先生はそれを遮り、ここにいていいのだと言った。

一月ににか

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先生と私と

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 9時5分。始業時間から15分が過ぎていた。
 職員会議が長引いているのだろうと、誰かが言った。
 生徒達は何も疑うことなくこのチャンスを楽しんでいる。
 ケータイデンワを触る子、友人と会話する子、忘れていた宿題を急いで片付ける子、色々な子がいる。
 教室は不思議な場所だ。生まれた年が同じ人間が集まる。死ぬ年はバラバラなのに。
 その繋がり方に、意味などあるのだろうか。

 昨日、先生は穏やかな声で私に言った。
「ここにいていいんだよ」
 ちゃんと君を見ているから。そう聞こえた。
 先生は私の存在を認めてくれた。先生は、はじめて私がやさしいと思ったひと。
 国語教師で、このクラスの担任をしている。頼りなさの残る大人のひとだ。

 私の席は窓際の一番後ろ。先生が教えてくれた。その席で私は頬杖をつき、薄汚れた窓ガラスを見ている。
 生徒達に興味はない。彼らも私になど興味はないはずだ。視線が合うものは一人もいない。
 ただ、ここに居ればそれでいい。
 そう願われたから、先生がこの教室に入ってくるのを待っている。

 机の上に飾られたガーベラの花びらが、ふいにぽとりと落ちた。太陽光を反射して、ガラスの花瓶は木目の上に幾何学模様を浮き上がらせる。綺麗だけど不協和音で、少し悲しい。
 ふと、視界の隅を影が通り過ぎた。

――カラス?

 つぶやきの最中、突然引き寄せられた。
 私の視界に窓はもう無かった。椅子も机もない。足元は木の床からコンクリートに変わっていた。
 天井もない。ここは屋上だ。来たのは初めてだけれど、見たことがあるから知っている。その縁、フェンスの外側に先生と私は立っていた。届きそうで届かない距離で、正面から向き合って。
 アイロンのかかったしゃんとしたシャツ、無地のシンプルなタイ、胸ポケットに差した祖父の形見だといっていた万年筆。先生と呼ばれる人間にしては幼くて優しすぎる眼差しがそこにあった。

「やっぱり。よかった、君で」
 やわらかい微笑みが私を歓迎していた。先生の黒髪が朝の光を弾いている。瞳の色は教室で見るよりも明るく、鮮やかな世界を捉えているようだった。昨日まであった翳りがない。
 先生はもう手放してしまったんだ。

「どうして?」
「どうしてって、どうして?」

 やっと絞り出した言葉を、先生はそのまま返してくる。
「君は、全部わかってるんだろう?」
「何も知らない。私はただ、役割を負っているだけ。
 先生が勉強を教えていたのと同じ」
「そう……」

 冷たい風が先生の声を吹き飛ばそうとする。
「どうして、人間だけ……生きる方法を知らないんだろう。
 そんなもの、生まれた瞬間から持ち合わせてなきゃいけないんじゃないのか?」
「わからないよ。私は生きてないもの」

 困ったようなこの笑顔がすきなのに、同時に心から悲しむ顔を見たいと思う。先生は今、本当に笑っているの?
 確かめようと頬に手を伸ばしたら、先生はゆっくりと首を振った。大きな手のひらに包まれ、そっと押し戻される。
 まるで私がその熱を奪っているかのように、先生の指先はどんどん冷たくなっていく。
 恐ろしくなって手を離すと、先生は静かに目を伏せた。

「君は自分の役割が好きじゃないと言ったね。
 君はどうするんだ? これからもずっと、与えられた役割を果たすのか?」
「うん。いやでも、やらなきゃ」
「本当にそれでいいのか? 後悔はない?
 こんな道を選んだ僕じゃ、説得力もないだろうけど」
「そんなことないよ」

 下の方が騒々しい。いつまで経っても先生が来ないのだから、当然と言えば当然だ。
 先生はわずかに視線を落としたけれど、すぐに顔を上げて真っ直ぐに私を見つめた。

「君は僕を否定しないのか?」
「肯定もしない。先生は今、満足してる?」
「わからない。でもきっと、あのまま生きていても同じことだ。満足しながら生きてる人間なんて、そういるものじゃない」
「他の人なんてどうでもいい。先生のことを聞いてる」

 先生は眉間にしわを寄せ、祈るように天を仰いだ。
「オレの魂はどう? 君にはもう見えるんだろう?」
 暗い罪の色が見えるよ。赤でも黒でもない、混沌とした色をしてる。誰も知らない、先生だけの秘め事。
 それがどんどん薄まって、透明に近付いていく。なかったことになるんだ。
 唯一の証人が消えてしまうから。

「きれいだよ」
 楽になれたんだね。私の胸はぎゅっと痛んだ。

 どうして、それを誰にも吐き出さなかったの?
 どうして、そんな風になるまで一人で。そんな思いを抱えていたら、息もできないでしょう。
 こんなに染まりきった魂を見たのは、初めてだった。まるで月も星も無い空みたいだった。

「先生には未練はないんだね」
「ああ」
 振り上げた私の手には何もない。けれど、私の影は大きな鎌を持っている。曖昧な輪郭の黒い刃が先生の首へ迫る。
「仕事を増やしてごめん。君の未来が幸せであることを願うよ」
 先生は穏やかに目を閉じた。
「さようなら。小さな死神さん。迎えに来てくれて、ありがとう」

 さようなら、初めて私が見えたひと。
 掬い上げた魂を抱え、教室の片隅に佇んでいた私に声を掛けてくれたひと。



「窓に寄り掛かったら危ないよ。何をしてるんだ?」
 放課後、生徒たちに帰宅を促すために巡回してた時、オレはその子を見つけた。
 教室の隅っこで、窓の外をじっと眺めている。
 寝不足が続いているせいだろうか。受け持っている生徒の顔と名前は憶えている筈なのに、これといった特徴のない後ろ姿に、オレはその子の名前を言い当てることができなかった。

「えっ……と」
 叱られたと思ったのだろう。彼女は大きく肩を跳ねさせ、おどおどとした様子でこちらに振り返る。
 悪戯を咎められたような、驚きを隠しきれない表情が印象的だった。思い出せないのではなく、知らない。
 別の学年の子なのだろうか。だとすれば、この子は興味本位でこのクラスに足を踏み入れたのだろうか。

「呼ばれたから迎えに来た。でも、まだここに居たいって言われたから」
「呼ばれた? 何言ってるんだ」
 要領を得ない話し方に苛立ち、オレは彼女の手を掴んだ。乱暴に、窓際から引き離す。
「危ないって言ってるだろう」
「でもまだ、ここに居たいって」
 抵抗は示さなかったが、彼女はオレの手を握り返し訴えた。
 澄んだ瞳にどきりとする。この教室に、遊び半分で立ち寄ったのではないと感じた。
「だったら、居てもいいからちゃんと椅子に座りなさい」

 オレはすぐそばの席を指差し、椅子を引いた。座るように目配せする。
 机の上に置かれているものに気付き息が止まった。
 意地悪をしたつもりはなかったが、この席を勧めるなんてどうかしている。
 
 周囲を見回せば、教科書やノートの詰まった机ばかり。放課後の教室にはオレ達以外誰もいないのに、ここには生徒の気配が充満している。
 それなのにここだけ、朝替えたきりの水と花のにおいが漂っている。

「ここに、私の席はないよ」
 立ち止まったまま、彼女はオレを見上げた。困惑気味ではあるが、怒りも悲しみも感じられない。整っているようでぼんやりとした顔だちをしている。
 さっきはあんなにわかりやすい顔をしていたのに、あまり感情表現が豊かな子ではないのだろうか。イマイチなにを考えているのかが読み取れない。

「君の席は、他のクラスにあるんだろう?」
 オレの問いかけに、彼女は静かに首を振った。やはり必要以上に淡々としている。
「学校に私の居場所はない」

「この席はもう誰のものでもないから大丈夫。この席の子はね、一週間前、事故で死んでしまったんだ」
「知ってる」
「そう、だよな」

 だから、この子はここに居るのだろう。
 公には事故ということになっているが、そう思っている人間はひとりもいない。本当のことは誰も知らないが、だからこそ憶測で物は言えない。
 この子は、死んでしまった生徒に同調しているのだろうか。「呼ばれた」という言葉が重く圧し掛かる。早く帰りなさいと追い立てるのは簡単だが、そうしてはいけないのではないか。
 掴みどころのないこの子を、どうしたら繋ぎとめていられるだろう。

「先生?」
 声が遠ざかった気がして視線を向けると、彼女はガーベラの向こう側でかすかに笑った。
 ちょこんと椅子に座り、花瓶の凹凸をなぞっている。
「座ったよ。もう少しここにいていいよね」
「ああ」

 純粋に言葉通り、彼女はそこに居るだけで満足しているようだった。
 けれどオレにとって沈黙は耐えがたく、とつとつと自分のことを話し、彼女の話を聞いた。
 花の名前、学校の中で気に入っている場所、オレの仕事、彼女の役割。
 夢想じみた受け答えは現実味がなく、痛々しい思いで始めたこの時間をオレは楽しいとさえ感じていた。




 屋上から身を乗り出し、ざわめきの中心に目を凝らす。 
 地面に横たわる先生の姿は、一週間前、教室の窓から転落した女の子の最期と重なっている。

 本当は、出会った時点で先生の心は死んでいた。
 だから先生は、本来人の目に映るはずのない私のことを見ることができたのだろう。
 そして先生は、その壊れた心であの子の代わりに私を助けようとした。

 ここにいるのが辛くてそうしたはずなのに、もう少しだけここに居たいと言ったあの子。
 不思議な子だと思っていた。
 だけど、今ならわかる。教室に居たかったんじゃなくて、先生のそばに居たかったんだ。

「先生、行こう。あの子が待ってる」
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