ミリしら令嬢 ~乙女ゲームを1ミリも知らない俺が悪役令嬢に転生しました

yumekix

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第二章 聖女の秘密

祈り

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 エウラリアが目を醒ましたとき、まだ夜が明けて間もないらしく、カーテンの隙間から弱々しいオレンジ色の光が漏れていた。朝食の時間までには、だいぶ時間がありそうだ。

「あ、起こしてしまいましたか」

 窓際で一輪挿しの水を換えていたメイドのリタが、申し訳なさそうに言う。だがエウラリアは別に彼女が立てた物音で起きたわけではないし、彼女がそばにいることすら気づいていなかった。起きたのは本当に偶然だ。
 そうリタに告げると、彼女は安心して水換え作業に戻る。
 一度目が醒めてしまうと、二度寝する気にもならない。ベッドから身を起こすと、水換えを終えたリタが着替えを手伝ってくれる。
 着替え終わってカーテンを開けると、太陽はまだ地平線の近くにあった。
 手持ち無沙汰でぼーっとしていると、紅茶を淹れてくれたリタがこんな話をする。

「あまり知られていないですけど、日が昇って地平線から完全に離れたら、寮の外を出歩いてもいいんです。わたくしの在学中は、早朝の静かな学園内を散歩したい生徒が、ちらほらと出歩いていましたよ」

 言われて窓の外を見ると、東の空はまだほんのりと朝焼け色に染まっていて、人のいない学園は静謐な空気を漂わせている。この中を散歩するのは悪くない考えだが、見るかぎり人の姿は見えない。本当に出歩いていいのか確証がないので、実行にはかなり勇気がいる。

「リタがいたときと今では、規則が変わっているかもしれないし……」
「お部屋に置いてあった寮則を確認しました。ちゃんと変わらず記載がありましたよ。『午後七時以降、朝日が地平線から完全に離れるまでの外出を禁じる』と。
 昔、早朝に出歩いたのを咎められた寮生が『門限はあっても朝何時まで外出禁止かの規定はない。明文化されていない規則で人を罰するのはおかしい』と大暴れしたので、寮則が書き換えられたのです」

 寮則は確かに、部屋の本棚に聖書や教科書と一緒に用意されていた。だがその冊子は結構分量があり、隅々まで把握するのは無理がある。重要事項は寮長から口頭で説明があったこともあり、エウラリアは寮則に一度も目を通していない。

「なんでそんなことを知っているの? 寮則が変わった経緯まで……」
「早朝に教室に置き忘れた宿題を取りに行ったのがバレて、一年生なのに寮長副寮長を向こうにまわしてしつこく論陣を張って抵抗し、とうとう寮則を書き換えさせた当人が、このわたくしなんです」

 そう言ってリタは、いたずらっぽく笑った。

「寮則の書き換えは七十年ぶりだったそうですが、一年半後にその面倒くさい寮生が寮長なんかに選ばれたものですから、なにか起こるたびに寮則はバカバカしいまでの厳密性を求めて書き換えられ、わたくしの在学中に寮則は七ページほど分量が増えました。改訂履歴を見る限り、その後の改定はないようですね」

 そう言って、リタは誇らしげに胸を張る。

「リタがそんなに大暴れを……。想像できませんわ」

 黒鴉智亜くろあちあがエウラリアとしてこちらの世界で目覚めてから、リタはずっと優しく、何かに悩んでいるエウラリアに何も聞かずに寄り添ってくれている。日に干した毛布みたいな存在に見えるリタが、在学中はそんなに活動的だったなんて、本人から聞かされてもすぐには信じられない。

「わたくしが大人しいのはエウラリア様が理不尽なことをなさらないからです。自分の利益が理不尽に害されようとした時は、わたくしは大暴れしてでも抵抗しますよ。自分だけでなくエウラリア様のことも、いざとなれば大暴れして守りますから、頼りにしてくださいね」
「ありがとう」

 黒鴉智亜もエウラリアも一人っ子だが、姉がいればこんな感じなのかな。とエウラリアは思う。自分の悩みに、深く立ち入らずにそれとなく気を使ってくれるリタは、誰にも話せない秘密を持つ彼女にはありがたい存在だった。

「寮則の改訂履歴を見るだけでも面白いですよ。例えば、女神暦一三二九年にも複数回の改定がされていますけど、その二年前に一度改定があるんです。この時もやっぱり、わたくしと同じような方がいたのかなって。だとするとその方、自分のせいで作られた服装に関する規則を、自分が寮長になってから真っ先に廃止しているんですよね」

 楽しそうに話すリタを見ながら、その昔の寮生というのは、ひょっとしたらリタの前世なんじゃないかな、なんて思えてしまって、無表情なエウラリアの頬にわずかに笑みが浮かぶ。
 しかし、『前世』という言葉から忌まわしいことを連想してしまい、再び無表情に戻る。
 エウラリアの『前世』は、こことはまったく異なる二十一世紀の日本に生きていて、この世界のことは『チェンジ☆リングス』というゲームを通して知っていた。ゲーム世界に転生するネット小説だってたくさん読んできたんだから、堅信礼のあの日、いち早く状況を把握して悪目立ちしないようエウラリアになりきることだってできたのに。
 何もしないでいると、暗いことばかり考えてしまう。紅茶も飲み終えてしまったし、リタの勧めどおり、外を散歩するのも良いかもしれない。

「少し、外の空気を吸ってきます」

 エウラリアがそう言って立ち上がると、感情の読みにくい彼女の声音から、陰鬱な気配を鋭敏に感じ取ったリタが、優しい口調で言う。

「わたくしもご一緒してもよろしいですか?」

 侍女としての義務感からではなく、本当に同行したいと思っているという感じだった。それでいて、もし一人になりたいのなら邪魔はしない、というニュアンスも言外に感じられた。一人になりたい気分なのは確かだが、こんなに気を使ってくれるリタを邪魔に思うはずもない。エウラリアは「来ていただけると嬉しいです」と付き添いを許可した。

 屋外の空気は少し冷たかったが、かえってそれが心地よい。目的地を定めず歩くエウラリアに、リタが影のようにつき従う。
 歩いているうちに礼拝堂の前まで来てしまった。今日は日曜日だから、朝食の後で日曜礼拝でもう一度来ることになる建物だ。

「早朝の礼拝堂には、在学中に来たことがあります。薔薇窓が東を向いているので、そこから朝日が差し込んでとても綺麗ですよ」

 リタにそう言われて、エウラリアは礼拝堂の扉を開けて中に入っていった。
 言われたとおり、礼拝堂正面の巨大な薔薇窓から朝日が光の柱となって降り注いでいて、とても荘厳な眺めだった。そして礼拝堂の中心、光の柱に照らされているあたりに、先客がいた。
 跪き指を組んで祈りを捧げていたその先客は、エウラリアに気づいて振り返った。
 黒髪を肩の上で切りそろえた、煙水晶スモーキークォーツ色の瞳の少年だ。

(……ジル様!?)

 『チェンジ☆リングス』の攻略キャラの一人、ロヨラ侯爵の次男ジルベルトだ。黒鴉智亜だった頃、『チェンジ☆リングス』のキャラの中ではジルベルトが一番好きだった。ネットでジルベルトメインの二次創作を読み漁ったし、お小遣いを奮発してキャラソンも買った。ボーナストラックに入っていたジルベルトの甘いささやきボイスを聴きながら寝るのが日課だったこともある。その憧れのジル様が、薔薇窓から射し込む光を受けてここに立っている。

「これはエウラリア様、おはようございます。こんな朝早くからお祈りですか」

 入ってきたのがエウラリアだと分かると、ジルベルトはにこやかに挨拶した。この笑顔だ。黒鴉智亜を夢中にさせたのは、この邪気のない透き通った微笑みなのだ。

「ええ、おはようございます……」

 そう返事をしながら、エウラリアは嫌なことに気づいてしまった。
 自分は、エウラリアとして、ジルベルトと出逢ったのだ。
 『チェンジ☆リングス』で、エウラリアはジルベルトルートのライバルキャラだ。グッドエンド、つまり主人公クロエがジルベルトと結ばれるルートでは、当然ながらエウラリアは失恋することになる。では、バッドエンドではどうなるかというと……。
 エウラリアがジルベルトに告白すると、ジルベルトは苦悩することになる。一人の男性として、一人の女性であるエウラリアを好きな気持ちと、敬虔な女神教の信者として、神聖不可侵な次期聖女エウラリアを崇拝する気持ちが、彼の中でせめぎ合う。全信徒の信仰のよすがであるべき聖女が、自分一人と恋仲になるのは許されることではない。悩んだ末に彼は、自ら命を断つ。
 だから、この恋は成就してはいけない。
 彼を失いたくないならば、彼を好きになってはいけない。
 エウラリアの頬に一筋、涙の滴が伝った。
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