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第7話 殺された記憶
しおりを挟むその言葉は浴室の反響音にかき消されることなく、僕の鼓膜の奥深くに突き刺さった。
――生まれた時は、男の子だった。
彼女の白い肌、滑らかな肢体、そして股間に残された奇妙な痕跡。それらすべててが、その一言によって強引に結びつけられていく。
信じがたい事実のはずなのに、なぜかすとんと胸のなかに落ちる。身体が理解する。
彼女が放つ人を寄せ付けない冷たさや、どこか自分自身を客観視しているようなアンバランスさの理由がそこにあるような気がしたからだ。
「……お湯、入ろう。冷えるよ」
蓮菜さんは僕の動揺をあえて無視するように、さっさと浴槽へと足を踏み入れた。
透明なお湯が波打ち、彼女の身体を飲み込んでいく。
促されるまま、僕もまた浴槽へと入った。お湯は少し熱めで、凍えていた身体の芯にしみ渡るような心地よさと同時に、逃げ場のない液体の中に閉じ込められるような閉塞感を感じて。それでも僕の表情はどこか緩んだのだろう。狩野さんはふふと声を出して笑った。
「気持ちいいでしょ。でもね、本当は生理のときはお湯に浸からないほうがいい。感染症のリスクがあるし、家族がいる場合は……お互い、気持ちわるいから」
「あ……は、い」
広い浴槽の中で僕たちは向かい合って浸かった。
お湯の底で僕と彼女の足先が触れ合う。肩に湯をかける彼女の肌は陶器のように透き通り、滑らかだった。でも、いまの僕には、その美しさがどこか作りものめいた、あるいは……この世のものではないように感じられたのだ。
沈黙が痛い。換気扇の回る低い音が耳鳴りのように続く。
彼女は天井を見上げたまま、独り言のように語り始めた。
「……六歳の誕生日の、少し前、だったかな」
湯気に霞む声。遠い昔のおとぎ話を紐解くような調子だった。
「ある朝、目が覚めたら、世界が変わっていたの。身体が熱くて、骨がきしむように痛くて……布団をめくったら、変わっていた。いまの君みたいにね」
彼女は水面から手を出して、自分の胸元をさすった。
「両親はパニック。当然よね。自慢のひとり息子が一夜にして女になってしまったんだから。すぐに大きな病院に連れて行かれた。毎日、検査漬けにされてさ。でも、病的な異常はなにも見つからなかった。遺伝子レベルでの突然変異。医師はそう結論づけた」
「突然変異……」
僕はオウム返しに呟くことしかできない。
「公にはされていないけれど、数千人にひとりの確率で起こる現象なんだって。この国だけでも同じような状況の人間はたくさんいる。ただ、みんな隠しているだけ。社会のシステムが、男から女へ、あるいは女から男へ、自然に変わってしまう人間を想定していないから」
彼女の口調は淡々としていた。まるで、自分以外の誰かの症例を報告しているかのように。
「医師にね、言われたんだ。ホルモン治療を行えば、男性としてのかたちを維持したまま生きることも可能だって。心と身体の乖離を防ぐために、そういう選択肢もあるって」
ちゃぷん、と彼女が首を傾げるたびに、お湯が跳ねる。
「でも、わたしの両親はそれを望まなかった」
「え……どうして?」
「世間体。名家である狩野家に、そんな奇妙な体質の息子がいるなんて知られたら困るでしょ。だから彼らは、事実をねじ曲げた。わたしは、最初から娘だった、ってことになったの」
彼女の瞳がゆらりと僕を捕らえた。
その瞳の奥に、諦めと、消えることのない冷たい怒りの炎を見たような気がした。
「すぐに家族は遠くへ引っ越して、いろんなことに裏で手を回して整えた。わたしね、元は蓮《れん》っていう名前だったんだ。でも、蓮は……殺された。存在を消されたの。写真も、服も、思い出も、ぜんぶ……焼かれて、捨てられた。そうして、狩野 蓮菜っていう人形が作られた」
僕は呼吸をすることも忘れて、彼女の伏せた長い睫毛を見つめていた。
狩野さんが纏う空気。凛として透明で、空疎で、いのちを感じさせない色合い。過去を焼却された彼女が、男性としての生命を強制的に捨てさせられた彼女が持たざるを得なかった、それは鎧だったのだ。
彼女は、女性として完成されている。
けれどその奥底には、殺された少年の亡霊がいまも彷徨っている。
「……君の、その……痕跡、は、さ」
恐る恐る、僕は尋ねた。
「手術とか、しなかったの……?」
「医師は勧めてきた。でも、わたしが拒否した」
彼女はお湯の底に沈む自分の下腹部を見つめた。
「残したかったんだ。わたしがかつて、僕、であった証拠。蓮が生きていた証。そう……うん、墓標のようなものかな」
重い沈黙が、浴室を満たす。
湯気が濃くなり、息苦しさが増していく。のぼせ始めたのか、視界がちかちかと明滅した。
彼女の告白はあまりにも重く、僕の脆弱なこころはその全部を受け止めきれない。
でも、ひとつだけ分かったことがある。
彼女が僕を見る目。あの執着めいた視線の意味。
それは、同類を見つけた喜びなどではなかったのだ。
「……あがろうか。のぼせちゃう」
蓮菜さんが立ち上がった。水音が大きく響く。
彼女の身体から滴るお湯が、まるで涙のように見えた。
バスタオルで身体を拭く間も、会話はなかった。
彼女は手際よく僕の身体を拭き上げ、用意してあった新しい下着――装飾のない、シンプルなコットンのショーツ――を渡してくる。
そして、先ほど手渡されたポーチから、小さなパッケージを取り出した。
初めて見る、生理用品。
「よく見てて。使い方、教えるから」
テープを剥がす音。ショーツのクロッチ部分に貼り付ける手つき。羽を折り返す手順。
彼女の説明は理科の実験手順のように正確で、そこに恥じらいや躊躇いは一切ない。
僕は言われるがまま、自分の手でそれを再現する。
柔らかいコットンの感触が股間に触れる。
「これで、とりあえずは大丈夫」
下着を履き終えた僕を見て、彼女は満足そうに頷いた。
そして、洗面台に手をつき、鏡の中の僕を見つめた。
「ねえ、日高……ううん、ひより、って呼んで良いよね」
「……うん」
「ありがと。じゃあ、ひより」
「……」
「どうしてわたしが君を助けたか……分かる?」
鏡越しに目が合う。
知っている。理由はもう、わかっている。でも、情けなかった。それに……そのことが、かえって今の自分の状況が深刻に思われて、受け入れたくなかったのだ。
だから、わからないふりをした。
「……僕が、狩野さんと同じだから?」
「ちがう」
即答だった。
彼女はゆっくりと振り返り、僕の肩に手を置いた。
その手は冷たく、けれど力強く。
「君を、守りたかったんだ。男子としての、君を」
聞きたくない言葉。
俯き、応えない。
「身体なんて関係ない」
彼女の声が熱を帯びる。
「生理があろうが、胸が膨らもうが、おちんちんがなくなろうが……そんなことは、君の本質とは関係ないの。細胞の配列が変わっただけで、魂まで書き換わるわけじゃない」
彼女の指が、僕の肩に食い込む。
「わたしは、殺された。周りの大人たちに、環境に、女として生きることを強制された。抵抗する術も知らなかったから……でも、君は違う。君はまだ、選べる」
「……こんな、身体で……?」
「君がどう生きたいか、君が決めるの。男として生きると決めるなら、その身体のままでも男として振る舞えばいい。誰に何を言われようと、君が君自身を定義するの。わたしが、君の盾になる。わたしが、君の男としての尊厳を守ってあげる」
彼女の言葉は、僕には相反するふたつの意味に聴こえた。
救済と、拘束と。
僕は、男だ。男として生きたいのではない。男、なんだ。
でも。男として生きる? この状態で?
まいつき血を流し、身体が丸みを帯び、声が高くなっていく中で、僕は男だって言い続ける。叫び続ける。それは、狩野さんが経験したものとはまた別の、終わりのない屈辱ではないのか。
「……むり、だよ……」
「無理じゃない。できるよ。医療も発達してるし、いろんな制度もあるし」
「できないよ! 今だって、狩野さんに助けられなきゃ、自分のことなのに……」
叫んだ瞬間、視界がぐらりと揺れた。
急激な立ちくらみ。
貧血だ。生理による失血と、入浴による血管の拡張、そして狩野さんの告白による精神的負荷。それらが一気に限界を超えたのだ。
「あっ……」
床の白いタイルが、斜めにせり上がってくる。
天井のライトが光の尾を引いて流れる。
世界が回転し、遠のいていく。
「ひより!」
蓮菜さんの声が、スローモーションのように聞こえた。彼女が伸ばした手が、僕の身体を支えようとする。その感触を最後に、僕の意識はプツリと途切れた。
暗い水の底へと、沈んでいくように。
◇
……匂いがする。
高級な柔軟剤の香りと、微かな体臭。そして、甘い花の香り。
重い瞼を押し上げる。
視界に入ってきたのは、知らない天井だった。間接照明のほの暗い光が、洒落たモールディングの陰影を浮かび上がらせている。
ここは……どこ?
思考も身体も泥のように重い。動こうとするが力が入らない。柔らかいベッドのスプリングに沈み込んでいる。
「……気がついた?」
すぐ側で、声がした。首だけを動かして横を見る。
ベッドの脇に、蓮菜さんが座っていた。
長い脚を組んでこちらを見下ろしている。逆光で表情はよく見えないが、瞳だけが昏く輝いているように見えた。肩紐のある、黒い下着のようなものだけを身に着けている。
「倒れたのよ、君。貧血ね」
静かな声。
僕は何か言おうとしたが、喉が渇いて声が出ない。
布団がかけられている。僕は、彼女のベッドに寝かされているのだ。
ふと、足元に違和感を覚えた。
布団の中で、何かが動いている。
温かい感触。
「じっとしてて。まだ顔色が悪いわ」
彼女の手が、布団の裾から差し入れられていたのだ。
シーツ越しではない。直接、僕の足に触れている。
ほっそりとした指先が、僕の足首を掴み、そこからゆっくりと、ふくらはぎへと這い上がってくる。
「っ……か、狩野……さん……?」
「可哀想なひより。辛い、よね」
慈しむような声色とは裏腹に、その指の動きは粘着質だった。
男としての君を守る。そう言った彼女の言葉が呪いのように蘇る。
指先が膝の裏を撫で、さらに上、太ももへと侵入してくる。拒絶したいのに身体が動かない。恐怖なのか、それとも……。
音が遠ざかる。
うるさいほどに響く、僕の心臓のそれを除いて。
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