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番外編 騎士が花嫁こぼれ話
47. 孔雀羽根の耳飾りの男
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始まりの森。
その奥の「神殿」と呼ばれるには小さくて粗末な建物の中で、騎士のクリスは壁にもたれかかり目を閉じて歌を聞いていた。
歌うのは最近、歌巫士として歌を捧げる白薔薇のインティア。
彼は月に数回、練習と歌納めのため、王都から始まりの森へ来ていた。
元高級男娼で、今は第三騎士団団長でマグリカ新王の寵愛も激しいクラディウスの恋人、そしてその人の目を惹いては止まない美貌のせいでとても目立っていた。
そのため、インティアが一人で馬が操られるようになっても、クラディウスは必ず護衛をつけて森に通わせていた。
大概が、ジュリアスかロバート・ジャスティ兄弟、そしてクリスの中から選ばれていた。
ジュリアス以外の三人は、前王が亡くなった後の混乱時にインティアの護衛をしたことがあるので、その延長のようなものだった。
ただ、ジュリアスはクラディウスがいつも傍に置いているし、ロバートはクラディウスの右腕になるため責任の重い仕事を回されることが多く、ジャスティは別の任務を申し付けられているのかふらりと出かけていくことが度重なるので、インティアのお供はクリスとなることが多かった。
クリスはこの護衛を嫌いではなかった。
インティアが馬を下り神殿に入っていくと、馬に水や餌をやり軽く世話をするとクリスも神殿に入っていく。
その頃には練習なり、歌納めの儀式なりがが始まっているので、静かに壁にもたれ、目を閉じて歌に聞き入っていればいい。
練習や儀式は歌巫士のインティアと神官のテヤの二人が執り行う。
クリスは美しい歌を聞くのが好きだった。
今日は練習の日だった。
小さいのに天井がやたらと高い神殿全体を震わすような歌を歌うには、インティアはまだ経験が不足していた。
それに神が望む歌は何百何千とあり、日によって違うため、とにかく沢山の歌を歌いこなすことが歌巫士には求められる。
インティアは神殿で白い長衣に着替え、必死に歌っている。
「あなたは本当によい耳をお持ちですね」
不意に目の前で声がして、クリスは目を開けた。
特に気配を感じなかったはずなのに、そこには純白の神官服を着たテヤが微笑んでいた。
灰色の長い髪を高く結い上げ、朱塗りの簪で留めている姿は凛としている。
そして緑と青の瞳はどこまでも透明で吸い込まれそうだ。
「どこで音楽の勉強を?」
テヤはクリスの横に立つと、歌い続けるインティアのほうへ視線を投げた。
「いや、特には…」
「そうですか?」
テヤはやや含みを持たせたように問うたが、クリスはそれに気がつかず孔雀の羽根の先を耳元に揺らした妖しい男のことを思い出していた。
孔雀の羽根というものを初めて見たのは、その男の耳飾りでだった。
まだ4歳のクリスは青い大きな目のような模様の周りを虹色に輝く緑の美しいものが何だか知らなかった。
男は王都の街角に立っていた。
褐色の肌は瑞々しく、色鮮やかなターバンからこぼれる髪は闇に溶けてしまいそうに黒々としていた。
深い夜と同じ瞳は時にきらきらと輝き、目の中に星が煌めいているのではないか、とクリスは思っていた。
その美しい立ち姿に見とれた。
初めて目が合ったとき、一瞬、クリスのほうを見て微笑んでくれた。ように見えた。
今となってはそれが本当だったのか、自分の願望だったのか、確かめることもできない。
孔雀羽根の耳飾りの男は、自分の前に複雑な模様が打ち出してある金属の器を置くとそれはそれは美しい声で歌い始めた。
道を歩く人の何人かはそれに足を止め、美しい男に驚き、そして歌に酔いしれた。
男は吟遊詩人であった。
小さなリュートをつま弾きながら歌うこともあったが、それよりもなにもないところから音をのびのびと紡ぐほうが好きなようだった。
沢山の歌を知っていた。
観客からリクエストが来ると、知らない歌はなかった。
神々の戦いの歌から、古今東西の子守唄、豊穣の祝いの歌、そして片田舎の恋歌までなんでも知っていた。
クリスが特に好きだったのは、即興で男が歌う歌だった。
若い男が遊び半分に硬貨を投げ入れ即興の歌を望んだときには、吟遊詩人は男が秘めていた恋心を朗々と歌い上げた。
驚きと恥ずかしさを隠せない男は吟遊詩人にとびかかっていった。
「どうして知っているっ!」
詩人は口の端に笑みをこぼして言った。
「私は何も知りません。
ただあなたの瞳から溢れる想いを歌っただけ。
あなたに大切なのは私の胸倉をつかんでいることではありませんよ。
私が歌った歌が相手のお嬢さんに届いてしまう前に、ご自分で想いを告げることではありませんか?
他の者から伝わってきた告白は、一番興醒めでしょう」
言われると、男はすぐに手を離し、どこかに駆けていった。
後日、クリスはその男がかわいい娘と手を繋いで歩いているのを見かけた。
大人たちの会話からも察するに、詩人の言ったとおりに好きな相手に想いを告げ、それが受け入れられたようだった。
吟遊詩人は踊りの名手でもあった。
金持ちの男が大金を詩人の器に入れ、踊りもするように言った。
詩人は困る様子もなく、近くにいた女の振ればシャンシャンと音がする装飾品を借り、それでリズムを取りながら小さく異国の言葉を口ずさみながら踊り始めた。
小さくステップを踏んだり、高く飛び跳ねたり、くるりと回転するときに流し目の色気を残したり。
クリスはそれにも目を奪われた。
そして息をするのを忘れるほど、詩人の踊りを食い入るように見ていた。
クリスの両親は、クリスが吟遊詩人に夢中になっていることに感心しなかった。
「近づいてはいけません。
見てもいけません」
ときつい口調で言われた。
しかし忙しく働いている両親の監視の目をくぐり抜けるのは楽だった。
どうにもならなかったのは、ちょっと風変わりな十以上も年の離れた姉だった。
クリスが離れたところで吟遊詩人を見ているのを見つけると、力任せに引きずって家に連れ戻し外に出られないようにドアに鍵をかけてしまった。
クリスはあの美しい男と歌声に触れられなくなるのが、とても悔しくまた悲しかった。
しかし、大人になった今、両親がクリスをあの男から遠ざけたのかわかる。
先程まで歌っていた吟遊詩人が器に金を入れられ耳打ちされると、その器を拾い上げ、歌うことをせずにその客と並んでどこかへ消えてしまうことがあった。
男のこともあったし、女のこともあった。
何人かは詩人の肩に手を回し、いやらしく触っていた。
おそらく、詩人はそれだけでは食べていけないときには春をひさいでいたのだと思われる。
たった一度だけ、クリスはその男と声を交わしたことがあった。
器に硬貨が何枚か溜まり、その日の仕事を終えようと器に手を伸ばした吟遊詩人と小さなクリスは真っ直ぐに視線が合った。
「なに?」
男は柔らかに笑って聞いた。
まさか声をかけられるとは思っていなかったクリスだが、思わず男の耳を指差していた。
「その揺れている綺麗なものは、なあに?」
「これは孔雀という鳥の羽根で作った耳飾りだよ。
この世のものとは思えないほど美しい鳥なんだ。
私は美しくないから、少しでも鳥の力を借りようとしているんだ」
「そんなことないです。
あなたはとても美しいです」
一瞬驚いた男だったが、すぐに艶然と微笑んで、
「ありがとう」
と少しはにかみながら答えると、どこかへ行ってしまった。
それから間もなく、吟遊詩人の姿は見えなくなった。
近くにいた大人たちにそっと聞くと、新しい街へ行ったのかもしれない、と教えてくれた。
吟遊詩人は旅をしながら歌を歌っていくのだということも教えてくれた。
クリスが孔雀という鳥を見たのは、第三騎士団に入ってからだった。
前王ピニャータの贅を尽くした庭での宴の警護をしたときに、庭に放たれていた孔雀を目にした。
長く玉虫色に輝く尾羽をこれでもかというほど広げ、恐ろしくざわざわと音を立ててこちらを威嚇していた。
その姿からは吟遊詩人を彷彿させることはなかったが、羽根の美しさには目を奪われた。
吟遊詩人の歌を聞いてから、クリスは歌に興味を持った。
自分で歌うのではなく、聞くのが好きだった。
ただそれだけだった。
今、神殿で目を閉じているだけなのに、あの闇夜に星をまき散らしたような瞳の吟遊詩人の歌声を簡単に思い出すことができた。
あれほどの歌にはまだ出会ってはいない。
「本当に、なにも?」
テヤの声と同時に彼の指にもクリスは驚いた。
テヤのひんやりした右の人差し指と中指はクリスの眉間に触れていた。
「騎士様は音が外れると、ここにしわが寄るんです」
笑いながらテヤは言い、そして突然歌い出した。
クリスが驚きながらも、ひくっと眉を一瞬だけひそめた。
「ほら。
たった半音の半音の半音、音をずらしただけなのに眉間にしわが寄ったでしょう?」
「あ、いや…」
「とても素晴らしい耳の持ち主なんですよ。
音楽の勉強をしていらっしゃらない、とおっしゃるなら、相当素晴らしい音楽を聞き続けていらっしゃるんですね」
そっと指を離しながら、テヤは言った。
「だからインティアが音を外したらすぐにわかるんですよ。
他の人が気づかないくらいのものでも確実に」
そうして、驚いたようにこちらを見ているインティアに声をかけた。
「驚かせてしまいましたね、すみません。
今日はこのくらいにしましょうか。
クリス様もインティアもお休みください。
りんご水を冷やしていますよ」
テヤはインティアにずれた音を指摘しながら、神殿から出て行き、隣にある神官の住処である小屋へ向かった。
残されたクリスは先程テヤにさわられていた眉間に手を伸ばした。
そんなにしわを寄せてるか?
首を傾げ、神殿の高い天井を見上げた。
あの男ならここでどんな歌を歌っただろう。
きっと天から声が降ってくるように聞こえるのだろうな。
クリスは先程までインティアが立っていた場所に立つ吟遊詩人を想像した。
詩人は背筋を凛と伸ばしあのときのように艶然とクリスに微笑んだ。
そして腕を片方ずつ大きく広げ、片足を半歩下げて膝を折り深々と礼をした。
美しい舞を見ているような所作に4歳のクリスは大きな拍手を送った。
というところで意識が戻った。
幻を見たのだろうか。
クリスは詩人の耳元に揺れる孔雀羽根のことを振り切るように一度目を閉じて集中し、また目を開いた。
神殿には自分の他に誰もいなかった。
それを確認すると、クリスはインティアの護衛のために二人の後を追い、神殿から出ていった。
その奥の「神殿」と呼ばれるには小さくて粗末な建物の中で、騎士のクリスは壁にもたれかかり目を閉じて歌を聞いていた。
歌うのは最近、歌巫士として歌を捧げる白薔薇のインティア。
彼は月に数回、練習と歌納めのため、王都から始まりの森へ来ていた。
元高級男娼で、今は第三騎士団団長でマグリカ新王の寵愛も激しいクラディウスの恋人、そしてその人の目を惹いては止まない美貌のせいでとても目立っていた。
そのため、インティアが一人で馬が操られるようになっても、クラディウスは必ず護衛をつけて森に通わせていた。
大概が、ジュリアスかロバート・ジャスティ兄弟、そしてクリスの中から選ばれていた。
ジュリアス以外の三人は、前王が亡くなった後の混乱時にインティアの護衛をしたことがあるので、その延長のようなものだった。
ただ、ジュリアスはクラディウスがいつも傍に置いているし、ロバートはクラディウスの右腕になるため責任の重い仕事を回されることが多く、ジャスティは別の任務を申し付けられているのかふらりと出かけていくことが度重なるので、インティアのお供はクリスとなることが多かった。
クリスはこの護衛を嫌いではなかった。
インティアが馬を下り神殿に入っていくと、馬に水や餌をやり軽く世話をするとクリスも神殿に入っていく。
その頃には練習なり、歌納めの儀式なりがが始まっているので、静かに壁にもたれ、目を閉じて歌に聞き入っていればいい。
練習や儀式は歌巫士のインティアと神官のテヤの二人が執り行う。
クリスは美しい歌を聞くのが好きだった。
今日は練習の日だった。
小さいのに天井がやたらと高い神殿全体を震わすような歌を歌うには、インティアはまだ経験が不足していた。
それに神が望む歌は何百何千とあり、日によって違うため、とにかく沢山の歌を歌いこなすことが歌巫士には求められる。
インティアは神殿で白い長衣に着替え、必死に歌っている。
「あなたは本当によい耳をお持ちですね」
不意に目の前で声がして、クリスは目を開けた。
特に気配を感じなかったはずなのに、そこには純白の神官服を着たテヤが微笑んでいた。
灰色の長い髪を高く結い上げ、朱塗りの簪で留めている姿は凛としている。
そして緑と青の瞳はどこまでも透明で吸い込まれそうだ。
「どこで音楽の勉強を?」
テヤはクリスの横に立つと、歌い続けるインティアのほうへ視線を投げた。
「いや、特には…」
「そうですか?」
テヤはやや含みを持たせたように問うたが、クリスはそれに気がつかず孔雀の羽根の先を耳元に揺らした妖しい男のことを思い出していた。
孔雀の羽根というものを初めて見たのは、その男の耳飾りでだった。
まだ4歳のクリスは青い大きな目のような模様の周りを虹色に輝く緑の美しいものが何だか知らなかった。
男は王都の街角に立っていた。
褐色の肌は瑞々しく、色鮮やかなターバンからこぼれる髪は闇に溶けてしまいそうに黒々としていた。
深い夜と同じ瞳は時にきらきらと輝き、目の中に星が煌めいているのではないか、とクリスは思っていた。
その美しい立ち姿に見とれた。
初めて目が合ったとき、一瞬、クリスのほうを見て微笑んでくれた。ように見えた。
今となってはそれが本当だったのか、自分の願望だったのか、確かめることもできない。
孔雀羽根の耳飾りの男は、自分の前に複雑な模様が打ち出してある金属の器を置くとそれはそれは美しい声で歌い始めた。
道を歩く人の何人かはそれに足を止め、美しい男に驚き、そして歌に酔いしれた。
男は吟遊詩人であった。
小さなリュートをつま弾きながら歌うこともあったが、それよりもなにもないところから音をのびのびと紡ぐほうが好きなようだった。
沢山の歌を知っていた。
観客からリクエストが来ると、知らない歌はなかった。
神々の戦いの歌から、古今東西の子守唄、豊穣の祝いの歌、そして片田舎の恋歌までなんでも知っていた。
クリスが特に好きだったのは、即興で男が歌う歌だった。
若い男が遊び半分に硬貨を投げ入れ即興の歌を望んだときには、吟遊詩人は男が秘めていた恋心を朗々と歌い上げた。
驚きと恥ずかしさを隠せない男は吟遊詩人にとびかかっていった。
「どうして知っているっ!」
詩人は口の端に笑みをこぼして言った。
「私は何も知りません。
ただあなたの瞳から溢れる想いを歌っただけ。
あなたに大切なのは私の胸倉をつかんでいることではありませんよ。
私が歌った歌が相手のお嬢さんに届いてしまう前に、ご自分で想いを告げることではありませんか?
他の者から伝わってきた告白は、一番興醒めでしょう」
言われると、男はすぐに手を離し、どこかに駆けていった。
後日、クリスはその男がかわいい娘と手を繋いで歩いているのを見かけた。
大人たちの会話からも察するに、詩人の言ったとおりに好きな相手に想いを告げ、それが受け入れられたようだった。
吟遊詩人は踊りの名手でもあった。
金持ちの男が大金を詩人の器に入れ、踊りもするように言った。
詩人は困る様子もなく、近くにいた女の振ればシャンシャンと音がする装飾品を借り、それでリズムを取りながら小さく異国の言葉を口ずさみながら踊り始めた。
小さくステップを踏んだり、高く飛び跳ねたり、くるりと回転するときに流し目の色気を残したり。
クリスはそれにも目を奪われた。
そして息をするのを忘れるほど、詩人の踊りを食い入るように見ていた。
クリスの両親は、クリスが吟遊詩人に夢中になっていることに感心しなかった。
「近づいてはいけません。
見てもいけません」
ときつい口調で言われた。
しかし忙しく働いている両親の監視の目をくぐり抜けるのは楽だった。
どうにもならなかったのは、ちょっと風変わりな十以上も年の離れた姉だった。
クリスが離れたところで吟遊詩人を見ているのを見つけると、力任せに引きずって家に連れ戻し外に出られないようにドアに鍵をかけてしまった。
クリスはあの美しい男と歌声に触れられなくなるのが、とても悔しくまた悲しかった。
しかし、大人になった今、両親がクリスをあの男から遠ざけたのかわかる。
先程まで歌っていた吟遊詩人が器に金を入れられ耳打ちされると、その器を拾い上げ、歌うことをせずにその客と並んでどこかへ消えてしまうことがあった。
男のこともあったし、女のこともあった。
何人かは詩人の肩に手を回し、いやらしく触っていた。
おそらく、詩人はそれだけでは食べていけないときには春をひさいでいたのだと思われる。
たった一度だけ、クリスはその男と声を交わしたことがあった。
器に硬貨が何枚か溜まり、その日の仕事を終えようと器に手を伸ばした吟遊詩人と小さなクリスは真っ直ぐに視線が合った。
「なに?」
男は柔らかに笑って聞いた。
まさか声をかけられるとは思っていなかったクリスだが、思わず男の耳を指差していた。
「その揺れている綺麗なものは、なあに?」
「これは孔雀という鳥の羽根で作った耳飾りだよ。
この世のものとは思えないほど美しい鳥なんだ。
私は美しくないから、少しでも鳥の力を借りようとしているんだ」
「そんなことないです。
あなたはとても美しいです」
一瞬驚いた男だったが、すぐに艶然と微笑んで、
「ありがとう」
と少しはにかみながら答えると、どこかへ行ってしまった。
それから間もなく、吟遊詩人の姿は見えなくなった。
近くにいた大人たちにそっと聞くと、新しい街へ行ったのかもしれない、と教えてくれた。
吟遊詩人は旅をしながら歌を歌っていくのだということも教えてくれた。
クリスが孔雀という鳥を見たのは、第三騎士団に入ってからだった。
前王ピニャータの贅を尽くした庭での宴の警護をしたときに、庭に放たれていた孔雀を目にした。
長く玉虫色に輝く尾羽をこれでもかというほど広げ、恐ろしくざわざわと音を立ててこちらを威嚇していた。
その姿からは吟遊詩人を彷彿させることはなかったが、羽根の美しさには目を奪われた。
吟遊詩人の歌を聞いてから、クリスは歌に興味を持った。
自分で歌うのではなく、聞くのが好きだった。
ただそれだけだった。
今、神殿で目を閉じているだけなのに、あの闇夜に星をまき散らしたような瞳の吟遊詩人の歌声を簡単に思い出すことができた。
あれほどの歌にはまだ出会ってはいない。
「本当に、なにも?」
テヤの声と同時に彼の指にもクリスは驚いた。
テヤのひんやりした右の人差し指と中指はクリスの眉間に触れていた。
「騎士様は音が外れると、ここにしわが寄るんです」
笑いながらテヤは言い、そして突然歌い出した。
クリスが驚きながらも、ひくっと眉を一瞬だけひそめた。
「ほら。
たった半音の半音の半音、音をずらしただけなのに眉間にしわが寄ったでしょう?」
「あ、いや…」
「とても素晴らしい耳の持ち主なんですよ。
音楽の勉強をしていらっしゃらない、とおっしゃるなら、相当素晴らしい音楽を聞き続けていらっしゃるんですね」
そっと指を離しながら、テヤは言った。
「だからインティアが音を外したらすぐにわかるんですよ。
他の人が気づかないくらいのものでも確実に」
そうして、驚いたようにこちらを見ているインティアに声をかけた。
「驚かせてしまいましたね、すみません。
今日はこのくらいにしましょうか。
クリス様もインティアもお休みください。
りんご水を冷やしていますよ」
テヤはインティアにずれた音を指摘しながら、神殿から出て行き、隣にある神官の住処である小屋へ向かった。
残されたクリスは先程テヤにさわられていた眉間に手を伸ばした。
そんなにしわを寄せてるか?
首を傾げ、神殿の高い天井を見上げた。
あの男ならここでどんな歌を歌っただろう。
きっと天から声が降ってくるように聞こえるのだろうな。
クリスは先程までインティアが立っていた場所に立つ吟遊詩人を想像した。
詩人は背筋を凛と伸ばしあのときのように艶然とクリスに微笑んだ。
そして腕を片方ずつ大きく広げ、片足を半歩下げて膝を折り深々と礼をした。
美しい舞を見ているような所作に4歳のクリスは大きな拍手を送った。
というところで意識が戻った。
幻を見たのだろうか。
クリスは詩人の耳元に揺れる孔雀羽根のことを振り切るように一度目を閉じて集中し、また目を開いた。
神殿には自分の他に誰もいなかった。
それを確認すると、クリスはインティアの護衛のために二人の後を追い、神殿から出ていった。
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