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理想の彼女

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 彼女はまるで、音を立てないことを美徳にしているかのように思えた。小指でガラステーブルに触れ、材質を確かめてからグラスを置く。
 氷がぶつかり合う音ですらも密やかで、そんな彼女の口から零れ出る声はどれほど美しいものかと息を呑んだ。
 黒目がちな瞳が僕を捉える。彼女は何か言いたげな視線を寄こしたと思えば、諦めたようにソファの背もたれに身を沈めた。

「ここではくつろげませんか?」
 僕の問いかけに、彼女はゆったりと首を傾げた。
 悩ましげな表情と長い手足が美しい。

 僕は彼女の手に触れたい衝動を必死に抑えながら、自分のグラスを空にした。アイスティーと一緒にこの欲望も喉の奥へ流し込んでしまいたい。
 彼女は今、言葉を失くしている。それは事故の後遺症か、それとも以前からそうであったのか。吐息一つ聞かせてくれない彼女に僕は焦れていた。

 どうしたら、僕の好意は正しく彼女に伝わるだろうか。

「僕は決して、興味本位であなたを助けたのではありません。見返りは何一つ求めません。ただ、あなたに惹かれたのです。あなたのような方を、ずっと待っていた」

 自他ともに認める朴念仁の自分が、これほど熱の籠った告白をすることになるとは思いもしなかった。僕の心臓はもうずっと、普段の二倍三倍の脈を打っている。身体中を巡る血液がつま先も耳たぶも、命までも燃やしているようだった。
 しかし、僕の言葉には彼女の陶器のように整った頬を動かせるだけの力がなかった。気怠けだるげな瞳は窓の外を見つめている。

「憎いですか?」
タワーマンション最上階の窓枠の向こうには大きな月が浮かんでいる。周囲の星々の光を打ち消してしまうほどの輝きに、彼女は自由を奪われた。もしも今日が新月だったら、僕たちが出会うことはなかったはずだ。

 それは彼女にとってはこの上ない災難であり、僕にとっては人生最大のチャンスだった。申し訳ない気持ちはもちろんある。けれど、今付け入らなければ、僕は彼女と会話するどころか姿を目にすることさえ叶わなかっただろう。

 事故に見舞われ早急に身を隠す必要のあった彼女を、僕は有無を言わさず自宅へ招き入れた。なぜなら彼女は、誰の目から見ても美しく人々の注目を集めてしまうから。
 僕は彼女をすべてのものから守りたかった。社会規範や法律などというつまらないもので、彼女を縛ることなどできない。彼女はただそこに在るだけで尊く、地球上の誰よりも尊重されるべき存在だ。

 ふいに、彼女は僕に手を伸ばした。
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