Fat,Nerd&Gay

ROSE

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Fat,Nerd&Gay

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 デブでオタクでゲイ。それが俺を現すのに丁度いい言葉。
 これでもう少し明るく社交的だったら受け入れられたかもしれないけれど、根暗なコミュ障という印象を抱かれがちで、それが余計に俺を「キモい」人間だとカテゴライズしているだろう。
 伊達清なんて名前は、母さんが演歌歌手のファンだったから。「きよし」ってよりは「ふとし」だななんて思うことの方が多い。
 子供の頃から体が大きく、小児肥満だったが、あの頃はまだ同級生が構ってくれていたし、俺の他にいじめられている子がいたから今みたいな立ち位置じゃなかった。
 あの頃いじめられていた朔は、今じゃちょっとした人気者だ。生まれつき足が悪くて運動はてんでだめだが、顔がいい。昔から女の子みたいな顔だとは思っていたけれど、今はどこか浮世離れした美男子で、今どきの言葉で言うならジェンダーレスな顔立ち、なんだろう。それに本人の穏やかでほんわかした性格が合わさって、特に女子からの人気が高い。
 今だって教室で女子に囲まれている。
 朔は自分からはあまり話さない。ただ、相手の話をうんうん聞いて、時々一言二言返事をする。かと言って会話が嫌いというわけでもなく、噂話にはたぶん誰よりも詳しい。朔に訊けば学校中の様々な情報が手に入るのではないかと言うほど、人の噂を把握している。
 たぶん学校中の弱味を握っているけれど、それを利用したりすることもない。
 秘密と言われたらしっかり秘密を守れる口の堅さもあるから余計に人気なのだろう。
 子供の頃、朔は足が悪かったからいじめられていた。ヘンな歩き方で、それにおとなしい性格だ。いじめるには格好の餌食だった。それに親がいなくておじいちゃんと暮らしている。それも余計にいじめる理由になったのだろう。
 あの頃、俺はまだ体が大きい(とは言え肥満が主な理由ではあったが)から他の子を追い払うのに苦労しなかった。だから朔をいじめているやつを追い払ったり、奪われた杖を取り返してやったりしていた。それだからか、朔は未だに俺に懐いてくれているのか、時々話しかけてくる。
 女子に囲まれていればいいのに、未だに恋人のひとりも作らない朔を不思議に思う。
 綺麗な顔をしているし、女子にモテる。
 他校からわざわざ朔を見に来る女子だっているのに、朔は誰とも付き合わない。
 さっさと彼女のひとりでも作ってくれればいいのに。
 そうしたら、俺のこの妙な気分も治まるかも知れない。
 もしかしたら、朔にも特定の誰か好きな相手がいるのかもしれないし、その誰かは既に他の恋人がいるのかもしれない。
 だけど、せめて誰が好きなのかわかれば……諦めもつくはず。
 
 そう、俺の好きな相手は朔だ。
 いつからと言われてもわからない。けれども他の男子がちょっと気になる女の子の話を始めたとき、俺にはそう言う子がいないことに気がついた。
 二次元の女の子が好きかと聞かれてもノーだ。そもそも女の子に視線が向かない。あの可愛らしい衣装に視線が行くかと言ってもノーだ。全く惹かれない。
 と言うのも、オタクではあるが所謂アニメのオタクではない。
 元々図鑑が好きだった。爬虫類が好きで、所謂マニアに属するのかもしれないが、確かに家でヘビやトカゲを飼育しているから部屋に籠もりがちかもしれない。
 生き物を飼うには責任が伴うし、餌が餌だから母さんに世話を頼むわけにもいかない。冷凍マウスやコオロギを用意して食べさせる。照明や温度の調節にも気を使う。
 かと言って、生き物を恋人代わりにする人種でもない。
 ただ、自然の視線が向く相手が朔だった。
 線が細く美形で、いつもぽやぽやしている。正直なにを考えているのかわからないし、放っておけないという空気だ。
 たぶん誰が見てもそうで、彼の周囲では誰かしらが彼の世話を焼こうとする。
 美形は得だとかそう言った話ではない。なんというか、朔はふわふわ浮いていて地に足がついていないような雰囲気なのだ。
 正直なところ、朔へ抱いているこの感情が所謂恋愛だとかそういった物なのかさえわからない。ただ、視線が向いてしまう。それは放っておけないだとか、つい世話を焼きたくなるとかそう言った次元だけの話なのか、それとも彼を性愛対象として見ているのか。
 わからない。
 ただ、惹かれる。視線が向いてしまう。話す時に心地いい。
 かといって裸がみたいだとかそう言うわけでは……ないと思う。
 細すぎてちゃんと食べているのかと心配になることはあっても。

 夏服の白シャツに、あまり着る人のいない学校指定の夏カーデ。
 そう言えば朔が半袖を着るところを見たことがない気がする。
 寒がりで、冬場にくっついてくることがあるけれど、どうせ俺の体が大きくてふにふにしているからだとかそう言う話だ。
 ただ、他のやつに言われると腹が立っても、不思議と相手が朔なら気にならない。
「きーちゃん、お昼一緒に食べたい」
 当たり前の様に声をかけてきた朔に驚く。
 たくさん女子が誘いに来るのに、わざわざ俺の席に来るなんて。
「その呼び方やめろって」
 ガキみたい。
 実際子供の頃から朔はそうやって呼ぶ。
「じゃあ、きよし?」
 あまり好きではない名前。あのイケメン演歌歌手と比べて溜息を吐くばあちゃんに呼ばれる時とは違う。
「女子達に誘われてたんじゃないのか?」
「うん。でもみんなどこのクラスのだれがかっこいいとかそういう話ばっかりだから」
 それに朔がイケメンだとか、かわいいだとか化粧が似合いそうだとかそんな話をしているのだろう。
「こないだなんて口紅塗られただろ」
「あれ? 見てた? あれはなかなか落ちなくて大変だったなぁ」
 朔は困ったように笑って、菓子パンとコーヒー牛乳を机の上に置く。
「げ、またそれだけ?」
「うん? 朝コンビニで買ってきた」
「だからそんなに細いんだろ。これもやるから食え」
 弁当の中から昨夜の残り物と思われるとんかつを三切れくらいとミニトマトをひとつ蓋に乗せて渡せば朔は目を輝かせる。
「いいの?」
「ああ。そんなんじゃ午後持たないだろ」
 それに俺も少しは減量に繋がるかもしれない。
 一応は体型を気にしているんだ。
「きよしのお母さん料理上手だから嬉しいな」
 朔は躊躇わず、手でおかずを食べる。
 不思議とこういう仕草さえ気品があるように見えるのは、朔のおじいちゃんの影響だろうか。
「うん、おいしい」
「よかったな」
 それから、会話は続かない。
 朔は朔でおとなしいし、俺は俺であまり会話が得意な方ではない。
 お互い黙々と食べる。
 そして先に食べ終わった朔が両手を合わせて「ごちそうさまでした」とこれまた綺麗な所作を見せてくれる。
 いいとこの坊ちゃん。
 なにも知らない人が見れば、きっとそう見えるのだろう。
 おじいちゃんと二人暮らしで、足が悪い。
 悪口を言われても気づかない程度にはとろくて、いつもぼけーっとしている。
 顔がよくて静かで穏やかな、ちょっと病弱に見えるくせに風邪一つ引かないタイプ。
 でも実は朔も一種のオタクだ。
 弦楽器工房。それが朔の家だ。
 朔のおじいちゃんはその業界では結構有名な人らしい。そして朔もそこで手伝いというか修行というか、そういったことをしている。
 イケメンで、物静かで、楽器が弾ける。そして少し病弱そうな雰囲気。
 もう完璧だ。女子のハートは鷲掴みだろう。
 けれども朔は演奏より楽器製作の方が好きで、弦楽器について語らせるととても長い。普段のおとなしさが嘘のように話し始める。
 つまり、一種の同類なのだ。違いは容姿と社交性。
 朔はオタクでもイケメンであればモテるということを証明してしまうような存在だ。
 自分から昼飯に誘ってきたくせに、食べ終わるとさっさと雑誌を開きはじめる朔はマイペース過ぎる。けれどもそれが全く不快にならない。
 得な人種だと思ってしまう。
 熱心に見ているその雑誌は弦楽器の専門誌で主に演奏家向けのものだ。けれども朔が一番熱心に見るのは弦楽器マイスターのインタビューだ。
 さっきからずっと同じページを広げている。
 そんなことがわかってしまうくらいに朔を見てしまう。
「きよし?」
 不思議そうな声は俺が見ていることに気がついたのだろう。
「もしかして、弦楽器に興味持ってくれた?」
「べつに。ああいうのって小さいときからやらないとだめなんだろう?」
「そんなことないよ。大人になってからはじめる人だってたくさんいるし」
 初心者向けのセットもたくさんあるよと広告ページを開いて見せてくる。
 庶民には手が届かない価格帯で初心者向けだなんてふざけてる。
 訂正。やっぱり朔はいいとこの坊ちゃんだ。
「やっぱ住む世界違うな」
 それを言ったら爬虫類飼育だってそこそこ金が掛かる趣味だけど、弦楽器は次元が違うように思える。
 朔は一瞬驚いた顔をして、それからまた雑誌に視線を戻した。
 傷つけただろうか。
 それから一言も会話がなく、それでも昼休みが終わるまで朔は俺の前を動かなかった。

 なんとなく気まずさを感じながら、掃除当番のゴミ出しに移動していると、階段下で朔の姿を見つけた。
 一年の女子となにか話している。
 女子は意を決してという様子だからたぶん朔に気がある子なのだろう。アイドルグループに一人くらいいそうな顔だ。たぶん一般的な基準だとかわいい子なのだろうと思った。
 どうせ恋人もいないのだし、彼女こそが朔の恋人になるのだろうかと好奇心もあった。別に盗み聞きだとかそんなのでは……ないと言いたい。
 こんな場所でそんな話をするのが悪いんだと自分を正当化する。
 見ていると、朔は困ったような顔をしていた。
「ありがとう。気持ちは嬉しいよ。でもごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げる。
 きっとこういうことに慣れているのだろう。
「他に好きな人がいるんですか? いないなら、お試しででもいいです」
「うーん、そう言うのって、よくわからなくて」
 朔は本当に困り果てている。
「別に女の子が嫌いなわけではないけれど、僕はそういう感情がよくわからないんだ。たぶん、今は……マリアさんのことが一番だからだと思う」
 マリアさん。朔が咄嗟に出した名前は人間ではない。
 朔がおじいちゃんと一緒に作ったヴィオラだ。大きさや形、色艶に拘りがある話を何度か聞いたことがあるが俺にはさっぱりわからなかった。
「お友達としておしゃべりするのは楽しいよ」
 そう言っている間も、朔は落ち着かない様子だ。
 慣れているのかと思ったのに、それでも居心地が悪そうだった。
「マリアさんって……外国の人?」
 女子の方が泣きそうになっている。
「えっと……僕のヴィオラだけど……」
「え?」
 ぽかんとした表情で朔を見上げる女子に思わず同情しそうになる。
 一般的な感覚だとなに言ってるんだこいつとなるよな。
 でもたぶん今の朔は、彼女の相手をするよりもマリアさんに塗り直すニスの配合の方が気になるはずだ。
「うーん、そうだなぁ。恋人って言うよりは娘って感じがするけれど……今の僕の一番はマリアさんかな」
 全く悪気がない顔。
 けれども一年女子はわんわん泣いて走り去ってしまった。
 あれは可哀想だと思ってしまう。
 折角勇気を出してこの返答か。
「もう少しやんわり断ってあげればいいのに」
 思わずそんなことを言ってしまった。
「うーん、難しいなぁ」
 困ったように笑う表情はやっぱり考えが読めない。
「女子と付き合ってみれば考えが変わるんじゃないのか?」
「それ、きよしが言う?」
 朔がじっと俺を見る。
「なに?」
「きよしの好きな女の子の話聞いたことないから、てっきり僕といっしょかと思ってた」
 その言葉にどきりとする。
 まさか気づかれていたのだろうか。
 けれども朔の次の言葉で力が抜けた。
「恋愛感情ってよくわからない物語の中だけのものだと思ってるけど、みんなそんな話ばっかりするよね」
 ある意味似ている。
 けれどたぶん、朔と俺は違う。
「なら、好きな男の話でもしてみる?」
 別にやけくそとかそう言うのではなく、ただの冗談のつもりだった。
 けれども朔は首を傾げる。
「好きな男の子? それって、もしかして新しいトカゲのこと? それともヘビ?」
 どうやら新しいオスのペットでも飼ったのかと思われたらしい。
 別にそれでもいい。
 今はそれでいいと思った。

 朔が女子に興味がないと知って嬉しいやら落ち着かないやら微妙な気持ちになった。
 別に女に興味がないからと言って男が好きなわけでもない。
 世の中にはエッフェル塔と結婚する人だっているのだから、朔が本気でマリアさんとの結婚を考える可能性だってないとは言い切れない。
 だって俺も世間とずれてる感覚だ。
 水着の女性と写真と水着の男性の写真が並んでいたら男性の方に視線が行く程度だけれど、たぶん男が好きな人種で、結局毎日視線が追ってしまう相手は朔だ。
 美人だから目に入るだとか放っておけないだとかいくらでも言い訳は並べられる。
 だけど、一年女子と付き合わなくてほっとした気持ちがあったのもまた事実だった。
 もし、俺が彼女のように、朔に気持ちを伝えたら軽蔑されるだろうか。それともやっぱりよくわからないからごめんなさいと言われてしまうだろうか。
 朔は言いふらしたりするようなやつじゃない。
 それはわかっているつもりだけれど踏み出せない。
 学校ではまだバレていないはずだ。親もたぶん気づいていない。
 俺がアイドルグループにさえ興味を示さないのもきっと爬虫類に夢中だからだと思ってくれているだろう。大学に行って就職でもしたらそのうちどこかの誰か普通の、そう、多少ブスでも気にならないような相手と結婚して孫の顔を見せに来ると信じているはずだ。
 もし、誰かに知られたら、あっという間に噂が広がっていじめられるかも知れない。
 ただでさえ、デブで根暗なのだから。その上ゲイだなんて格好の餌食だ。
 これがせめて痩せているか、もう少し明るい性格なら受け入れられたかもしれない。テレビに出て切るオネエタレントみたいな振る舞いをすれば、みんな面白がって受け入れてくれるはずだ。
 けれども、どうしてそんなことをしなくてはいけないのか。
 ゲイがみんな明るいオネエだとでも思っているならそれは大きな間違いだ。
 それに誰が誰を好きだとか、どういう性癖なのかだとか他人に言いふらすような人間ばかりなのもどうかしている。
 人のプライベートな部分にずかずかと入り込んで、それをネタにからかったりするやつが一定数いることは理解しているつもりだ。だから、公にするべきじゃない。
 たとえ明るく振る舞ったからと言ってからかうやつはからかってくる。
 男が好きなだけで女になりたいわけではないのだからフェミニンな振る舞いをする必要はない。
 一晩中ぐるぐる考えて、結局今まで通り過ごそうと決めた。

 それからも朔はいつも通りで、けれども昼食は俺と過ごすことが増えたと思う。
 クラスの女子は不満そうに俺に文句を言うこともあったけれど、朔が自分からこちらに来るのだから仕方がない。
「昨日うっかりマリアさんを譜面台にぶつけちゃってニスが剥げちゃったんだ」
 悲しそうな様子で言われても、自分で直せるのだからいいだろうとしか思わない。
 けれども楽器を大切に扱う朔にしては珍しいなと感じた。
「転んだの?」
「ううん。座って練習してたから。でもなんかぼーっとしちゃって、うっかりぶつけちゃった」
 ぼーっとしているのはいつものことだからあまり気にはならなかった。
「塗り直したばっかりだったのに」
「また塗ればいいだろ」
「そうだけど……アリスさんに浮気するのはちょっとマリアさんに申し訳ない気がして」
 楽器全部に女性の名前をつけているのだろうか。
 驚くと言うより呆れてしまう。
「楽器に女性の名前ばっかりつけてるの?」
「うん? なんとなく女性かなって思ったら女性の名前で、男性かなって思ったら男性の名前だな? こないだじいちゃんとはじめて作ったチェロはトニオさんだよ。チェロは弾かないからお店に置いて、弾きたい人に弾いて貰うことにしたんだ」
 嬉しそうに語るのは、おじちゃんに腕を認められてきたからだろうか。
「そうだ、きーちゃん、今日の放課後空いてる?」
「その呼び方やめろって」
「あ、ごめんなさい」
 朔は叱られた子犬のような表情を見せる。
 それにしてもわざわざ放課後の用事を確認するなんて、当番を押しつけようとでもしているのだろうか。
「空いてるかは内容次第だな」
 そう言うと、朔は少しだけ恥ずかしそうな表情を見せた。
「えっとね、きよしに見てほしいものがあるんだ」
 これはたぶん、新作の楽器。なにかものすごく気に入った出来なのだろう。
 けれど俺には楽器の善し悪しなんてわからない。
 かといって朔の誘いを断ることも出来ない。
「……ペットショップに寄って冷凍マウスを受け取ってからでもよかったら」
「うん。じいちゃんも喜ぶよ」
 嬉しそうに笑う姿にどきりとする。本当に子供の頃から変わらない表情だ。
 あのいじめられっ子だった朔が今じゃ人気者で、体だけでかかった俺は今じゃカーストの最下層だ。
 そう思うと、おじいちゃんに会うのがなんだか気まずくなってしまう。
 朔のおじいちゃんは間違いなく歓迎してくれる。見た目も性格も穏やかな人で、仕事が丁寧。わざわざ遠方から客が来るのはそういう人柄も大きいのだろうと思わせるような人物で、小さい頃から世話になっている。今の俺を見せるのが恥ずかしく思えてしまった。

 放課後、ペットショップで冷凍マウスを受け取ってから朔の家へ向かった。
 朔の家はペットショップから遠くない。海沿いの観光客も多いかなり立地条件のいい場所で、歴史がありそうな木造三階建ての建物だ。一階部分が店舗で二階が工房、三階が住居になっている。
 店内に入れば、朔のおじいちゃんが出迎えてくれた。
「よくきたね。きよしくん」
「お、お久しぶりです」
 思わず背筋が伸びる。
 おじいちゃんは相変わらず姿勢が綺麗で、動きの一つ一つに気品がある。
 彼はカウンターの下から楽器ケースを一つ取り出して、朔に渡した。
「これ、僕が作ったんだけど、きよしに持ってて欲しいんだ」
 朔はおじいちゃんから受け取ったケースを俺に差し出す。
「は?」
 なんの話だ。
 俺は楽器なんて興味ないし、そういったお上品な趣味はないのに。
「中々よく鳴る素直な楽器だから上達してからもずっと使えるよ」
 おじいちゃんの保証付き。
 せめて見るくらいはしてやらないと。
 そう思ってケースを開けば、朔がいつも持ち歩いているのよりも少し小さいからヴァイオリンだろうと思った。チョコレートみたいな艶のある色のそれはとても美しく見える。
「ケイって名付けたけど、気に入らなかったら好きな名前をつけていいよ」
 朔はそう言って、じっと僕の反応を見る。
「……貰えない」
 高級品だ。雑誌に載っていた初心者セットの金額を見たって手の届かない金額だ。それにおじいちゃんが保証してくれるようないい出来の楽器ならもっと高額なものに決まっている。
「僕が作った楽器だよ。きよしに持ってて欲しい。弾き方は僕が教えるから」
 珍しく朔が引かない。こいつはこんなに頑固だっただろうか。
「どうして?」
 俺の趣味は爬虫類飼育だと知っている朔が、普段であれば他人に自分の趣味を押しつけたりしない朔がどうして急にこんなことを言い出すのか。
 驚いて訊ねれば朔は少し寂しそうに笑う。
「きよしに持ってて欲しいから、じゃだめ?」
 ずるい。
 好きな相手にそんな風に言われて断れるかよ。
 本当は俺の気持ちを知っていて試しているんじゃないかとさえ思ってしまう。
「そのうち世界中で有名な弦楽器マイスターになる僕の作品だよ? 持ってて損はしないと思うけど」
「だから、なんで俺に」
 そんな価値が出る物だったらその時に自分で売ればいいのに。そう思って朔を見れば寂しそうな目をしている。
「……留学するんだ」
「え?」
「夏休みが終わったら、ドイツに行くんだ」
 突然のことでなにを言われたのかわからなかった。
 だって朔はそんな話、全くしていなかった。
「なんで急に」
「だって、弦楽器マイスターの資格を取りたいから。あれ、結構大変なんだよ。何年も向こうで勉強しないといけないから」
 だからと、朔は言う。
「向こうに行ったらしばらく会えなくなっちゃうからきよしに持ってて欲しい」
 朔は自分の夢に向かっている。
 ちっとも同類なんかじゃなかった。朔のはただの趣味じゃなくて、将来の職に繋がるものだ。
 でも俺は?
 ただのデブで、爬虫類オタクで、朔以外と殆ど会話すら出来ない。
 自分がすごく惨めになってしまう。
「勝手すぎる」
「ごめんなさい。でも……きよしはすごくいい音を出してくれると思う」
 なんだよその勝手な期待は。
 ふざけるなと言いたいのに、言えない。
 朔の気持ちを踏みにじるなんて俺には出来なかった。

 それから、楽器の持ち方や基本の運指を教わった。
 俺がヴァイオリンなんて弾けるわけないと思ったのに、朔が指導してくれたら涙が出るほど綺麗な音が鳴った。
 そのまま朔に乗せられて、楽器をもらい受けた。
 調子に乗って家でも弾いてみようとしたら酷い音だった。まるで黒板を爪で引っかいたようだ。
 これは酷い。
 朔に楽器を貰ったことを母さんに言えば、慌てて高級菓子の詰め合わせを買ってきて、明日朔の家に持っていきなさいと言われてしまったが、この楽器は朔に押しつけられたんだ。そんな必要はないと思った。
 
 意外な事に、楽器の練習が続いてしまった。というのも、毎日学校で進捗を訊いてくる朔と、学校帰りにいつでも練習に来ていいと言ってくれたおじいちゃんの影響が大きいだろう。
 最高のメンテナンスと指導を毎日、それも無償で提供してくれるこの二人はどうかしていると思った。
 だけど、だからこそ、夏休み中も毎日のように通ってしまったのだろう。
 夏休みが終わる頃には初歩的な練習曲を自力で弾けるようになっていた。
 
 楽器が弾けるようになったからと言って、俺の性格が変わるわけでもない。社交性は勿論無いから、おじいちゃんが勧めてくれたアマチュアオーケストラに参加する気にはなれなかったし、朔がいなくなってからは家族とおじいちゃんくらいしか会話をする相手がいなくなってしまった。
 なんというか、心に空洞が出来た気分だ。
 それを埋めるように、朔の家に通った。いつだっておじいちゃんが出迎えてくれて、練習室を貸してくれる。それに指導も。
 朔が戻ってきたら驚かしてやろうと思ったのかもしれない。自分でも意外なほど練習が続いた。
 爬虫類の世話と練習、それに受験勉強。
 忙しくしていると、心の隙間は少し埋められたような気がした。
 東京の大学に進学しようと思っていたけれど、地元の大学に進学し、そのまま朔の家でおじいちゃんの指導を受けることにしたら、おじいちゃんはとても喜んでくれた。
 楽器を弾くのはとても不思議な気分だ。
 言葉に出来ないものを全部吐き出していけるような。
 おじいちゃんは俺の演奏を「よく歌う」と評価している。
 大学に進学してからも、コンクールやオーケストラには参加しなかった。人前で演奏するのはなんだか違う様な気がしたから。

 大学を卒業する頃、中学生の頃から買っていたヘビが寿命を迎え少し寂しく感じていた。
 相変わらず俺の体型は太めで、やっぱり好きな女の子は現れなかった。
 たぶん一生女の子を好きになれないのだと思う。
 そして、ヴァイオリンに触れる度に朔を思い出す。
 間違いなく、朔が俺の初恋の相手だったと思う。
 そう言えば、失恋の曲ばかり弾いている気がする。
 デブで根暗で、しかもゲイ。
 相変わらず同世代に馴染めなくて、家でひっそり楽器を弾いている。
 朔はもう夢を叶えただろうか。
 もうガット弦でも安定した演奏ができるようになったんだぜ。なんて見せびらかすこともまだできていない。
 もしかしたら向こうで結婚しているのかも。いや、だったらおじいちゃんに連絡が入るか。
 いつまでも残るあの微妙な感情が、感傷的な響きを生み出す。
 根暗でも、音でなら気持ちを伝えられるかも。
 けれども、きっと俺はそうしない。
 次に会った時も朔の友人のままでいたいから。

 朔が戻ってきたのは、俺が大学を卒業して少し経ってからだった。
 意外な事に公務員になった俺は、終業後や休日におじいちゃんの指導を受ける。
 新米公務員のくせにそんな趣味だなんて上司に知られたらねちねち言われるかもしれないが、慣れない業務の鬱憤晴らしにも丁度よかった。
 練習室で、レパートリーの一つを弾いていた。
 切ない曲調の、たぶんこれも失恋の曲だったと思う。
 そこに、突然扉が開いて、目をまん丸くした朔が居た。
 何年も会っていなかったはずなのに、高校の頃と全く変わっていないように見える。
 相変わらず美人で、ほわほわとした空気で……背も変わっていない。
 演奏を終えると、拍手が響いた。
「こんなに弾き込んでくれて嬉しいな」
 すごくいい音だったと朔は言う。
「楽器がいいから」
「ううん。きーちゃんが頑張ってたくさん練習したからだよ」
「その呼び方嫌い」
「ごめんなさい」
 すごく久々に会ったはずなのに、あの頃となにも変わらない気がする。
「ケイ、見せてくれる?」
「勿論」
 朔はちゃんとマイスターになって帰ってきた。
 線の細い美形で、社交性があって……夢を叶えた。
 やっぱり俺とは何もかも違う。
「すごく大事に使ってくれてるんだね」
 朔の言葉にどきどきした。
「きよしならいい演奏家になると思ってたよ」
「別に……ケイがいい楽器なだけだよ」
 そう。あの日うっかり感動してしまったから。
 朔とおじいちゃんがあまりにも熱心だったから。
 どうしようもない初恋の感情をなんとか吐き出す方法が欲しかったから。
 演奏家になりたいわけじゃない。
 人前で演奏するつもりだってない。
 けれども感情を吐き出す方法になってくれた。
「今度僕と合奏してよ」
「は?」
「ヴィオラはヴァイオリンの最高のパートナーなんだよ」
 ふわりと柔らかい笑顔。
 相変わらず考えが読めない朔は、俺の心を揺さぶって舞い上がらせるのが本当に上手い。
 勘違いしてしまいそうになる。
「楽譜はそっちが用意しろよ」
「うん」
 まるで俺をパートナーにするために楽器を渡したと言っているみたいじゃないか。
 顔に熱が集まる感触。
 今はただ、演奏を褒められた照れということにしておこう。
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