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第三章 王子の秘密
熾天使の祝福
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春の堅信礼の日の午後。王子エルネストは普段と変わらない日曜日を過ごしていた。学園の生徒が何人か、昨日から堅信礼の手伝いに行っているから、午前中の礼拝はいつもより少しだけ人数が少なかったはずだが、それ以外は何も特筆すべきことのない、ありきたりの日常。
退屈だが平穏な時間を破ったのは、執事エリオの一言だった。
「陛下からの伝令のものがまいりました。フェリペ殿下の堅信礼のためにウルフィラにお越しになっているので、後ほどお会いになりたいとのことです」
エルネストは途端に、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……今日は外出の予定があると伝えなさい」
まだ若く生真面目なエリオは、少し困った顔をする。
「寮に外出届を提出しておりませんが」
「これから出すさ。ヒラソル宮へ行く」
ヒラソル宮は、エルネストの母フアナ王女のために建てられた宮殿である。学園にほど近い、ウルフィラの貴族居住区域の最奥部にある。エルネストは幼少より母のもとを離れて王城で育てられ、あまり母親に会う機会もなかったが、同じウルフィラにある学園に入学したのでこれからはなるべく会いに行くと、以前母親に手紙を送っていたのだ。だが入学して一ヶ月ほど経った現在、いまだその約束は果たせていない。寮監の爺さんは実母に会うことすらなかなかできないエルネストの境遇に同情してくれているから、外出届は受理されるだろう。
「かまいませんが……陛下は本日はヒラソル宮にご逗留されるご予定ですので、どちらにせよ陛下とお会いすることになりますよ」
「……普段は母上のことなど気にもかけない癖に!」
ギリリ、と音がなるほど強く歯を噛み締めて、エルネストは呻く。
「お気持ちはお察しいたしますが、今日のところは我慢していただけませんか」
「……わかったよ。会おう」
エルネストは吐き捨てるようにそう言った。
*
「久しぶりだなエルネスト。学園での生活にはもう慣れたか」
「はい陛下。つつがなく過ごしております」
堅信礼が終わった頃、予定どおり学園を国王一行が訪れていた。
学生の一人が父兄と会うだけだと言うのに、豪奢な調度品がならぶ学園の貴賓室を使わせてもらっている。そんなことにも、エルネストは居たたまれなさを感じる。
「エルネスト兄さま。わたくしも堅信礼を受ける年齢になりました。兄さまのような立派な男子になれるよう精進いたします」
堅信礼を終えたばかりの従兄弟のフェリペ王子が、瞳をキラキラさせながらそう挨拶する。フェリペは王位継承権第五位の王子で、その父ペドロは国王の異母弟、エルネストの母フアナにとっては同母兄にあたる。
「私なんかを目標にしてはダメだ。フェリペなら私より勉学も武芸も秀でた大人にきっとなれる」
「そんな……わたくしは、兄さまのように熾天使さまの祝福を受けておりませんし」
そう言って謙遜するフェリペを、エルネストは複雑な思いで見つめる。
エルネストには、父親がいない。それどころか、そもそも彼は生まれるはずのない存在なのだ。
先王と二人目の妃との間に生まれた長女フアナは、五歳になっても十歳になっても、言葉を一切話す事ができなかった。声を発したり、ハミングしてみせたりすることはできるのだが、言葉と呼べるようなものは一単語すら発せられない。そのような状態なので学園に通うこともなく、聖地ウルフィラに彼女のために造営されたヒラソル宮で十二歳の時から今に至るまでずっと、他者との関わりをほとんど断ってひっそりと生活していた。
ヒラソル宮への立ち入りは厳しく制限されていて、特に男性は親族であっても数ヶ月に一度、女官長らの付き添いのもとでしか会うことができなかったという。その規制は今も続いていて、エルネストが母親になかなか会えない理由の一つにもなっているのだが……。
そんなフアナ王女が十九歳の時、突然お腹に子を宿した。男性と二人きりで会うことすらもなかったはずなのにである。国王をはじめ宰相らヴァンダリア王国の中枢を担う人々と、ヒラソル宮に仕える女官たちは騒然となったが、お腹の子の父親が誰なのかは手がかりすら掴めなかった。
先王の娘、現国王の異母妹が、誰ともわからぬ男と婚前交渉により身籠ったとなれば、王室の権威を揺るがす醜聞となる。しかし徹底した犯人探しをしようとすれば、かえって醜聞を広める結果になる。困り果てた国王は、生まれてきた赤子の、フアナとは似ていない真っ赤な髪の毛と、ガーネット色の瞳に目をつけ、こんな噂をでっち上げたのだ。
「熾天使ミゲルさまが、フアナに処女懐胎の奇蹟を授けられたのだ。赤い髪とガーネット色の瞳は、炎の熾天使ミゲルさまによって炎で洗礼を受けた証である」
この噂はヴァンダリアの社交界に広く伝わったが、信じられたかというとそうでもなかった。熾天使さまが奇蹟を起こしたと考えるよりも、不貞行為の結果と考える方が自然なのだから当然だ。しかし、おおっぴらに話すことのできないこの話題を打ち切るための方便としてはうまく作用した。フアナ殿下はどこぞの男と不貞を、いやいや何をいうか、殿下は熾天使さまによって処女懐胎の奇蹟を授けられたのだ。もうこの話はおしまいにしよう。というわけである。人間というのは噂話が好きな生き物だが、うかつに話すと王室の威信を汚すような種類の噂は、程々でやめる必要がある。
本当に奇蹟であるのならば、女神教の大司教府へ届け出をしなければならない。届け出がされると大司教府の奇蹟調査官による調査の後、聖女様から正式に奇蹟認定がされる。しかし国王は届け出をしなかった。その理由を詮索するものはいなかったが、内心は多くの人が、王自身が処女懐胎を信じていないのだと受け取った。
そんなわけで、ヴァンダリアの貴族たちがエルネストのことを『熾天使の洗礼を受けた奇蹟の子』と呼ぶときは、必ずその背後に見え隠れするフアナの後ろ暗い背景から目を逸らそうとするときだった。腫れ物に触るように、『不貞などなかった』をことさらに強調するかのように、エルネスト様は奇蹟の子だとか、熾天使さまの祝福を受けているなどと声高に称賛するのは、逆にフアナに対する疑念が拭いきれていないことの証明でもあった。
そういう空気をいつからか何となしに感じてきたエルネストにとって、母の名誉を守るためにできることは、全てにおいて完璧な人間になることだった。勉学でも武芸でも礼儀作法においても、全てに秀でた人物になることで、熾天使に祝福された奇蹟の子という噂に信憑性をもたせることができる。そのために、彼は寸暇を惜しんで勉学や武芸に打ち込み、血のにじむような努力をしてきた。
だが幼いフェリペは伯母フアナの悪い噂もエルネストの孤独な努力も知らない。純粋に彼を奇蹟の子だと信じ、なんの含みもなく尊敬しているのだ。そういう無垢な眼差しの方が、宮廷貴族たちの疑念の混じった視線以上にエルネストにとってはプレッシャーだった。
退屈だが平穏な時間を破ったのは、執事エリオの一言だった。
「陛下からの伝令のものがまいりました。フェリペ殿下の堅信礼のためにウルフィラにお越しになっているので、後ほどお会いになりたいとのことです」
エルネストは途端に、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……今日は外出の予定があると伝えなさい」
まだ若く生真面目なエリオは、少し困った顔をする。
「寮に外出届を提出しておりませんが」
「これから出すさ。ヒラソル宮へ行く」
ヒラソル宮は、エルネストの母フアナ王女のために建てられた宮殿である。学園にほど近い、ウルフィラの貴族居住区域の最奥部にある。エルネストは幼少より母のもとを離れて王城で育てられ、あまり母親に会う機会もなかったが、同じウルフィラにある学園に入学したのでこれからはなるべく会いに行くと、以前母親に手紙を送っていたのだ。だが入学して一ヶ月ほど経った現在、いまだその約束は果たせていない。寮監の爺さんは実母に会うことすらなかなかできないエルネストの境遇に同情してくれているから、外出届は受理されるだろう。
「かまいませんが……陛下は本日はヒラソル宮にご逗留されるご予定ですので、どちらにせよ陛下とお会いすることになりますよ」
「……普段は母上のことなど気にもかけない癖に!」
ギリリ、と音がなるほど強く歯を噛み締めて、エルネストは呻く。
「お気持ちはお察しいたしますが、今日のところは我慢していただけませんか」
「……わかったよ。会おう」
エルネストは吐き捨てるようにそう言った。
*
「久しぶりだなエルネスト。学園での生活にはもう慣れたか」
「はい陛下。つつがなく過ごしております」
堅信礼が終わった頃、予定どおり学園を国王一行が訪れていた。
学生の一人が父兄と会うだけだと言うのに、豪奢な調度品がならぶ学園の貴賓室を使わせてもらっている。そんなことにも、エルネストは居たたまれなさを感じる。
「エルネスト兄さま。わたくしも堅信礼を受ける年齢になりました。兄さまのような立派な男子になれるよう精進いたします」
堅信礼を終えたばかりの従兄弟のフェリペ王子が、瞳をキラキラさせながらそう挨拶する。フェリペは王位継承権第五位の王子で、その父ペドロは国王の異母弟、エルネストの母フアナにとっては同母兄にあたる。
「私なんかを目標にしてはダメだ。フェリペなら私より勉学も武芸も秀でた大人にきっとなれる」
「そんな……わたくしは、兄さまのように熾天使さまの祝福を受けておりませんし」
そう言って謙遜するフェリペを、エルネストは複雑な思いで見つめる。
エルネストには、父親がいない。それどころか、そもそも彼は生まれるはずのない存在なのだ。
先王と二人目の妃との間に生まれた長女フアナは、五歳になっても十歳になっても、言葉を一切話す事ができなかった。声を発したり、ハミングしてみせたりすることはできるのだが、言葉と呼べるようなものは一単語すら発せられない。そのような状態なので学園に通うこともなく、聖地ウルフィラに彼女のために造営されたヒラソル宮で十二歳の時から今に至るまでずっと、他者との関わりをほとんど断ってひっそりと生活していた。
ヒラソル宮への立ち入りは厳しく制限されていて、特に男性は親族であっても数ヶ月に一度、女官長らの付き添いのもとでしか会うことができなかったという。その規制は今も続いていて、エルネストが母親になかなか会えない理由の一つにもなっているのだが……。
そんなフアナ王女が十九歳の時、突然お腹に子を宿した。男性と二人きりで会うことすらもなかったはずなのにである。国王をはじめ宰相らヴァンダリア王国の中枢を担う人々と、ヒラソル宮に仕える女官たちは騒然となったが、お腹の子の父親が誰なのかは手がかりすら掴めなかった。
先王の娘、現国王の異母妹が、誰ともわからぬ男と婚前交渉により身籠ったとなれば、王室の権威を揺るがす醜聞となる。しかし徹底した犯人探しをしようとすれば、かえって醜聞を広める結果になる。困り果てた国王は、生まれてきた赤子の、フアナとは似ていない真っ赤な髪の毛と、ガーネット色の瞳に目をつけ、こんな噂をでっち上げたのだ。
「熾天使ミゲルさまが、フアナに処女懐胎の奇蹟を授けられたのだ。赤い髪とガーネット色の瞳は、炎の熾天使ミゲルさまによって炎で洗礼を受けた証である」
この噂はヴァンダリアの社交界に広く伝わったが、信じられたかというとそうでもなかった。熾天使さまが奇蹟を起こしたと考えるよりも、不貞行為の結果と考える方が自然なのだから当然だ。しかし、おおっぴらに話すことのできないこの話題を打ち切るための方便としてはうまく作用した。フアナ殿下はどこぞの男と不貞を、いやいや何をいうか、殿下は熾天使さまによって処女懐胎の奇蹟を授けられたのだ。もうこの話はおしまいにしよう。というわけである。人間というのは噂話が好きな生き物だが、うかつに話すと王室の威信を汚すような種類の噂は、程々でやめる必要がある。
本当に奇蹟であるのならば、女神教の大司教府へ届け出をしなければならない。届け出がされると大司教府の奇蹟調査官による調査の後、聖女様から正式に奇蹟認定がされる。しかし国王は届け出をしなかった。その理由を詮索するものはいなかったが、内心は多くの人が、王自身が処女懐胎を信じていないのだと受け取った。
そんなわけで、ヴァンダリアの貴族たちがエルネストのことを『熾天使の洗礼を受けた奇蹟の子』と呼ぶときは、必ずその背後に見え隠れするフアナの後ろ暗い背景から目を逸らそうとするときだった。腫れ物に触るように、『不貞などなかった』をことさらに強調するかのように、エルネスト様は奇蹟の子だとか、熾天使さまの祝福を受けているなどと声高に称賛するのは、逆にフアナに対する疑念が拭いきれていないことの証明でもあった。
そういう空気をいつからか何となしに感じてきたエルネストにとって、母の名誉を守るためにできることは、全てにおいて完璧な人間になることだった。勉学でも武芸でも礼儀作法においても、全てに秀でた人物になることで、熾天使に祝福された奇蹟の子という噂に信憑性をもたせることができる。そのために、彼は寸暇を惜しんで勉学や武芸に打ち込み、血のにじむような努力をしてきた。
だが幼いフェリペは伯母フアナの悪い噂もエルネストの孤独な努力も知らない。純粋に彼を奇蹟の子だと信じ、なんの含みもなく尊敬しているのだ。そういう無垢な眼差しの方が、宮廷貴族たちの疑念の混じった視線以上にエルネストにとってはプレッシャーだった。
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