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1巻
1-2
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まったく男慣れしていない私ではあるが、何回かデートを重ねるうちに一度くらいは体を求められたりするんじゃないかと、期待(?)していたところもあった。
だけど、そんな気持ちとは裏腹に知廣さんが私に触れることはほとんどなかった。
これにはさすがの私も、不安を抱かざるを得なかった。なんせ恋愛経験が皆無の私には、これが普通なのかそうでないのかもわからない。
でも、知廣さんは会えば優しく接してくれるし、常に私を気遣ってくれる。今日だって忙しい中、仕事を抜けてまで出迎えに来てくれた。
何が正解かなんて私にはわからないけれど、少なからず彼から思われているのは感じ取れる。
お見合い結婚の私達はこれからじっくりと関係を深めていけばいい。夫婦生活はまだ始まったばかりだし。……そう結論づけて今に至る。
――悩んだ時もあったけど、今こうして知廣さんの側にいられる。それだけで、私は充分幸せです……!
そんなことを思いながら近くにいる知廣さんを見つめ、うっとりする。
「玲香さんの荷物ですが、寝室の隣にあるウォークインクローゼットに纏めてあります。小物などは、ウォークインに備え付けの収納棚を自由に使ってもらって構いませんから」
「は、はいっ。わかりました!」
幸せで意識がどこかに行っている間に、知廣さんがテキパキと指示を出してくれていた。
――いけないわ、私ったら……今はぼんやりしている場合じゃなった。
知廣さんに言われて改めて、寝室の奥にあるウォークインクローゼットをチェックする。クローゼットとはいえ、優に大人一人分の布団が敷けてしまえそうなほどの広さがあった。
引っ越しにあたり私物を減らし、持ってくる荷物を厳選してきたので問題無く入りそうだ。
それにしてもさすが大日向家。どこもかしこも広い! と感心しながら振り返ると、ちょうど私の後ろにいた知廣さんにぶつかってしまった。
「きゃっ! も、申し訳ありませ……」
ぶつかった鼻を手で押さえながら知廣さんを見上げると、彼は優しく微笑み、私の肩にポンッと手を乗せた。
「申し訳ありません、なんてそんな仰々しい。私達はもう夫婦なのだから。ね、玲香さん」
ね、と私に同意を求める知廣さんの目がとても優しくてドキドキする。
私は彼から視線を外せないまま、小さく何度も頷いた。
「は、はい……そうですよね、私達もう夫婦なんですものね。あっ、じゃあですね、知廣さんも私のことは『玲香』と呼んでください。それに敬語もやめてくださると嬉しいです」
私に気を遣ってくれるのは嬉しいけど、なんとなく他人行儀な気がする。できたら、もっと気楽に話しかけてほしい。
「わかった。癖でたまに敬語が出てしまう時があるかもしれないが、努力する。玲香も俺のことは好きに呼んでくれて構わないから」
知廣さんはにっこりと微笑み、私のお願いを聞いてくれた。
「わ、私はもうしばらく知廣さんのままでお願いします」
――さすがに彼を呼び捨てにするとか、無理だ。ハードルが高すぎる!
おずおずと申し出ると、彼はフッと軽く笑う。
「わかった。君の好きなようにするといい」
「ありがとうございます。でも、ちょっと話し方を変えるだけでだいぶ変わりますね。少し夫婦らしくなった気がするかな、なんて……」
「夫婦らしく、ね」
何やら小さく呟いた知廣さんの顔が、私の耳に近づく。耳に吐息がかかり、驚いた私はびくんと肩を揺らした。
「ち、知廣さん……?」
「さっき、ベッドを見て赤くなっていたでしょう。玲香は何を考えていたのかな?」
「えっ!」
驚いて知廣さんを見れば、口元に笑みを湛えながら私の返事を待っている。
「やっ……その! 大きいベッドだなって、おもっ……」
初夜のことを考えていた、なんて言えるわけない。動揺してしどろもどろになっている私を見て、知廣さんが可笑しそうに頬を緩める。
「本当に? 何か違うこと考えていたんじゃない?」
そう言って意味ありげな視線を送ってくる知廣さんに、私の心拍数が急激に上がる。
「かっ……そんな……ちょっ、ちょっとだけです!」
彼の視線にテンパった私は、つい正直に白状してしまう。
いつもと違う知廣さんに、私の調子も完全に狂ってしまったようだ。
「相変わらず玲香は面白いね。でも、こうなんでもかんでも顔に出てしまうのは少々困りものだな」
「えっ!? 私そんなに顔に出てますか?」
「出てるよ。さっきは、まるで桜の花のように頬を赤く染めていた。でも……」
いつの間にか距離を詰めた知廣さんが、私の顎をくいっと指で持ち上げる。
「こんなに可愛い顔は、俺以外の男に見せてはいけないよ。いいね?」
彼の言葉と妖艶な視線に、ぞくりと皮膚が粟立つ。返す言葉に詰まった私は、返事の代わりに何度も小さく頷いた。
そんな私に、顎から手を離した知廣さんがクスッと笑う。
「妻の期待に応えたいところだが、さすがに引っ越して来たばかりで疲れている君に襲いかかるようなことはしないよ。今夜はゆっくり休むといい」
「えっ?」
――今、しないって言った?
「じゃあ、悪いけど仕事に戻るよ。夕方には戻るから、夕食は一緒に取ろう」
「は……はい」
知廣さんはキョトンとしたまま動けない私の頭を一撫でした後、部屋から出て行った。
広い部屋に一人残された私は知廣さんの言葉が気になりつつも、とりあえず手つかずの自分の荷物を片付けることにした。
夕食は一階の食堂で家族揃って取るそうだ。
六人掛けの大きなダイニングテーブルが中央にある広い部屋では、給仕を担当する年配の女性が忙しなく働いていた。なんと、この家の食事は全て住み込みで働いている方が作ってくれるのだという。
『母は定休日以外、この家の隣にある料亭おおひなたで女将をしているんだ。だから一緒に夕食を取るのは、祖父母と父と私達の五人だよ』
事前に知廣さんから聞いていたとおり、お義母様を除いた家族五人が席についた。
おおひなたを創業したお義祖父様と、それを引き継ぎ事業を拡大して、さらに大きく成長させたお義父様。その息子の知廣さん。そしてお義祖母様に囲まれつつ、新入りの私は緊張しながら嫁いで初めての夕食をいただく。
大日向家の食事は基本和食。品数が多く、いくつもの小鉢が目の前に置かれる。お義祖父様もお義父様も元々は料理人だったそうで、味に関してはとても厳しいらしい。
一人息子の知廣さんは料理の道ではなく、ゆくゆくは家の会社経営をするために大学は経営学部に行ったとデートの時に聞いた。
食事中、お義祖父様とお義父様はポツポツ喋る程度で私にはほとんど話しかけてこない。でも、喜寿を迎えたばかりのお義祖母様は気さくに声をかけてくれる。お気に入りのお蕎麦屋さんが入っているのが私の実家の持ちビルだと知るや否や、パアッと表情を輝かせた。
「あら、そうなの!? 私あのお蕎麦屋さんがこの辺りでは一番美味しいと思っているのよ」
「はい、私もそう思います。それに、あそこは天ぷらもとっても美味しいですし」
「そうそう、天ぷら! 美味しいわよねえ。後ね、私あの店の蕎麦がきが好きで……」
「お祖母さん。その調子で話しかけ続けたら、玲香が食事できませんよ」
苦笑しつつ、知廣さんがやんわりとした口調で会話に割って入る。
どうやら知廣さんは、家族に対しても敬語で話すようだ。
「ああ、そうね。ごめんなさい、玲香さん。この件についてはまた今度改めてお話ししましょう。ゆっくり食べてね」
「はい。ありがとうございます」
お義祖母様と知廣さんの優しさに感謝しつつ、手の込んだ夕食を堪能した。
食後は煎れてもらったお茶を飲みつつ、しばしの団欒タイム。
相槌を打ちながら話に耳を傾けていたら、お義父様が「今日は夫婦でゆっくりしたらいい」と言ってくださった。
丁寧に挨拶をして食堂を出た私は、知廣さんと一緒に二階のリビングへ移動する。
部屋に入るなり、急に二人きりになったことを意識してドキドキしてしまう。そんな私に、知廣さんが声をかけてきた。
「玲香は、食事の後、いつもどんな風に過ごしてる?」
「えっ、私ですか? そうですね、これまでは家族でお茶を飲んだり、一緒にテレビを観たりして過ごしていました。気分によっては、自分の部屋に籠もることもありましたが……」
「そう。テレビを観るなら、いくつか動画配信サービスに加入しているから、利用するといいよ」
リモコンを手にした知廣さんが、動画を観る方法を教えてくれる。
しかし、両親が結構なアナログ人間だったため、私もこういうものに関してはさっぱりだ。
映画は映画館で観るか近所のレンタルショップで借りる――という認識だったから、家でいつでも映画やドラマが観られると聞いて感動してしまった。
「す、すごい……! こんなに色々観られるなんて! 素晴らしいサービスですね!」
リモコンを持って興奮する私に、知廣さんは呆気にとられた表情を見せる。
「……玲香が住んでいたのは、同じ日本だと聞いていたが」
「……す、すみません、私こういうの、本当に疎くて……」
「君、スマートフォンを使っているだろう。加入している配信サービスはそちらでも利用することができるよ」
「えっ? そんなこともできるんですか? 私、あんまりスマートフォンを使いこなせていないので、そういう機能があるなんて知りませんでした」
通話とメールと、友人の撫子さんに教えてもらった通話アプリくらいしか使っていない。
その他の機能が眠ったままになっているスマートフォンは、はっきり言って宝の持ち腐れでしかないと常々思っている。
しばらく私を見ていた知廣さんが、徐々に肩を震わせ始めた。
「なんだか、らしい、ね」
「ま、また笑われてますね、私……お恥ずかしい……」
しょぼんと肩を落とすと、知廣さんの大きな手が私の頭を優しく撫でた。
「恥ずかしくなんてないから。少なくとも、俺は可愛いと思っているよ」
彼の手の温もりが頭からじんわりと伝わってくる。そのせいだろうか、私の顔に熱が集中してきた。
――知廣さん、や、優しい……!! もう、大好き……!!
「ち、知廣さんっ……」
「ちなみに、どんな映画が好きなの?」
思わず、好きです、と口に出しそうになった瞬間、彼が質問を被せてくる。
「えっ? あ……ゾ、ゾンビ映画とかのホラー、です」
一瞬真顔になった後、知廣さんの口元が可笑しそうに歪む。
「……玲香は意外性の塊みたいな人だな」
知廣さんはそう言って、口元に手を当て再び肩を震わせた。
その後、テレビやブルーレイなどの操作方法を教わっているうちに、気がついたら夜の十時を回っていた。
引っ越し初日だし、早めに寝た方がいいと言う知廣さんに従い、先にお風呂に入らせてもらう。……けど、彼と一緒に寝ると思うとどんどん緊張してきた。
――どど、どうしよう、緊張して口から心臓が飛び出そう……
体を洗いながら、ふと昼間の知廣さんの言葉を思い出す。
――何もしないって言ってたけど、本当かな……。でも、同じベッドで寝ることには変わりないんだよね……?
もう一度念入りに体を洗ったり、鏡で体のラインをチェックしたりしていたら、あっという間に一時間ほど経ってしまい慌ててバスルームを出た。がしかし、今度は脱衣所に置いてあるバスローブに頭を抱えることに。これを着て出た方がいいのかどうか悩んでしまう。
――実家ではパジャマだったから、バスローブって着たことがないのよね……
悩んだ末、寝る時のことを考えて持ってきたパジャマに着がえてリビングに戻った。そこには、ソファーに浅く腰掛けてパソコン作業をしている知廣さん。
「遅くなってしまってすみません。知廣さん、お風呂どうぞ」
「ああ……うん。ゆっくりできた?」
「はい。浴槽がすごく広くて快適でした」
「そう。それはよかった」
パソコンを閉じながら微笑んだ知廣さんは、ソファーから立ち上がるとこちらに向かって歩いてくる。
そしてすれ違いざま、私の頭に顔を近づけた。
「いい香りがする。シャンプーかな?」
「えっ! か、香りですか? いつも使っているものなので私にはよくわからなくて……」
自分の髪を一房掴み香りを嗅いでいると、知廣さんが私の耳元でこそっと囁いた。
「先にベッドに入ってて。すぐに行く」
――えっ、ええ!! それって、まさか……
慌てて振り返るも、知廣さんの姿はすでに無かった。だけど確かに、先にベッドへ、と言われた。ということは……ついに、初夜……!?
それを意識した途端、私の心臓が再びどっくんどっくんと大きな音を立て始める。
――昼間は何もしないって言ったけど、やっぱり……!? ど、どうしよう、私どんな顔で待っていればいいの……
「こ……こうしちゃいられないわ、とりあえず寝室へ」
急いで寝室に移動して、慌ててドレッサーで自分の姿を確認する。その後、緊張しながら一声、「お邪魔します」と言ってからベッドに体を滑り込ませた。
ベッドは弾力があってめちゃくちゃ寝心地が良さそうだ。それに、掛け布団もすごく柔らかくて気持ちがいい。思わず頬ずりしたくなってしまう。
知廣さんの選んだものに間違いはないな……なんて思っていると、入浴を終えた知廣さんが寝室に入ってきた。
バスローブ姿の知廣さんは、生乾きの髪が色気を増大させている。さらにバスローブの合わせから覗く素肌が、なんというか、え……えろ……い……
気づいたら彼をガン見していたので、私は慌てて彼から目を逸らす。
「お先に……お邪魔させていただいてます……」
「お邪魔って。それより布団はどうだろう? 軽くて温かいものを選んだつもりだけど、気に入ってもらえたかな」
「は、はい! すごく肌触りがよくて気に入りました。ぐっすり眠れそうです」
知廣さんが髪をタオルドライしながら、間接照明を点けてベッドの端に腰を下ろす。
「それは何より。で、玲香。今日一日ここで過ごしてみてどうだった? 何か困ったことや不安なことはある?」
「困ったこと……」
聞かれて、ついつい視線が枕元に置いてある、お義母様から渡されたマニュアル本にいってしまう。困っているというより、ちゃんと覚えられるか不安で。
それに気づいた知廣さんが、マニュアル本を手に取った。
「大日向家の嫁とは……なんだ、これ」
彼は怪訝そうな顔で、パラパラと本を捲る。
「今日、お義母様からいただいたものです。一日も早く、大日向家の嫁として認めてもらいたいのですが、思った以上に覚えることが多くて……。あ、でも、きちんと一週間後の修業には間に合わせますから!」
すると知廣さんの目が驚きで見開かれる。
「一週間後の修業……? この本、家族の食の嗜好まで事細かに書いてあるけど……いや、それにしてもこれは多いだろう」
知廣さんの表情がだんだん険しくなってくる。これはマズいと思った私は、慌てて彼の言葉を遮った。
「大丈夫です! 私、やります」
「やるって……」
意気込んだ声を上げる私に、知廣さんが困ったように眉根を寄せる。それを見て、ちゃんと自分の意思で修業をしたいと思っていると説明した。
「お見合いの時、将来的に女将になるのが習わしだと聞いていましたし。お義母様みたいに立派な女将になれるか自信はありませんが、私なりに精一杯頑張りたいんです」
私の言葉を静かに聞いてくれていた知廣さんは、困った顔のままため息をついた。かと思ったら、いきなり布団を捲って、その中に体を滑り込ませる。
その途端、私の左半身がビクン! と大きく跳ねた。
――わっ! 急に……
「君は、意外と頑固だな」
「す、すみません……」
「いや……頼もしいよ。でも、辛くなったらいつでも言いなさい、いいね?」
「はい、わかりました!」
わかってもらえたことに安心して笑みを向けると、知廣さんの手が私の頭にぽん、と乗せられた。
「……可愛いな。玲香は」
にっこりと微笑んだ知廣さんが、私の頭を何度も撫でる。
ドキドキしながらすぐ隣にいる彼を見つめた。ふと気づいたら、知廣さんと私の距離が随分と狭まっている。
――もしやこれは、キッ……キスの流れでは……?
そう意識した途端、私の体は緊張でこれまでにないくらい固くなる。
自分から目を閉じた方がいいのかどうかもわからなくて視線を泳がせていたら、知廣さんの顔がすぐ近くに迫ってきた。咄嗟に私は、ぎゅっと目を瞑る。次の瞬間、額に温かくて柔らかいものが触れて、すぐに離れていった。
――…………あれ?
キスはキスだけど、おでこ?
たとえおでこでも、キスをしてくれたのはすごく嬉しい。けど、キスと言えば唇のイメージだっただけに、どこか拍子抜けしてしまう。
恐る恐る目を開くと、さっきまですごく近くにいた知廣さんが私から離れていくところだった。
「今日は一日お疲れ様。ゆっくり休んで」
そして知廣さんは、枕元に置いてあった文庫本を手にする。
――これは……どう考えても、初夜っていう雰囲気じゃない……?
「は……はい。ありがとうございます……」
私は布団に潜り込んで、彼に背を向けて横になった。
まあ、最初から何もしないって宣言されていたわけだし……と、無理矢理自分を納得させる。
――そうよ。まだ新婚生活初日なんだし。これからよね……
気持ちを切り替えた私は「おやすみなさい、知廣さん」と声をかける。
すぐに知廣さんから「おやすみ、玲香」と、優しい声が返ってきた。その声音に安心した私は、引っ越し初日の疲れもあってか、あっという間に眠りに落ちていった。
翌朝。気持ち良く目が覚めた私は、身支度を済ませて知廣さんと一緒に食堂へ移動する。
すでに、お義祖父様とお義祖母様。お義父様と、昨夜はいなかったお義母様が席についていた。
「おはようございます」
それぞれに挨拶をしてから席についた私に、着物をピシッと着こなしたお義母様から厳しい声が飛んできた。
「玲香さん、昨日差し上げたものは、全て読まれましたか?」
「えっ!? あ、あのマニュアルですか? すみません、まだ三分の一くらいしか……」
昼間は引っ越しの荷物の片付けに追われ、その合間に目を通していたものの、さすがに読み終えるまでにはいかなかった。
――いけない、私ったら……せっかくお義母様がくださったのに、のんきに寝ている場合じゃなかった……!
肩を落としてお義母様を窺うと、矢のような鋭い視線に射抜かれる。
「玲香さん。そのようにのんびりしていていいのですか? 今日はもう一冊お持ちしたのですよ」
そう言いながらお義母様が差し出してきたのは、昨日いただいたマニュアルの下巻。それを目にした私は、思わず固まる。
――上巻より分厚い……!
お義母様は、呆れた様子でため息をついた。
「これだから最近の若い子は……やっぱりこんな若いお嬢さんにうちの嫁は務まらないので……」
「お母さん。いい加減にしてください」
お義母様の言葉に被せるようにぴしゃりと言い放ったのは知廣さん。なんだか怒っているように感じるのは気のせいだろうか。
「玲香は昨日引っ越して来たばかりなんですよ? いきなりそこまで厳しくする必要はないでしょう。今の態度はどう見ても嫁いびりをする鬼姑にしか見えませんでしたよ。ねえ、お父さん」
「なっ……知廣!」
お義母様が眉を寄せて、羞恥なのか怒りなのか顔を赤らめる。
同意を求められたお義父様は、一瞬驚いたような顔をしたものの、言いにくそうに口を開いた。
「まあ……な。今のは母さんが言い過ぎだ。別にそこまで急ぐことはない」
二人に責められたお義母様は、あからさまに不機嫌になり軽く口を尖らせる。
「……二人してなんですか、嫁の肩持って……」
思いっきり場の空気が悪くなってしまい、さすがにこれはマズいと焦ってしまう。
私は両手を太股に乗せて、お義母様に向かって頭を下げた。
「すみませんお義母様! 私がトロいのがいけないんです」
「玲香」
知廣さんが心配そうな顔でこちらを見る。それを視線で「いいんです」と訴える。
「今日一日で全てに目を通します!」
私が明るくこう言うと、不機嫌だったお義母様の表情が、少しだけ和らいだ。
「そう。じゃあ……頑張ってちょうだい」
そう言ってもらえてほっと肩の力を抜くことができた。
朝食後、二階のリビングに戻ったところで知廣さんに呼び止められた。
「玲香。母の言いなりになる必要はないんだよ。女将だってすぐ交代するわけじゃない。なにせ母がまだ現役バリバリだからね」
いつになく心配そうに私を見つめる知廣さんに、胸がドキドキした。
――こんなに私のことを心配してくれるなんて……嬉しい……!
「知廣さん、ありがとうございます。でも、無理はしていないので大丈夫ですよ! 荷物もだいぶ片付きましたし、今日はお義母様が作ってくださったマニュアルにしっかり目を通そうと思います」
明るく言うと、困ったように微笑んだ知廣さんの腕が私の体に巻き付き、抱き締められた。
――キャ――――!! 知廣さんの腕が、体があああ――!!
こんなに彼と密着したのは初めてで、私は激しく動揺してしまう。
「……無理だけはしないように。いいね?」
「は、はい……!! かしこまりました……!!」
本当に、本当に。知廣さんが大好きだから、あなたのためなら頑張れるんです、私。
この日は一日をかけて、お義母様からいただいた【大日向家の嫁とは 上・下】を読破した。大日向家の嫁とはどうあるべきかというお義母様の熱い思いが、これでもかというくらい詰まっていて、読み終えた私の胸も熱くなった。
――大日向家の発展の裏には、常に妻の内助の功があった。
お義母様はそれを重く受け止めているからこそ、私にも知廣さんを支えなさいと言いたいのだわ。
私も一日でも早く、知廣さんを支えられるような妻になるべくもっともっと精進しないと……!!
強く決意した私は、一週間後の修業開始に向けてマニュアルを読み込んでいく。
そうして迎えた二日目の夜。
昨夜は残念ながら何もなかった私と知廣さんだが、もしかしたら今夜こそ初夜を迎えられるのではないか――夕食後リビングに移動してからというもの、意識してついそわそわしてしまう。
対する知廣さんはというと、いつもとなんら変わることなく、ソファーでタブレットやパソコンを操作している。
果たして、ここから甘い雰囲気になるのだろうか? と疑問に思い始めた時、時計を見た知廣さんが顔を上げた。
だけど、そんな気持ちとは裏腹に知廣さんが私に触れることはほとんどなかった。
これにはさすがの私も、不安を抱かざるを得なかった。なんせ恋愛経験が皆無の私には、これが普通なのかそうでないのかもわからない。
でも、知廣さんは会えば優しく接してくれるし、常に私を気遣ってくれる。今日だって忙しい中、仕事を抜けてまで出迎えに来てくれた。
何が正解かなんて私にはわからないけれど、少なからず彼から思われているのは感じ取れる。
お見合い結婚の私達はこれからじっくりと関係を深めていけばいい。夫婦生活はまだ始まったばかりだし。……そう結論づけて今に至る。
――悩んだ時もあったけど、今こうして知廣さんの側にいられる。それだけで、私は充分幸せです……!
そんなことを思いながら近くにいる知廣さんを見つめ、うっとりする。
「玲香さんの荷物ですが、寝室の隣にあるウォークインクローゼットに纏めてあります。小物などは、ウォークインに備え付けの収納棚を自由に使ってもらって構いませんから」
「は、はいっ。わかりました!」
幸せで意識がどこかに行っている間に、知廣さんがテキパキと指示を出してくれていた。
――いけないわ、私ったら……今はぼんやりしている場合じゃなった。
知廣さんに言われて改めて、寝室の奥にあるウォークインクローゼットをチェックする。クローゼットとはいえ、優に大人一人分の布団が敷けてしまえそうなほどの広さがあった。
引っ越しにあたり私物を減らし、持ってくる荷物を厳選してきたので問題無く入りそうだ。
それにしてもさすが大日向家。どこもかしこも広い! と感心しながら振り返ると、ちょうど私の後ろにいた知廣さんにぶつかってしまった。
「きゃっ! も、申し訳ありませ……」
ぶつかった鼻を手で押さえながら知廣さんを見上げると、彼は優しく微笑み、私の肩にポンッと手を乗せた。
「申し訳ありません、なんてそんな仰々しい。私達はもう夫婦なのだから。ね、玲香さん」
ね、と私に同意を求める知廣さんの目がとても優しくてドキドキする。
私は彼から視線を外せないまま、小さく何度も頷いた。
「は、はい……そうですよね、私達もう夫婦なんですものね。あっ、じゃあですね、知廣さんも私のことは『玲香』と呼んでください。それに敬語もやめてくださると嬉しいです」
私に気を遣ってくれるのは嬉しいけど、なんとなく他人行儀な気がする。できたら、もっと気楽に話しかけてほしい。
「わかった。癖でたまに敬語が出てしまう時があるかもしれないが、努力する。玲香も俺のことは好きに呼んでくれて構わないから」
知廣さんはにっこりと微笑み、私のお願いを聞いてくれた。
「わ、私はもうしばらく知廣さんのままでお願いします」
――さすがに彼を呼び捨てにするとか、無理だ。ハードルが高すぎる!
おずおずと申し出ると、彼はフッと軽く笑う。
「わかった。君の好きなようにするといい」
「ありがとうございます。でも、ちょっと話し方を変えるだけでだいぶ変わりますね。少し夫婦らしくなった気がするかな、なんて……」
「夫婦らしく、ね」
何やら小さく呟いた知廣さんの顔が、私の耳に近づく。耳に吐息がかかり、驚いた私はびくんと肩を揺らした。
「ち、知廣さん……?」
「さっき、ベッドを見て赤くなっていたでしょう。玲香は何を考えていたのかな?」
「えっ!」
驚いて知廣さんを見れば、口元に笑みを湛えながら私の返事を待っている。
「やっ……その! 大きいベッドだなって、おもっ……」
初夜のことを考えていた、なんて言えるわけない。動揺してしどろもどろになっている私を見て、知廣さんが可笑しそうに頬を緩める。
「本当に? 何か違うこと考えていたんじゃない?」
そう言って意味ありげな視線を送ってくる知廣さんに、私の心拍数が急激に上がる。
「かっ……そんな……ちょっ、ちょっとだけです!」
彼の視線にテンパった私は、つい正直に白状してしまう。
いつもと違う知廣さんに、私の調子も完全に狂ってしまったようだ。
「相変わらず玲香は面白いね。でも、こうなんでもかんでも顔に出てしまうのは少々困りものだな」
「えっ!? 私そんなに顔に出てますか?」
「出てるよ。さっきは、まるで桜の花のように頬を赤く染めていた。でも……」
いつの間にか距離を詰めた知廣さんが、私の顎をくいっと指で持ち上げる。
「こんなに可愛い顔は、俺以外の男に見せてはいけないよ。いいね?」
彼の言葉と妖艶な視線に、ぞくりと皮膚が粟立つ。返す言葉に詰まった私は、返事の代わりに何度も小さく頷いた。
そんな私に、顎から手を離した知廣さんがクスッと笑う。
「妻の期待に応えたいところだが、さすがに引っ越して来たばかりで疲れている君に襲いかかるようなことはしないよ。今夜はゆっくり休むといい」
「えっ?」
――今、しないって言った?
「じゃあ、悪いけど仕事に戻るよ。夕方には戻るから、夕食は一緒に取ろう」
「は……はい」
知廣さんはキョトンとしたまま動けない私の頭を一撫でした後、部屋から出て行った。
広い部屋に一人残された私は知廣さんの言葉が気になりつつも、とりあえず手つかずの自分の荷物を片付けることにした。
夕食は一階の食堂で家族揃って取るそうだ。
六人掛けの大きなダイニングテーブルが中央にある広い部屋では、給仕を担当する年配の女性が忙しなく働いていた。なんと、この家の食事は全て住み込みで働いている方が作ってくれるのだという。
『母は定休日以外、この家の隣にある料亭おおひなたで女将をしているんだ。だから一緒に夕食を取るのは、祖父母と父と私達の五人だよ』
事前に知廣さんから聞いていたとおり、お義母様を除いた家族五人が席についた。
おおひなたを創業したお義祖父様と、それを引き継ぎ事業を拡大して、さらに大きく成長させたお義父様。その息子の知廣さん。そしてお義祖母様に囲まれつつ、新入りの私は緊張しながら嫁いで初めての夕食をいただく。
大日向家の食事は基本和食。品数が多く、いくつもの小鉢が目の前に置かれる。お義祖父様もお義父様も元々は料理人だったそうで、味に関してはとても厳しいらしい。
一人息子の知廣さんは料理の道ではなく、ゆくゆくは家の会社経営をするために大学は経営学部に行ったとデートの時に聞いた。
食事中、お義祖父様とお義父様はポツポツ喋る程度で私にはほとんど話しかけてこない。でも、喜寿を迎えたばかりのお義祖母様は気さくに声をかけてくれる。お気に入りのお蕎麦屋さんが入っているのが私の実家の持ちビルだと知るや否や、パアッと表情を輝かせた。
「あら、そうなの!? 私あのお蕎麦屋さんがこの辺りでは一番美味しいと思っているのよ」
「はい、私もそう思います。それに、あそこは天ぷらもとっても美味しいですし」
「そうそう、天ぷら! 美味しいわよねえ。後ね、私あの店の蕎麦がきが好きで……」
「お祖母さん。その調子で話しかけ続けたら、玲香が食事できませんよ」
苦笑しつつ、知廣さんがやんわりとした口調で会話に割って入る。
どうやら知廣さんは、家族に対しても敬語で話すようだ。
「ああ、そうね。ごめんなさい、玲香さん。この件についてはまた今度改めてお話ししましょう。ゆっくり食べてね」
「はい。ありがとうございます」
お義祖母様と知廣さんの優しさに感謝しつつ、手の込んだ夕食を堪能した。
食後は煎れてもらったお茶を飲みつつ、しばしの団欒タイム。
相槌を打ちながら話に耳を傾けていたら、お義父様が「今日は夫婦でゆっくりしたらいい」と言ってくださった。
丁寧に挨拶をして食堂を出た私は、知廣さんと一緒に二階のリビングへ移動する。
部屋に入るなり、急に二人きりになったことを意識してドキドキしてしまう。そんな私に、知廣さんが声をかけてきた。
「玲香は、食事の後、いつもどんな風に過ごしてる?」
「えっ、私ですか? そうですね、これまでは家族でお茶を飲んだり、一緒にテレビを観たりして過ごしていました。気分によっては、自分の部屋に籠もることもありましたが……」
「そう。テレビを観るなら、いくつか動画配信サービスに加入しているから、利用するといいよ」
リモコンを手にした知廣さんが、動画を観る方法を教えてくれる。
しかし、両親が結構なアナログ人間だったため、私もこういうものに関してはさっぱりだ。
映画は映画館で観るか近所のレンタルショップで借りる――という認識だったから、家でいつでも映画やドラマが観られると聞いて感動してしまった。
「す、すごい……! こんなに色々観られるなんて! 素晴らしいサービスですね!」
リモコンを持って興奮する私に、知廣さんは呆気にとられた表情を見せる。
「……玲香が住んでいたのは、同じ日本だと聞いていたが」
「……す、すみません、私こういうの、本当に疎くて……」
「君、スマートフォンを使っているだろう。加入している配信サービスはそちらでも利用することができるよ」
「えっ? そんなこともできるんですか? 私、あんまりスマートフォンを使いこなせていないので、そういう機能があるなんて知りませんでした」
通話とメールと、友人の撫子さんに教えてもらった通話アプリくらいしか使っていない。
その他の機能が眠ったままになっているスマートフォンは、はっきり言って宝の持ち腐れでしかないと常々思っている。
しばらく私を見ていた知廣さんが、徐々に肩を震わせ始めた。
「なんだか、らしい、ね」
「ま、また笑われてますね、私……お恥ずかしい……」
しょぼんと肩を落とすと、知廣さんの大きな手が私の頭を優しく撫でた。
「恥ずかしくなんてないから。少なくとも、俺は可愛いと思っているよ」
彼の手の温もりが頭からじんわりと伝わってくる。そのせいだろうか、私の顔に熱が集中してきた。
――知廣さん、や、優しい……!! もう、大好き……!!
「ち、知廣さんっ……」
「ちなみに、どんな映画が好きなの?」
思わず、好きです、と口に出しそうになった瞬間、彼が質問を被せてくる。
「えっ? あ……ゾ、ゾンビ映画とかのホラー、です」
一瞬真顔になった後、知廣さんの口元が可笑しそうに歪む。
「……玲香は意外性の塊みたいな人だな」
知廣さんはそう言って、口元に手を当て再び肩を震わせた。
その後、テレビやブルーレイなどの操作方法を教わっているうちに、気がついたら夜の十時を回っていた。
引っ越し初日だし、早めに寝た方がいいと言う知廣さんに従い、先にお風呂に入らせてもらう。……けど、彼と一緒に寝ると思うとどんどん緊張してきた。
――どど、どうしよう、緊張して口から心臓が飛び出そう……
体を洗いながら、ふと昼間の知廣さんの言葉を思い出す。
――何もしないって言ってたけど、本当かな……。でも、同じベッドで寝ることには変わりないんだよね……?
もう一度念入りに体を洗ったり、鏡で体のラインをチェックしたりしていたら、あっという間に一時間ほど経ってしまい慌ててバスルームを出た。がしかし、今度は脱衣所に置いてあるバスローブに頭を抱えることに。これを着て出た方がいいのかどうか悩んでしまう。
――実家ではパジャマだったから、バスローブって着たことがないのよね……
悩んだ末、寝る時のことを考えて持ってきたパジャマに着がえてリビングに戻った。そこには、ソファーに浅く腰掛けてパソコン作業をしている知廣さん。
「遅くなってしまってすみません。知廣さん、お風呂どうぞ」
「ああ……うん。ゆっくりできた?」
「はい。浴槽がすごく広くて快適でした」
「そう。それはよかった」
パソコンを閉じながら微笑んだ知廣さんは、ソファーから立ち上がるとこちらに向かって歩いてくる。
そしてすれ違いざま、私の頭に顔を近づけた。
「いい香りがする。シャンプーかな?」
「えっ! か、香りですか? いつも使っているものなので私にはよくわからなくて……」
自分の髪を一房掴み香りを嗅いでいると、知廣さんが私の耳元でこそっと囁いた。
「先にベッドに入ってて。すぐに行く」
――えっ、ええ!! それって、まさか……
慌てて振り返るも、知廣さんの姿はすでに無かった。だけど確かに、先にベッドへ、と言われた。ということは……ついに、初夜……!?
それを意識した途端、私の心臓が再びどっくんどっくんと大きな音を立て始める。
――昼間は何もしないって言ったけど、やっぱり……!? ど、どうしよう、私どんな顔で待っていればいいの……
「こ……こうしちゃいられないわ、とりあえず寝室へ」
急いで寝室に移動して、慌ててドレッサーで自分の姿を確認する。その後、緊張しながら一声、「お邪魔します」と言ってからベッドに体を滑り込ませた。
ベッドは弾力があってめちゃくちゃ寝心地が良さそうだ。それに、掛け布団もすごく柔らかくて気持ちがいい。思わず頬ずりしたくなってしまう。
知廣さんの選んだものに間違いはないな……なんて思っていると、入浴を終えた知廣さんが寝室に入ってきた。
バスローブ姿の知廣さんは、生乾きの髪が色気を増大させている。さらにバスローブの合わせから覗く素肌が、なんというか、え……えろ……い……
気づいたら彼をガン見していたので、私は慌てて彼から目を逸らす。
「お先に……お邪魔させていただいてます……」
「お邪魔って。それより布団はどうだろう? 軽くて温かいものを選んだつもりだけど、気に入ってもらえたかな」
「は、はい! すごく肌触りがよくて気に入りました。ぐっすり眠れそうです」
知廣さんが髪をタオルドライしながら、間接照明を点けてベッドの端に腰を下ろす。
「それは何より。で、玲香。今日一日ここで過ごしてみてどうだった? 何か困ったことや不安なことはある?」
「困ったこと……」
聞かれて、ついつい視線が枕元に置いてある、お義母様から渡されたマニュアル本にいってしまう。困っているというより、ちゃんと覚えられるか不安で。
それに気づいた知廣さんが、マニュアル本を手に取った。
「大日向家の嫁とは……なんだ、これ」
彼は怪訝そうな顔で、パラパラと本を捲る。
「今日、お義母様からいただいたものです。一日も早く、大日向家の嫁として認めてもらいたいのですが、思った以上に覚えることが多くて……。あ、でも、きちんと一週間後の修業には間に合わせますから!」
すると知廣さんの目が驚きで見開かれる。
「一週間後の修業……? この本、家族の食の嗜好まで事細かに書いてあるけど……いや、それにしてもこれは多いだろう」
知廣さんの表情がだんだん険しくなってくる。これはマズいと思った私は、慌てて彼の言葉を遮った。
「大丈夫です! 私、やります」
「やるって……」
意気込んだ声を上げる私に、知廣さんが困ったように眉根を寄せる。それを見て、ちゃんと自分の意思で修業をしたいと思っていると説明した。
「お見合いの時、将来的に女将になるのが習わしだと聞いていましたし。お義母様みたいに立派な女将になれるか自信はありませんが、私なりに精一杯頑張りたいんです」
私の言葉を静かに聞いてくれていた知廣さんは、困った顔のままため息をついた。かと思ったら、いきなり布団を捲って、その中に体を滑り込ませる。
その途端、私の左半身がビクン! と大きく跳ねた。
――わっ! 急に……
「君は、意外と頑固だな」
「す、すみません……」
「いや……頼もしいよ。でも、辛くなったらいつでも言いなさい、いいね?」
「はい、わかりました!」
わかってもらえたことに安心して笑みを向けると、知廣さんの手が私の頭にぽん、と乗せられた。
「……可愛いな。玲香は」
にっこりと微笑んだ知廣さんが、私の頭を何度も撫でる。
ドキドキしながらすぐ隣にいる彼を見つめた。ふと気づいたら、知廣さんと私の距離が随分と狭まっている。
――もしやこれは、キッ……キスの流れでは……?
そう意識した途端、私の体は緊張でこれまでにないくらい固くなる。
自分から目を閉じた方がいいのかどうかもわからなくて視線を泳がせていたら、知廣さんの顔がすぐ近くに迫ってきた。咄嗟に私は、ぎゅっと目を瞑る。次の瞬間、額に温かくて柔らかいものが触れて、すぐに離れていった。
――…………あれ?
キスはキスだけど、おでこ?
たとえおでこでも、キスをしてくれたのはすごく嬉しい。けど、キスと言えば唇のイメージだっただけに、どこか拍子抜けしてしまう。
恐る恐る目を開くと、さっきまですごく近くにいた知廣さんが私から離れていくところだった。
「今日は一日お疲れ様。ゆっくり休んで」
そして知廣さんは、枕元に置いてあった文庫本を手にする。
――これは……どう考えても、初夜っていう雰囲気じゃない……?
「は……はい。ありがとうございます……」
私は布団に潜り込んで、彼に背を向けて横になった。
まあ、最初から何もしないって宣言されていたわけだし……と、無理矢理自分を納得させる。
――そうよ。まだ新婚生活初日なんだし。これからよね……
気持ちを切り替えた私は「おやすみなさい、知廣さん」と声をかける。
すぐに知廣さんから「おやすみ、玲香」と、優しい声が返ってきた。その声音に安心した私は、引っ越し初日の疲れもあってか、あっという間に眠りに落ちていった。
翌朝。気持ち良く目が覚めた私は、身支度を済ませて知廣さんと一緒に食堂へ移動する。
すでに、お義祖父様とお義祖母様。お義父様と、昨夜はいなかったお義母様が席についていた。
「おはようございます」
それぞれに挨拶をしてから席についた私に、着物をピシッと着こなしたお義母様から厳しい声が飛んできた。
「玲香さん、昨日差し上げたものは、全て読まれましたか?」
「えっ!? あ、あのマニュアルですか? すみません、まだ三分の一くらいしか……」
昼間は引っ越しの荷物の片付けに追われ、その合間に目を通していたものの、さすがに読み終えるまでにはいかなかった。
――いけない、私ったら……せっかくお義母様がくださったのに、のんきに寝ている場合じゃなかった……!
肩を落としてお義母様を窺うと、矢のような鋭い視線に射抜かれる。
「玲香さん。そのようにのんびりしていていいのですか? 今日はもう一冊お持ちしたのですよ」
そう言いながらお義母様が差し出してきたのは、昨日いただいたマニュアルの下巻。それを目にした私は、思わず固まる。
――上巻より分厚い……!
お義母様は、呆れた様子でため息をついた。
「これだから最近の若い子は……やっぱりこんな若いお嬢さんにうちの嫁は務まらないので……」
「お母さん。いい加減にしてください」
お義母様の言葉に被せるようにぴしゃりと言い放ったのは知廣さん。なんだか怒っているように感じるのは気のせいだろうか。
「玲香は昨日引っ越して来たばかりなんですよ? いきなりそこまで厳しくする必要はないでしょう。今の態度はどう見ても嫁いびりをする鬼姑にしか見えませんでしたよ。ねえ、お父さん」
「なっ……知廣!」
お義母様が眉を寄せて、羞恥なのか怒りなのか顔を赤らめる。
同意を求められたお義父様は、一瞬驚いたような顔をしたものの、言いにくそうに口を開いた。
「まあ……な。今のは母さんが言い過ぎだ。別にそこまで急ぐことはない」
二人に責められたお義母様は、あからさまに不機嫌になり軽く口を尖らせる。
「……二人してなんですか、嫁の肩持って……」
思いっきり場の空気が悪くなってしまい、さすがにこれはマズいと焦ってしまう。
私は両手を太股に乗せて、お義母様に向かって頭を下げた。
「すみませんお義母様! 私がトロいのがいけないんです」
「玲香」
知廣さんが心配そうな顔でこちらを見る。それを視線で「いいんです」と訴える。
「今日一日で全てに目を通します!」
私が明るくこう言うと、不機嫌だったお義母様の表情が、少しだけ和らいだ。
「そう。じゃあ……頑張ってちょうだい」
そう言ってもらえてほっと肩の力を抜くことができた。
朝食後、二階のリビングに戻ったところで知廣さんに呼び止められた。
「玲香。母の言いなりになる必要はないんだよ。女将だってすぐ交代するわけじゃない。なにせ母がまだ現役バリバリだからね」
いつになく心配そうに私を見つめる知廣さんに、胸がドキドキした。
――こんなに私のことを心配してくれるなんて……嬉しい……!
「知廣さん、ありがとうございます。でも、無理はしていないので大丈夫ですよ! 荷物もだいぶ片付きましたし、今日はお義母様が作ってくださったマニュアルにしっかり目を通そうと思います」
明るく言うと、困ったように微笑んだ知廣さんの腕が私の体に巻き付き、抱き締められた。
――キャ――――!! 知廣さんの腕が、体があああ――!!
こんなに彼と密着したのは初めてで、私は激しく動揺してしまう。
「……無理だけはしないように。いいね?」
「は、はい……!! かしこまりました……!!」
本当に、本当に。知廣さんが大好きだから、あなたのためなら頑張れるんです、私。
この日は一日をかけて、お義母様からいただいた【大日向家の嫁とは 上・下】を読破した。大日向家の嫁とはどうあるべきかというお義母様の熱い思いが、これでもかというくらい詰まっていて、読み終えた私の胸も熱くなった。
――大日向家の発展の裏には、常に妻の内助の功があった。
お義母様はそれを重く受け止めているからこそ、私にも知廣さんを支えなさいと言いたいのだわ。
私も一日でも早く、知廣さんを支えられるような妻になるべくもっともっと精進しないと……!!
強く決意した私は、一週間後の修業開始に向けてマニュアルを読み込んでいく。
そうして迎えた二日目の夜。
昨夜は残念ながら何もなかった私と知廣さんだが、もしかしたら今夜こそ初夜を迎えられるのではないか――夕食後リビングに移動してからというもの、意識してついそわそわしてしまう。
対する知廣さんはというと、いつもとなんら変わることなく、ソファーでタブレットやパソコンを操作している。
果たして、ここから甘い雰囲気になるのだろうか? と疑問に思い始めた時、時計を見た知廣さんが顔を上げた。
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