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第30話【雇用と条件】
しおりを挟む食事が終わると、文は穏やかに微笑んで言った。
「せっかくですから、少しお庭でも散歩なさってはいかがですか」
匠は軽くうなずき、幸に視線を向ける。
「では、二人で少し歩きましょうか」
幸は小さく頷き、匠の後ろを一歩下がって歩き出す。
庭に出ても、手を取ることも、肩に触れることもなく、ただ静かに並んで歩く。
歩きながら、幸の頭の中は、どう仕事の話を切り出すかでいっぱいだった。
邸宅から少し離れたところで、匠が足を止める。
そして、静かに幸へと向き直った。
「幸さん、俺に話したいことがあるのでは?」
どうしてわかったのだろうか――幸は一瞬、息をのむ。
だが、すぐに口を開いた。
「……実は、お願いしたいことが」
「お願いしたいこと?」
匠は軽く眉を上げ、興味深そうに見つめた。
「匠さん、IT・テクノロジー系の会社を設立されるんですよね?」
「あぁ、今月中には立ち上げる予定だが」
幸は小さく息を吸い込み、決意を込めて言葉を続けた。
「あの……私を秘書として雇っていただけませんか? もし雇っていただけるなら、
すぐに会社を軌道に乗せてみせます。絶対に後悔はさせません。」
その声には、迷いのない強い意志が宿っていた。
幸自身も、自分ならやり遂げられるという確信があった。
匠はしばらくの間、幸の表情を見つめてから口を開いた。
「幸さんが秘書……それは心強いですね」
内心、匠は「面白い女性だ」と思った。
西園寺財閥の孫であれば、働かずとも裕福な暮らしが保証されている。
それなのに――お見合いの席で、自ら就職を志願するとは。
これまで欲にまみれ、男に媚びるような女ばかりを見てきた彼にとって、幸の姿勢は新鮮で、興味を惹かれた。
「幸さんの願いは聞き入れてもいいですよ。ただし、その代わりに
――俺の願いも聞き入れるという条件付きですが」
無謀なお願いだとわかっている。
簡単に受け入れてもらえるとは思っていなかった。
「……条件は、なんですか?」
幸の胸に、一抹の不安が走る。
「俺の許嫁になることです」
「えっ……いや、その……でも、まだお会いしたばかりで……」
あまりに突然の申し出に、幸の思考は混乱した。
「俺では、不満かな?」
「い、いえ……不満というわけではありませんが……」
確かに、外見だけでいえば匠は魅力的な男性だと幸は思う。
それに、西園寺家に入った以上、いずれは誰かと結婚することになる。
それなら――人を見る目が確かで、お祖父様のお墨付きでもあるこの男性で良いのではないか。
混乱の最中、そんな考えがふと浮かんだ。
――でも、性格はどうなのだろうか。
――お祖父様が認めた人なのだから、仕事はできるはず。
でも、圭吾のように人を軽視するようなところはないだろうか。
やはり、急には決められない。
まだ気持ちの整理がつかずにいると、
「まずは――付き合ってみる? お互いを知るために」
匠が落ち着いた声でそう提案してきた。
その言葉に、幸はほっと息をつく。
許嫁という言葉に一瞬身構えたものの、匠が譲歩してくれたことを感じ、胸の奥が少し和らいだ。
「……わかりました。お付き合いから、お願いします」
「それでは――今日から、恋人同士ということで」
匠はそう言うと、ふと思い出したように尋ねる。
「そうそう。付き合うにあたって、俺に対して何か要望はある?」
「要望……ですか」
幸は少し考え、そして、口を開いた。
「私に対して、絶対に嘘はつかないって約束してくれますか?」
「君に対して、嘘はつかないよ」
「……それと、浮気する人は嫌なので、浮気はしないでください」
「しないよ」
匠は、躊躇なく即答する。
「他には?」
「あの……私を、ないがしろにしないと、約束してください」
「常に君を尊重しよう」
幸は、それ以上は思いつかなかった。
静かな沈黙が流れる。
「他には?」
幸が小さく首を振ると、匠は目を細め、
「今、君が俺に望んだことは――俺も君に望むことだ。幸さんも、守れる?」
穏やかな声で問いかける。
「もちろん、守れます」
その返事に、匠の口角がわずかに上がった。
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