【完結】クズ男と決別した私の未来は輝いている。

カシスサワー

文字の大きさ
70 / 87

第70話【幸のピアノ】

しおりを挟む
 幸は、ピアノの前に腰を下ろした。

 会場の空気が、一瞬にして張りつめる。

 ――この美しい女性は、一体どんな演奏をするのだろうか?

 集まった人々の視線が、一斉に幸へと注がれていた。

 緊迫した雰囲気の中、幸の演奏が始まった。

 鍵盤から流れ出したのは、誰もが一度は耳にしたことのある、あのメロディー。

 ――“猫踏んじゃった”。

 会場は、一瞬、時が止まったように静まり返る。

 ぽかんとした空気が数秒流れ、その後「え?」「どういうこと?」と戸惑いのざわめきが広がっていった。

 洋子は思わず「ぷっ」と吹き出し、口元を押さえてクスクス笑っている。

 一方、由紀は怒りで顔色を変えていた。

 まさか、対決舞台で、子どもでも弾ける“猫踏んじゃった”を披露するなど、想像すらしていなかったのだ。

 侮辱された――そう感じた由紀の肩が、怒りに震える。

 そんな由紀の気配を背に感じながらも、幸は淡々としていた。

 短い演奏を終えると、すっと背筋を伸ばし姿勢を正す。

 そして――

 次の瞬間。

 澄み切った鐘の音のような一音が、空間に落ちた。

 それはまるで光の粒が弾けるようで、ざわめきが一瞬で消え、観客の視線が一斉に幸へと吸い寄せられる。

 幸の指が動き出す。

 軽やかで、速くて、美しい。

 “ラ・カンパネラ”

 その超絶技巧で知られる楽曲を、幸は――まるで呼吸をするように弾き始めた。

 右手の旋律が、光の帯のように一気に駆け上がっていく。

 飛ぶように跳ねる音階。

 細い指からは想像できないほどのエネルギーとしなやかさが、ピアノへと流れ込む。

 由紀の顔から、みるみるうちに血の気が引く。

 幸の指先は、水の流れのように淀みなく動き続ける。

 その音は、激しく踊り、繊細に震え、そして優雅に広がった。

 ただの技巧ではない。
 音のひとつひとつに、感情が宿っている。

 匠も驚いていた。

 ――これは…“プロの領域”だ。
 ――いや、それ以上かもしれない。

 音が跳ね、光となり、会場全体を包み込んでいく。

 その場にいる誰もが、幸の世界に引き込まれていった。

 そして――

 ラストに向けて、左右の手が大きく鍵盤を跳ね回る跳躍フレーズへと突入する。
 幸の指先は、まるで閃光そのもののように鍵盤の上を駆け抜けていった。

 そして――

 最後の音が静かに消えた瞬間、会場全体の時間がふっと止まる。

 会場が静寂に包まれた。

 幸の手が膝の上に置かれた瞬間、張りつめていた空気が弾けるように破れ、割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 誰の目にも、勝者は明らかだった。

 ショックのあまり、由紀の体は小刻みに震えた。

 ――まさか……そんなはずがない。

 有名音大出身の自分が負けるなど、由紀は夢にも思っていなかった。

 一方、幸はというと、自分がこのような形で由紀に一矢報いることができるとは、想像していなかった。

 胸の奥がスッとし、満足感が広がる。

 微笑みを浮かべたまま、幸はゆっくりとステージを降りていった。

 圭吾は、幸の演奏を聴き、

 ――まさか……噓だろ。

 驚きを隠せない。

 圭吾は、ステージを降りる幸の姿をじっと目で追っていた。

 幸は、余韻の残る微笑みを浮かべたまま、真っ直ぐに匠のもとへと歩いていく。
 その姿は、自信と誇りをまとい、どこまでも凛としたものだった。

 それを目にした圭吾の胸中では、激しい嫉妬、幸を見誤っていたことへの後悔、
 そして――もう一度彼女を取り戻したいという強い感情が、渦を巻きながらぶつかり合う。

 会場に集まった多くの招待客たちは、

「美しいだけではない」

「教養も品格もある」

 そんな評価を口々にし、幸の見事な演奏と立ち振る舞いに心を奪われていた。

 同時に、その幸を堂々と隣に連れ添っている匠に対しても、

 ――やはり水沢社長は只者ではない。

 ――あの女性の隣にいて、見劣りしないのは彼だけだ。

 匠の男性としての格の高さを皆が認めていた。

 その光景すべてが、圭吾の胸をさらに締めつけていく。

 圭吾と由紀が失意のどん底に沈む一方で、幸を含む四人は、勝利の余韻に浸りながら明るく談笑していた。

「まさか、あの場面で“猫ふんじゃった”を弾くなんて思わなかったわ」

 洋子が楽しげに言う。

「一応、ウォーミングアップは必要でしょ?」

 幸が肩をすくめる。

「“猫踏んじゃった”がウォーミングアップなの?」

 信が首を傾げた。

「昔から、あれを弾くとモチベーションが上がるの。練習前によく弾いてたけど、
 さすがに発表会じゃ弾かないわよ。でも今日は……面白そうだったから、つい」

 幸がクスッと笑う。

「幸が”猫踏んじゃった”を弾き始めた時の、あの女の顔……最高だったわよ。
 完全にバカにされたと思ったんでしょうね」

 洋子の言葉に、

「一応、そこもちょっと狙ってた」

 幸が、おどけた感じで言葉を返す。

「でも、プロ並みに上手くて驚いたよ。誰に習ってたの?」

 信が感心したように尋ねた。

「一流の先生に教えてもらってたけど、母がね、“この曲さえ弾ければ、何でも弾けるようになる”と言って、楽譜を見なくても弾けるくらいまで、みっちり練習させられたの。まあ……そのおかげで、今日は勝てたようなものだけどね……」

 圧倒的な難易度で知られるピアノ曲”ラ・カンパネラ”。
 この曲でなければ、由紀には勝てなかっただろう。

 小さい頃から、習い事に明け暮れていた日々。

 もしかすると、母・綾乃は、いつか今日のような場面が訪れることを予感していたのだろうか。

 母のおかげで今こうして勝てたのだと思うと、幸は胸の奥から感謝の気持ちが湧き上がるのを感じていた。

しおりを挟む
感想 57

あなたにおすすめの小説

フッてくれてありがとう

nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」 ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。 「誰の」 私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。 でも私は知っている。 大学生時代の元カノだ。 「じゃあ。元気で」 彼からは謝罪の一言さえなかった。 下を向き、私はひたすら涙を流した。 それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。 過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!

ぽんちゃん
恋愛
 ――仕事で疲れて会えない。  十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。  記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。  そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?

これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー

小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。 でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。 もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……? 表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。 全年齢作品です。 ベリーズカフェ公開日 2022/09/21 アルファポリス公開日 2025/06/19 作品の無断転載はご遠慮ください。

さようなら、お別れしましょう

椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。  妻に新しいも古いもありますか?  愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?  私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。  ――つまり、別居。 夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。  ――あなたにお礼を言いますわ。 【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる! ※他サイトにも掲載しております。 ※表紙はお借りしたものです。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...