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第43話 異変(3)
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中秋の名月が近づいていた。日に日に輝きを増す月をキヨノは開け放した障子から見ていた。
夏も越し、秋も深まってきた。こうして夜、障子を開けているとひんやりとした風が入ってきた。屋敷の者は早くに雨戸を閉めようとしたが、キヨノはそれをよしとしなかった。
一度キヨノに黙って閉めてみたことがあったが、ずっと床に臥せているキヨノのどこにそんな力があったのか自力で雨戸を開けていたので、好きにさせることにした。
三条院は夏の終わりのあの日から姿を見せていない。
今回のことがあってから、キヨノは一言も誰とも口をきいていない。
屋敷の者が食事を運んでも、話しかけても反応を見せず、ぽっかり開いた目は虚ろな空洞のようだった。
どんどんやせ細っていくキヨノを屋敷の者はとても痛々しく見ていた。そして憔悴しきった三条院のことも気の毒に思っていた。屋敷の者は皆、妖狐の力を思い知っていたし、その衝動に人間が抗えないことも知っていたので、誰も三条院を責める者はいなかった。
ただ一人、三条院自身だけが我が身を責めた。
キヨノは何も言わなかったが、出ていこうともせず、自ら命を絶とうとしなかったのは幸いだった。
三条院はキヨノを生かすためだけに勤めに出ていた。
屋敷を動かすため、キヨノの寝食のために金を稼いだ。
ぽっかりと大きな月が上がった。
明日はいよいよ中秋の名月だ。その前夜だというのに、月は満月の如く大きく強く鋭い光を伴い、宙にのぼってきた。
「キヨノ。キヨノ」
床に仰向けになってうとうととしていたキヨノは自分の名を呼ばれた気がした。
「キヨノ。起きろ、キヨノ」
ぼんやりと目を開くと、視界の端になにか白いものが動いた。
枯れ枝のような腕をつき、なんとか身を起こしてよく見てみると、丸々と太った白いねずみがそこにいた。
「キヨノ!」
ねずみは緑の目をして耳の後ろの毛がぴょんと立っていた。
「ナメカワさま?」
「そうだ、キヨノ。息災か」
キヨノは驚き、ねずみを持ち上げた。ビー玉のような緑の目は、風呂焚きのときにやってきていた小さな男の子にそっくりだった。ねずみは後ろ脚で首に巻かれたものを取ろうともがいている。キヨノがそっと取ってやると「開けろ」と言う。
ねずみは小さな風呂敷包みを首に巻いていた。中を開くと竹皮に包まれた餡子玉が二つ、並んでいた。
「共に食べようと思ってな」
キィキィとねずみが言い、器用に後ろ脚で立つを前足を伸ばして餡子玉をねだる。キヨノが渡すと両手で持ち、かじり始めた。
「キヨノも食え」
「はい」
キヨノも餡子玉をつまみ、ぽいと口に入れた。
久しぶりの甘味に口の中が驚いた。甘くて甘くて唾液がどんどん出てくる。
「うまいな、キヨノ」
ねずみは口の周りに餡子をつけて言った。
「……はい。染み入ります」
ぼたりぼたりとキヨノは涙をこぼした。
「おい、キヨノ!溺れるではないか。それを止めろ!止めろ!」
「ど…どうやったら……止まり……ますか……」
こんなに声を出したことも、こんなに泣いたこともあの日以来初めてのことだった。
「…あれ……?」
「くちょーっ!キツネめぇっ!!!」
キヨノはひどいめまいに襲われ、身を起こしていられなくなった。意識が薄くなる中、もにゅりとしたねずみの身体の感触を感じていた。
***
「キヨノ、大丈夫か。キヨノ」
小さなものにぺちぺちと頬をさわられているのに気がついた。目の前には白いねずみが心配そうにキヨノの顔の真ん中にいた。キヨノは自分が倒れていることに気がついた。
起き上がって辺りを見回すとあまりの景色に驚いた。
一面の薄の原だった。薄は銀の穂を出し、ゆらりゆらりと揺れていた。真ん丸の月の光に照らされてきらきらと光っている。
「キヨノ。あそこ」
立ち上がったキヨノの肩にねずみがよじ登りキヨノの頬をつつく。キヨノが首を動かすとそこには長い黒髪に黒装束、そして頭には三角の耳、それからふさふさした尻尾の人のかたちをした黒狐がすらりと立っていた。
横には髪を鬟に結ったまだ少年の面影を残した若い男がいた。
「なんと、暁の君と主ではないか」
ねずみが囁く。
あれがなりあきさまの祖の狐と主さま。
二人は仲良く薄の穂の海をゆっくりとかき分けて歩いている。
狐は鬼灯のように爛々と輝く赤い目をしていたが、主を見つめる眼差しはひどく優しく、甘いものだった。
「どこまでも貴方を探してお仕えいたします」
切ないほどの声が響く。それを聞いた主はにっこりと笑った。
「暁門ほどの妖狐は、ほかの力のある者が使いたいと思うであろう。よき主を見つけて仕えるといい」
「私は貴方様だけに仕えとうございます」
「おまえを扱うには私には力が足りぬのに」
「貴方様がよいのでございます」
「今日も私が未熟でおまえに助けてもらったね。怪我はないか」
「はい、傷ひとつございません」
「私になにかあるときにはいつも暁門に守ってもらう。しかし私ではおまえを守れない」
「それがわたくしの役目でございます」
「かねてから思っていたんだ。これを受け取ってほしい」
「これは?」
細かな翡翠の玉を連ねたものの真ん中に燃えるような赤い勾玉がついた首飾りを主は懐から取り出すと、暁門を引き寄せ首からかけてやった。
「勾玉には私の血が入っている。未熟者だが私だってまじないしのはしくれだ。まじないしの血は薬になることがあるのを知っているだろう」
「このようなものを」
「いい。持っておけ。おまえを守ることはできないが、せめて傷くらい癒してやりたいのだ」
気がつくとキヨノは黒狐の前に立っていた。そして驚いた顔の狐を見上げて微笑んでいる。
キヨノが戸惑っていると、狐の顔が変わった。切れ長の恐ろしいほど燃えた目ではなく、穏やかな目になっていた。そして左目の下には小さなほくろ。
なりあきさま
黒狐は三条院となっていた。長い髪をし狐の耳を生やした三条院は大切そうに胸に揺れる勾玉を掌で握り込んだ。
「ありがとうございます」
それを見て、主となったキヨノは満足してうなずいた。
そのときの気持ちは青黒い顔をして洞窟の湯に浸かっていた三条院が回復したと聞いたときの気持ちに似ていた。
この狐に生きていてほしいと心から願った。
黒狐の三条院が笑った。いつだったかキヨノに向けられた優しい優しい笑みだった。キヨノはほっとした。嬉しかった。
黒狐は主の肩に腕を回し守るように少しだけ先を歩き、薄の穂をかき分けていく。ふわりふわりと銀の海のようなこの原っぱをどこまでもどこまでも二人で歩いていけそうだった。
二人は始終無言だった。
静かな時間を鋭く光る月が照らしていた。
***
「キヨノさんっ!!」
気がつくと血相を変えた三条院が黒い自動車から下りて走ってこちらに向かっていた。いつのまに薄も黒狐もねずみもいなくなっていた。
「裸足で!寝間着のままで!いかがされました、キヨノさんっ!」
三条院はふらつくキヨノを抱き留めた。キヨノは暴れることもせず、されるがままになっていた。
「なり……あきさま」
三条院の叫び声に屋敷中の者が玄関へと出てきた。自動車を運転していた佐伯も車から下りてきた。
「キヨノさん!」
使用人たちは口々にキヨノの名を呼んだ。
「あの……いつか聞かれたお返事、今、いたします。
俺はなりあきさまを許します」
三条院の身が硬くなるのをキヨノは感じた。
キヨノはこの狐から逃れることができないのだと悟った。主が死ぬたびに狐がどれだけ狂いながら主の転生を待ち続け、探し、己の想いを胸に秘めて生き抜いてきたのかを薄原で月光に撃ち抜かれながら感じていた。
自分の村がなくなったことも、父親の最期は三条院が手を下したことも、無理矢理身体を拓かれたことも。
憎もうと思えばいくらでもできるはずなのに。
どうしてか、キヨノの内側にはそんな感情は一つも起こらなかった。
そして何千という時を待たせた黒狐の想いに応えてみたいと思った。
これを運命というのかなんなのか、わからなかった。
ただ、三条院に「許す」と告げることができたのが嬉しく、そして気が抜けた。
キヨノは三条院の腕の中で崩れるように倒れていった。
夏も越し、秋も深まってきた。こうして夜、障子を開けているとひんやりとした風が入ってきた。屋敷の者は早くに雨戸を閉めようとしたが、キヨノはそれをよしとしなかった。
一度キヨノに黙って閉めてみたことがあったが、ずっと床に臥せているキヨノのどこにそんな力があったのか自力で雨戸を開けていたので、好きにさせることにした。
三条院は夏の終わりのあの日から姿を見せていない。
今回のことがあってから、キヨノは一言も誰とも口をきいていない。
屋敷の者が食事を運んでも、話しかけても反応を見せず、ぽっかり開いた目は虚ろな空洞のようだった。
どんどんやせ細っていくキヨノを屋敷の者はとても痛々しく見ていた。そして憔悴しきった三条院のことも気の毒に思っていた。屋敷の者は皆、妖狐の力を思い知っていたし、その衝動に人間が抗えないことも知っていたので、誰も三条院を責める者はいなかった。
ただ一人、三条院自身だけが我が身を責めた。
キヨノは何も言わなかったが、出ていこうともせず、自ら命を絶とうとしなかったのは幸いだった。
三条院はキヨノを生かすためだけに勤めに出ていた。
屋敷を動かすため、キヨノの寝食のために金を稼いだ。
ぽっかりと大きな月が上がった。
明日はいよいよ中秋の名月だ。その前夜だというのに、月は満月の如く大きく強く鋭い光を伴い、宙にのぼってきた。
「キヨノ。キヨノ」
床に仰向けになってうとうととしていたキヨノは自分の名を呼ばれた気がした。
「キヨノ。起きろ、キヨノ」
ぼんやりと目を開くと、視界の端になにか白いものが動いた。
枯れ枝のような腕をつき、なんとか身を起こしてよく見てみると、丸々と太った白いねずみがそこにいた。
「キヨノ!」
ねずみは緑の目をして耳の後ろの毛がぴょんと立っていた。
「ナメカワさま?」
「そうだ、キヨノ。息災か」
キヨノは驚き、ねずみを持ち上げた。ビー玉のような緑の目は、風呂焚きのときにやってきていた小さな男の子にそっくりだった。ねずみは後ろ脚で首に巻かれたものを取ろうともがいている。キヨノがそっと取ってやると「開けろ」と言う。
ねずみは小さな風呂敷包みを首に巻いていた。中を開くと竹皮に包まれた餡子玉が二つ、並んでいた。
「共に食べようと思ってな」
キィキィとねずみが言い、器用に後ろ脚で立つを前足を伸ばして餡子玉をねだる。キヨノが渡すと両手で持ち、かじり始めた。
「キヨノも食え」
「はい」
キヨノも餡子玉をつまみ、ぽいと口に入れた。
久しぶりの甘味に口の中が驚いた。甘くて甘くて唾液がどんどん出てくる。
「うまいな、キヨノ」
ねずみは口の周りに餡子をつけて言った。
「……はい。染み入ります」
ぼたりぼたりとキヨノは涙をこぼした。
「おい、キヨノ!溺れるではないか。それを止めろ!止めろ!」
「ど…どうやったら……止まり……ますか……」
こんなに声を出したことも、こんなに泣いたこともあの日以来初めてのことだった。
「…あれ……?」
「くちょーっ!キツネめぇっ!!!」
キヨノはひどいめまいに襲われ、身を起こしていられなくなった。意識が薄くなる中、もにゅりとしたねずみの身体の感触を感じていた。
***
「キヨノ、大丈夫か。キヨノ」
小さなものにぺちぺちと頬をさわられているのに気がついた。目の前には白いねずみが心配そうにキヨノの顔の真ん中にいた。キヨノは自分が倒れていることに気がついた。
起き上がって辺りを見回すとあまりの景色に驚いた。
一面の薄の原だった。薄は銀の穂を出し、ゆらりゆらりと揺れていた。真ん丸の月の光に照らされてきらきらと光っている。
「キヨノ。あそこ」
立ち上がったキヨノの肩にねずみがよじ登りキヨノの頬をつつく。キヨノが首を動かすとそこには長い黒髪に黒装束、そして頭には三角の耳、それからふさふさした尻尾の人のかたちをした黒狐がすらりと立っていた。
横には髪を鬟に結ったまだ少年の面影を残した若い男がいた。
「なんと、暁の君と主ではないか」
ねずみが囁く。
あれがなりあきさまの祖の狐と主さま。
二人は仲良く薄の穂の海をゆっくりとかき分けて歩いている。
狐は鬼灯のように爛々と輝く赤い目をしていたが、主を見つめる眼差しはひどく優しく、甘いものだった。
「どこまでも貴方を探してお仕えいたします」
切ないほどの声が響く。それを聞いた主はにっこりと笑った。
「暁門ほどの妖狐は、ほかの力のある者が使いたいと思うであろう。よき主を見つけて仕えるといい」
「私は貴方様だけに仕えとうございます」
「おまえを扱うには私には力が足りぬのに」
「貴方様がよいのでございます」
「今日も私が未熟でおまえに助けてもらったね。怪我はないか」
「はい、傷ひとつございません」
「私になにかあるときにはいつも暁門に守ってもらう。しかし私ではおまえを守れない」
「それがわたくしの役目でございます」
「かねてから思っていたんだ。これを受け取ってほしい」
「これは?」
細かな翡翠の玉を連ねたものの真ん中に燃えるような赤い勾玉がついた首飾りを主は懐から取り出すと、暁門を引き寄せ首からかけてやった。
「勾玉には私の血が入っている。未熟者だが私だってまじないしのはしくれだ。まじないしの血は薬になることがあるのを知っているだろう」
「このようなものを」
「いい。持っておけ。おまえを守ることはできないが、せめて傷くらい癒してやりたいのだ」
気がつくとキヨノは黒狐の前に立っていた。そして驚いた顔の狐を見上げて微笑んでいる。
キヨノが戸惑っていると、狐の顔が変わった。切れ長の恐ろしいほど燃えた目ではなく、穏やかな目になっていた。そして左目の下には小さなほくろ。
なりあきさま
黒狐は三条院となっていた。長い髪をし狐の耳を生やした三条院は大切そうに胸に揺れる勾玉を掌で握り込んだ。
「ありがとうございます」
それを見て、主となったキヨノは満足してうなずいた。
そのときの気持ちは青黒い顔をして洞窟の湯に浸かっていた三条院が回復したと聞いたときの気持ちに似ていた。
この狐に生きていてほしいと心から願った。
黒狐の三条院が笑った。いつだったかキヨノに向けられた優しい優しい笑みだった。キヨノはほっとした。嬉しかった。
黒狐は主の肩に腕を回し守るように少しだけ先を歩き、薄の穂をかき分けていく。ふわりふわりと銀の海のようなこの原っぱをどこまでもどこまでも二人で歩いていけそうだった。
二人は始終無言だった。
静かな時間を鋭く光る月が照らしていた。
***
「キヨノさんっ!!」
気がつくと血相を変えた三条院が黒い自動車から下りて走ってこちらに向かっていた。いつのまに薄も黒狐もねずみもいなくなっていた。
「裸足で!寝間着のままで!いかがされました、キヨノさんっ!」
三条院はふらつくキヨノを抱き留めた。キヨノは暴れることもせず、されるがままになっていた。
「なり……あきさま」
三条院の叫び声に屋敷中の者が玄関へと出てきた。自動車を運転していた佐伯も車から下りてきた。
「キヨノさん!」
使用人たちは口々にキヨノの名を呼んだ。
「あの……いつか聞かれたお返事、今、いたします。
俺はなりあきさまを許します」
三条院の身が硬くなるのをキヨノは感じた。
キヨノはこの狐から逃れることができないのだと悟った。主が死ぬたびに狐がどれだけ狂いながら主の転生を待ち続け、探し、己の想いを胸に秘めて生き抜いてきたのかを薄原で月光に撃ち抜かれながら感じていた。
自分の村がなくなったことも、父親の最期は三条院が手を下したことも、無理矢理身体を拓かれたことも。
憎もうと思えばいくらでもできるはずなのに。
どうしてか、キヨノの内側にはそんな感情は一つも起こらなかった。
そして何千という時を待たせた黒狐の想いに応えてみたいと思った。
これを運命というのかなんなのか、わからなかった。
ただ、三条院に「許す」と告げることができたのが嬉しく、そして気が抜けた。
キヨノは三条院の腕の中で崩れるように倒れていった。
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