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第十二部「幻の舟」第1話
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何が起きていたのか
真実は誰にも分からなかった
目の前に見えているものが
本当のことか
間違ったことなのか
☆
浅間美津子が鬱病の診断を受けたのは二四才になってすぐの頃。
美津子を小さな心療内科に連れて行ったのは、高校からの同級生の佐々木玲子。
美津子と玲子は同じ高校の介護福祉課の同級生だった。入学直後から気が合ったこともあり、そのまま二人で介護の専門学校にも進学した。更なる資格を取得するため。
二人は決して似たタイプではない。どちらかというと気が強いタイプの玲子は、大人しめの美津子を常に引っ張っていた側面もあり、それなりにバランスの取れた関係でもあった。
涼しげな美人タイプの玲子は異性にも好かれることが多かったが、専門学校に入るまでは誰とも付き合ったことはない。美津子との友情を優先していたが、最初に玲子に恋人が出来た頃から二人の関係性は変化し始める。同性同士の友情とは違う異性との恋愛経験は、いつの間にか玲子を精神的に大人にしていく。異性に対して奥手だった美津子は、自然と出遅れたような寂しさを感じていた。半年で恋人と別れた玲子を慰めながらも、本心のどこかでは嬉しかった。
そんな経験の中から自分が精神的に屈折してしまっていたことに気が付いたのは、今回の鬱病の診断に他ならない。
卒業と同時に同じ高齢者用グループホームで勤め始めてからも、長くても三ヶ月、早ければ一ヶ月程度で恋人を変えていく玲子を、いつの間にか美津子は疎ましく思うようになっていた。恋人を作れないままの自分が、もしかしたら惨めに見えていたのかもしれない。もはや友情だけで繋がっていた高校の頃とは違う。
もちろん鬱病の原因はそれだけではないだろう。いくら学校で勉強し、実習を何度も経験していたとはいえ、やはり介護の現実は過酷だった。学校で学んでいたこととは余りにも違った。〝間違っている〟と教わっていたことが〝こういうものだから〟と押し付けられる日々。精神的に追い詰められていく中で、それがどういうことか考える暇もない労働時間の長さ。職場の従業員から出てくる言葉は経営者と施設利用者への愚痴ばかり。毎月のように退職者と新人が増えていく。いつの間にか美津子も玲子も長く勤めている重鎮となっていた。
美津子は鬱病を職場に伝えることは出来ないと判断する。
玲子も同じ考えだった。
「一週間くらい休んだら?」
玲子のアパートでコーヒーを飲みながら玲子がそう言うと、美津子は何も返せないままに目の前のテーブルにマグカップを置いた。コーヒーの湯気が大きく揺れる。
夕陽が大きな窓から入り込む。引っ越したばかりの玲子の部屋。夏の西陽が強過ぎた。
──……また、彼氏できたのかな…………
玲子の近くに積まれた洗濯物を見た美津子はそう思っていた。一番上に置かれた男物の靴下がそう感じさせた。一番下のデニムも玲子の物にしては大きい。
──…………また秘密なんだ……………………
最初の頃と違い、玲子も美津子に報告することは少なくなっていた。もちろん恋人を作れなかった美津子に遠慮していた部分もあるのだろう。少なくとも美津子はそう思っていた。
──……別に、いいけど…………
「…………そうだね……少し休むよ…………」
美津子はそれだけ応えると、心の中で大きく溜息を吐く。
窓から涼しげな風が入り込んだ。
「涼しくなったね…………」
玲子が窓の外に顔を向けて口を開く。
空気の湿度が下がり始め、少しずつ過ごしやすい季節に変わっていく頃。美津子にとっては好きな季節だった。今までも人生の中で辛いことはあった。しかしこんなにこの時期を心地よく思えないのは初めてだ。
どこにも明るい未来が見えない。
自分で自分が見えていなかった。
翌日から美津子は有給休暇を利用して一週間の休養を取った。建前は体調不良としたが、もちろん職場はいい顔をしない。それでも玲子が施設長を宥める形で申請が通る。美津子としても休み明けに対しての不安がなかったわけではない。その不安が休暇中の美津子を苦しめることにはなったが、とりあえず〝仕事漬けの毎日から解放されること〟という医者と玲子の言葉を信じた。
休んでいる間に特に何かをしたわけではない。今までのことを考えながら、むしろネガティブな感情が美津子を押し潰していく。仕事を休んだだけで何かが変わるわけではなかった。
決して従業員が主体とされている職場ではない。復帰後すぐに、改めて美津子はそれを感じることになる。職場内での風当たりは思っていた以上に重かった。
そして、それはやっと美津子が転職を考え始めた頃。
美津子は同じグループホームで働いている同じ介護職員と付き合い始めた。
一年先輩の田中昌幸。以前はそれほど意識していたわけではなかったが、美津子はもしかしたら寄りかかれる相手を探していただけなのかもしれない。
付き合って半年程。美津子は二五才。昌幸が二六才の時、二人は結婚する。ちょうど昌幸が他のグルームホームに転職をした直後。
そして結婚から三ヶ月ほどした頃。美津子は再び転職を考えていた。
そんな時、施設内でトラブルが起き始める。
それは施設利用者の家族からの訴えが始まりだった。
しかもそれは決して喜ばしいものではない。
その訴えは明確に施設内での虐待を現すもの。
そして職員の間で懐疑的な噂が広がり始める。
しかも施設としては完全にそれを否定出来ない現実があった。法律スレスレの運営の中で、叩けばいくらでも埃は出る。事実、それは職員の誰もが感じていた。
利用者を〝人〟ではなく〝物〟として扱っている現実。
いつかこうなるであろうことは、全員が想像していたことでもある。
そして、
ある日、仕事中に施設長に呼び出されたのは美津子だった。
「虐待が疑われる時間って……浅間さんが介護してた時間みたいなんだけど…………」
施設長は、まるで用意していたかのような言葉を美津子にぶつける。
身に覚えの無い〝嫌疑〟に、美津子は何も言い返せずにいた。
記憶のどこにも存在などしない、美津子に降りかかる〝罪〟。
施設長は尚も続ける。
「ウチも悪い噂とか出ると困るんだよね…………」
──…………〝嘘の噂〟はいいの……?
「ご家族は改善案を出して示談金さえ出してくれたら訴えは取り下げると言ってくれてるんだけど…………」
「……明日まで…………」
無意識の内に、美津子の口が動く。
「…………考えさせてください……………………」
説明はどうせ無駄────美津子はそうとしか思えなかった。
──……どうせ、私の話なんか聞くはずがない…………
だから美津子は精神的に病むことになったと思っている。結婚直前まで通院を続け、薬も飲み続けた。昌幸がいなければ立ち直ることは出来なかっただろう。
──……もっと早く転職してれば…………
そんな後悔が浮かぶまま、美津子は別の噂も耳にすることになった。
「…………浅間さんが疑われてるんですか?」
帰り際に更衣室でそう話しかけてきたのは、働き始めてまだ半年程の職員。
美津子はすぐには応えなかった。すでに誰のことも信用していない。自分の発した小さな言葉が他人の中で大きくなっていくことを美津子は知っている。
「私見ましたよ…………〝玲子〟さんが虐待してるとこ…………最近、施設長ともコソコソ話してましたし…………」
その言葉を聞いても、美津子の中に信頼が生まれることはなかった。
そして〝玲子〟の名前にもなぜか動じない自分がいる。
──……玲子は…………私の味方?
──…………信じられるの……………………?
「玲子ちゃんがそんなことするわけないだろ」
そう即答したのは夫の昌幸。
「お前の親友じゃないか」
昌幸自身、元々は玲子とも同僚だった過去がある。
その上での発言だと思いたかった。
「お前…………ホントに何もしてないのか?」
「……ちょっと……なんでそんな…………」
「────鬱病ってさ…………明確に治るとか、そういうものじゃないだろ……?」
触れてほしくない過去。
例えそれが夫の言葉でも、そこを掘り返してほしくはなかった。
「ストレスも溜まってたんだろ?」
──……やめてよ…………
人間関係というものは、簡単に崩れていく。
昌幸が支えてくれていたのは本当に自分のことだったのか…………何か、色々なものが音を立てて崩れ落ちていった。
そんな想いを抱えながら、美津子は翌日、辞表を手に施設長の部屋を訪れる。
その後、更衣室のロッカーで荷物を鞄に詰めていく。他の従業員は仕事中。
そして、その更衣室を訪れたのは玲子だった。
「別れるの? 昌幸さんと」
背後からの玲子の低めの声に、美津子は手を止めながらも背中で応えていた。
──…………どうしてそれを…………?
そのまま玲子の声が続く。
「この世界って狭いからね…………同業の妻が〝虐待〟で退職なんて…………昌幸さんも働きにくくなるんじゃない?」
確かに、昨夜の内にその話は出ていた。交わることのないままの平行線の会話だった。
「こうなったら…………もう最後だし、言っちゃってもいいよね…………」
その玲子が続ける。
「昌幸さんって……私の元彼…………アンタが鬱病で休んでた頃に…………すぐに別れたけど…………でも少し前からまた誘われるようになってさ…………アンタの愚痴とか聞かされて…………〝夜〟もあんまり無かったんでしょ? 良かったじゃん。子供できる前で」
三日後に市役所に離婚届を出した時、美津子は二八才になっていた。
☆
それは杏奈がフリーになって最初の仕事だった。
小さな雑誌社で記者として働いていたが、芸能人のゴシップネタを追いかけるだけの毎日に嫌気を感じて退職。もちろん後押しになったのは今までの仕事で作り上げた人脈が大きい。
元々杏奈が求めていたのは事件記者。あちこちのマスコミ関係に顔を売ってきたのが功を奏した。総てが計画通りというわけではなかったが、自分を売り込むためならお金もかけてきた。フリーが綺麗事だけでやっていけない世界であることも知っていた。
それは戦場カメラマンをやっていた父親の影響も大きい。杏奈も自分で分かってはいたが、父親と同じ戦場カメラマンに憧れているところもある。しかし看護師をしている母親の反対もあり、会社員としてのジャーナリストになった過去があった。
そのためか、杏奈は就職と同時に安いアパートを借り、安い給料の中でやりくりしてきた。辛い時には戦場で命を落とした父親の形見である壊れたカメラを見て自分を鼓舞してきた。
九〇年台のシリアの内戦で行方不明になった父親が残したのは愛用のカメラバッグだけ。その中にあった一眼レフのカメラは、今でも杏奈に取っては命の次に大事な物だ。そしてその時のカメラバッグは今でも杏奈の愛用の物となっている。決して二〇代の女性が持ちたがるような物ではない。いかにもな無骨で男性向けのデザイン。機能性重視で丈夫さが売りのタイプだ。あちこちに綻びや汚れも目立つ。それでも杏奈は父親と共に戦場を掻い潜って来た歴史を感じていた。
まだ幼かった杏奈にとって、父親の記憶は少ない。
しかし成長と共に学んだ歴史の中に父親の存在を感じた。
「いきなりでちょっと面倒な仕事なんだがねえ」
雑然とした広い雑誌社のオフィスで、今回の件で杏奈に声をかけた中年の男性編集長────岡崎がソファーに腰をおろしながら続ける。中年とは言っても、そろそろ六〇は過ぎた年齢のはずだ。
「宗教絡みだからな…………手を出さないって決めた雑誌もあるみたいだ」
するとすぐに振り返り、腰を浮かしかけて声を上げる。
「おい! あの病院の資料どこ行った⁉︎」
昔ながらの出版社のオフィスは未だにアナログだ。常に騒々しく誰かの声と足音。そして縦横無尽に職員が走り回る。
決して杏奈はその雰囲気が嫌いなわけではない。
岡崎は顔を戻すと、すかさず杏奈の隣のカメラバッグに目をやって口を開いた。
「まだ使ってるのか? 今までは聞かなかったけど…………親父さんのだろ?」
「……あ……ええ…………形見なんで…………」
少し遠慮がちに杏奈は応えていた。目の前の岡崎が父親と仕事で関係していたことは聞いている。
「親父さんが戦地から送ってくる写真は大したもんだったよ。あの頃はまだフィルムの時代だろ? 空港のX線でフィルムがダメにならないように専用のケースがあってな…………分厚いケースで…………それが届く度に興奮して現像に回したもんだ…………あんたが娘だって知った時は驚いたよ」
すると若い社員が紙の束を岡崎の目の前に置いた。すかさず岡崎がそれを手に取る。
「遅いぞオイ」
一見すると荒い印象の言葉のやりとり。しかしそれはよくある雑誌社のオフィスの光景。杏奈もそんな中で働いてきた。
「あまりお勧めの仕事じゃないが……どうする?」
岡崎から手渡された分厚い紙の束を手に取ると、杏奈は素早く目を通し始める。
そこに岡崎の声が被さった。
「お前さんも若いって言ったって過去の宗教絡みの事件は知ってるだろ? ウチも誰もやりたがらなくてな…………それでも世間の関心は高いときた…………」
もっともと言えばもっともだ。
宗教絡みは神経を使う。新興宗教と言っても様々だ。勢力を拡大しようとする所もあれば小規模のままの所もある。
そんな中でテロ組織と化してしまった新興宗教団代の起こした事件のせいで、宗教に対して怪しい印象を抱く人間が未だに多いのも事実。しかしほとんどの団体は堅実な活動を続けているのが現状。それでも世間一般のイメージというものは簡単に覆るものではなかった。
事件だと思って先入観で取材をしたことで訴訟に発展したことも事実としてあった。
だから仕事としては避けられる。誰も責任を取りたくない。
結果的に、いつでも切り捨てられる〝フリーの記者〟に仕事が回ってくる。
杏奈もフリーになった時点でそういうことは覚悟していた。
そして杏奈も自分を売り込みたい時。
しかも宿泊費や交通費等の諸経費は領収書を持ってきてくれてもいいという。
お互いの利害は一致していた。
「地味な取材になるし……無理にとは言わないが…………」
岡崎のその言葉に、杏奈はすぐに応えていた。
「いえ……やらせていただきます」
杏奈はそう応えて笑みを浮かべる。
☆
新興宗教団体────〝神波会〟の経営する医療法人ホスピス医院〝安寧病院〟。
患者の一人────吉原藤一郎が亡くなる。その家族が病院の実態をマスコミにリークしたことで今回の問題が発覚した。最初は小さなテレビニュースだったが、病院の母体が宗教団体であることと、そのリークの内容がセンシティブであったことで途端に世間の注目を集めることになる。
ホスピスとは終末期医療のための病院。不治の病となる難病や、余命宣告された患者がほとんどだ。回復して退院することはほとんどない。当然通常の病院よりも死亡率は高い。
しかし吉原藤一郎の家族の訴えは特殊だった。
患者が悪魔に取り憑かれているとして病院が〝悪魔祓い〟を行い、その結果、非科学的な施術で死亡したというものだ。そのベースになっているのが宗教的な要素から来ているという。
杏奈が雑誌社から取材の依頼を受けた時には、すでにマスコミの取材が加熱し始めていた。岡崎からの要望は事件の訴えの真相はもちろんのことだが、それ以上にマスコミの情報で出て来ていない新たなネタ。ゴシップ的に求めるものとしては〝悪魔祓い〟の詳細だが、その情報が飽きられる前に次の進展が欲しかった。
当然杏奈は現在のマスコミとは違う切り口でネタを切り崩していくしかない。最近の報道の中心になっているのは、その派手さからかやはり悪魔祓いの話題が中心になっていた。
今後の流れは母体である宗教団体の実像と、誰が悪魔祓いを行ったのか。そして、マスコミ報道の〝真実〟の部分と〝嘘〟の部分がどこなのか。
杏奈はマスコミ各社に先んじて団体の実態に切り込もうと考えた。
協力者はいない。
他のマスコミの報道を見る限り、まだ団体の代表まではどこも辿り着いていない。信者や病院の職員の声も聞けてはいない。出てくる情報は元信者や元職員のものばかり。その口から出てくる情報が偏っていない保証はない。
情報が偏っているならば、そこには必ず〝嘘〟がある。
何かを隠すために情報は偏っていく。
もしくは情報が偏ることで何かが隠されていく。
そして何かが見えなくなっていく。
杏奈は、最終的には団体の代表に話を聞かなければ意味がないと考えていた。しかしそれさえも真実に辿り着けるのかは分からない。
そして、それは簡単なことではないだろう。
切り口が欲しかった。
杏奈にとってはいきなりの遠征取材になる。動く時間がどうなるか分からなかったために、宿泊はシャワールーム付きのインターネットカフェ。問題の病院からそれほど遠くない所に頃合いの場所を見付けていた。
その団体の本部に当たる部分は病院の施設内にある。病院がメインとは言っても同時に宗教団体の総本山。
杏奈は一週間張り込みを続けるが、代表の姿すら見付けることが出来ないまま。張り込み場所は病院の裏手にある平面駐車場。あからさまなマスコミ関係のバンが数台。
「駐車場の領収書もいいのかなあ…………」
そして病院の従業員入り口は常に他のマスコミ関係者が張り付いていた。杏奈も元はその世界の人間。動きを見ただけで分かる。
「いいよねえ…………あの人たちは交代要員がいるから」
車の中でそんな愚痴をこぼしながら、杏奈はそのマスコミたちとは少し離れた別の出入口にカメラの望遠レンズを向けていた。
そこは宗教団体の信者が使用しているドア。同じ建物なので分かりにくいが、明らかに毎日そこから出入りしている女性が一名。病院関係者ならばそこを使用する理由はない。少なくとも杏奈はそう読んでいた。もう一人、張り込みの一週間の間に一度だけ出入りした女性もいた。
岡崎に報告すると、まだその二人の人物の情報は掴んでいなかった。事実、マスコミ各社がどこかから入手していた従業員リストには無い人物のようだ。しかも毎日のように出入りするのは一人だけ。
その日も夜の八時頃にその女性が外へ。
近くのマスコミはその出入口の存在に気が付いてさえいない。
季節は秋。
だいぶ外は暗くなっている。
エンジンを切ったままの車内では涼しく感じる頃。
杏奈は車のキーを軽く回し、バッテリーだけをONにすると、車の窓を閉めた。
すぐにバッテリーをOFFにしてキーを抜くと、そのまま車を降り、少し離れて女性を尾け始める。
まだ息が白くなるほどの寒さはない。擦り切れてだいぶ色落ちした黒いデニムに履き疲れたスニーカー。上には古着屋で買ったダークブラウンの革ジャン。和柄がワンポイントのキャスケットを被り、その後ろからは肩までのショートカットを無理に一つに結んでいた。革ジャンのポケットの中にはスマートフォンだけ。こういう時にいつも杏奈は〝いい時代になった〟と感じる。ターゲットを尾行するとしても大きなカメラを片手にする必要がない。しかも音声の録音も出来る。
まだだいぶ目の前を行く女性は、決して若い女性には見えない。服装的には大人の匂いのする暗い色のワンピース。落ち着いた緑に見えた。いつもの小さなショルダーのハンドバッグを肩からかけてはいるが、それも子供っぽくはない。
しばらく歩いたところで女性はコンビニに立ち寄る。その後、小さなレジ袋を手に、人通りの少ない細い道を何度も曲がりながら向かったのはマンションの入り口。
──……警戒してる?
杏奈がマンションだと思ったのは古い市営住宅だった。
──部屋に入られたら押しかけにくいな…………
杏奈は足早に女性の前に身を乗り出していた。
階段を上がろうとしていた女性は驚いて足を止める。
杏奈は女性の目の前に名刺を見せて口を開く。
「ごめんなさい…………言えることだけで結構です」
「…………すいません────」
女性は顔を伏せて階段を登ろうとするが、その手に杏奈が紙のような物を押し当てると、再び驚いて動きを止めた。
「……あなたのことを知ってるのは私だけです…………他には漏らしません…………あなたのことももちろん匿名で…………」
杏奈のその言葉に女性が軽く手を開くと、そこには折り畳まれた一万円札が数枚。
杏奈はあえて女性の顔を見ていない。
周囲に人影がないかを気にしていた。
そして小さく口を開く。
「……ご近所の誰かに見つかる前に…………行きましょ…………」
二人はしばらく歩き、人通りのある通りで小さな喫茶店に入った。
杏奈がよく使っていた店だ。こういう時のために都合のいい店をいくつか押さえている。それほど混んではいないが、常に客がいる店。こっそりと人から話を聞くなら、ある程度の人混みに紛れるほうが不思議と隠れやすい。もちろん席は選ぶが、小声で話す分には声は店のBGMに掻き消える。
「あなたの存在に気が付いたのは私だけみたいです…………他の連中は従業員用の出入口しか張ってませんよ…………だから安心してください」
杏奈はコーヒーが運ばれてきた後に、そう言って女性に笑顔を向けた。
俯いたままの女性は、杏奈の見た印象ではおそらく三〇代半ば。整った顔立ちの地味な印象だったが、何より、やつれて見えた。
杏奈が続ける。
「……疲れたお顔ですよ…………眠れてますか?」
──……私はわざと心配したようなことを言ってる…………
──………………嫌な仕事だ………………
「ちゃんとご飯は────」
「────食べてます…………お聞きになりたいこととはなんですか⁉︎」
女性の、少し強い口調が返ってきた。
杏奈はいつものように、ポケットの中のスマートフォンのスイッチを入れる。そこから小さなピンマイクのコードが革ジャンのポケットへ。それで声を拾える。
「……すいません…………まあ…………最近話題のあそこのことなんですけどね…………」
すると、俯いたままの女性の声が震え始める。
「…………私たちが…………何をしたんですか…………田原さんは何も悪いことなんかしていません…………」
──……田原…………?
──…………代表の田原達夫のことか…………
「でも……実際に告訴の動きがあります。その前に〝御家族〟の側がマスコミにリークしたことで騒ぎになってるようですが…………」
「…………私たちは…………何も…………」
しだいに小さくなる女性の声に、杏奈は更に切り込む。
「核心の部分を聞かせてください…………噂になってる〝悪魔祓い〟は本当に────」
「────ありません…………団体はホスピスを作るために田原さんが立ち上げたものです…………私たちは神道をベースにしています…………患者さんたちの入院費だって最低限しか頂いていません…………儲けを第一に考えるような所とは違うんです。運営だって周りからの援助でやっとなんですよ…………それなのにどうして…………」
「あなたは────」
「────経理をしています…………だから分かるんです…………悪魔祓いなんて……どこにメリットがあるのか教えてください。田原さんだって贅沢をするような人じゃないんです…………アパートだって安い所ですし…………」
杏奈の中に疑問がいくつか生まれていた。
〝教祖〟ではなく〝田原さん〟。
〝神道〟。
〝周りからの援助〟。
確かに悪魔祓いのメリットとして考えると不思議だった。教団の教義のためという可能性は考えられたが、だったらホスピスである理由が分からない。悪魔祓いを行うなら宗教団体だけで充分なはず。
新興宗教団体────正確には宗教法人。杏奈は決してその世界に詳しいわけではない。なんとなくイメージでキリスト教や仏教のような一神教をベースにしているものとだけ思っていた。
──……何か…………変だ……………………
「田原さんって…………代表の方ですよね…………会わせてもらえませんか?」
杏奈は思わずそう言っていた。
代表に話を聞きたい────純粋な気持ちだった。
しかし女性の応えは、
「……すいません…………私もしばらく会えていません…………自宅のアパートにもマスコミの人たちがいて……外に出られないんです…………」
「では、あなたと同じドアから出入りした女性がもう一人いたと思うんですが────」
「あの方は…………法人の相談役の女性です…………神社の方で…………色々と最初から援助して頂いてて…………私の一存では…………」
結局、杏奈は次のアポイントも取れないまま、この日の取材を終えた。
そして疑問が膨れ上がる。
杏奈の中で何かが変化していた。
☆
杏奈の次のターゲットはもう一人の女性。
というより、足掛かりは他になかった。
以前に一度遠くから見かけただけ。
昨夜の女性は詳細を教えてはくれなかった。
もはや張り込みを続けるしかない。直接団体に電話をするも、当然のように取材は断られた。他のマスコミ各社と同じことをしたところで意味がないことは分かっていた。少し自分の中に焦りがあることを感じながら、苛立ちが募る。
フリーになって最初の仕事。雑誌社からの依頼とはいっても所詮はフリー。どこからもバックアップは無い。フリーになって最初としては大き過ぎる仕事だった。
行き詰まった感覚が杏奈を包んでいく。
お昼を過ぎた頃、少し前に寄ったコンビニで買った温かったコーヒーもだいぶ冷めてきた。
そんな時、大きく溜息を吐いた杏奈の横、運転席のガラスをノックする音。
同業者かと顔を上げると、そこには見知らぬ長い黒髪の女性。
杏奈は反射的に窓を開ける。
「あなたね。話は聞きました…………」
あちこちにレースの施された黒い服のその女性は、凛とした立ち振る舞いのまま続けた。
「教団のことでしたら…………私が真実をお話しします」
それは、ツバの広い帽子を深く被った〝咲〟の姿。
──…………あの人だ……………………
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十二部「幻の舟」第2話へつづく ~
真実は誰にも分からなかった
目の前に見えているものが
本当のことか
間違ったことなのか
☆
浅間美津子が鬱病の診断を受けたのは二四才になってすぐの頃。
美津子を小さな心療内科に連れて行ったのは、高校からの同級生の佐々木玲子。
美津子と玲子は同じ高校の介護福祉課の同級生だった。入学直後から気が合ったこともあり、そのまま二人で介護の専門学校にも進学した。更なる資格を取得するため。
二人は決して似たタイプではない。どちらかというと気が強いタイプの玲子は、大人しめの美津子を常に引っ張っていた側面もあり、それなりにバランスの取れた関係でもあった。
涼しげな美人タイプの玲子は異性にも好かれることが多かったが、専門学校に入るまでは誰とも付き合ったことはない。美津子との友情を優先していたが、最初に玲子に恋人が出来た頃から二人の関係性は変化し始める。同性同士の友情とは違う異性との恋愛経験は、いつの間にか玲子を精神的に大人にしていく。異性に対して奥手だった美津子は、自然と出遅れたような寂しさを感じていた。半年で恋人と別れた玲子を慰めながらも、本心のどこかでは嬉しかった。
そんな経験の中から自分が精神的に屈折してしまっていたことに気が付いたのは、今回の鬱病の診断に他ならない。
卒業と同時に同じ高齢者用グループホームで勤め始めてからも、長くても三ヶ月、早ければ一ヶ月程度で恋人を変えていく玲子を、いつの間にか美津子は疎ましく思うようになっていた。恋人を作れないままの自分が、もしかしたら惨めに見えていたのかもしれない。もはや友情だけで繋がっていた高校の頃とは違う。
もちろん鬱病の原因はそれだけではないだろう。いくら学校で勉強し、実習を何度も経験していたとはいえ、やはり介護の現実は過酷だった。学校で学んでいたこととは余りにも違った。〝間違っている〟と教わっていたことが〝こういうものだから〟と押し付けられる日々。精神的に追い詰められていく中で、それがどういうことか考える暇もない労働時間の長さ。職場の従業員から出てくる言葉は経営者と施設利用者への愚痴ばかり。毎月のように退職者と新人が増えていく。いつの間にか美津子も玲子も長く勤めている重鎮となっていた。
美津子は鬱病を職場に伝えることは出来ないと判断する。
玲子も同じ考えだった。
「一週間くらい休んだら?」
玲子のアパートでコーヒーを飲みながら玲子がそう言うと、美津子は何も返せないままに目の前のテーブルにマグカップを置いた。コーヒーの湯気が大きく揺れる。
夕陽が大きな窓から入り込む。引っ越したばかりの玲子の部屋。夏の西陽が強過ぎた。
──……また、彼氏できたのかな…………
玲子の近くに積まれた洗濯物を見た美津子はそう思っていた。一番上に置かれた男物の靴下がそう感じさせた。一番下のデニムも玲子の物にしては大きい。
──…………また秘密なんだ……………………
最初の頃と違い、玲子も美津子に報告することは少なくなっていた。もちろん恋人を作れなかった美津子に遠慮していた部分もあるのだろう。少なくとも美津子はそう思っていた。
──……別に、いいけど…………
「…………そうだね……少し休むよ…………」
美津子はそれだけ応えると、心の中で大きく溜息を吐く。
窓から涼しげな風が入り込んだ。
「涼しくなったね…………」
玲子が窓の外に顔を向けて口を開く。
空気の湿度が下がり始め、少しずつ過ごしやすい季節に変わっていく頃。美津子にとっては好きな季節だった。今までも人生の中で辛いことはあった。しかしこんなにこの時期を心地よく思えないのは初めてだ。
どこにも明るい未来が見えない。
自分で自分が見えていなかった。
翌日から美津子は有給休暇を利用して一週間の休養を取った。建前は体調不良としたが、もちろん職場はいい顔をしない。それでも玲子が施設長を宥める形で申請が通る。美津子としても休み明けに対しての不安がなかったわけではない。その不安が休暇中の美津子を苦しめることにはなったが、とりあえず〝仕事漬けの毎日から解放されること〟という医者と玲子の言葉を信じた。
休んでいる間に特に何かをしたわけではない。今までのことを考えながら、むしろネガティブな感情が美津子を押し潰していく。仕事を休んだだけで何かが変わるわけではなかった。
決して従業員が主体とされている職場ではない。復帰後すぐに、改めて美津子はそれを感じることになる。職場内での風当たりは思っていた以上に重かった。
そして、それはやっと美津子が転職を考え始めた頃。
美津子は同じグループホームで働いている同じ介護職員と付き合い始めた。
一年先輩の田中昌幸。以前はそれほど意識していたわけではなかったが、美津子はもしかしたら寄りかかれる相手を探していただけなのかもしれない。
付き合って半年程。美津子は二五才。昌幸が二六才の時、二人は結婚する。ちょうど昌幸が他のグルームホームに転職をした直後。
そして結婚から三ヶ月ほどした頃。美津子は再び転職を考えていた。
そんな時、施設内でトラブルが起き始める。
それは施設利用者の家族からの訴えが始まりだった。
しかもそれは決して喜ばしいものではない。
その訴えは明確に施設内での虐待を現すもの。
そして職員の間で懐疑的な噂が広がり始める。
しかも施設としては完全にそれを否定出来ない現実があった。法律スレスレの運営の中で、叩けばいくらでも埃は出る。事実、それは職員の誰もが感じていた。
利用者を〝人〟ではなく〝物〟として扱っている現実。
いつかこうなるであろうことは、全員が想像していたことでもある。
そして、
ある日、仕事中に施設長に呼び出されたのは美津子だった。
「虐待が疑われる時間って……浅間さんが介護してた時間みたいなんだけど…………」
施設長は、まるで用意していたかのような言葉を美津子にぶつける。
身に覚えの無い〝嫌疑〟に、美津子は何も言い返せずにいた。
記憶のどこにも存在などしない、美津子に降りかかる〝罪〟。
施設長は尚も続ける。
「ウチも悪い噂とか出ると困るんだよね…………」
──…………〝嘘の噂〟はいいの……?
「ご家族は改善案を出して示談金さえ出してくれたら訴えは取り下げると言ってくれてるんだけど…………」
「……明日まで…………」
無意識の内に、美津子の口が動く。
「…………考えさせてください……………………」
説明はどうせ無駄────美津子はそうとしか思えなかった。
──……どうせ、私の話なんか聞くはずがない…………
だから美津子は精神的に病むことになったと思っている。結婚直前まで通院を続け、薬も飲み続けた。昌幸がいなければ立ち直ることは出来なかっただろう。
──……もっと早く転職してれば…………
そんな後悔が浮かぶまま、美津子は別の噂も耳にすることになった。
「…………浅間さんが疑われてるんですか?」
帰り際に更衣室でそう話しかけてきたのは、働き始めてまだ半年程の職員。
美津子はすぐには応えなかった。すでに誰のことも信用していない。自分の発した小さな言葉が他人の中で大きくなっていくことを美津子は知っている。
「私見ましたよ…………〝玲子〟さんが虐待してるとこ…………最近、施設長ともコソコソ話してましたし…………」
その言葉を聞いても、美津子の中に信頼が生まれることはなかった。
そして〝玲子〟の名前にもなぜか動じない自分がいる。
──……玲子は…………私の味方?
──…………信じられるの……………………?
「玲子ちゃんがそんなことするわけないだろ」
そう即答したのは夫の昌幸。
「お前の親友じゃないか」
昌幸自身、元々は玲子とも同僚だった過去がある。
その上での発言だと思いたかった。
「お前…………ホントに何もしてないのか?」
「……ちょっと……なんでそんな…………」
「────鬱病ってさ…………明確に治るとか、そういうものじゃないだろ……?」
触れてほしくない過去。
例えそれが夫の言葉でも、そこを掘り返してほしくはなかった。
「ストレスも溜まってたんだろ?」
──……やめてよ…………
人間関係というものは、簡単に崩れていく。
昌幸が支えてくれていたのは本当に自分のことだったのか…………何か、色々なものが音を立てて崩れ落ちていった。
そんな想いを抱えながら、美津子は翌日、辞表を手に施設長の部屋を訪れる。
その後、更衣室のロッカーで荷物を鞄に詰めていく。他の従業員は仕事中。
そして、その更衣室を訪れたのは玲子だった。
「別れるの? 昌幸さんと」
背後からの玲子の低めの声に、美津子は手を止めながらも背中で応えていた。
──…………どうしてそれを…………?
そのまま玲子の声が続く。
「この世界って狭いからね…………同業の妻が〝虐待〟で退職なんて…………昌幸さんも働きにくくなるんじゃない?」
確かに、昨夜の内にその話は出ていた。交わることのないままの平行線の会話だった。
「こうなったら…………もう最後だし、言っちゃってもいいよね…………」
その玲子が続ける。
「昌幸さんって……私の元彼…………アンタが鬱病で休んでた頃に…………すぐに別れたけど…………でも少し前からまた誘われるようになってさ…………アンタの愚痴とか聞かされて…………〝夜〟もあんまり無かったんでしょ? 良かったじゃん。子供できる前で」
三日後に市役所に離婚届を出した時、美津子は二八才になっていた。
☆
それは杏奈がフリーになって最初の仕事だった。
小さな雑誌社で記者として働いていたが、芸能人のゴシップネタを追いかけるだけの毎日に嫌気を感じて退職。もちろん後押しになったのは今までの仕事で作り上げた人脈が大きい。
元々杏奈が求めていたのは事件記者。あちこちのマスコミ関係に顔を売ってきたのが功を奏した。総てが計画通りというわけではなかったが、自分を売り込むためならお金もかけてきた。フリーが綺麗事だけでやっていけない世界であることも知っていた。
それは戦場カメラマンをやっていた父親の影響も大きい。杏奈も自分で分かってはいたが、父親と同じ戦場カメラマンに憧れているところもある。しかし看護師をしている母親の反対もあり、会社員としてのジャーナリストになった過去があった。
そのためか、杏奈は就職と同時に安いアパートを借り、安い給料の中でやりくりしてきた。辛い時には戦場で命を落とした父親の形見である壊れたカメラを見て自分を鼓舞してきた。
九〇年台のシリアの内戦で行方不明になった父親が残したのは愛用のカメラバッグだけ。その中にあった一眼レフのカメラは、今でも杏奈に取っては命の次に大事な物だ。そしてその時のカメラバッグは今でも杏奈の愛用の物となっている。決して二〇代の女性が持ちたがるような物ではない。いかにもな無骨で男性向けのデザイン。機能性重視で丈夫さが売りのタイプだ。あちこちに綻びや汚れも目立つ。それでも杏奈は父親と共に戦場を掻い潜って来た歴史を感じていた。
まだ幼かった杏奈にとって、父親の記憶は少ない。
しかし成長と共に学んだ歴史の中に父親の存在を感じた。
「いきなりでちょっと面倒な仕事なんだがねえ」
雑然とした広い雑誌社のオフィスで、今回の件で杏奈に声をかけた中年の男性編集長────岡崎がソファーに腰をおろしながら続ける。中年とは言っても、そろそろ六〇は過ぎた年齢のはずだ。
「宗教絡みだからな…………手を出さないって決めた雑誌もあるみたいだ」
するとすぐに振り返り、腰を浮かしかけて声を上げる。
「おい! あの病院の資料どこ行った⁉︎」
昔ながらの出版社のオフィスは未だにアナログだ。常に騒々しく誰かの声と足音。そして縦横無尽に職員が走り回る。
決して杏奈はその雰囲気が嫌いなわけではない。
岡崎は顔を戻すと、すかさず杏奈の隣のカメラバッグに目をやって口を開いた。
「まだ使ってるのか? 今までは聞かなかったけど…………親父さんのだろ?」
「……あ……ええ…………形見なんで…………」
少し遠慮がちに杏奈は応えていた。目の前の岡崎が父親と仕事で関係していたことは聞いている。
「親父さんが戦地から送ってくる写真は大したもんだったよ。あの頃はまだフィルムの時代だろ? 空港のX線でフィルムがダメにならないように専用のケースがあってな…………分厚いケースで…………それが届く度に興奮して現像に回したもんだ…………あんたが娘だって知った時は驚いたよ」
すると若い社員が紙の束を岡崎の目の前に置いた。すかさず岡崎がそれを手に取る。
「遅いぞオイ」
一見すると荒い印象の言葉のやりとり。しかしそれはよくある雑誌社のオフィスの光景。杏奈もそんな中で働いてきた。
「あまりお勧めの仕事じゃないが……どうする?」
岡崎から手渡された分厚い紙の束を手に取ると、杏奈は素早く目を通し始める。
そこに岡崎の声が被さった。
「お前さんも若いって言ったって過去の宗教絡みの事件は知ってるだろ? ウチも誰もやりたがらなくてな…………それでも世間の関心は高いときた…………」
もっともと言えばもっともだ。
宗教絡みは神経を使う。新興宗教と言っても様々だ。勢力を拡大しようとする所もあれば小規模のままの所もある。
そんな中でテロ組織と化してしまった新興宗教団代の起こした事件のせいで、宗教に対して怪しい印象を抱く人間が未だに多いのも事実。しかしほとんどの団体は堅実な活動を続けているのが現状。それでも世間一般のイメージというものは簡単に覆るものではなかった。
事件だと思って先入観で取材をしたことで訴訟に発展したことも事実としてあった。
だから仕事としては避けられる。誰も責任を取りたくない。
結果的に、いつでも切り捨てられる〝フリーの記者〟に仕事が回ってくる。
杏奈もフリーになった時点でそういうことは覚悟していた。
そして杏奈も自分を売り込みたい時。
しかも宿泊費や交通費等の諸経費は領収書を持ってきてくれてもいいという。
お互いの利害は一致していた。
「地味な取材になるし……無理にとは言わないが…………」
岡崎のその言葉に、杏奈はすぐに応えていた。
「いえ……やらせていただきます」
杏奈はそう応えて笑みを浮かべる。
☆
新興宗教団体────〝神波会〟の経営する医療法人ホスピス医院〝安寧病院〟。
患者の一人────吉原藤一郎が亡くなる。その家族が病院の実態をマスコミにリークしたことで今回の問題が発覚した。最初は小さなテレビニュースだったが、病院の母体が宗教団体であることと、そのリークの内容がセンシティブであったことで途端に世間の注目を集めることになる。
ホスピスとは終末期医療のための病院。不治の病となる難病や、余命宣告された患者がほとんどだ。回復して退院することはほとんどない。当然通常の病院よりも死亡率は高い。
しかし吉原藤一郎の家族の訴えは特殊だった。
患者が悪魔に取り憑かれているとして病院が〝悪魔祓い〟を行い、その結果、非科学的な施術で死亡したというものだ。そのベースになっているのが宗教的な要素から来ているという。
杏奈が雑誌社から取材の依頼を受けた時には、すでにマスコミの取材が加熱し始めていた。岡崎からの要望は事件の訴えの真相はもちろんのことだが、それ以上にマスコミの情報で出て来ていない新たなネタ。ゴシップ的に求めるものとしては〝悪魔祓い〟の詳細だが、その情報が飽きられる前に次の進展が欲しかった。
当然杏奈は現在のマスコミとは違う切り口でネタを切り崩していくしかない。最近の報道の中心になっているのは、その派手さからかやはり悪魔祓いの話題が中心になっていた。
今後の流れは母体である宗教団体の実像と、誰が悪魔祓いを行ったのか。そして、マスコミ報道の〝真実〟の部分と〝嘘〟の部分がどこなのか。
杏奈はマスコミ各社に先んじて団体の実態に切り込もうと考えた。
協力者はいない。
他のマスコミの報道を見る限り、まだ団体の代表まではどこも辿り着いていない。信者や病院の職員の声も聞けてはいない。出てくる情報は元信者や元職員のものばかり。その口から出てくる情報が偏っていない保証はない。
情報が偏っているならば、そこには必ず〝嘘〟がある。
何かを隠すために情報は偏っていく。
もしくは情報が偏ることで何かが隠されていく。
そして何かが見えなくなっていく。
杏奈は、最終的には団体の代表に話を聞かなければ意味がないと考えていた。しかしそれさえも真実に辿り着けるのかは分からない。
そして、それは簡単なことではないだろう。
切り口が欲しかった。
杏奈にとってはいきなりの遠征取材になる。動く時間がどうなるか分からなかったために、宿泊はシャワールーム付きのインターネットカフェ。問題の病院からそれほど遠くない所に頃合いの場所を見付けていた。
その団体の本部に当たる部分は病院の施設内にある。病院がメインとは言っても同時に宗教団体の総本山。
杏奈は一週間張り込みを続けるが、代表の姿すら見付けることが出来ないまま。張り込み場所は病院の裏手にある平面駐車場。あからさまなマスコミ関係のバンが数台。
「駐車場の領収書もいいのかなあ…………」
そして病院の従業員入り口は常に他のマスコミ関係者が張り付いていた。杏奈も元はその世界の人間。動きを見ただけで分かる。
「いいよねえ…………あの人たちは交代要員がいるから」
車の中でそんな愚痴をこぼしながら、杏奈はそのマスコミたちとは少し離れた別の出入口にカメラの望遠レンズを向けていた。
そこは宗教団体の信者が使用しているドア。同じ建物なので分かりにくいが、明らかに毎日そこから出入りしている女性が一名。病院関係者ならばそこを使用する理由はない。少なくとも杏奈はそう読んでいた。もう一人、張り込みの一週間の間に一度だけ出入りした女性もいた。
岡崎に報告すると、まだその二人の人物の情報は掴んでいなかった。事実、マスコミ各社がどこかから入手していた従業員リストには無い人物のようだ。しかも毎日のように出入りするのは一人だけ。
その日も夜の八時頃にその女性が外へ。
近くのマスコミはその出入口の存在に気が付いてさえいない。
季節は秋。
だいぶ外は暗くなっている。
エンジンを切ったままの車内では涼しく感じる頃。
杏奈は車のキーを軽く回し、バッテリーだけをONにすると、車の窓を閉めた。
すぐにバッテリーをOFFにしてキーを抜くと、そのまま車を降り、少し離れて女性を尾け始める。
まだ息が白くなるほどの寒さはない。擦り切れてだいぶ色落ちした黒いデニムに履き疲れたスニーカー。上には古着屋で買ったダークブラウンの革ジャン。和柄がワンポイントのキャスケットを被り、その後ろからは肩までのショートカットを無理に一つに結んでいた。革ジャンのポケットの中にはスマートフォンだけ。こういう時にいつも杏奈は〝いい時代になった〟と感じる。ターゲットを尾行するとしても大きなカメラを片手にする必要がない。しかも音声の録音も出来る。
まだだいぶ目の前を行く女性は、決して若い女性には見えない。服装的には大人の匂いのする暗い色のワンピース。落ち着いた緑に見えた。いつもの小さなショルダーのハンドバッグを肩からかけてはいるが、それも子供っぽくはない。
しばらく歩いたところで女性はコンビニに立ち寄る。その後、小さなレジ袋を手に、人通りの少ない細い道を何度も曲がりながら向かったのはマンションの入り口。
──……警戒してる?
杏奈がマンションだと思ったのは古い市営住宅だった。
──部屋に入られたら押しかけにくいな…………
杏奈は足早に女性の前に身を乗り出していた。
階段を上がろうとしていた女性は驚いて足を止める。
杏奈は女性の目の前に名刺を見せて口を開く。
「ごめんなさい…………言えることだけで結構です」
「…………すいません────」
女性は顔を伏せて階段を登ろうとするが、その手に杏奈が紙のような物を押し当てると、再び驚いて動きを止めた。
「……あなたのことを知ってるのは私だけです…………他には漏らしません…………あなたのことももちろん匿名で…………」
杏奈のその言葉に女性が軽く手を開くと、そこには折り畳まれた一万円札が数枚。
杏奈はあえて女性の顔を見ていない。
周囲に人影がないかを気にしていた。
そして小さく口を開く。
「……ご近所の誰かに見つかる前に…………行きましょ…………」
二人はしばらく歩き、人通りのある通りで小さな喫茶店に入った。
杏奈がよく使っていた店だ。こういう時のために都合のいい店をいくつか押さえている。それほど混んではいないが、常に客がいる店。こっそりと人から話を聞くなら、ある程度の人混みに紛れるほうが不思議と隠れやすい。もちろん席は選ぶが、小声で話す分には声は店のBGMに掻き消える。
「あなたの存在に気が付いたのは私だけみたいです…………他の連中は従業員用の出入口しか張ってませんよ…………だから安心してください」
杏奈はコーヒーが運ばれてきた後に、そう言って女性に笑顔を向けた。
俯いたままの女性は、杏奈の見た印象ではおそらく三〇代半ば。整った顔立ちの地味な印象だったが、何より、やつれて見えた。
杏奈が続ける。
「……疲れたお顔ですよ…………眠れてますか?」
──……私はわざと心配したようなことを言ってる…………
──………………嫌な仕事だ………………
「ちゃんとご飯は────」
「────食べてます…………お聞きになりたいこととはなんですか⁉︎」
女性の、少し強い口調が返ってきた。
杏奈はいつものように、ポケットの中のスマートフォンのスイッチを入れる。そこから小さなピンマイクのコードが革ジャンのポケットへ。それで声を拾える。
「……すいません…………まあ…………最近話題のあそこのことなんですけどね…………」
すると、俯いたままの女性の声が震え始める。
「…………私たちが…………何をしたんですか…………田原さんは何も悪いことなんかしていません…………」
──……田原…………?
──…………代表の田原達夫のことか…………
「でも……実際に告訴の動きがあります。その前に〝御家族〟の側がマスコミにリークしたことで騒ぎになってるようですが…………」
「…………私たちは…………何も…………」
しだいに小さくなる女性の声に、杏奈は更に切り込む。
「核心の部分を聞かせてください…………噂になってる〝悪魔祓い〟は本当に────」
「────ありません…………団体はホスピスを作るために田原さんが立ち上げたものです…………私たちは神道をベースにしています…………患者さんたちの入院費だって最低限しか頂いていません…………儲けを第一に考えるような所とは違うんです。運営だって周りからの援助でやっとなんですよ…………それなのにどうして…………」
「あなたは────」
「────経理をしています…………だから分かるんです…………悪魔祓いなんて……どこにメリットがあるのか教えてください。田原さんだって贅沢をするような人じゃないんです…………アパートだって安い所ですし…………」
杏奈の中に疑問がいくつか生まれていた。
〝教祖〟ではなく〝田原さん〟。
〝神道〟。
〝周りからの援助〟。
確かに悪魔祓いのメリットとして考えると不思議だった。教団の教義のためという可能性は考えられたが、だったらホスピスである理由が分からない。悪魔祓いを行うなら宗教団体だけで充分なはず。
新興宗教団体────正確には宗教法人。杏奈は決してその世界に詳しいわけではない。なんとなくイメージでキリスト教や仏教のような一神教をベースにしているものとだけ思っていた。
──……何か…………変だ……………………
「田原さんって…………代表の方ですよね…………会わせてもらえませんか?」
杏奈は思わずそう言っていた。
代表に話を聞きたい────純粋な気持ちだった。
しかし女性の応えは、
「……すいません…………私もしばらく会えていません…………自宅のアパートにもマスコミの人たちがいて……外に出られないんです…………」
「では、あなたと同じドアから出入りした女性がもう一人いたと思うんですが────」
「あの方は…………法人の相談役の女性です…………神社の方で…………色々と最初から援助して頂いてて…………私の一存では…………」
結局、杏奈は次のアポイントも取れないまま、この日の取材を終えた。
そして疑問が膨れ上がる。
杏奈の中で何かが変化していた。
☆
杏奈の次のターゲットはもう一人の女性。
というより、足掛かりは他になかった。
以前に一度遠くから見かけただけ。
昨夜の女性は詳細を教えてはくれなかった。
もはや張り込みを続けるしかない。直接団体に電話をするも、当然のように取材は断られた。他のマスコミ各社と同じことをしたところで意味がないことは分かっていた。少し自分の中に焦りがあることを感じながら、苛立ちが募る。
フリーになって最初の仕事。雑誌社からの依頼とはいっても所詮はフリー。どこからもバックアップは無い。フリーになって最初としては大き過ぎる仕事だった。
行き詰まった感覚が杏奈を包んでいく。
お昼を過ぎた頃、少し前に寄ったコンビニで買った温かったコーヒーもだいぶ冷めてきた。
そんな時、大きく溜息を吐いた杏奈の横、運転席のガラスをノックする音。
同業者かと顔を上げると、そこには見知らぬ長い黒髪の女性。
杏奈は反射的に窓を開ける。
「あなたね。話は聞きました…………」
あちこちにレースの施された黒い服のその女性は、凛とした立ち振る舞いのまま続けた。
「教団のことでしたら…………私が真実をお話しします」
それは、ツバの広い帽子を深く被った〝咲〟の姿。
──…………あの人だ……………………
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十二部「幻の舟」第2話へつづく ~
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