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02:熱いだけの塩水だ
しおりを挟む「おはようマーリア。昨晩はなんであんなに遅くなったのだ?」
クロスもない粗末なテーブルにつくなり、エメリック・マクシムフランシ・アルマ伯爵が言った。
若き当代アルマ伯爵とその妹は、本来使用人たちが暮らすための寮棟に居を移し、ふたりだけで暮らしている。侍女もメイドも執事も料理人もいない。本当に本気のふたりきりだ。
すっかりエプロンドレスが板についてしまったマリアニージャと違って、エメリックはまだなんとか貴族らしい格好を保っている。随分くたびれてきているが、シャツとキュロットだし、クラバットとタイツもある。靴もピカピカだ。
ギリギリ伯爵らしい装いである。
但し、靴を磨いているのは伯爵本人だ。
アルマ家にはすでに使用人はひとりもいない。父の代から仕えてくれていた忠実な執事にさえ暇を出したのは一昨年の冬だ。
「深夜だったから詳しくは聞かなかったが、マーリア、まさか……、その、私に言えないような仕事をした、んじゃない、……よな?」
エメリックはしかめっ面で言った。心持ち顔色も悪いし、不安そうに見える。
マリアニージャは首を傾げて兄を見た。
「東マキト通りのお屋敷の結婚式だよ。料理の下ごしらえと給仕と、後片付けの仕事」
「結婚式? 平民の屋敷のか」
「そうだよ。途中で宴会の出し物に使うアヒルが逃げて大騒ぎ。なんだかんだで片付くのが遅くなっちゃったんだよね」
だからといって日付が変わるほど遅くなるのは普通におかしい。だが、昨日の妙なできごとを口にするのは憚られた。
幻を見て取り乱したなんて恥ずかしい話、兄相手でもしたくない。秘密ヒミツだ。
誤魔化すしかない。
マリアニージャは簡素なテーブルの上を派手な身振りで示した。
「その代わり! ご祝儀たっぷりもらったよ。ほら、見て! お兄様!」
スライスした黒パンを盛った篭を真ん中にして、各々の前には湯気を立てるスープ皿、そして白くてころっとした丸いものがある。
「……こ、これは、鶏卵ではないか! もしや、既にゆでてあるのか?」
「もちろん。お兄様好みの固ゆででございます」
マリアニージャは胸を張った。
竈に火を入れるのは素人ではむずかしい。まして伯爵家の厨房だ。竈は屋敷に相応しく、大きい。
なので潔く諦めて、マリアニージャは庭で焚き火を起こしている。そもそも料理もできないし、湯を沸かすくらいしかできない。
つまり、固ゆで卵なら完璧だ。
「でかした! すごいぞ、マーリア! ありがとう!」
ゆで卵で大喜びしているエメリックはマリアニージャより七歳上だ。が、兄のほうが世間知らずだと妹は思っている。
元々、エメリックはとても貴族的な男性だった。
巻毛も美しかったし、手足も腹も顔もぷよぷよ丸くて、色白で、もっちりした肌質と相まって品の良い子豚のようだった。
なのにすっかりガリガリの骨と皮、……いや?
骨はまだ肉に埋まりきって形も見えないし、肌もぷるんぷるんに張っている。手入れが不十分でカサついてはいるが、全体肉量はそこそこ。
あれ。
まだかなりふくよかだな。
深刻なのはマーリアの方だ。
兄と違って元来の痩せ型が、困窮耐乏生活でますます見窄らしくなってしまった。
男女問わず、貴族は肉付き豊かであるほど美しいのに、残念もいいところである。腹も尻も平べったいし、胸もささやかなのだ。まるで幼女。無念。
「マーリア、卵はひとり一つか?」
「三つ買えたから、お兄様にはもう一つあるよ」
「す・ば・ら・し・い!」
白い頬を真っ赤にして喜ぶ兄は、まあ、かわいらしい。二十五歳の男性に言うべきではないかもしれないが、かわいいは美徳である。
兄妹は公爵家の令嬢だった母譲りの甘やかな金髪だ。瞳の色は違っていて、エメリックの瞳は青りんごに似た緑、マリアニージャはよく熟れたりんごのような赤だ。
亡き母は、兄と妹を並べては、「わたくしのかわいい青りんごさんと赤りんごさん」とにこにこ笑ったものである。
アルマ領の特産品はりんごなのだ。
あの頃は幸せだった。
少なくとも食べるものには困っていなかった。
母が魔障病にさえ罹らなければ、きっと父も無理な商売をして命を落とすことはなかっただろう。
うっかり湧き上がってきたため息を飲み込んで、マリアニージャはバスケットに盛ったパンを一切れ取った。釘が打てそうに固い黒パンは見切り品でお安かった。砕き割る勢いで切り分けなくてはいけないが、塩スープに浸せばそこそこ美味しく食べられるので問題ないことにしている。
「また塩水だ」
「あったかいからスープだよ」
「そういう欺瞞を私は好まない。いいかい、マーリア。愛しい妹よ。これは、まごうことなく、熱いだけの塩水だよ。湯に塩を溶いたものだ」
エメリックは丁寧に説明してからスープにパンを落とし、美しい所作で茹で卵をむいた。
亡き母の好みで仕入れていた岩塩だけは塊で残っている。他の食料や食材、調味料、酒のたぐいは食べ尽くしたり、売り払ったりした。岩塩はまだ当分ありそうだ。
「あぁ……色のあるスープが恋しいな……」
切実なつぶやきは、マリアニージャにも突き刺さる。
肉や野菜をすりつぶしてトロトロにしたスープは美味しいものだ。
「どっちかっていうと、わたしは肉がいいな。おにくたべたい」
マリアニージャは昨日の結婚宴会場に漂っていたローストチキンの香ばしい匂いを思い出し、塩スープごとパンを口にいれた。切ない。
早朝とは思えない重苦しさが、質素な台所の隅に満ちた。
しばらくして、気まずい沈黙を破ったのはエメリックだ。
「……マーリア、今日も出かけるのか?」
「うん。今日は髪を売りに行こうと思ってる」
「……は? 髪を、売る?」
イリリア王国の貴族社会では、髪も体重もたっぷりしている方が美しいとされる。
耐乏生活のおかげでマリアニージャの髪は伸び放題で、ひっつめて二本のごん太縄のような三つ編みにしてもまだ腰のあたりまである。
肩から下で切り落としても、高く売れるものがたくさんあるということだ。
「だが、嫁入り前の娘が髪を短くするなんて。修道女みたいじゃないか」
「嫁入りの予定もないし、持参金もないし、その気もないから平気。街で働いて暮らすのに髪は短いほうがいいくらいだよ」
貴族令嬢ならそろそろ婚約結婚という年頃のマリアニージャだが、家計を考えれば難しいことはわかっている。
随分幼い頃からマリアニージャは父の商売を手伝いたいとは思っていたが、結婚願望はほとんどなかった。なんなら修道女でもまったく問題ない。スープとパンには不自由しなくなる気がするからだ。
「結婚、持参金……」
ぷるんぷるんのゆで卵を睨みつけ、エメリックが呻いたかと思うと、パッと顔を上げた。勢いがいい。
「……そうだ! その手がある!」
言って、兄は両手を高く打って鳴らした。
「お、お兄様……?」
「マーリア、早まるな! 私たちにまだ手はあるぞ!」
エメリックは叫び立ち上がった。猛烈な勢いで自室に戻り、一張羅のジュストコールを掴んで出てきて、
「出かけてくる! マーリアは自分の靴をキレイに磨いて待っていなさい!」
と、言い残して行ってしまった。
もちろん茹で卵はちゃんと食べて終えてあった。二個とも。
何を思いついたのか知らないが、兄が元気いっぱいなのはいいことだ。
マリアニージャは淡々と食事を続けた。貧乏暇なしという言葉は正しい。やるべきことがたくさんあるのだ。
台所を片付け終えたマリアニージャは自分のショートブーツに視線を落とした。朝からできるだけ目に入らないようにしていたが、兄から指摘もあった。
つま先が泥のような何かで汚れているのは現実だ。
あれは幻じゃなかったのか。
あの紳士も現実だったら、本当に最近続いている人殺しの事件と関わりがあるのかもしれない。
でも、だったらどうして、何もかもが突然消えてしまったのだろうか。
わからないし、確かめようもない。
「……まあ、いいか」
考えても何も変わらないなら考える必要はない。今は日銭が大事だ。
マリアニージャはエメリックに言われた通りに靴をまず磨き、それから出かけることにした。髪を売るのだ。
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