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1巻
1-3
しおりを挟む「玲香、そろそろ寝室に移動しようか。風呂は先に入ってくれていいよ」
「は……はい!!」
彼に促されて、私は急いでバスルームに移動した。
――今朝は、なんだかいい感じだったし、今日こそ……かもしれない!
昨日は引っ越してきたばかりの私の体を気遣ってくれたのだとしたら、今日はしっかり休ませてもらったので、まったく問題ないし……
私はごくんと大きく喉を鳴らす。
昨日に引き続き入浴後、結婚する前に友人の撫子さんに選んでもらった勝負下着を身につける。全身隈なくお手入れしてから寝室に行く。
私と入れ替わりにバスルームへ行った知廣さんをドキドキしながらベッドの上で待っていると、彼は十分ほどで戻ってきた。
「今日は一日中、母が作ったマニュアルを読んでいたのか?」
髪をタオルドライしながら、知廣さんが尋ねてくる。
「はい。全部読みました。お掃除の仕方とか、お世話になっているお店のこととか、事細かに書かれていたのでとても勉強になりました。全部お義母様の手書きで、きっと、ものすごく大変だったと思います。本当にありがたくて、頭が下がります」
素直に思ったことを口にすると、ベッドに腰掛けた知廣さんは目を丸くし、眉を下げた。
「……朝、かなりの嫌味を言われていたと思うけど、そんな風に思えるなんて君はすごいね」
「そんなことないです。私なんて、妻らしいことも嫁らしいこともまだ何もしていないのに……」
「妻らしいこと、したいの?」
ニヤッと悪戯っ子のような笑みを浮かべて、知廣さんが私を見つめる。
「え?」
妻らしいことってなんだろう……とキョトンとした次の瞬間、あることに行き着いて顔から火が出そうになった。
「えっ、えっ、え? それ、は……」
狼狽えているうちに、知廣さんの手が私の頬に触れた。
「玲香は可愛いな。こんなに可愛いのに、なぜこれまで男性と縁がなかったのかな?」
「な、なぜでしょう……周囲が女性ばかりでしたし、父や兄の目が厳しかったのもあるかもしれません……」
言い終えて知廣さんの目を見つめると、優しい視線を返される。
「こんなに可愛いあなたを妻にすることができて、俺は幸せ者だ」
彼の指が、私の頬を優しく撫でる。その感触が気持ち良くてちょっとくすぐったくて、私は小さく身を捩った。
「知廣さんと結婚できて、私も幸せです……」
小声で言うと、知廣さんの綺麗な顔が近づいてくる。あっと思った時には、私の唇は彼のそれによって塞がれていた。
キスされていると認識するまでに数秒かかる。
男性の唇がこんなにも柔らかくて温かいものなのだと初めて知った。
「……玲香、目を閉じて?」
一旦唇を離した知廣さんが、目尻を下げて言った。慌てて目を閉じると、今度は両手で頬を挟まれて、さっきよりも強く唇が押しつけられる。
「んっ……!」
唇の間から肉厚な舌が差し込まれ、私の口腔を蹂躙し始める。驚いて奥に引っ込んでいた舌を彼の舌に絡め取られ、何度も擦り合わされた。
その度に脳内に水気を帯びた卑猥な音が響いて、頭がクラクラしてくる。
――なに、これ……すごい……
「ふっ……んん……」
濃厚でこれでもかとエロスを感じさせる知廣さんのキスに翻弄されて、意識が飛びそうになる。
――ついに私、身も心も知廣さんの妻に……
彼が着ているバスローブの合わせ部分を掴んで、このまま初夜突入の覚悟を決めたその時だった。
私の口腔から彼の舌が消え、唇が離れていく。
――え……? 終わり……?
あっさり終わってしまったキスに、思わず眉根を寄せてしまう。
「これくらいにしておこうか」
そんな彼の声が聞こえた後、私の頭にポンと手が置かれた。
目を開けた私はわけがわからず、目の前の彼を凝視する。
「……あの?」
「今日も疲れただろう。ゆっくり休むといい。俺は少しやり残したことがあるのでね、もうしばらく書斎で仕事をしてくるよ」
「え? いえ、私そんなに疲れてな……」
「母の書いたあのマニュアルを全部読むのは大変だっただろう? 無理はしないで、ね」
そんな風に気遣われてしまうと、なんとなく反論しづらい。
「あ……はい、わかりました……」
こう素直に返事はしたものの、さっきまですっかり初夜突入のつもりでいた私は、なかなか頭を切り替えることができない。
私から離れた知廣さんは、タオルを手にドアに向かう。そしてドアの前でこちらを振り返った。
「おやすみ、玲香」
いつもと変わらぬ優しい笑顔の知廣さんに、私は無理矢理口角を上げて笑みを浮かべた。
「お、やすみなさい、知廣さん……」
パタンと閉められたドアを見つめたまま、私はしばらく動くことができなかった。
――そ、そんな――!!
頭の中は「なんで抱いてくれないの!?」という疑問でいっぱいだった。
――どうして? あそこまでしてくれたのなら、最後までしてくれてもいいのに。なんで……?
まさか、結婚してからも触れてもらえないとは思わずじわじわと不安になってくる。
――知廣さん、私のこと本当はどう思ってるんだろう? 初夜がない夫婦って大丈夫なの? 何がいけないのかまったくわからないよ……
もう、どうしていいのか見当もつかない。
悶々とした気持ちと、彼が抱いてくれない不安から、私はふて寝するように布団を被った。
二
私が大日向家に嫁いでから一週間経ち、ついに嫁修業が始まった。
「では玲香さん。まずは床の間のお掃除からいたしましょうか」
「はい、お義母様」
この家の床の間にはおそらく値打ちものの、壺や大皿がいくつも並んでいる。それを常に綺麗に保つのは嫁の仕事なのだそう。というわけで私はお義母様に指導されたとおり、それらを一つずつ慎重に磨き上げていく。
「それが終わったらお庭の手入れをしますよ。いいですね?」
「はいっ!」
この家には隣にある料亭おおひなたに負けないくらい立派な庭があり、そこの管理も嫁の仕事。床の間での作業を終えた私は外に出て、庭を美しく保つべくお義母様の指導を仰ぐ。
この家の男性が何も心配せず外でしっかりと働けるよう、家のことは女性がきっちりやるというのが大日向家の考え方なのだ。
もちろん住み込みの使用人さんや料理人さん達もいるけれど、お義祖母様やお義母様がこの生活をしてきたからこそ、今の大日向家、並びに『おおひなた』があるのだという。
――私の実家も先祖代々管理してきた土地を元にして資産を築いてきたんだもの。考え方は一緒だわ。
そう思ったら、自然と修業にもやる気が出る。一日も早く、大日向の嫁として認めてもらえるように頑張ろう。
だけど、そんな私の心は、大きな不安を抱えたままだ。なぜならば――いまだに知廣さんとの初夜を迎えられていないから。
――えーん。どうしてなの? もう、わけがわかりません……!!
あれからも、知廣さんは一向に私に触れてくることはなく、毎晩ベッドでモヤモヤしっぱなしの日々を送っていたのだ。本当に、彼の考えがまったくわからない……
結婚したら自然とそういうことを経験するものだと思っていたのに、なぜ知廣さんは私に手を出してくれないのか。
竹ぼうきで庭を掃きながら悶々としていると、お義母様の声が飛んでくる。
「玲香さん、あまり葉っぱが集まっていませんよ。もっと力を入れてしっかり掃いてちょうだい」
「は、はいっ!! 失礼いたしました!!」
――いけない、今はそんなこと考えている場合じゃなかった。しっかりしなきゃ……!!
お義母様に注意され、慌てて返事をし竹ぼうきを握る手に力を込めた。
そんなある日、お義母様にお使いがてらお休みをいただいた私は、ランチタイムを利用して友人の神野撫子さんと食事をするため、百貨店に入っている和食処に来ていた。
撫子さんは小、中、高、大と学生時代を同じエスカレーター式の学校で過ごした大親友だ。彼女は日本有数の大企業、神野グループに属する神野物産の社長令嬢だ。しかも、グループトップの神野ホールディングスを経営する神野家の血縁者。つまり彼女は私より遙かに名家でお金持ちな正真正銘のお嬢様なのである。
撫子さんは大学卒業後、この近くの神野ビルに入っている系列会社でOLをしており、私のためにランチ時間にここまで出向いてくれた。
「……お話はわかりましたけれど。そこでなぜ私に相談なのです? 玲香さん」
平日ということもあり年配の女性が多い和モダンな店内で、注文した大盛りヒレカツ定食を前に、撫子さんが割り箸を手に怪訝そうな顔をする。
「だってこんなこと、撫子さんくらいにしか相談できないんですもの……」
私の前に置かれたのは普通盛りのロースカツ定食。店員さんが去ってから、私も割り箸に手を伸ばす。
「でも、あなたもご存じのとおり、私、彼氏もいませんし男性経験もゼロですからね。玲香さんのお役に立てるようなアドバイスは何一つできませんわよ」
「それでもいいんです、撫子さんに聞いてほしいんです~~」
「まあ、聞きますけど」
藁にもすがる思いで泣きつく私に、撫子さんはヒレカツにソースをかけながらニヤッと笑う。
私は食事をしながら、結婚して一緒に暮らし始めたというのに、旦那様が一向に手を出してくれないと打ち明けた。それを聞いた撫子さんも、わけがわからないといった様子で眉をひそめている。
「うーん、よくわからないけれどいい方に解釈するのであれば、あなたを大事にしたいから敢えて手を出さないでいる……かしらねえ。七歳? 八歳くらい年が離れてるんでしたわよね、確か」
撫子さんは話の合間に分厚いヒレカツを一切れ、パクッと口に入れる。
その瞬間、彼女の頬がふわっと緩んだ。
美味しいものをものすごく幸せそうに食べる彼女との食事はいつも楽しい。こっちまでつられて顔が緩んでしまうから。
「はい、そうです……撫子さんの言うとおりならいいんですけど……いえっ、よくない!」
私が急に大きな声を出したので、撫子さんがビクッと肩を震わせる。
「びっくりした。何がよくないの?」
ヒレカツを持ったまま、撫子さんが私に問う。
「私……知廣さんと一緒に過ごすうちに、どんどん彼が好きになってしまって。は、はしたないんですけど……か、彼に触れてほしくてたまらないんですっ!」
「まあ……」
さすがに撫子さんも、私の思い切った告白にちょっと引いていた。
「でも、彼は全然私を欲しがらないし……なんだか不安になってしまって。もしかしたら私、彼に好かれていないのかなって、どんどん悪い方に考えてしまうんです。それに何より……」
ヒレカツを持ったまま固まっている彼女を前に、私は思わず自分の顔を両手で覆った。
「このままじゃ私、自分で自分が抑え切れなくなりそうで怖いんです……!! まさか、自分の中にこんな欲望が潜んでいたなんて、びっくりなんですけど」
「……つまり、欲求不満で爆発寸前ということなのね?」
ズバリと口にした彼女に、顔から手を離した私はつい恨めしげな視線を送る。
「撫子さん……せっかくオブラートに包んだのに」
静かに納得してヒレカツを口にする撫子さん。私はがっくりと肩を落としながら、ロースカツを口に運んだ。
「だったらいっそのこと、玲香さんから押し倒してみては?」
撫子さんからの大胆な提案に、私は慌てて首を横に振る。
「ええ、無理ですよ、そんな……!」
「大昔じゃあるまいし、今どき女から誘うのなんて全然アリですわよ」
「そ、そう、かしら……ねえ、撫子さん……私って女性としての魅力が少なかったりします? だから、知廣さんも手を出してくれないのかしら……撫子さん、どうしたらいいと思います?」
すると、撫子さんが割り箸を置いて私を見つめてきた。
「玲香さんは普通に可愛らしいと思いますけど。小柄で細身で、目も大きくてくりっとしてますし」
「ありがとうございます……ってそうじゃなくて、私から色気を感じるかどうかなんですけど……。男性が手を出したくなるような色香を醸し出すにはどうしたらいいかというご相談で……」
すると撫子さんは呆れたように小さくため息をついた。
「それこそ、女の私にはわかりかねますわ。もういっそのこと知廣さんに直接聞いてみるのがよろしいのではなくて?」
「それができればこんなに悩んだりしません……」
「ですわね。お役に立てなくて申し訳ないわ」
少なくとも好意は抱いてくれていると思う。だけど、私みたいに欲望を感じるほどではないということ? それとも、私のことを大切に思ってくれているから、手を出さないでいるのか……いやでも……
ぐるぐる考えても、私には答えがわからなかった。
「やっぱり、知廣さんが何を考えているのかわかりません……」
結局私は考えることを放棄して、ガクンと項垂れた。
大人の男性の気持ちなど、恋愛初心者の私には到底理解できるはずもない。考えれば考えるほど迷宮に迷い込んでいく心境だ。
「あらあら……困りましたわね。そうだわ、あなたのお兄様に聞いてみるのはいかがです? 男性の気持ちは男性に聞くのが一番いいと思うのですが」
もぐもぐと順調に大盛りヒレカツ定食を平らげていく撫子さんの提案に、私はギョッとする。
「そんなの恥ずかしくって無理です!! それにこんなことを家族に相談したら、夫婦仲が上手くいってないのかって心配されてしまいます」
「確かにそうですわね」
撫子さんが頷く。
「あ! 撫子さんの従兄弟に、経済界のプリンスと呼ばれている、たいそう女性にモテてる方がいらっしゃるじゃないですか。その方にそれとなく聞いていただくことは……」
すると、今度は撫子さんがギョッとした顔をして食べる手を止めた。
「征一郞のこと!? あいつは無理ですわよ! こんなこと尋ねようものなら目をつり上げて威嚇されるのがオチですわ」
ありえない、とばかりに彼女は首を横に振る。
彼女の従兄弟である神野征一郞氏は、メディアにもよく出ている有名人だ。イケメンでスタイル抜群の彼は、イケてる御曹司として少し前までマスコミを賑わせていた。
「すみません、失礼いたしました。それに、確か征一郞氏は最近ご結婚されたんですよね」
「そうよ。私達とたいして年の変わらない女性と結婚して、すっかり落ち着いたようよ。ああ、そういえば征一郞も三十歳ね。知廣さんと同じくらいかしら」
「はい、そうです」
私がこくんと頷くのを見て、彼女は箸を置いた。大盛りのヒレカツ定食はいつの間にか綺麗に無くなっており、撫子さんは手を挙げて店のスタッフを呼んだ。
「キャベツとお味噌汁のおかわりをいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。かしこまりました」
この店はキャベツとお味噌汁のお代わりが自由。ちなみに撫子さんは細い見た目に反してかなりの大食いなのだ。
昔から変わらぬ彼女の食べっぷりに感服しながら、私は自分のロースカツを口に運ぶ。
「やっぱり、あなたを大事に思っているから手を出さないのでは? むしろそれは、彼が紳士であることの証なのではないかしら」
「そうなんでしょうか……」
「不安なのはわかりますけど、もう少し様子を見てもいいんじゃないかしら。それより大日向家での新しい生活はどうなのです、これから先も上手くやっていけそう?」
おかわりのキャベツがお皿に盛られたところで、撫子さんが私にこう尋ねてくる。
「上手く……そうですね、最初にお義母様から、大日向家の嫁マニュアルのようなものをいただいたんですけど」
「なんですの、嫁マニュアルって」
撫子さんがぐっと眉根を寄せる。
「うーん、簡単に言うと大日向家の嫁なら知っておかなければいけないことを、お義母様が冊子に纏めてくださったものなんですけど」
「怖っ。そんなものがあるのですか!?」
「ええ。大日向家ではお掃除や雑用などの仕事は、基本的にはお嫁さんの仕事なのだそうです。もちろん、使用人の方もいますから全部ではないんですけど。教えてもらったことを精一杯やっているつもりなんですが、お母様からすればまだまだらしくて。毎回のように注意を受けてしまって……。でも、毎日が刺激的でとても充実しています」
心の底からそう思っている私は、撫子さんに笑顔で話す。対して彼女は信じられない、と言いたげに眉間の皺を深めた。
「私だったらそんな毎日、絶対耐えられませんけど」
「厳しくしてくれるのは、お義母様の愛だと思うんです! 人に厳しくするって、相手に嫌われる可能性があるし自分も疲れるから、できればしたくないですよね。なのにお義母様は、毎日毎日それは厳しく指導してくださるんですよ? もう、ありがたくって涙が出ます……!!」
叩かれたりするのは痛いから好きじゃないけど、厳しくされるのは昔からまったく平気なのだ。だって、それだけ自分のことを思ってくれているということだから。だけど……
――なぜか、周囲から鋼のメンタルを持つ女と呼ばれているのよね。なんでだろう?
目を輝かせて力説するけれど、撫子さんは口をへの字にして肩を竦めた。
「ああ、玲香さんはそうでしたわね……あなたとは子供の頃から親しくさせていただいていますけど、いまだに不可解ですわ、その思考」
彼女が不思議な生き物を見るように私を見てくるので、私はつい口を尖らせる。
「それを言うなら撫子さんだって……一体、その細い体のどこにそんなにたくさん食べ物が入るのか、いまだに不思議でなりません」
どんどん減っていく撫子さんのキャベツを眺めながら、私は食事の手を止める。
「玲香さん、この後デザートを食べる時間はあるかしら?」
「すみません。残念ですが、今日はもうお腹いっぱいなので、デザートはまた今度にしましょう」
もりもりキャベツを食べる撫子さんに笑みを向けると、彼女も「そうね」とにっこり微笑んだ。
久しぶりに仲良しの友人に色々話して、随分気持ちがすっきりした。
だけど、根本的なことは何一つ解決されておらず、ついついがっくりしてしまう。
撫子さんと別れた私は、とぼとぼと家路についたのだった。
料亭おおひなたの専務である知廣さんは、社長であるお義父様と共に接待に呼ばれることも多い。
実際、私が嫁いできてからも接待で夕食はいらない、と連絡を受けることが何回かあった。
今日もお義父様共々接待が入ったらしく、夕食の席に知廣さん達の姿はない。
お義母様は料亭に行っているので、今日の夕食は私と、お義祖父様、お義祖母様の三人だ。
「玲香さんは、この家での生活にもそろそろ慣れてきたかしら?」
この家の中で一番温和なお義祖母様が、ニコニコしながら私に話しかけてきてくれる。
「はい、おかげ様で。お義母様には、まだご迷惑をお掛けしてしまっているんですが……」
食事をしながら伏し目がちに答えると、お義祖父様がぽつりと口を開いた。
「悦子さんは確かに厳しいが、それも皆この家と店のことを思ってのことだ。料亭を切り盛りする手腕は確かだし、彼女がいなければ、『おおひなた』はここまで大きくならなかっただろう」
私はお義祖父様の言葉に、しっかりと頷く。
「彼女は一生懸命なだけで、決して悪い人ではないよ。そこをわかってやってほしい。どうか諦めずにね、玲香さん」
「はい、承知しています。女将の仕事で忙しい中、色々なことを丁寧に教えていただいて、とても感謝しています。早く期待に応えられるよう頑張ります!」
それに……そうすれば、知廣さんも私のことを妻として認めてくれるかもしれない。
それが、散々悩んだ末に私が出した結論だった。
「そうかそうか、頼もしいお嫁さんが来て我が家は安泰だなあ。こんな嬉しい日は旨い酒でも飲みたくなるな」
お義祖父様がハハハと声を上げて笑うと、何か思い出したようにあっ、と言ってから私に声をかけてくる。
「そうだ玲香さん、君、お酒は飲めるの?」
いきなり話が変わって、キョトンとする。
「お酒……ですか? はい、実家で何度か父の晩酌に付き合ったことがありますので、それなりには……」
するとお義祖父様の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「そうかそうか。それならばちょっと付き合いなさい」
嬉しそうに席を離れたお義祖父様は、手に一升瓶とグラスを持って戻ってきた。
「付き合いのある酒蔵でいただいたものなんだ。玲香さんも飲んでみなさい」
「あ、はい。では……」
お酒は飲めないわけではないが、特別好きというわけでもなかった。でもお義祖父様が嬉しそうにグラスを差し出してきたので、笑顔で受け取る。
「いただきます」
お義祖父様とお義祖母様に見つめられる中、そっと口に含むとスッキリしていて、フワリと爽やかな香りが鼻をくすぐる。日本酒だからアルコール度数は高いはずだけど、それがあまり気にならない。
――あっ。これは……すごく飲みやすい。
「美味しいですね、このお酒」
思わずそう言うと、お義祖父様が「そうだろう」と微笑んだ。
「私はこの酒が昔から好きでね。なんと言っても、和食によく合うんだ」
「確かに。飲み口がスッキリしているから、お料理が進みます」
私はお義祖父様の言葉に頷きながら、お酒と一緒に料理を味わった。
――お料理に詳しい方が選んだお酒って、やっぱり違うのね。さすがだわー!
感心しながらお酒を飲み進める私を、お義祖母様が心配そうに見つめてくる。
「玲香さん、あまり飲み過ぎないようにね?」
「はい、気をつけます!」
笑顔で請け合った私は、お義祖父様とお義祖母様と夕食を楽しんだのだった。
そうして、食事を終えた私は――二階のリビングのソファーでぐったりしていた。
――飲んでる時は大丈夫だったのに、体が火照ってきたなーと思ったら一気に回ってしまったわ。
つまりは、飲み過ぎ。普段ならちゃんと自制できるのに……
団扇で顔に風を送りながら、私はぼんやりと時計を見る。
あまり遅くならない、と知廣さんは言っていたから、そろそろ帰ってくる頃だろうか。
スマートフォンをチェックしてみるが、彼からメールもメッセージも来ていなかった。
――知廣さん、まだかな……
会ったその日に恋をして、とんとん拍子に結婚してしまった。だけど、彼への気持ちは、私の中で落ち着くどころか、日に日に大きくなっていってる。
でも……夫婦となった今でも、まだ片思いしているみたいなこの状況が、最近少しだけ辛くなってきている気がする。
ソファーの背もたれからずるずる体を滑らせて、そのままコテン、と横になった。
「知廣さん……」
――なんで抱いてくれないの?
さっきは彼に妻として認めてもらえるように頑張る――なんて息巻いていたのに、今の私にその勢いはない。むしろ不安で寂しくて、頭の中は弱音ばかり。
じわっと目に涙が溢れてきた時、リビングの扉が開いた。
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