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第一章 山猫

馬車に揺られて

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 ラウラさんの予想通り、テストチームからのバグ報告は最初の一週間がピークで、翌週の半ばには未修正のバグは減り始めていた。時間に余裕ができたところでいよいよ、《山猫》に直接会って仕事の依頼をする日程が組まれた。
 会いに行くのはプロジェクトマネージャーのラウラさんと、山猫の知り合いのヤン先輩だけかと思ったのだが、僕に急ぎの仕事がなかったことと、ヤン先輩が「クロトも来たらいい」と誘ってくれたことで、僕も行くことになった。

 さて、山猫に会う当日。
 山猫の住むギゼの町は、会社からだと街道を逆戻りして一旦僕の家のあるヴァッサーハイムの町へ行き、そこから乗合馬車で森とは反対方向へ一時間以上揺られて行かないといけない。昔は僕も両親からお使いなどを頼まれて、よくギゼまで歩いて往復したものだが、徒歩では時間もかかりすぎるし。デスクワークに慣れきった今の僕には少々しんどい。ここはやはり馬車でないと。
「山猫になにか手みやげを持っていった方が良いですね。菓子折とか」
 ヴァッサーハイムの町中を乗合馬車の発着場まで歩く途中、ラウラさんが言った。
「お菓子ですか? 下町のお菓子屋でクッキーでも買って行きますか?」
 僕がそう提案すると、ラウラさんとヤン先輩は、突拍子もないことを聞いたような表情をして僕の顔を見つめた。
 下町のお菓子屋のクッキーはおいしい上に値段もお手頃で、一袋銅貨十二枚の大袋を買っていって会社で差し入れとして配るととても好評なのだが、なにか不都合があるのだろうか。
「キリシマさんはしっかりしているようで、たまに常識のないことを言いますね」
 ちょっと呆れた口調で、ラウラさんが言う。ヤン先輩はニヤニヤと笑いながら、何がおかしいか解説する。
「まあ技術者って儀礼的なことにこだわらないし、そういうお菓子が好きなやつも多いから、下町のクッキーでもいいんだけどな。でも菓子折っていったら、贈答用の高級菓子の詰め合わせのことだ。例えば俺は喰ったことないが、王都には『チョコレート』とかいうものがあるんだろ? ああいうのだ」
 『チョコレート』は、甘くてとてもよい香りのする超高級スイーツだ。遥か南方で採れる木の実を魔法仕掛けの大がかりな機械で加工しないと作れないので、王都にある数軒の菓子店しか取り扱っていない。王都にいたとき友達数人とお金を出し合って、立派なブリキの缶に入ったチョコレートを分け合って食べたが、この世にこんな美味しいものがあるのかと感動した覚えがある。生活費を切り詰めて家族にも贈ってあげたところ、妹からの『チョコレートもっと寄越せ』とだけ書かれた手紙が毎日届くようになった。値段を教えてやったら『無理言ってごめんなさい』という手紙が来てそれっきりだったけど。
 とにかく山猫への手みやげは、そういう贈答品としておかしくないものにしないといけないのだ。
「あ、山猫なら菓子よりも酒の方が喜ぶんじゃないかな。ヴァッサーハイムの蒸留所で作られたウィスキーが好きだったはずだ」
 ヤン先輩が言うので、僕らはウィスキーを買うことにした。
 ウィスキーはヴァッサーハイムの名物の一つで、蒸留所は町のはずれの城壁の近くにある。
 僕らは乗合馬車の出発まで時間があるのを幸いと、その蒸留所までやってきていた。高い煙突のある石造りの建物からは、泥炭ピートを焚きしめる香ばしい匂いがまき散らされていた。僕らはその建物の隣、蒸留所直営の販売所の敷居をまたいだ。
「やはり山猫は、この中でも一番上等なものを好むのでしょうね」
「うーん、山猫に味の善し悪しがどこまで分かってるかは疑問ですが、そりゃやっぱりグレードが高けりゃ高いほど喜びますよ。『ヴァッサーハイムウィスキーの十二年ものが飲みたい』とよく言ってました」
 その話を聞いて迷わず最高級の十二年ものを一瓶掴み、会計へ向かおうとするラウラさんを、ヤン先輩は「あ、ちょっと待って」と制止した。
「どうせなら、この二瓶セットのやつを」
 そう言って、商品棚の一角を指差す。ラウラさんの掴んだものと同じ十二年ものの瓶が二瓶、白木の箱に収められていて、箱と瓶の隙間を埋めるように藁が敷き詰められている。
 当然値段は一瓶の倍近く。ラウラさんはちょっと渋い顔をした。
「二瓶ですか……。山猫はたくさん飲まれる方なんですか?」
「いいや逆に、酒は好きだが一回に飲む量は少なくて。二瓶あげると『そんなにあったら飲みきるのがいつになるかわからないから』と言って一瓶突っ返して来るんです。そしたら俺が貰おうかと」
「つまり一瓶で良いということですね」
 ラウラさんはそのまま、一瓶を会計へ持っていった。

 ウィスキー購入後、馬車の発着場へ向かうと、乗合馬車は既に乗客を待っていた。乗り込んでほどなく、寡黙な御者が馬に鞭を入れ、馬車は定刻通り出発した。
 乗客は僕らの他に、何やら売り物らしき大荷物を積み込んだ行商人と、年取った農家風の男がいて、さして大きくない乗合馬車はそれだけで満員だった。
「少し窮屈だな。おいクロト、ちょっとだけそっちへ詰めてくれ」
 右隣に座るヤン先輩が、僕に声をかけた。
「左側はちょっと余裕あるじゃねえか。少しでいいから詰めろ」
 確かに僕は、左側にほんの少し隙間を残して、右端のヤン先輩に極端に寄って座っている。でもそれには理由があって、左隣はラウラさんなのだ。あまり女性にくっつくのは失礼だろう。
 困り顔でヤン先輩とラウラさんを見比べていると、ラウラさんが「構いませんよ」と言って、スカートの裾を直した。
「ほらラウラさんもいいって言ってるじゃねえか。俺が彼女にくっついたら殺されちまうけど、クロトなら大丈夫だって」
「さすがピルスナーさん。良くわかってらっしゃる」
 二人から促されて、僕は少し左側へ寄った。軽く触れた左腕から、ラウラさんの体温が伝わってくる。馬車が揺れると、どうしても肩がぶつかり合ってしまう。エルフ族のご多分に漏れず、ラウラさんも痩せて華奢な体つきなのだが、感触は骨ばっておらず、女性特有の柔らかさだった。
 左側から風が吹いてきて、ラウラさんの長い金髪がなびくと、朝霧にけむる森の早朝の空気みたいな爽やかな香りがした。

「おい、着いたぞ」
 馬車はいつの間にかギゼに着いていた。道中の景色など一切記憶になく、ラウラさんの香りと腕の感触しか覚えていなかった。
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