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第3話
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年明けから、円香との距離が少し近くなったような気がしていた。
成瀬は金曜日にカフェに訪れていたが、一度、有給を取った平日の夜、コーヒーを飲みに行った。
「いらっしゃいま…」
中には客がおらず、円香がカウンターから声をかけたが最後はか細く消えてしまった。
「あの…、コーヒー、大丈夫、ですか」
「…はい、もちろんです。どうぞ」
「今日のコーヒーで」
「かしこまりました」
静かに、丁寧にコーヒーを淹れる円香をそっと見る。
「驚きました」
いつもなら話をしないのに、円香が口を開いた。
「今日はお休みですか」
「え、ええ」
「スーツではない成瀬さんにお会いするのは初めてで」
「あ、そうか。
ヘンですかね」
「いえ、そんな。
とても格好いいな、と思いました」
大学を卒業し、県外に就職した友人が長期の海外出張になるから、とわざわざ訪ねてきてくれた。
気心が知れているので、カジュアルなレンガ色のダウンジャケットにざっくりと編んだ黒いセーターにジーンズという楽な格好を成瀬はしていた。
あの雪の夜以降、こんなに話すのは初めてだった。
他の客がいると、円香もほとんど話をしない。
成瀬はあれからずっと円香のことが気にかかって仕方ないというのに。
でも今日はあの時のようだった。
円香とたっぷりしゃべった。
調子に乗った成瀬が円香に連絡先を聞いた。
円香は静かに首を振りながら「スマホ、持っていないんです」と言った。
店にも電話がないらしい。
それでも困ったことは1度もないのだ、と円香は微笑んだ。
「でも」
円香が突然カウンターの中でしゃがんだ。
貧血かと思い、成瀬が慌てると円香はすぐに立ち上がった。
「いざというときのために、カップラーメンを買いました。
今度は安心して避難しにきてください、成瀬さん」
メーカーの違う2つのカップを両手に持ち、満足そうに笑う円香に成瀬は恋に落ちた。
成瀬が円香と出会って3度目の春がやってきた。
接待や歓迎会もあのときのように抜けるのが難しくなってきた。
むしろ後輩をそっと逃がすために、積極的に2次、3次会と自分が参加することが増えた。
あまりにも遅くなった金曜日、諦めきれずに成瀬はカフェに向かった。
ランプの明かりはぼんやりとオレンジに光っていた。
よかった。まだ、開いてる!
成瀬はドアを開けた。
中は円香ひとりだった。
成瀬を見ると、ほっとした顔をした。
「今日はいらっしゃらないかと思ってました」
それを聞いた途端、成瀬は円香の手を取っていた。
「円香さん、桜を見にいきましょう」
「え」
「まだ寒いから上着着て」
「で、でも」
「貴方と見たいんだ。だめですか」
円香も驚いていたが、すぐに意を決したようにうんとうなずくと、ギャルソンエプロンをはずし、薄い上着を羽織ると明かりのスイッチを切った。
戸締りをする円香を待ちきれない様子の成瀬は、がちゃがちゃと鍵がかかったのを確かめ終わった円香の手をすぐに取って走るように歩き始めた。
「成瀬、さん」
「あの川沿いの桜、綺麗なんですよ。
満開で……
早くしないと散ってしまう」
随分遅い時間で、花見を楽しんでいた人たちもほとんどいなかった。
「綺麗……」
街灯に照らされた桜を見て、円香がこぼした。
さああああと風が吹き、花びらが吹雪のように散る。
「綺麗……」
また、円香がそう言った。
成瀬はなにも言わず、まだつないだままだった成瀬の手を自分のコートのポケットに突っ込んだ。
「あの……」
「円香さんの手、相変わらず冷たいですね」
「あ……」
「この桜、見せてあげたかったんです。
雪みたいで……あのときを思い出してしまって……」
成瀬は囁くようにつぶやいた。
「……ありがと…う」
円香も小さな声で返した。
どれくらい桜を見ていただろうか。
じんと冷えていることに成瀬が気づいた。
「すみません、あまり長い間いたら円香さんが風邪をひいてしまう」
声をかけられた円香は成瀬をほんの少し見上げた。
思い詰めたような、凛とした目だった。
「成瀬さん、好きです」
言うとすぐ円香は俯いた。
「すみません、言うつもりはなかったのに。
でも今言わないと後悔してしまうと思って。
突然で驚かせてしまいましたね。
成瀬さんになにか期待しているんじゃないんです。
これが嫌で、もうお店にいらっしゃらなくなったら…とても寂しいですけれど、でもそれだけのことを言ってしまったし。
ごめんなさい、成瀬さん。
ごめんなさい」
ものすごい早口で円香はまくしたてる。
「せっかく綺麗な桜を見せていただいたのに、台なしにしてしまって。
すみません、もう2度と言いません。
あの、本当にごめんなさい」
まだ成瀬のコートのポケットの中で手をつないでいることに気づき、円香はそこから手を抜こうとした。
「待って」
ポケットの中の成瀬の手は円香の指に指を絡めた。
「俺も、好きです」
「嘘」
「本当です。
去年の大雪の日からずっと。
いや、その前から。
初めて会った時からずっと」
成瀬は腕を回し、円香を抱き寄せた。
「だめです、ここじゃ」
円香が震えながら言った。
少なくなったとはいえ、人はまだいた。
円香がまた成瀬を見上げた。
そして無言のまま歩き出した。
ポケットの中で繋がれた手にはぎゅっと力が入った。
成瀬は円香についていくしかなかった。
向かったのは、元来た道だった。
カフェの中に入り、内側から鍵をかけると暗いまま、どちらからとでもなく抱き合った。
「円香さん」
「成瀬さん」
互いの名前を呼ぶ声は少し震え、掠れていた。
隙間なく密着する。
やがて成瀬が円香の肩に埋めた顔を上げ、円香を見た。
そして首を前に動かし、円香の唇に唇を重ねる。
それが引き金になり、激しくキスをする。
円香の唇は冷たく、成瀬はそこに熱を与えようと何度も吸い付く。
舌を入れ、円香の少し怯えたような舌を絡めとる。
キスに慣れていないのだな、と感じる。
初々しい反応に興奮する。
首の角度を変え、頭を抱え、夢中になってキスをする。
次第に成瀬の熱が上がる。
思わず固くなったものを円香にこすりつけてしまったときには、慌てて円香から身体を離した。
「すみません。こんな…」
円香は急に離れていった成瀬にショックを受けたようだった。
唇を一文字に結ぶと、成瀬の手首を掴んで歩き出した。
成瀬は円香が怒ったのかと不安になった。
円香はカウンターの内側に成瀬を入れ、奥のドアを開けた。
「……買ったのはラーメンだけじゃないんです」
部屋の中は事務をするための空間だった。
狭い部屋にぎゅうと詰め込まれていたのは、小さなベッドだった。
「簡易ベッドです。
また、成瀬さんが頼って来てくれたときにちゃんと休んでもらえるように」
薄暗い中、ベッドの白いシーツがぼんやりと浮かんで見えた。
円香は部屋の中にずんずんと入り、座り慣れたように木製の事務机に着くとかがみ込み、机の下の奥のほうからごそごそと箱を取り出し、開ける。
中身をそっとベッドの上に置く。
箱が2つと容器が1つ。
そして、そのまま固まってしまった。
戸口にいた成瀬は困ってしまい、仕方なく中に入ってドアを閉め、そしてベッドの上に置かれたものを確かめた。
コンドームのLとMの箱。そして未開封のローション。
今度は成瀬が固まる。
「……こんな浅ましいことを考えていました」
清純そうな円香がこれを用意したという事実は、かなり衝撃的だった。
「愛されたことがなかったから、成瀬さんに愛されたらどうなるんだろうと思って…。
でもそんなことはないと思ってました。
できないけど、でも…と奥底で願ってた。
ごめんな…さい」
「さっきの俺、わかりましたよね」
成瀬は円香を怯えさせないように注意しながら間合いを詰めていく。
「俺も…似たようなもんです。
円香さんで、その…何度もヌいた、というか、まぁ、想像したというか」
円香はみじろぎ一つしない。
「あ、ひきましたよね。すみません。いや、ほんと。
こんなに綺麗な人に、まっさらで真っ白な人に、なんてこと!と思いながらも止められなくて…
俺、何言ってんだろ。
すみません。気を悪くされましたよね」
円香の肩に手をそっと置いた。びくりとしたが逃げはしなかった。
「俺、Mです。そんなに大きくなくて…
使ってもいい?」
耳元で囁くと円香は弾かれたように成瀬の首に抱きついた。
「お願い、します」
成瀬は金曜日にカフェに訪れていたが、一度、有給を取った平日の夜、コーヒーを飲みに行った。
「いらっしゃいま…」
中には客がおらず、円香がカウンターから声をかけたが最後はか細く消えてしまった。
「あの…、コーヒー、大丈夫、ですか」
「…はい、もちろんです。どうぞ」
「今日のコーヒーで」
「かしこまりました」
静かに、丁寧にコーヒーを淹れる円香をそっと見る。
「驚きました」
いつもなら話をしないのに、円香が口を開いた。
「今日はお休みですか」
「え、ええ」
「スーツではない成瀬さんにお会いするのは初めてで」
「あ、そうか。
ヘンですかね」
「いえ、そんな。
とても格好いいな、と思いました」
大学を卒業し、県外に就職した友人が長期の海外出張になるから、とわざわざ訪ねてきてくれた。
気心が知れているので、カジュアルなレンガ色のダウンジャケットにざっくりと編んだ黒いセーターにジーンズという楽な格好を成瀬はしていた。
あの雪の夜以降、こんなに話すのは初めてだった。
他の客がいると、円香もほとんど話をしない。
成瀬はあれからずっと円香のことが気にかかって仕方ないというのに。
でも今日はあの時のようだった。
円香とたっぷりしゃべった。
調子に乗った成瀬が円香に連絡先を聞いた。
円香は静かに首を振りながら「スマホ、持っていないんです」と言った。
店にも電話がないらしい。
それでも困ったことは1度もないのだ、と円香は微笑んだ。
「でも」
円香が突然カウンターの中でしゃがんだ。
貧血かと思い、成瀬が慌てると円香はすぐに立ち上がった。
「いざというときのために、カップラーメンを買いました。
今度は安心して避難しにきてください、成瀬さん」
メーカーの違う2つのカップを両手に持ち、満足そうに笑う円香に成瀬は恋に落ちた。
成瀬が円香と出会って3度目の春がやってきた。
接待や歓迎会もあのときのように抜けるのが難しくなってきた。
むしろ後輩をそっと逃がすために、積極的に2次、3次会と自分が参加することが増えた。
あまりにも遅くなった金曜日、諦めきれずに成瀬はカフェに向かった。
ランプの明かりはぼんやりとオレンジに光っていた。
よかった。まだ、開いてる!
成瀬はドアを開けた。
中は円香ひとりだった。
成瀬を見ると、ほっとした顔をした。
「今日はいらっしゃらないかと思ってました」
それを聞いた途端、成瀬は円香の手を取っていた。
「円香さん、桜を見にいきましょう」
「え」
「まだ寒いから上着着て」
「で、でも」
「貴方と見たいんだ。だめですか」
円香も驚いていたが、すぐに意を決したようにうんとうなずくと、ギャルソンエプロンをはずし、薄い上着を羽織ると明かりのスイッチを切った。
戸締りをする円香を待ちきれない様子の成瀬は、がちゃがちゃと鍵がかかったのを確かめ終わった円香の手をすぐに取って走るように歩き始めた。
「成瀬、さん」
「あの川沿いの桜、綺麗なんですよ。
満開で……
早くしないと散ってしまう」
随分遅い時間で、花見を楽しんでいた人たちもほとんどいなかった。
「綺麗……」
街灯に照らされた桜を見て、円香がこぼした。
さああああと風が吹き、花びらが吹雪のように散る。
「綺麗……」
また、円香がそう言った。
成瀬はなにも言わず、まだつないだままだった成瀬の手を自分のコートのポケットに突っ込んだ。
「あの……」
「円香さんの手、相変わらず冷たいですね」
「あ……」
「この桜、見せてあげたかったんです。
雪みたいで……あのときを思い出してしまって……」
成瀬は囁くようにつぶやいた。
「……ありがと…う」
円香も小さな声で返した。
どれくらい桜を見ていただろうか。
じんと冷えていることに成瀬が気づいた。
「すみません、あまり長い間いたら円香さんが風邪をひいてしまう」
声をかけられた円香は成瀬をほんの少し見上げた。
思い詰めたような、凛とした目だった。
「成瀬さん、好きです」
言うとすぐ円香は俯いた。
「すみません、言うつもりはなかったのに。
でも今言わないと後悔してしまうと思って。
突然で驚かせてしまいましたね。
成瀬さんになにか期待しているんじゃないんです。
これが嫌で、もうお店にいらっしゃらなくなったら…とても寂しいですけれど、でもそれだけのことを言ってしまったし。
ごめんなさい、成瀬さん。
ごめんなさい」
ものすごい早口で円香はまくしたてる。
「せっかく綺麗な桜を見せていただいたのに、台なしにしてしまって。
すみません、もう2度と言いません。
あの、本当にごめんなさい」
まだ成瀬のコートのポケットの中で手をつないでいることに気づき、円香はそこから手を抜こうとした。
「待って」
ポケットの中の成瀬の手は円香の指に指を絡めた。
「俺も、好きです」
「嘘」
「本当です。
去年の大雪の日からずっと。
いや、その前から。
初めて会った時からずっと」
成瀬は腕を回し、円香を抱き寄せた。
「だめです、ここじゃ」
円香が震えながら言った。
少なくなったとはいえ、人はまだいた。
円香がまた成瀬を見上げた。
そして無言のまま歩き出した。
ポケットの中で繋がれた手にはぎゅっと力が入った。
成瀬は円香についていくしかなかった。
向かったのは、元来た道だった。
カフェの中に入り、内側から鍵をかけると暗いまま、どちらからとでもなく抱き合った。
「円香さん」
「成瀬さん」
互いの名前を呼ぶ声は少し震え、掠れていた。
隙間なく密着する。
やがて成瀬が円香の肩に埋めた顔を上げ、円香を見た。
そして首を前に動かし、円香の唇に唇を重ねる。
それが引き金になり、激しくキスをする。
円香の唇は冷たく、成瀬はそこに熱を与えようと何度も吸い付く。
舌を入れ、円香の少し怯えたような舌を絡めとる。
キスに慣れていないのだな、と感じる。
初々しい反応に興奮する。
首の角度を変え、頭を抱え、夢中になってキスをする。
次第に成瀬の熱が上がる。
思わず固くなったものを円香にこすりつけてしまったときには、慌てて円香から身体を離した。
「すみません。こんな…」
円香は急に離れていった成瀬にショックを受けたようだった。
唇を一文字に結ぶと、成瀬の手首を掴んで歩き出した。
成瀬は円香が怒ったのかと不安になった。
円香はカウンターの内側に成瀬を入れ、奥のドアを開けた。
「……買ったのはラーメンだけじゃないんです」
部屋の中は事務をするための空間だった。
狭い部屋にぎゅうと詰め込まれていたのは、小さなベッドだった。
「簡易ベッドです。
また、成瀬さんが頼って来てくれたときにちゃんと休んでもらえるように」
薄暗い中、ベッドの白いシーツがぼんやりと浮かんで見えた。
円香は部屋の中にずんずんと入り、座り慣れたように木製の事務机に着くとかがみ込み、机の下の奥のほうからごそごそと箱を取り出し、開ける。
中身をそっとベッドの上に置く。
箱が2つと容器が1つ。
そして、そのまま固まってしまった。
戸口にいた成瀬は困ってしまい、仕方なく中に入ってドアを閉め、そしてベッドの上に置かれたものを確かめた。
コンドームのLとMの箱。そして未開封のローション。
今度は成瀬が固まる。
「……こんな浅ましいことを考えていました」
清純そうな円香がこれを用意したという事実は、かなり衝撃的だった。
「愛されたことがなかったから、成瀬さんに愛されたらどうなるんだろうと思って…。
でもそんなことはないと思ってました。
できないけど、でも…と奥底で願ってた。
ごめんな…さい」
「さっきの俺、わかりましたよね」
成瀬は円香を怯えさせないように注意しながら間合いを詰めていく。
「俺も…似たようなもんです。
円香さんで、その…何度もヌいた、というか、まぁ、想像したというか」
円香はみじろぎ一つしない。
「あ、ひきましたよね。すみません。いや、ほんと。
こんなに綺麗な人に、まっさらで真っ白な人に、なんてこと!と思いながらも止められなくて…
俺、何言ってんだろ。
すみません。気を悪くされましたよね」
円香の肩に手をそっと置いた。びくりとしたが逃げはしなかった。
「俺、Mです。そんなに大きくなくて…
使ってもいい?」
耳元で囁くと円香は弾かれたように成瀬の首に抱きついた。
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