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第四部「回帰」第1話
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涼しくなる時間。
傾いた陽の光が本殿に直接差し込む。
周囲を包み始めた影が強い。
風は弱いが、それでも急激に下がった空気を祭壇前へと運んでいた。
御陵院神社に呼ばれたのは楢見崎由紀恵だったが、訪れていたのは娘の沙智子。
「娘の西沙の所に依頼をされたのは……貴女様と伺っておりますが…………」
本祭壇に背を向け、そう切り出したのは咲だった。その横で巫女姿の綾芽と涼沙がそれぞれ正座をしている光景が少なからず威圧感を醸し出すのか、沙智子の表情はずっと固く、わずかに下を向いたまま。三人との距離もある。薄暗いせいもあってかその表情も汲み取りにくい。
もちろん咲もその緊張感を感じていないわけではない。同時に決して責め立てようとするつもりはなかったが、咲の中で西沙の存在が燻っているためか、その口調にはどこか気持ちの乱れもあったのだろう。
「事は単純ではありませんが、しかしながら、やはり楢見崎様にも〝真実〟を知っておいて頂く必要はあるでしょう。本日お越し頂いたのはそのためです」
咲の続けたその言葉に、沙智子もやっと口を開き始める。
「……いかにも…………西沙様に依頼をさせて頂いたのは私です」
「改めて……その訳をお聞きしても?」
やはり咲は自分の声色に焦りを滲ませていた。
気持ちがザワつく。
──……まただ…………また、私は西沙を恐れている…………
その気持ちの不安定さが、つい咲に言葉を急がせていた。
「確かに楢見崎家の方々の預かり知らぬところで、我々御陵院家は皆様を守り続けて参りました…………それは今に始まったことではありません…………数百年の長い年月────」
「────ええ…………」
意外にも、沙智子の小さな声が咲の言葉を遮る。
「存じておりました」
その言葉に、咲の横の綾芽と涼沙が顔を上げていた。
──……馬鹿な…………
反射的にそんな言葉が咲の頭に浮かぶ。
誰も知っているはずがない。知っているのは御陵院家を継承する人間だけ。
──…………しかし…………なぜだ…………
突然、咲の中で疑問が湧いた。
──……どうして楢見崎家は知らない?
沙智子の言葉が続く。
「母は知りませんでした。私が〝御簾世様〟から…………夢で────」
「夢? どうしてその名を…………」
思わず遮っていた咲の顳顬を、汗が一筋流れ落ちた。
そしてやっと咲は気が付く。
──…………赤い目…………
沙智子の〝赤い目〟が怪しくその瞼の下に浮かんでいた。
そして思い出す。
御陵院家で言い伝えられてきた歴史。その大きな起点となった事柄の中心人物。
──…………御簾世は…………赤い目だった…………
──……この〝圧力〟は…………
咲と沙智子の間を、生ぬるい空気がゆっくりと流れていく。
「御簾世様が……西沙様を頼れと…………西沙様でなければ…………〝呪い〟は終わらせられないと…………」
その沙智子の言葉から、静寂が生まれた。
祭壇の松明が音を立てて小さく崩れる。火の粉が天井に舞い上がると影に包まれそうな本殿を明るく照らした。
その中で、沙智子の赤い目が光る。
綾芽と涼沙からは、それは妖艶さを宿しているようにしか見えなかった。
二人にとって、西沙は一番下の妹でありながら、同時に〝恐れる〟べき存在。お互いに、認めながらも認めたくなどない現実。例え神社から追い出したとしても、西沙が神社を継承することがないとしても、今現在で一番の脅威であることには変わらない。
だからこそ、御陵院家ではなく〝西沙でなければ〟というのは納得するわけにはいかなかった。二人にとって到底許すことの出来る言葉ではない。
涼沙が隣で唇を噛み締めているのを、綾芽は感じていた。
──……ここに……なぜ西沙はいない…………?
しばしの間を空けて言葉を繋いだのは、再び沙智子。
「〝呪い〟の根源は知りません……誰の呪いなのか……何の呪いなのか…………どうして楢見崎家がこんな〝業〟を背負わされているのか…………私にはどうでもいい…………息子を守りたいだけです…………皆様は我々を守ってきたと仰いますが…………この神社が守ってきたのは楢見崎ですか? それとも〝呪い〟ですか⁉︎」
咲でさえ、何も応えられなかった。もはや、この状況を整理することすら難しく感じる自分に苛立つだけ。
しかし、沙智子の言葉は続く。
「……だとしたら……私はこの神社を恨みます…………」
そして、再びの静寂が空気に広がる。
それは誰にも止められるものではない。
その数時間前。
楢見崎家にいたのは、西沙だった。
☆
綾芽が楢見崎家を訪れた翌日。
由紀恵は沙智子に頼んで西沙に連絡を取っていた。
来客用の座敷には西沙と由紀恵だけ。意外にも西沙はしばらく待たされた。来てすぐに出されたお茶がほとんど無くなるほど。
由紀恵の中にも、呼び出しておきながら気持ちが安定していないような乱れがあった。もはや誰を信じたらいいのかも分からない。昨日突然やってきた巫女から聞かされた話は、ただ混乱を増しただけ。
実際に西沙の前に腰を降ろしてからも落ち着かない。どう話を切り出せばいいのかも定まっていなかった。
しかし西沙の中では少しずつバラバラだったものが繋がり始めていた。ここへ来た時から感じる綾芽の〝痕跡〟。それがさらに西沙の中の確信を強めていく。
「私の姉は〝楢見崎家を守ってきた〟と言ってたんですよね」
綾芽が現場に残していた感情を読み取りながらの西沙の言葉はもはや自信に満ちていた。
「私の知る限り、それは嘘ではないようです」
西沙はそう続けながら、不安に包まれながら畳に落ちる由紀恵の目を見続ける。
事実として、咲がそのためにホスピスに関わっていたことに確信を持っていた。御陵院家自らが〝守ってきた〟と言っている以上、咲があの事件の中の楢見崎家の〝血〟の存在に気が付いていなかったわけがない。
しかし、守りきれなかった。
西沙は小さく震える由紀恵の唇に気が付きながらも、敢えて言葉を続ける。
しかも、その言葉は柔らかい。
「……由紀恵さん……霊能力者なんて言うと怪しい職業だと思われるかもしれませんけど、私は小さい頃から勘だけは鋭い子供でした。普通の人が思うような幽霊が見えるとかそういうことじゃなくて、他人の感情が分かってしまうんです。今、何を考えているか……手に取るように……それと同時に、その人の過去も…………」
由紀恵が目を見開いた。
瞼と共に瞳孔が震えているのでさえ西沙には感じられた。
続く西沙の言葉は、由紀恵の感情も揺らしていく。
「おかしな体質でしょ。普通の人生なんか歩けなかった…………だから……この間お邪魔した時に……分かりましたよ…………例え過ぎたことでも、過去は消えない……変えられるものじゃない…………この家の女性は……長女を出産した時に総てを先代から〝継承〟するはずです。自分のしたことと、これから自分がしなければいけないこと…………」
由紀恵の肩が震え始めていた。
──……美由紀のお陰で……やっと辿り着けたよ…………
そう思う西沙の中で、それでも決して気持ちのよくない〝真実〟が纏まる。
微かに漏れかける声にならない由紀恵の声を、西沙は容赦無く遮った。
「……由紀恵さんも無意識の内に…………まるで何かに取り憑かれたように…………自分の息子さんを、殺した」
──…………やめて…………
「そしてその遺体は先代が処理する。広い敷地ですものね。大きな焼却炉と専用の埋葬場所があるはず。やがては沙智子さんの息子さんも、何かに取り憑かれたような沙智子さん自身が無意識に殺して、それを由紀恵さんが────」
「────やめてっ‼︎」
由紀恵の甲高い声が、座敷に流れる空気を切り裂いた。
記憶に無い殺人。長女を産んだ直後にそれを聞かされた過去。ずっと信じたくなかった過去。自分には自覚など無いまま。それでも、自分の娘が殺人を犯すところを見ることで、それを母として実感せざるを得なくなると教えられた。
そして、その孫を自らが〝処理〟することになる。やがてやってくるその現実。それもまた変えられるものではないと聞かされた。
気持ちのどこかで〝嘘だ〟と思っていた楢見崎家の〝秘め事〟を赤の他人から改めて突きつけられ、由紀恵の感情は完全に理性を失う。
それでも西沙は動じない。
──……美由紀には……こんな気持ちを味合わせたくない…………
そして、言葉を紡いだ。
「長男は最初から出生届けを出していない……だから死亡届けも出す必要がない……名前も先代が決める仕来たりだから、いつも同じ……愛着を感じないように……せいぜいが時代とともに何度か変えてきた程度。戸籍上は存在しない子供だから……死んでも警察から疑われることはない。その役目も母親ではなく先代の母……由紀恵さんも出生届けを提出してきたことにしただけですよね。幸いにも楢見崎家の女性は過剰に守られてきた。お陰で学生の頃の友達なんか一人もいない。社会を知らない内に結婚。長男がいたことすら知っているのは婿養子の実家だけ。でも一年もせずに亡くなれば愛着も少ない。後は形だけの葬儀をすれば誤魔化せる。お寺にお金を払って、理由は何とでも作れるはず……流産した子供のものとでも言えばいい。しかも婿養子の実家は離れた土地の地主レベルの家柄だけ。三男以降の外孫になんか興味の薄そうな家ばかり…………だから婿養子に長男や次男は避けられてきた」
由紀恵が畳に両手を付く。その振動が西沙の座布団にまで伝わる。
丸まった背中を大きく震わせ、由紀恵は微かに溢れる小さな声を押し殺した。
紡がれる西沙の声を待つだけ。
「そしてもう一つ…………それは、三人目以降の子供が産まれた場合…………」
由紀恵がわずかに頭を上げかけ、西沙の言葉が続く。
「すぐに養子に出されてきた…………そうしなければもっと恐ろしい〝呪い〟が降り掛かると継承されてきたはず…………その人たちを守ってきたのが御陵院家です。これは私も知りませんでした。そして何の因果か……私は去年…………その数名と関わりを持ちました。他にもいるのかもしれませんけど…………そしてまだ分からないこと……由紀恵さんの頭の中を覗いても見えないのは、なぜ御陵院家が楢見崎家の〝血〟を守ってきたのか────そもそもの〝呪い〟の根源は何か…………」
由紀恵が、頭を少しだけ上げた。
西沙の言葉を待つ。
「……御陵院神社に……何か秘密があるはずです」
そして、やっと、由紀恵が小さく言葉を漏らした。
視線はまだ畳へ落ちたまま。
「…………どうすれば…………」
西沙はすぐに返していた。
「私も御陵院の人間です……追い出されていなければ、昨日の姉のように継承していたことでしょうね。そして、私もいつの間にか関わっていたわけです。しかし私はその〝枷〟から外された。それなのになぜかここにいる。そこに意味がないと考えるほうが不自然です。しかも、沙智子さんのほうから私の所にやってきた…………夢に現れた巫女の言葉に従ってね。その巫女が誰なのか、昨日やっと分かりましたよ…………私だけじゃ分からなかった…………」
由紀恵が腫れた瞼を持ち上げるように顔を上げ、その目を西沙に向ける。
震える唇が動いた。
「……本当に…………呪いを…………」
幼い頃から続いていた、張り詰めた緊張感の中での人生。それが楢見崎家の人間の人生だった。そして長女を産んだ直後に聞かされる〝仕来たり〟。その鎖のようなものに縛り付けられ、どこにも逃げ道がなくなる。
目の前に座る小さな霊能力者が、唯一の希望。
「…………終わらせられるのですか…………」
「私から質問させて由紀恵さん…………私は強制はしない。いつでも決めるのは本人…………沙智子さんに秘密にしたまま〝呪い〟を〝継承〟するか…………総てを話して〝呪い〟を終わらせるか…………私なら……沙智子さんの記憶を消すことも出来る…………」
そしてその西沙に対して、由紀恵はその力強い〝目〟で応えているかのようだった。
間違いなく、覚悟を持った〝目〟。
それから数十分。
沙智子が座敷に呼ばれる。
そしてその数時間後、沙智子は御陵院神社に出向いていた。
☆
「我々御陵院家は……楢見崎家の〝血〟を守って参りました…………」
咲が沙智子に言葉を返し始めた。
「それは沙智子様でも預かり知らぬ〝血〟です。長女の後に……産まれた子供たちの存在をご存知ですか?」
その咲の言葉に、沙智子は震える唇を噛み締める。
数時間前に母の由紀恵から聞かされた真実。
それを改めて確認することがこれほど辛いとは自分でも思ってはいなかった。しかし沙智子は自ら御陵院神社にやってきた。それは西沙の希望でもあったが、沙智子は自分が御簾世に選ばれた身であることを自覚したからこそ、だからこそ自分で選択した。
──…………これ以上、母を苦しめるわけにはいかない…………
──……私が終わらせる…………
──……………………絶対に…………
何かに遮られているのか、その沙智子の気持ちを読めないまま、咲が言葉を繋ぐ。
「皆……養子に出されています…………そうしなければもっと恐ろしい〝呪い〟が降り掛かると言われてきました…………だから我々は────」
突然の、音。
その音に、咲の言葉は遮られた。
祭壇横の板戸が開け放たれた音。
綾芽も、涼沙も、咲でさえ予想することすら出来てはいなかった。
三人がゆっくりと首を回した視線の先。
そこには、いるはずのない、西沙の姿。
「見せてもらったよ。〝裏〟で」
その西沙の言葉に、涼沙が立ち上がって叫んでいた。
「西沙! 勝手に────!」
「気が付かない姉さんが甘いんでしょ? 私の〝幻惑〟にまた騙されて。沙智子さんと一緒に来てたけど、存在を消すなんて簡単なこと」
西沙の強い〝目〟が涼沙の怯える〝目〟を捉える。
その目に対する〝畏れ〟は、涼沙だけではなく綾芽も、もちろん咲も知っていること。
涼沙も、怖かった。咲とは違い、自分と綾芽は操られる立場。何度も経験し、西沙と目を合わせることを避けてきた。幼い頃から。改めて西沙と目を合わせることの意味を感じる。
──……〝物の怪〟…………
背中に冷たいものが走った。
その涼沙が目線を外したことを確認するかのように、口を開いたのは咲だった。
「……西沙…………」
咲は小さく息を吐き、正面に顔を戻して続ける。
「いつからいたのかは問いません。何を見ました? 準祭壇で…………」
「準祭壇?」
西沙の口元に、小さく笑みが浮かぶ。
横目でそれを見ていたのは綾芽。
──……辿り着いたのか…………
西沙が〝真実〟に行き着いたことを感じた。
それは、咲でも知らないこと。もちろん綾芽も涼沙も知らない。
誰も辿り着けなかった。
〝呪い〟の〝真実〟。
御陵院家も理由を知らずに仕来たりに従ってきた。
なぜ楢見崎の血を守らなければならないのか。
歴史の中に隠されてきたものが何か。
そして、どうして〝呪い〟が続いているのか。
「あれは〝準祭壇〟なんかじゃない」
その西沙の声が一段と強くなった。
「あれこそ、御陵院神社の〝本祭壇〟だ」
綾芽の細い目が開く。
涼沙は動けないまま。
咲は冷静を保とうとしてか、沙智子の〝赤い目〟を見続ける。
その空気の中で西沙だけが言葉を繋いだ。
「密儀のための祭壇? その側面の裏の意味は……お母さんでも知らないはず…………ここを建て替えた時から準祭壇の〝松明の火〟は絶やしてはならないと言われてきた。それは御陵院神社の真の祭壇である準祭壇が楢見崎家に掛けられた〝呪い〟を押さえつけているから。材料を掻き集めてやっと見えた…………準祭壇と言われながらも本祭壇よりも大事に扱われてきた場所の本当の姿…………御陵院神社を清国会に参加させた伝説の人…………長女の麻紀世と、それに対立して追い出された三女の御簾世。その御簾世が嫁に入ったのが楢見崎家。そのくらいはお母さんでも知ってるんでしょ?」
「総て、見えたと?」
意外にも咲の返答は早い。
「見えたよ」
西沙は臆さずに応えると、板間に歩を進め、沙智子の隣へ。
あぐらをかいて腰を降ろすが、その膝はゴスロリのスカートですぐに隠れた。いつもなら涼沙がその態度を咎めるところだが、もはや誰も何も言えないまま、次の西沙の言葉を待った。
外は薄闇を越え、もはや漆黒。
厚い雲に遮られてか月明かりもない。
本殿の中を照らすのは祭壇の松明の揺れる灯火だけ。
時折、火の粉が風に舞う。小さな光の粒が塊となって照らし出したのは西沙の表情だけ。
「つまり、両家は親戚同士。そして、麻紀世と御簾世の間に挟まれてた次女が母親を殺して自害したことは? 清国会に入りたい麻紀世とそれに反対した御簾世の間で相当なドロドロした鬩ぎ合いがあったみたいだよ…………そしてそのきっかけとなった〝清国会〟を御簾世は恨んだ。自分を追い出してまで御陵院神社を継承した麻紀世を恨んだ。やがて二人は……〝呪い〟を掛け合った…………お互いの血筋を絶やすため…………」
「〝風鈴の館〟とは…………」
咲自身、無意識の内に口を開いていた。
咲も真実を知りたかった。
それに、まるで待っていたかのように西沙が返していく。
「そうだよね……とりあえず楢見崎家と一緒に守るべき対象だったんでしょ? 誰も住まなくなった大きな屋敷の管理をしてまで……仕来たりは文献みたいな形で残されてるわけじゃない。伝聞だけ。そして理由までは伝えられていない。あそこの大量の風鈴…………同じ物が楢見崎家に何個も下がってた…………」
沙智子が首を振って西沙の横顔を見るが、西沙は構わずに続けた。
「魔除けのためって昔から言われてたみたいだけど、どうやらそれは嘘じゃないね。風鈴に付いてる丸いマーク…………あれはここの準祭壇の燭台に付いてるマークと同じ。あまりにさりげなくて私もどこで見たものかすぐには思い出せなかったよ。おそらくは魔除けの〝念〟みたいなものを込めたものなんだろうね。そんな風鈴が、あの屋敷には無数に下げられてる…………よほど……怖かったのか…………あの屋敷が〝風鈴の館〟になる顛末を聞いてもらう前に、もう一つ大事なことがある」
西沙は咲の顔が少しだけ上がるのを確認し、さらに繋ぐ。
「それまで誰も存在を見付けられなかったあの屋敷が、現在は世間の目に晒されてる。もちろん簡単に見付けられなくなってるのはここの準祭壇の力。でも誰かが変化を作り出した。そして屋敷が最初に見付かったのがおよそ一年前。沙智子さんの〝目〟の色が変わった頃と同じ…………そして、それは御簾世と同じ赤と茶色のオッドアイ…………その御簾世が沙智子さんを経由して私に助けを求めた…………恐ろしい話だよ…………今まで見えなかったものが、ここの準祭壇の前に座っただけで総て見えた…………そして、見せてくれたのは…………麻紀世…………」
「過去が……関与したとでも…………?」
咲の言葉はあくまで確認作業のようなものだった。咲の能力的に、過去と繋がることの出来る西沙の感覚は理解出来る。西沙が過去の人間や〝時〟と接触したからとて驚くには値しない。
しかし事の|問題は、西沙が何を求めているか。それを咲は引き出したかった。
「もしも過去を変えることが出来るとしたら…………」
そう言った西沙の言葉が続く。
「…………お母さんは……変える?」
「西沙……その考えは…………」
「あくまで一般論だよ。もしも……もしも変えることが出来たら…………〝今〟はどうなっちゃうのかな…………」
西沙の中に、自らの人生が渦巻いた。
──……御陵院の歴史を変えたら…………私の人生は…………
どうしたいのか、どうなって欲しいのか、それを口にすることは西沙自身怖かった。
ただ、今とは間違いなく違うものになる。
そして、まるで呟くような西沙の言葉が続く。
「……それを……実現出来る人がいる…………」
☆
亥蘇世を感じる。
最近になって、やけに亥蘇世の存在を感じることが増えた。
麻紀世は布団に横になる度にそう感じていた。
全身に広がる火傷を起点としてなのか、それから体調を崩し、横になることが増えた麻紀世とて、その感覚まではまだ衰えてはいない。しかしながら、麻紀世もすでに六十近く。養子の憂紀世に当主の座を譲って十年程が経っていた。その憂紀世も婿養子を迎え入れて、今ではすでにその子供達も長男が一人。長女と次女。神社そのものは継承していく事が出来ている。
しかし、もちろん真の御陵院の血筋は御簾世に断ち切られたまま。
今もそれは楢見崎家にある。
──……おかしなものだな…………
楢見崎家の血筋を断ち切るということは、今や御陵院家の血を断つということ。
しかもそれは御簾世に阻まれたまま。
麻紀世の作り出した〝呪い〟という〝想い〟は完成されることのないままだった。
年齢を重ね、当主の座を譲り、自らの人生を振り返った時に、やはり浮かぶのは亥蘇世の面影。
──……やはり…………私は亥蘇世を利用したのか…………
まだ陽は高い時。
とはいえ、強い筈の日差しは厚い雲に遮られている。
しかも黒い雲。
それでも雨の匂いはまだ感じられなかった。
その為もあり、板戸も障子も開け放たれたまま。季節柄ということもあって、涼しくなり始めた緩やかな風が広い畳の座敷を流れていく。
この日は、まだ体調もいい方だった。
胸もそれほど苦しくはない。
いつ終わるともしれない命への恐怖は、とうに過ぎた。
今は、総てを受け入れる覚悟が出来ている。
しかし、何かが胸の奥に居座る。決してはっきりとは姿を見せない何かが、手の届きそうな所でこちらを覗き見ている感覚。
その存在に、時折麻紀世は気持ちを乱されていた。
その度に、亥蘇世を感じる。
あの頃のように、すぐ側に感じる。
──……どうして……今になって…………
そして、いつも感情が昂った。
〝 ……終わらせましょう………… 〟
そんな声が麻紀世の頭に浮かぶ。
それは亥蘇世の声に間違いはない。
そして、確かにその声は聞こえていた。
〝 ……二人なら……終わらせられるはず………… 〟
──……今更…………
〝 ……御陵院の血は……楢見崎に………… 〟
──…………どうしろと…………
亥蘇世に触れたかった。
亥蘇世の吐息を感じたかった。
──……どうして…………私は亥蘇世を死なせた…………
〝 ……私は…………恨んではおりませぬ………… 〟
「────嘘だっ‼︎」
その感情の起伏は、麻紀世の本来の力を鈍らせる。
事実、鳥居に向かって階段を登る人影の存在に気が付かなかった。
しばらくこの辺りでは雨が降っていない事が伺えた。
鳥居への石の階段までの地面は、すでに乾き切っている。大きくひび割れ、雑草すらも死に絶える事を受け入れた土の道。
その為か、その先にある石の階段すらも水を欲しているように感じられた。
横に広い乾いた石のその階段に、御簾世は低い下駄の音を響かせていく。一段毎に、体が痺れるような、そんな不思議な感覚が気持ちの中心を通り抜ける。
もう何十年も登っていなかった石段。目の前の鳥居も以前と変わらずその佇まいを見せるだけ。
ただ、この場所で見続けてきた。これまでの御陵院の歴史の傍観者でしかない。
この鳥居を潜り、この神社を逃げ出した夜の事を、御簾世は今でも肌に感じる事が出来た。この鳥居は覚えているだろうか、と、ふとそんなおかしな事を考える。
同時に頭に浮かんだのは、母ではなく亥蘇世の面影。
──……母上の事は……もう顔も忘れかけているというのに…………
そして、今の自分があの時の母の年齢に近い事を感じた。
どうするべきか、総ての気持ちが固まった状態で来たわけではない。それでも御簾世は麻紀世に会うべきだと感じていた。
そして、鳥居の真下。
特別何かを感じるわけではない。
麻紀世からの妨害も無い。
ふと真上を見えげ、すぐに視線を正面へと降ろした。
足元から続く石畳の参道。
その先には本殿が控える。
新しく建て替えられた建物は、あの頃よりも大きい。
本殿までの参道も長くなった。
その参道の途中に、人影。
巫女の姿。
強い風が通っていく。乾いた土煙が周囲に舞った。まるでどこかに隠れていたかのような空気の流れ。周囲の木々の騒めきが辺りを包み込む。
その為か、御簾世の気持ちも震えた。
──……なぜに…………こうなった…………
後悔が無駄な事の代名詞であることは御簾世も知っている。振り返っても過去は変わらない。同時に、その後悔が無ければ未来が無い事も知っていた。
だからこそ、御簾世はそこにいる。
遥か先の正面に立つ巫女は微動だにしなかった。風に巫女服を揺らすだけ。
だいぶ距離があるというのに、それでも御簾世にはその表情と感情が見える。
怯え、恐れと畏敬が入り混じる。
──……御陵院の血では無い…………
御簾世がゆっくりと歩を進めた。
石畳の上で下駄が甲高い音を立て始め、それが風の音を切り裂いていく。
──……操るまでもない…………
御簾世がそう感じた時、巫女が軽く左手を上げた。
「そこにて、しばらく」
御簾世はその静止に従い、足を止め、前方の巫女に赤い目を向けるだけ。
その巫女の言葉が続いた。
「楢見崎家の御血筋の方と御見受け致します」
すると御簾世は軽く視線を落とし、やがて参道の石畳から巫女へ顔を戻し、小さく応える。
「いかにも……そして…………御陵院家の血筋の継承者でもあります」
「御簾世様ですね」
意外にも巫女の返しは早い。
しかもすぐに続いた。
「母から伝え聞いておりました…………」
その言葉にも、御簾世は顔色を変えない。
母というのが麻紀世の事であろう事はすぐに感じた。
強い風が二人の間を渡っていく。足元に燻る土埃が落ち着く気配も無い。まるで霧が立ち込めるような参道から、巫女の足元は隠れたまま。足先の動きから次の体の動きを読むことも出来なかった。
簡単に入り込めるような隙はない。
──……姉様……よくぞここまで育てた…………
例え御陵院の血が入っていなくとも、その立ち振る舞いは決して弱くなかった。
その巫女────憂紀世が体を軽く回し、横を見せ、そして本殿に顔を向けて口を開く。
「こちらへ」
そして歩き始めた。
距離を同じくしたまま、御簾世はその背中に続いた。とても隙があるようには思えない。
言わずとも通じるものがあった。同じ世界の住人だからか、それとも因縁の間柄ということか。お互いに〝恐れ〟はある。しかしその中には、少なからず〝畏れ〟もある。決して穏やかであるはずがない。
そんな相手に背中を向ける事の意味は憂紀世でも分かること。しかしそれだけの相手を他に知らなかった。自分が養子である事は義理とはいえ母の麻紀世から聞いていた。自分に御陵院の血は一滴も無い。逆にその事実が自分の気持ちをこれまで押し上げてきた。そして現在の御陵院神社の当主まで登り詰めた。しかし跡取りに御陵院の血を継承させる事は出来ない。その現実も理解したまま。
自分が求めているものが何か。何か自分でも理解のし難い感情がある。
どこか、この流れを待っていた自分がいたのかもしれない。
そう思いながら、憂紀世が本殿の階段を登った。足袋を擦らせながら、広い本殿の中央。一つだけ置かれた厚い座布団に御簾世を促す。
「少々、御待ち頂きます……」
憂紀世はそれだけ言うと、祭壇横の廊下に姿を消した。
広大な本殿に相応しい巨大な本祭壇が、今、御簾世の目の前。中央、そして左右の燭台には未だ微かに燻る松明。埋み火の赤い光が微かに見えた。その日も行われたであろう朝の神事が昔と同じかどうかは、もちろん御簾世は知らない。
それでも本祭壇の横の小さな板戸は建て替えられたとはいえ昔と同じ。
裏には、間違いなく〝準祭壇〟がある。
その光景が見えた。
本祭壇とは違い、閉鎖的な空間に鎮座する祭壇。
昔から簡単に踏み入っていい場所ではなかった。そこに惑うものの恐ろしさは御陵院の人間であれば誰しもが知る事。
特別な〝密儀〟にのみ使われてきた場所。御陵院家の人間以外は決して入ることは許されない場所。
そして、御簾世は気持ちを決めてここにいる。
それは覚悟と共にあった。
少なからずの不安と共に、自らの〝間違った望み〟────〝間違って望んだ未来〟を終わらせに来た。
亥蘇世に突き動かされるままに。
『 聖者の漆黒 』
第四部「回帰」第1話・終
第2話へつづく
傾いた陽の光が本殿に直接差し込む。
周囲を包み始めた影が強い。
風は弱いが、それでも急激に下がった空気を祭壇前へと運んでいた。
御陵院神社に呼ばれたのは楢見崎由紀恵だったが、訪れていたのは娘の沙智子。
「娘の西沙の所に依頼をされたのは……貴女様と伺っておりますが…………」
本祭壇に背を向け、そう切り出したのは咲だった。その横で巫女姿の綾芽と涼沙がそれぞれ正座をしている光景が少なからず威圧感を醸し出すのか、沙智子の表情はずっと固く、わずかに下を向いたまま。三人との距離もある。薄暗いせいもあってかその表情も汲み取りにくい。
もちろん咲もその緊張感を感じていないわけではない。同時に決して責め立てようとするつもりはなかったが、咲の中で西沙の存在が燻っているためか、その口調にはどこか気持ちの乱れもあったのだろう。
「事は単純ではありませんが、しかしながら、やはり楢見崎様にも〝真実〟を知っておいて頂く必要はあるでしょう。本日お越し頂いたのはそのためです」
咲の続けたその言葉に、沙智子もやっと口を開き始める。
「……いかにも…………西沙様に依頼をさせて頂いたのは私です」
「改めて……その訳をお聞きしても?」
やはり咲は自分の声色に焦りを滲ませていた。
気持ちがザワつく。
──……まただ…………また、私は西沙を恐れている…………
その気持ちの不安定さが、つい咲に言葉を急がせていた。
「確かに楢見崎家の方々の預かり知らぬところで、我々御陵院家は皆様を守り続けて参りました…………それは今に始まったことではありません…………数百年の長い年月────」
「────ええ…………」
意外にも、沙智子の小さな声が咲の言葉を遮る。
「存じておりました」
その言葉に、咲の横の綾芽と涼沙が顔を上げていた。
──……馬鹿な…………
反射的にそんな言葉が咲の頭に浮かぶ。
誰も知っているはずがない。知っているのは御陵院家を継承する人間だけ。
──…………しかし…………なぜだ…………
突然、咲の中で疑問が湧いた。
──……どうして楢見崎家は知らない?
沙智子の言葉が続く。
「母は知りませんでした。私が〝御簾世様〟から…………夢で────」
「夢? どうしてその名を…………」
思わず遮っていた咲の顳顬を、汗が一筋流れ落ちた。
そしてやっと咲は気が付く。
──…………赤い目…………
沙智子の〝赤い目〟が怪しくその瞼の下に浮かんでいた。
そして思い出す。
御陵院家で言い伝えられてきた歴史。その大きな起点となった事柄の中心人物。
──…………御簾世は…………赤い目だった…………
──……この〝圧力〟は…………
咲と沙智子の間を、生ぬるい空気がゆっくりと流れていく。
「御簾世様が……西沙様を頼れと…………西沙様でなければ…………〝呪い〟は終わらせられないと…………」
その沙智子の言葉から、静寂が生まれた。
祭壇の松明が音を立てて小さく崩れる。火の粉が天井に舞い上がると影に包まれそうな本殿を明るく照らした。
その中で、沙智子の赤い目が光る。
綾芽と涼沙からは、それは妖艶さを宿しているようにしか見えなかった。
二人にとって、西沙は一番下の妹でありながら、同時に〝恐れる〟べき存在。お互いに、認めながらも認めたくなどない現実。例え神社から追い出したとしても、西沙が神社を継承することがないとしても、今現在で一番の脅威であることには変わらない。
だからこそ、御陵院家ではなく〝西沙でなければ〟というのは納得するわけにはいかなかった。二人にとって到底許すことの出来る言葉ではない。
涼沙が隣で唇を噛み締めているのを、綾芽は感じていた。
──……ここに……なぜ西沙はいない…………?
しばしの間を空けて言葉を繋いだのは、再び沙智子。
「〝呪い〟の根源は知りません……誰の呪いなのか……何の呪いなのか…………どうして楢見崎家がこんな〝業〟を背負わされているのか…………私にはどうでもいい…………息子を守りたいだけです…………皆様は我々を守ってきたと仰いますが…………この神社が守ってきたのは楢見崎ですか? それとも〝呪い〟ですか⁉︎」
咲でさえ、何も応えられなかった。もはや、この状況を整理することすら難しく感じる自分に苛立つだけ。
しかし、沙智子の言葉は続く。
「……だとしたら……私はこの神社を恨みます…………」
そして、再びの静寂が空気に広がる。
それは誰にも止められるものではない。
その数時間前。
楢見崎家にいたのは、西沙だった。
☆
綾芽が楢見崎家を訪れた翌日。
由紀恵は沙智子に頼んで西沙に連絡を取っていた。
来客用の座敷には西沙と由紀恵だけ。意外にも西沙はしばらく待たされた。来てすぐに出されたお茶がほとんど無くなるほど。
由紀恵の中にも、呼び出しておきながら気持ちが安定していないような乱れがあった。もはや誰を信じたらいいのかも分からない。昨日突然やってきた巫女から聞かされた話は、ただ混乱を増しただけ。
実際に西沙の前に腰を降ろしてからも落ち着かない。どう話を切り出せばいいのかも定まっていなかった。
しかし西沙の中では少しずつバラバラだったものが繋がり始めていた。ここへ来た時から感じる綾芽の〝痕跡〟。それがさらに西沙の中の確信を強めていく。
「私の姉は〝楢見崎家を守ってきた〟と言ってたんですよね」
綾芽が現場に残していた感情を読み取りながらの西沙の言葉はもはや自信に満ちていた。
「私の知る限り、それは嘘ではないようです」
西沙はそう続けながら、不安に包まれながら畳に落ちる由紀恵の目を見続ける。
事実として、咲がそのためにホスピスに関わっていたことに確信を持っていた。御陵院家自らが〝守ってきた〟と言っている以上、咲があの事件の中の楢見崎家の〝血〟の存在に気が付いていなかったわけがない。
しかし、守りきれなかった。
西沙は小さく震える由紀恵の唇に気が付きながらも、敢えて言葉を続ける。
しかも、その言葉は柔らかい。
「……由紀恵さん……霊能力者なんて言うと怪しい職業だと思われるかもしれませんけど、私は小さい頃から勘だけは鋭い子供でした。普通の人が思うような幽霊が見えるとかそういうことじゃなくて、他人の感情が分かってしまうんです。今、何を考えているか……手に取るように……それと同時に、その人の過去も…………」
由紀恵が目を見開いた。
瞼と共に瞳孔が震えているのでさえ西沙には感じられた。
続く西沙の言葉は、由紀恵の感情も揺らしていく。
「おかしな体質でしょ。普通の人生なんか歩けなかった…………だから……この間お邪魔した時に……分かりましたよ…………例え過ぎたことでも、過去は消えない……変えられるものじゃない…………この家の女性は……長女を出産した時に総てを先代から〝継承〟するはずです。自分のしたことと、これから自分がしなければいけないこと…………」
由紀恵の肩が震え始めていた。
──……美由紀のお陰で……やっと辿り着けたよ…………
そう思う西沙の中で、それでも決して気持ちのよくない〝真実〟が纏まる。
微かに漏れかける声にならない由紀恵の声を、西沙は容赦無く遮った。
「……由紀恵さんも無意識の内に…………まるで何かに取り憑かれたように…………自分の息子さんを、殺した」
──…………やめて…………
「そしてその遺体は先代が処理する。広い敷地ですものね。大きな焼却炉と専用の埋葬場所があるはず。やがては沙智子さんの息子さんも、何かに取り憑かれたような沙智子さん自身が無意識に殺して、それを由紀恵さんが────」
「────やめてっ‼︎」
由紀恵の甲高い声が、座敷に流れる空気を切り裂いた。
記憶に無い殺人。長女を産んだ直後にそれを聞かされた過去。ずっと信じたくなかった過去。自分には自覚など無いまま。それでも、自分の娘が殺人を犯すところを見ることで、それを母として実感せざるを得なくなると教えられた。
そして、その孫を自らが〝処理〟することになる。やがてやってくるその現実。それもまた変えられるものではないと聞かされた。
気持ちのどこかで〝嘘だ〟と思っていた楢見崎家の〝秘め事〟を赤の他人から改めて突きつけられ、由紀恵の感情は完全に理性を失う。
それでも西沙は動じない。
──……美由紀には……こんな気持ちを味合わせたくない…………
そして、言葉を紡いだ。
「長男は最初から出生届けを出していない……だから死亡届けも出す必要がない……名前も先代が決める仕来たりだから、いつも同じ……愛着を感じないように……せいぜいが時代とともに何度か変えてきた程度。戸籍上は存在しない子供だから……死んでも警察から疑われることはない。その役目も母親ではなく先代の母……由紀恵さんも出生届けを提出してきたことにしただけですよね。幸いにも楢見崎家の女性は過剰に守られてきた。お陰で学生の頃の友達なんか一人もいない。社会を知らない内に結婚。長男がいたことすら知っているのは婿養子の実家だけ。でも一年もせずに亡くなれば愛着も少ない。後は形だけの葬儀をすれば誤魔化せる。お寺にお金を払って、理由は何とでも作れるはず……流産した子供のものとでも言えばいい。しかも婿養子の実家は離れた土地の地主レベルの家柄だけ。三男以降の外孫になんか興味の薄そうな家ばかり…………だから婿養子に長男や次男は避けられてきた」
由紀恵が畳に両手を付く。その振動が西沙の座布団にまで伝わる。
丸まった背中を大きく震わせ、由紀恵は微かに溢れる小さな声を押し殺した。
紡がれる西沙の声を待つだけ。
「そしてもう一つ…………それは、三人目以降の子供が産まれた場合…………」
由紀恵がわずかに頭を上げかけ、西沙の言葉が続く。
「すぐに養子に出されてきた…………そうしなければもっと恐ろしい〝呪い〟が降り掛かると継承されてきたはず…………その人たちを守ってきたのが御陵院家です。これは私も知りませんでした。そして何の因果か……私は去年…………その数名と関わりを持ちました。他にもいるのかもしれませんけど…………そしてまだ分からないこと……由紀恵さんの頭の中を覗いても見えないのは、なぜ御陵院家が楢見崎家の〝血〟を守ってきたのか────そもそもの〝呪い〟の根源は何か…………」
由紀恵が、頭を少しだけ上げた。
西沙の言葉を待つ。
「……御陵院神社に……何か秘密があるはずです」
そして、やっと、由紀恵が小さく言葉を漏らした。
視線はまだ畳へ落ちたまま。
「…………どうすれば…………」
西沙はすぐに返していた。
「私も御陵院の人間です……追い出されていなければ、昨日の姉のように継承していたことでしょうね。そして、私もいつの間にか関わっていたわけです。しかし私はその〝枷〟から外された。それなのになぜかここにいる。そこに意味がないと考えるほうが不自然です。しかも、沙智子さんのほうから私の所にやってきた…………夢に現れた巫女の言葉に従ってね。その巫女が誰なのか、昨日やっと分かりましたよ…………私だけじゃ分からなかった…………」
由紀恵が腫れた瞼を持ち上げるように顔を上げ、その目を西沙に向ける。
震える唇が動いた。
「……本当に…………呪いを…………」
幼い頃から続いていた、張り詰めた緊張感の中での人生。それが楢見崎家の人間の人生だった。そして長女を産んだ直後に聞かされる〝仕来たり〟。その鎖のようなものに縛り付けられ、どこにも逃げ道がなくなる。
目の前に座る小さな霊能力者が、唯一の希望。
「…………終わらせられるのですか…………」
「私から質問させて由紀恵さん…………私は強制はしない。いつでも決めるのは本人…………沙智子さんに秘密にしたまま〝呪い〟を〝継承〟するか…………総てを話して〝呪い〟を終わらせるか…………私なら……沙智子さんの記憶を消すことも出来る…………」
そしてその西沙に対して、由紀恵はその力強い〝目〟で応えているかのようだった。
間違いなく、覚悟を持った〝目〟。
それから数十分。
沙智子が座敷に呼ばれる。
そしてその数時間後、沙智子は御陵院神社に出向いていた。
☆
「我々御陵院家は……楢見崎家の〝血〟を守って参りました…………」
咲が沙智子に言葉を返し始めた。
「それは沙智子様でも預かり知らぬ〝血〟です。長女の後に……産まれた子供たちの存在をご存知ですか?」
その咲の言葉に、沙智子は震える唇を噛み締める。
数時間前に母の由紀恵から聞かされた真実。
それを改めて確認することがこれほど辛いとは自分でも思ってはいなかった。しかし沙智子は自ら御陵院神社にやってきた。それは西沙の希望でもあったが、沙智子は自分が御簾世に選ばれた身であることを自覚したからこそ、だからこそ自分で選択した。
──…………これ以上、母を苦しめるわけにはいかない…………
──……私が終わらせる…………
──……………………絶対に…………
何かに遮られているのか、その沙智子の気持ちを読めないまま、咲が言葉を繋ぐ。
「皆……養子に出されています…………そうしなければもっと恐ろしい〝呪い〟が降り掛かると言われてきました…………だから我々は────」
突然の、音。
その音に、咲の言葉は遮られた。
祭壇横の板戸が開け放たれた音。
綾芽も、涼沙も、咲でさえ予想することすら出来てはいなかった。
三人がゆっくりと首を回した視線の先。
そこには、いるはずのない、西沙の姿。
「見せてもらったよ。〝裏〟で」
その西沙の言葉に、涼沙が立ち上がって叫んでいた。
「西沙! 勝手に────!」
「気が付かない姉さんが甘いんでしょ? 私の〝幻惑〟にまた騙されて。沙智子さんと一緒に来てたけど、存在を消すなんて簡単なこと」
西沙の強い〝目〟が涼沙の怯える〝目〟を捉える。
その目に対する〝畏れ〟は、涼沙だけではなく綾芽も、もちろん咲も知っていること。
涼沙も、怖かった。咲とは違い、自分と綾芽は操られる立場。何度も経験し、西沙と目を合わせることを避けてきた。幼い頃から。改めて西沙と目を合わせることの意味を感じる。
──……〝物の怪〟…………
背中に冷たいものが走った。
その涼沙が目線を外したことを確認するかのように、口を開いたのは咲だった。
「……西沙…………」
咲は小さく息を吐き、正面に顔を戻して続ける。
「いつからいたのかは問いません。何を見ました? 準祭壇で…………」
「準祭壇?」
西沙の口元に、小さく笑みが浮かぶ。
横目でそれを見ていたのは綾芽。
──……辿り着いたのか…………
西沙が〝真実〟に行き着いたことを感じた。
それは、咲でも知らないこと。もちろん綾芽も涼沙も知らない。
誰も辿り着けなかった。
〝呪い〟の〝真実〟。
御陵院家も理由を知らずに仕来たりに従ってきた。
なぜ楢見崎の血を守らなければならないのか。
歴史の中に隠されてきたものが何か。
そして、どうして〝呪い〟が続いているのか。
「あれは〝準祭壇〟なんかじゃない」
その西沙の声が一段と強くなった。
「あれこそ、御陵院神社の〝本祭壇〟だ」
綾芽の細い目が開く。
涼沙は動けないまま。
咲は冷静を保とうとしてか、沙智子の〝赤い目〟を見続ける。
その空気の中で西沙だけが言葉を繋いだ。
「密儀のための祭壇? その側面の裏の意味は……お母さんでも知らないはず…………ここを建て替えた時から準祭壇の〝松明の火〟は絶やしてはならないと言われてきた。それは御陵院神社の真の祭壇である準祭壇が楢見崎家に掛けられた〝呪い〟を押さえつけているから。材料を掻き集めてやっと見えた…………準祭壇と言われながらも本祭壇よりも大事に扱われてきた場所の本当の姿…………御陵院神社を清国会に参加させた伝説の人…………長女の麻紀世と、それに対立して追い出された三女の御簾世。その御簾世が嫁に入ったのが楢見崎家。そのくらいはお母さんでも知ってるんでしょ?」
「総て、見えたと?」
意外にも咲の返答は早い。
「見えたよ」
西沙は臆さずに応えると、板間に歩を進め、沙智子の隣へ。
あぐらをかいて腰を降ろすが、その膝はゴスロリのスカートですぐに隠れた。いつもなら涼沙がその態度を咎めるところだが、もはや誰も何も言えないまま、次の西沙の言葉を待った。
外は薄闇を越え、もはや漆黒。
厚い雲に遮られてか月明かりもない。
本殿の中を照らすのは祭壇の松明の揺れる灯火だけ。
時折、火の粉が風に舞う。小さな光の粒が塊となって照らし出したのは西沙の表情だけ。
「つまり、両家は親戚同士。そして、麻紀世と御簾世の間に挟まれてた次女が母親を殺して自害したことは? 清国会に入りたい麻紀世とそれに反対した御簾世の間で相当なドロドロした鬩ぎ合いがあったみたいだよ…………そしてそのきっかけとなった〝清国会〟を御簾世は恨んだ。自分を追い出してまで御陵院神社を継承した麻紀世を恨んだ。やがて二人は……〝呪い〟を掛け合った…………お互いの血筋を絶やすため…………」
「〝風鈴の館〟とは…………」
咲自身、無意識の内に口を開いていた。
咲も真実を知りたかった。
それに、まるで待っていたかのように西沙が返していく。
「そうだよね……とりあえず楢見崎家と一緒に守るべき対象だったんでしょ? 誰も住まなくなった大きな屋敷の管理をしてまで……仕来たりは文献みたいな形で残されてるわけじゃない。伝聞だけ。そして理由までは伝えられていない。あそこの大量の風鈴…………同じ物が楢見崎家に何個も下がってた…………」
沙智子が首を振って西沙の横顔を見るが、西沙は構わずに続けた。
「魔除けのためって昔から言われてたみたいだけど、どうやらそれは嘘じゃないね。風鈴に付いてる丸いマーク…………あれはここの準祭壇の燭台に付いてるマークと同じ。あまりにさりげなくて私もどこで見たものかすぐには思い出せなかったよ。おそらくは魔除けの〝念〟みたいなものを込めたものなんだろうね。そんな風鈴が、あの屋敷には無数に下げられてる…………よほど……怖かったのか…………あの屋敷が〝風鈴の館〟になる顛末を聞いてもらう前に、もう一つ大事なことがある」
西沙は咲の顔が少しだけ上がるのを確認し、さらに繋ぐ。
「それまで誰も存在を見付けられなかったあの屋敷が、現在は世間の目に晒されてる。もちろん簡単に見付けられなくなってるのはここの準祭壇の力。でも誰かが変化を作り出した。そして屋敷が最初に見付かったのがおよそ一年前。沙智子さんの〝目〟の色が変わった頃と同じ…………そして、それは御簾世と同じ赤と茶色のオッドアイ…………その御簾世が沙智子さんを経由して私に助けを求めた…………恐ろしい話だよ…………今まで見えなかったものが、ここの準祭壇の前に座っただけで総て見えた…………そして、見せてくれたのは…………麻紀世…………」
「過去が……関与したとでも…………?」
咲の言葉はあくまで確認作業のようなものだった。咲の能力的に、過去と繋がることの出来る西沙の感覚は理解出来る。西沙が過去の人間や〝時〟と接触したからとて驚くには値しない。
しかし事の|問題は、西沙が何を求めているか。それを咲は引き出したかった。
「もしも過去を変えることが出来るとしたら…………」
そう言った西沙の言葉が続く。
「…………お母さんは……変える?」
「西沙……その考えは…………」
「あくまで一般論だよ。もしも……もしも変えることが出来たら…………〝今〟はどうなっちゃうのかな…………」
西沙の中に、自らの人生が渦巻いた。
──……御陵院の歴史を変えたら…………私の人生は…………
どうしたいのか、どうなって欲しいのか、それを口にすることは西沙自身怖かった。
ただ、今とは間違いなく違うものになる。
そして、まるで呟くような西沙の言葉が続く。
「……それを……実現出来る人がいる…………」
☆
亥蘇世を感じる。
最近になって、やけに亥蘇世の存在を感じることが増えた。
麻紀世は布団に横になる度にそう感じていた。
全身に広がる火傷を起点としてなのか、それから体調を崩し、横になることが増えた麻紀世とて、その感覚まではまだ衰えてはいない。しかしながら、麻紀世もすでに六十近く。養子の憂紀世に当主の座を譲って十年程が経っていた。その憂紀世も婿養子を迎え入れて、今ではすでにその子供達も長男が一人。長女と次女。神社そのものは継承していく事が出来ている。
しかし、もちろん真の御陵院の血筋は御簾世に断ち切られたまま。
今もそれは楢見崎家にある。
──……おかしなものだな…………
楢見崎家の血筋を断ち切るということは、今や御陵院家の血を断つということ。
しかもそれは御簾世に阻まれたまま。
麻紀世の作り出した〝呪い〟という〝想い〟は完成されることのないままだった。
年齢を重ね、当主の座を譲り、自らの人生を振り返った時に、やはり浮かぶのは亥蘇世の面影。
──……やはり…………私は亥蘇世を利用したのか…………
まだ陽は高い時。
とはいえ、強い筈の日差しは厚い雲に遮られている。
しかも黒い雲。
それでも雨の匂いはまだ感じられなかった。
その為もあり、板戸も障子も開け放たれたまま。季節柄ということもあって、涼しくなり始めた緩やかな風が広い畳の座敷を流れていく。
この日は、まだ体調もいい方だった。
胸もそれほど苦しくはない。
いつ終わるともしれない命への恐怖は、とうに過ぎた。
今は、総てを受け入れる覚悟が出来ている。
しかし、何かが胸の奥に居座る。決してはっきりとは姿を見せない何かが、手の届きそうな所でこちらを覗き見ている感覚。
その存在に、時折麻紀世は気持ちを乱されていた。
その度に、亥蘇世を感じる。
あの頃のように、すぐ側に感じる。
──……どうして……今になって…………
そして、いつも感情が昂った。
〝 ……終わらせましょう………… 〟
そんな声が麻紀世の頭に浮かぶ。
それは亥蘇世の声に間違いはない。
そして、確かにその声は聞こえていた。
〝 ……二人なら……終わらせられるはず………… 〟
──……今更…………
〝 ……御陵院の血は……楢見崎に………… 〟
──…………どうしろと…………
亥蘇世に触れたかった。
亥蘇世の吐息を感じたかった。
──……どうして…………私は亥蘇世を死なせた…………
〝 ……私は…………恨んではおりませぬ………… 〟
「────嘘だっ‼︎」
その感情の起伏は、麻紀世の本来の力を鈍らせる。
事実、鳥居に向かって階段を登る人影の存在に気が付かなかった。
しばらくこの辺りでは雨が降っていない事が伺えた。
鳥居への石の階段までの地面は、すでに乾き切っている。大きくひび割れ、雑草すらも死に絶える事を受け入れた土の道。
その為か、その先にある石の階段すらも水を欲しているように感じられた。
横に広い乾いた石のその階段に、御簾世は低い下駄の音を響かせていく。一段毎に、体が痺れるような、そんな不思議な感覚が気持ちの中心を通り抜ける。
もう何十年も登っていなかった石段。目の前の鳥居も以前と変わらずその佇まいを見せるだけ。
ただ、この場所で見続けてきた。これまでの御陵院の歴史の傍観者でしかない。
この鳥居を潜り、この神社を逃げ出した夜の事を、御簾世は今でも肌に感じる事が出来た。この鳥居は覚えているだろうか、と、ふとそんなおかしな事を考える。
同時に頭に浮かんだのは、母ではなく亥蘇世の面影。
──……母上の事は……もう顔も忘れかけているというのに…………
そして、今の自分があの時の母の年齢に近い事を感じた。
どうするべきか、総ての気持ちが固まった状態で来たわけではない。それでも御簾世は麻紀世に会うべきだと感じていた。
そして、鳥居の真下。
特別何かを感じるわけではない。
麻紀世からの妨害も無い。
ふと真上を見えげ、すぐに視線を正面へと降ろした。
足元から続く石畳の参道。
その先には本殿が控える。
新しく建て替えられた建物は、あの頃よりも大きい。
本殿までの参道も長くなった。
その参道の途中に、人影。
巫女の姿。
強い風が通っていく。乾いた土煙が周囲に舞った。まるでどこかに隠れていたかのような空気の流れ。周囲の木々の騒めきが辺りを包み込む。
その為か、御簾世の気持ちも震えた。
──……なぜに…………こうなった…………
後悔が無駄な事の代名詞であることは御簾世も知っている。振り返っても過去は変わらない。同時に、その後悔が無ければ未来が無い事も知っていた。
だからこそ、御簾世はそこにいる。
遥か先の正面に立つ巫女は微動だにしなかった。風に巫女服を揺らすだけ。
だいぶ距離があるというのに、それでも御簾世にはその表情と感情が見える。
怯え、恐れと畏敬が入り混じる。
──……御陵院の血では無い…………
御簾世がゆっくりと歩を進めた。
石畳の上で下駄が甲高い音を立て始め、それが風の音を切り裂いていく。
──……操るまでもない…………
御簾世がそう感じた時、巫女が軽く左手を上げた。
「そこにて、しばらく」
御簾世はその静止に従い、足を止め、前方の巫女に赤い目を向けるだけ。
その巫女の言葉が続いた。
「楢見崎家の御血筋の方と御見受け致します」
すると御簾世は軽く視線を落とし、やがて参道の石畳から巫女へ顔を戻し、小さく応える。
「いかにも……そして…………御陵院家の血筋の継承者でもあります」
「御簾世様ですね」
意外にも巫女の返しは早い。
しかもすぐに続いた。
「母から伝え聞いておりました…………」
その言葉にも、御簾世は顔色を変えない。
母というのが麻紀世の事であろう事はすぐに感じた。
強い風が二人の間を渡っていく。足元に燻る土埃が落ち着く気配も無い。まるで霧が立ち込めるような参道から、巫女の足元は隠れたまま。足先の動きから次の体の動きを読むことも出来なかった。
簡単に入り込めるような隙はない。
──……姉様……よくぞここまで育てた…………
例え御陵院の血が入っていなくとも、その立ち振る舞いは決して弱くなかった。
その巫女────憂紀世が体を軽く回し、横を見せ、そして本殿に顔を向けて口を開く。
「こちらへ」
そして歩き始めた。
距離を同じくしたまま、御簾世はその背中に続いた。とても隙があるようには思えない。
言わずとも通じるものがあった。同じ世界の住人だからか、それとも因縁の間柄ということか。お互いに〝恐れ〟はある。しかしその中には、少なからず〝畏れ〟もある。決して穏やかであるはずがない。
そんな相手に背中を向ける事の意味は憂紀世でも分かること。しかしそれだけの相手を他に知らなかった。自分が養子である事は義理とはいえ母の麻紀世から聞いていた。自分に御陵院の血は一滴も無い。逆にその事実が自分の気持ちをこれまで押し上げてきた。そして現在の御陵院神社の当主まで登り詰めた。しかし跡取りに御陵院の血を継承させる事は出来ない。その現実も理解したまま。
自分が求めているものが何か。何か自分でも理解のし難い感情がある。
どこか、この流れを待っていた自分がいたのかもしれない。
そう思いながら、憂紀世が本殿の階段を登った。足袋を擦らせながら、広い本殿の中央。一つだけ置かれた厚い座布団に御簾世を促す。
「少々、御待ち頂きます……」
憂紀世はそれだけ言うと、祭壇横の廊下に姿を消した。
広大な本殿に相応しい巨大な本祭壇が、今、御簾世の目の前。中央、そして左右の燭台には未だ微かに燻る松明。埋み火の赤い光が微かに見えた。その日も行われたであろう朝の神事が昔と同じかどうかは、もちろん御簾世は知らない。
それでも本祭壇の横の小さな板戸は建て替えられたとはいえ昔と同じ。
裏には、間違いなく〝準祭壇〟がある。
その光景が見えた。
本祭壇とは違い、閉鎖的な空間に鎮座する祭壇。
昔から簡単に踏み入っていい場所ではなかった。そこに惑うものの恐ろしさは御陵院の人間であれば誰しもが知る事。
特別な〝密儀〟にのみ使われてきた場所。御陵院家の人間以外は決して入ることは許されない場所。
そして、御簾世は気持ちを決めてここにいる。
それは覚悟と共にあった。
少なからずの不安と共に、自らの〝間違った望み〟────〝間違って望んだ未来〟を終わらせに来た。
亥蘇世に突き動かされるままに。
『 聖者の漆黒 』
第四部「回帰」第1話・終
第2話へつづく
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