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教え子

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高校を卒業してから、奴の事は数年、記憶から抹消してしまっていた。
何故なのか、それはあまりにも奴の在学時の素行が悪く。
本当に、どうしようもないと言って良い程の…手をやく生徒だったからだ。

あれから二年の時が流れて、恐らくは成人し、大学に通っているものだろうと思っていた。
のに、まさか奴とこんな形で再会してしまうなんて。

あ、ちなみに俺はと言うと…精神的に少し疲れてしまい教職を辞していた。
今は、オンラインで塾の講師をしている。
一人一人の学力に応じて、根気よく教えられる。
素行に振り回されたりすることも、ほぼ無い。
まだまだ、転職して間もないのだから、特に頑張り時だと思っている。

『舘野センセ?』
わずかに鼻にかかる声で、すれ違いざまに奴の声が聞こえた気がした。
まさか。今は平日で、昼前…。
いや、大学生ならこんな時間に街中でほっつき歩いてても、なんらおかしくは無いだろう。
俺は、参考書をもとに授業の資料探しをしていた。
一応、自分の周囲を何となく見渡しても、奴はいなかった。

『下、した…!』
意味が分からなかった。本屋の階段の行き交いの途中で
確かに声のする、階下を覗き込んだ。
ラベンダー色の髪が目を惹く。
嫌と言うほど聞いた声。
『舘野ン、でしょ?ほら、やっぱり』
奴、なのだろうか?思わず階段を下りていき青年を前にして
「なぁんじゃこの頭は…っ!!」

あぁ、ついつい昔の癖で、大声を出してしまい
慌てた様子の奴が俺の前に、ズイッとカフェのカップを突き出した。
『うるさいって。ほら、舘野ンも…これ飲んだらさぁ、怒ってるのアホくさくなるよ?』
俺は、正気に戻って奴のゆるゆるなパーカーの上から腕を掴んで
本屋の外へと出た。
資料は、この際後だ。
『もぉ、袖さぁ…引っ張んないでよ。ただでさえブカブカなのに。』
俺は、奴の腕の細さに驚いた。

「こんな時間にこんな場所で、何してる?大学は?」
俺は、息を整えながらへらへら笑っている奴を前にしてネクタイを直した。
『ぁ~、大学ね?金なくてー?やめちった。』

やっぱり、俺は完全にこの粕谷(奴の苗字)にはなめられているんだろう。
本当に、苦労して下駄をはかせて推薦したっていうのに。
大学を辞められたんだったら、その苦労も水の泡と言うものだ。
「ご両親は、働いて…いるんだろう?」
粕谷は、俺の話を聞きながら、本屋の前の空きビルの階段に少しだけ上がって
『親、もう居ないんだって。俺、一人ヨ?舘野ン』
あー--?
騙されないぞ…!と、言いかけたが数か月前の新聞記事を、思い出した。

「確か、粕谷のご両親は…車で」
『夜中に、出かけたりするからだよ。俺は、一人で勉強してたけどさ。急に、警察から電話あってー。』
思い出した。不運な事故に遭ってしまわれた事を。
俺は、本来ならば葬儀に出るべきところを、あまり精神状態が良くなかった為、
代理をお願いしたのに。
まさか、忘れていたなんて。
「すまなかった。俺は、自分の事しか考えてないクソ野郎だ。」
粕谷は、どこか眩しそうに瞳を細めながら、飲み物を静かに口にしている。

『…大学は、もういいんだ。今は働いてるし。これでも少しは目標だってあるからね。』
えらく、まっとうになったものだと思いながら俺は哀しいほど綺麗に染まってしまった
粕谷のラベンダー色の髪を撫でた。

どきっとする程に、髪は柔らかで滑らかだった。
『…えっち。』
「な、何でだよ!?」
『まだ、何にもしてないのに…髪だけ触るなんてさー。そんだからDTはヤダ。』
ディーティー?
「あ、悪い。なんだ?そのDTって」
『どーてー。でしょ?舘野ンって。みんな、昔から言ってたよ?彼女に逃げられたって』
このクソガ…。
「誤解だ。まぁでも、別れたのは否定しない。で、仕事は、何してるんだ?」

しかし、形の良い頭だ。手を外すと粕谷は俺を見上げて
『舘野ンみたいな?いかにも、欲求不満そうなお兄さんを…スッキリさせてあげるお仕事♪』
うわぁ…、嫌な予感はしてただけに。
「本気か?そんなにお金に困ってるなら…」
『冗談だよ。でも、ちょっとしたお店で夕方から働いてはいるけど。いかがわしくはないよ。』
信用できない。全くもって。
「どんな店なんだ?見に行く…。」
『無理だよー。舘野ン、お席代だけでいくらすると思ってんの?』

残念ながら、粕谷は顔だけは…無駄に可愛げがあるからな。
「黒服か?」
『うん、今のところはね。でも、声はかけて貰ってるんだけど…まだ決心がつかなくてさ。』
これ以上深い所に行くのかと思うと、さすがに元教え子が心配である。
いくら、何度も喧嘩?になったりした関係性と言えども
このまま、粕谷を放っておいていいのだろうか?と気がかりだ。

「暮らしは、何とかなってるのか?」
『とりあえずは…。』
「でも、実家は?」
『売りに出した。俺はもう、自立してるし。』
思ったより、あっさりしている粕谷に驚いた。
寂しくは無いのだろうか?なんて、聞けるはずがない。
俺だったら、寂しいに決まっているからだ。

「この前、冷凍庫から…お前から没収したチョコレートが出て来たぞ。」
『まだ、食べてなかったの?舘野ン、ほら、そういうトコだってば~』
言わなきゃよかった。
「腐ってなかった。ただ、ものすごい硬かった。」
『えー、食べちゃったの?』
「まさか。取り出して見ただけだ。」
さすがに、もう食べられはしないだろう。粕谷が卒業する少し前に
ふざけて俺に渡してきたチョコレートだ。

また、くだらない仲間同士での罰ゲームだと思っていた。
ただ、その時の粕谷は頬を赤くしながら、本当に照れくさそうに
瞳をキラキラさせていたのだけは、今でも忘れない。
不覚にも愛おしくて、少しだけ俺も嬉しかったのは事実だった。
『俺ね、結構…舘野ンの事、好きかもーって…。』
とか、フワフワな発言が今思えばコッチまで恥ずかしくなりそうだったけど
抱き締めたいほどには、俺も…思い入れのある教え子だった。

「生きていくって、大変だろ?千都。」
『うん…。たぁいへん。ちょっとー、勝手に下の名前で呼ばないでくれます?耀司…』

ひとしきり笑い合って、俺は粕谷にスマホの連絡先を教えといた。
俺が、もう教職じゃなくても。
関わった教え子の事は、気にかかるものだ。
『舘野ン、ちょっとサ…元気分けてよ。』
粕谷は、俺のネクタイの端を軽く引いて立ち上がりざまにキスをした。
ふわっと、甘い香りが一瞬鼻をかすめた。

「おい…!?」
『あはは、っゴメン。でも、好きなんだよ』
「…はぁ?お前が、俺を?」
粕谷は背を向けて歩き出し、後ろ手に手を振っている。
『結構、前からだったけどねー。』

肩まで伸びた髪が、歩くたびに微かに弾んでいる。
だんだんと綺麗になっていく。
遠い所にいると思っていた粕谷が、まさか…俺を?
好きだなんて。考えにくい。
でも、確かにバレンタインの時の奴は様子がおかしかった。
もう少し、真剣に向き合っていたなら。
何かが、変わっていたのだろうか?

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