」
これはまた随分と歪んだ関係だな……。
「ハワードさんのお母さんは、警察の捜査では自殺となっているようだけど……」
「そうみたいですね。でも、ハワードは殺されたと思っているみたいでした。彼が《地上の人々》の活動に傾倒していったのも、ちょうどそれからです」
ハワードが《地上の人々》の一員だったことは、はからずもボルジア本人の口からすでに聞かされている。
しかし、あのときと今ではその事実も随分と違う意味を持つように感じられた。
ボルジアが僕ほど暢気な性格じゃなければ、ハワードが何を思って《地上の人々》に近づいたのかに気づいていないはずがない。
それでいてあのような言いまわしができるということは、おそらく最初からハワードの死を政治利用するつもりだったからだろう。
「ハワードは、自ら《地上の人々》に近づいていったのか……」
「復讐のためだったのか、他に何か目的があったのかは分かりません。もともとハワードのお母さんも《地上の人々》で要職に就いていたそうなので……」
まあ、それは当然か。でなければ、そもそもエリザ・ジョンソンとボルジアが接点を持つこともない。要職に就いていたとなれば、自然とその距離も近かったことだろう。
だからこそハワードも《地上の人々》に近づきやすいと考えたのかもしれないが、もし彼にその危険性を顧みる冷静さがあれば、悲劇が繰り返されることもなかったのだろうか。
「でも、結果的に《地上の人々》に入ったこと自体は良かったんだと思います」
一方、何も知らないメディアには、何故かその行動が好意的に受け取られているらしい。
不思議に思っていると、彼女はあまりにも意外な事実を口にする。
「おかげで、ヘレナとも出会えましたから」
「ヘレナ……」
そうか。彼女も《地上の人々》だったのか。
「彼女は魔術によって苦しむ人々を救うだけでなく、心に傷を抱えた人や自分の人生に思い悩むを人を導く導師として活動しているんです。わたしも彼女によってどれだけ心を救われたか……それに、きっとハワードも……」
「君は本当に、ハワードさんを大切に思っていたんだね」
「わたしは……」
僕の腕の中で、メディアが急に嗚咽を漏らしはじめる。
何がきっかけなのかは分からない。ただ、これまでハワードの死に対して抱え込んでいた感情が、ここに来て一気に溢れ出したのだろう。
口では何と言おうと、メディアの心は常にハワードとともにあった。
きっと彼女はハワードから『卒業』したかったのではなく、自分への依存を断ち切れないハワードを『卒業』させたかったのではないかと思う。
そのために、自分の感情を押し殺してでもハワードと距離を取った。
自分を救ってくれたヘレナがハワードの心も救ってくれると信じ、悲しみを乗り越えた彼が再び光の下を歩めるようになることを願っていたのだ。
――だが、もうその願いが叶うことはない。
「……っ……っ……ごめ、なさい……っ……不思議、ですよね……っ……もう、何年も、泣くことなんて、なかったのに……っ……」
嗚咽まじりに言うメディアの頭を、僕はそっと胸のうちに抱き寄せる。
「泣けるなら、我慢せずに泣けばいいんだ」
うなじのあたりを優しく撫でながら、僕が言った。
「世の中には、泣きたくたって泣けない人もたくさんいる。だから、泣けるならいっぱい泣いて、怒れるならいっぱい怒って、そのあとは美味しいものをいっぱい食べるんだ。それさえできれば、たぶん大抵のことはどうにかなる」
我ながら無責任な発言だとは思うが、それでもメディアは少しだけ笑ってくれた。
「……きっと一人ではうまく泣けないから、そのときはまた胸を貸してくれますか?」
そのまま僕の胸の上でぐるっと体の向きを変え、じっとこちらの顔を見つめながら訊いてくる。
「いつでも貸すよ。誰かに刺されて、死ぬまでの間でよければ」
「……ふふっ……本当に不思議な人……」
メディアはまだしっかりと涙に濡れた瞳をそれでも柔らかく綻ばせると、そのまま目を伏せてゆっくりと僕のほうへと顔を近づけてきた。
最初こそ僕の体を押しのけようとする彼女だが、その力はあまりにも弱く、それが形だけの抵抗であることはすぐに分かった。
少し汗の匂いがする彼女の首筋に唇を這わせていると、やがて震える彼女の腕が躊躇いがちに僕の体を抱き返してきた。
僕は両手で包み込むように彼女の顔に触れ、正面からその瞳を覗き込む。
薄いレンズの向こうに見える灰色の瞳は戸惑うように揺れているが、震えるその唇は何かを求めるように薄く開かれていた。
僕は何も言わずにその唇を塞ぎ、そのまま――。
※
「わたし、誰にでもこんなことするわけじゃないんですよ……ううん、違うわね。そもそもハワードくらいしか、わたしをそういうふうに見てくれる人がいなかっただけ……」
言い訳をするように、僕の腕の中でメディアが呟いた。
ベッドサイドのランプがほんのりと照らす室内は、そのわずかばかりの明かりでも十分に分かるほど色味がまったく感じられない。
寝具をはじめ、あらゆるものがベージュの濃淡で、設えられている家具も生活に必要な最低限のものしか揃えられていなかった。
白ではなくベージュなのも、きっとそのほうが汚れが目立ちにくいだろうという程度の理由なのだと思う。それほどまでに、この部屋には生活感を感じない。
「気にすることないさ。こんなのは、言ってみれば交通事故みたいなもんだよ」
「ふふっ……それなら、慰謝料を請求しなくちゃいけませんね」
力なくメディアが笑う。
昼過ぎに市民学校で再び会う約束を取りつけ、夜に彼女の家の近くにあるという創作料理のお店で待ち合わせをした。
メディアは服用している薬があるということでお酒は呑まなかったが、僕が気にせず呑む姿を見て触発でもされたのか『家でなら少しくらいは』と食後に誘ってくれた。
その時点で僕は酒なんかより別のことを期待していたし、それはひょっとしたら彼女も同様だったのかもしれない。
『あわよくば』なんてことは出会ったときからずっと思っていたし、彼女も何かのきまぐれでたまには僕みたいなイケメンと寝てみるのもいいかと判断したのだろう。
「実は昨日の話を聞いてから少し心配だったんだ。君はまだ本当の意味で『卒業』できていなかったんじゃないかってね」
ともあれ、腕の中で相変わらず物憂げな顔をしているメディアに僕が言った。
彼女は僕の肩に頭の端っこを乗せたまま、ほんの少しだけその肩が震える。
「卒業……しなきゃいけないんです。もう、何処を探しても彼はいないんですから……」
「本当は、ヘレナさんと交際をはじめたあともずっとハワードのことを?」
「分かりません。ただ、わたしにとってハワードは唯一の支えで、そこにいつしかヘレナが加わって、でも、わたしはどちらからも選ばれなかった」
いよいよ本格的にメディアの肩が震えはじめ、僕はその肩をそっと抱き寄せる。
涙を流している様子もなければ嗚咽を上げているわけでもないが、仮に見た目では何ともなさそうに見えたって、心がどうかは分からない。
「お父さんもいなくなって、わたしは一人ぼっちになって、だから、一人で生きていく強さを身につけなきゃって、最近はずっとそんなことばかり考えていました」
「別に一人で生きてく必要なんて、ないと思うけどな」
「でも、わたしのことなんて、誰も……」
「そんなことはないさ。君くらい魅力的なら、いつかきっといい人が見つかるよ」
「たとえば、あなたとか?」
「僕は、その……あんまりオススメはしないかな。いつ刺されて死ぬかも分からないしね」
メディアが頭の位置を変え、レンズ越しではない瞳でぼんやりと僕の顔を見つめてくる。
その口許にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「ふふっ……そのときは死神でも名乗ろうかしら……」
「本当は、聞きたいことがあったんだ」
「分かってます。そうじゃなきゃ、わたしなんかと関わろうとは思いませんよね」
「そんなことはないけど……まあ、それについてはまた今度話そう」
口許に浮かんでいた笑みが自嘲的なものに変わるのを感じて、僕はほとんど反射的に彼女の額にキスをする。
それが功を奏したのか、あるいは『また今度』というワードが何かしらの作用を果たしたのかは分からないが、ひとまず彼女の表情がそれ以上暗くなることはなかった。
僕はメディアに見えないようにそっと安堵の溜息を吐くと、改めて言葉を続ける。
「聞きたいのは、ハワードさんの父親についてさ」
「ハワードの、お父さん……」
「君も知ってるよね。ハワードさんの父親のこと」
「……ハワードが殺されたことと、何か関係があるんですか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、事実を確認しておきたくてさ。ハワードさんは、自分の父親が誰なのか知っていたのかな」
いつだったか、セオドール・ボルジアはハワード・ジョンソンを表向きでは認知していなかったが、陰ながら経済的に援助していたと言っていた。
それが本当であれば、彼らの関係は少なくとも僕たちが想像していたよりかは良好だったのかもしれない。
ただ、あのような演説の場でわざわざ言うようなことでもないし、わざわざ言うようでもないことを言うということは、つまり、その裏に何か意図があるということでもある。
「知っていたと思います。ハワードは、子どものころから自分がお父さんに捨てられた子だと言うことにずっと心を痛めていましたから」
「そのことは、君もハワードから聞かされていたのかい?」
「はい。ハワードのお母さんも、ときどき愚痴っぽく漏らしていました。わたしたち、家族ぐるみのつきあいでしたから」
「言いづらいかもしれないけど、お母さんが死んだとき、ハワードさんは……?」
「とても荒れていました。ハワードはおばさんのことをとても大切にしていて、それなのに周りは彼を親殺しのようにあつかって……」
まるで痛みを堪えるかのように、メディアがキュッと唇を噛んだ。
僕は何も言わずにその背中を優しくさすりながら、言葉の続きを待つ。
「ハワードは、それからわたしにも辛く当たるようになってきました」
「そうなのかい? でも、君たちはずっと関係を続けてたって……」
「ハワードの気持ちも分かるから、受けとめてあげなきゃって。おばさんがハワードのお父さんを脅迫しはじめたのは、わたしのお父さんのせいだから……」
「なんだって?」
メディアの父親――娘に乱暴をはたらいている時点で歪んだものを抱えていそうな人物とは思っていたが、すでにそこまで落ちぶれていたのか。
「それはつまり、君のお父さんが焚きつけたってこと?」
「はい。その当時、仕事をクビになってお金に困ってたから、おばさんを利用してハワードのお父さんからお金を巻き上げようとしていたんです。ハワードはおばさんを必死にとめていたみたいですけど、けっきょくあんなことに……」
「ひょっとして、君のお父さんとハワードさんのお母さんは……」
「はい。たぶん、そういう関係だったんだと思います」
これはまた随分と歪んだ関係だな……。
「ハワードさんのお母さんは、警察の捜査では自殺となっているようだけど……」
「そうみたいですね。でも、ハワードは殺されたと思っているみたいでした。彼が《地上の人々》の活動に傾倒していったのも、ちょうどそれからです」
ハワードが《地上の人々》の一員だったことは、はからずもボルジア本人の口からすでに聞かされている。
しかし、あのときと今ではその事実も随分と違う意味を持つように感じられた。
ボルジアが僕ほど暢気な性格じゃなければ、ハワードが何を思って《地上の人々》に近づいたのかに気づいていないはずがない。
それでいてあのような言いまわしができるということは、おそらく最初からハワードの死を政治利用するつもりだったからだろう。
「ハワードは、自ら《地上の人々》に近づいていったのか……」
「復讐のためだったのか、他に何か目的があったのかは分かりません。もともとハワードのお母さんも《地上の人々》で要職に就いていたそうなので……」
まあ、それは当然か。でなければ、そもそもエリザ・ジョンソンとボルジアが接点を持つこともない。要職に就いていたとなれば、自然とその距離も近かったことだろう。
だからこそハワードも《地上の人々》に近づきやすいと考えたのかもしれないが、もし彼にその危険性を顧みる冷静さがあれば、悲劇が繰り返されることもなかったのだろうか。
「でも、結果的に《地上の人々》に入ったこと自体は良かったんだと思います」
一方、何も知らないメディアには、何故かその行動が好意的に受け取られているらしい。
不思議に思っていると、彼女はあまりにも意外な事実を口にする。
「おかげで、ヘレナとも出会えましたから」
「ヘレナ……」
そうか。彼女も《地上の人々》だったのか。
「彼女は魔術によって苦しむ人々を救うだけでなく、心に傷を抱えた人や自分の人生に思い悩むを人を導く導師として活動しているんです。わたしも彼女によってどれだけ心を救われたか……それに、きっとハワードも……」
「君は本当に、ハワードさんを大切に思っていたんだね」
「わたしは……」
僕の腕の中で、メディアが急に嗚咽を漏らしはじめる。
何がきっかけなのかは分からない。ただ、これまでハワードの死に対して抱え込んでいた感情が、ここに来て一気に溢れ出したのだろう。
口では何と言おうと、メディアの心は常にハワードとともにあった。
きっと彼女はハワードから『卒業』したかったのではなく、自分への依存を断ち切れないハワードを『卒業』させたかったのではないかと思う。
そのために、自分の感情を押し殺してでもハワードと距離を取った。
自分を救ってくれたヘレナがハワードの心も救ってくれると信じ、悲しみを乗り越えた彼が再び光の下を歩めるようになることを願っていたのだ。
――だが、もうその願いが叶うことはない。
「……っ……っ……ごめ、なさい……っ……不思議、ですよね……っ……もう、何年も、泣くことなんて、なかったのに……っ……」
嗚咽まじりに言うメディアの頭を、僕はそっと胸のうちに抱き寄せる。
「泣けるなら、我慢せずに泣けばいいんだ」
うなじのあたりを優しく撫でながら、僕が言った。
「世の中には、泣きたくたって泣けない人もたくさんいる。だから、泣けるならいっぱい泣いて、怒れるならいっぱい怒って、そのあとは美味しいものをいっぱい食べるんだ。それさえできれば、たぶん大抵のことはどうにかなる」
我ながら無責任な発言だとは思うが、それでもメディアは少しだけ笑ってくれた。
「……きっと一人ではうまく泣けないから、そのときはまた胸を貸してくれますか?」
そのまま僕の胸の上でぐるっと体の向きを変え、じっとこちらの顔を見つめながら訊いてくる。
「いつでも貸すよ。誰かに刺されて、死ぬまでの間でよければ」
「……ふふっ……本当に不思議な人……」
メディアはまだしっかりと涙に濡れた瞳をそれでも柔らかく綻ばせると、そのまま目を伏せてゆっくりと僕のほうへと顔を近づけてきた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです
NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
役立たずと言われダンジョンで殺されかけたが、実は最強で万能スキルでした !
本条蒼依
ファンタジー
地球とは違う異世界シンアースでの物語。
主人公マルクは神聖の儀で何にも反応しないスキルを貰い、絶望の淵へと叩き込まれる。
その役に立たないスキルで冒険者になるが、役立たずと言われダンジョンで殺されかけるが、そのスキルは唯一無二の万能スキルだった。
そのスキルで成り上がり、ダンジョンで裏切った人間は落ちぶれざまあ展開。
主人公マルクは、そのスキルで色んなことを解決し幸せになる。
ハーレム要素はしばらくありません。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
病弱少年が怪我した小鳥を偶然テイムして、冒険者ギルドの採取系クエストをやらせていたら、知らないうちにLV99になってました。
もう書かないって言ったよね?
ファンタジー
ベッドで寝たきりだった少年が、ある日、家の外で怪我している青い小鳥『ピーちゃん』を助けたことから二人の大冒険の日々が始まった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる