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もう会えないと嘆き、それでも誰かと出会って
寒き場所、拒絶と不干渉
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【1】
積雪が音を吸い込む、些細な音は全て。故に、朝の訪れはとても静かに訪れる。ゆっくりと外が明るくなり、曇った窓に日射が降り注ぐまで気付けないほど。
舞い降りる雪の姿は神秘的で、積もれば可愛らしく、若しくは美しい光景を作る一方、儚い身でも触れる全てを凍えさせる力を有する。
美しく、けれど人を凍えさせる環境を作り出す積雪に囲まれた地にて、トレイドは目を覚ます。涙を流し、魘されていた彼が感じたのは寒気。少し引き攣るような感覚を覚えつつ身体を起こす。周囲を見渡して今置かれる現状を思い出す。
「・・・そう、だったな。此処に、居るんだった、な・・・」
昨日、行った作業が脳裏に浮かぶ。あれからほぼ一日中、村と近くの雑木林の往復を繰り返していた。樹木を斧で切り崩しては大まかに切り分け、橇を使って村に運ぶ。運んだ先で細かく割って薪とし、乾燥させる為の小屋に運び、また雑木林へと向かう。
その為だろう、身体が少々軋み、筋肉痛に似た痛みが全身に伝い続ける。だが、直ぐにも忘れられる程度のもの。彼の頭は別の事を思い浮かべていた。
「夢・・・か」
思い返すのは先程まで見ていた夢。記憶の集合でしかないそれは過去の体験の再現。抱くのは、当時と変わらぬ思い。
ベッドの上で静かに思い返す彼の元にノック音が響かれた。続き、扉が開かれる。入ってきたのは家主である、魔族の村長。敵意を剥き出しにした顰め面を見せて。
「朝になったぞ、早く・・・ふん、もう挫けたのか?」
涙を伝わせて佇む彼に厳しい言動を掛ける。それにトレイドは気性を荒めず。ただ静かに息を零していた。
「・・・いや、少し、昔を思い出してしまった、だけだ」
遠く、悲しい目で答える。涙を拭わず、彼方を眺めて物思う姿は哀愁を感じる。孤独感で不安定な様子に村長は皮肉を憚っていた。
「・・・そろそろ、朝食を食べて支度するのだな。昨日と変わらず、薪作りだ」
「ああ・・・分かった」
意志を無視して強行させず、急かす程度の台詞を残して立ち去る。昔と言う単語に彼も何かを思い出したのかも知れない。そうなれば、変に刺激する事は躊躇したのか。
扉が閉ざされた瞬間から静けさは戻される。僅かな物音でも響き渡り、直ぐに消える部屋の中で沈黙を守ったトレイドだが、ゆっくりと静寂を破る。静かに涙を拭い、身体を解しながら支度を行い、部屋を後にするのであった。
寒冷地での暖かさは生死に関わる。故に準備は怠れない。だが、同時にその事前作業は肉体労働でしかない。大事だが嫌がられる仕事。彼に任せたのは試す意図も含めているのだろう。真摯に取り組み、問題性の有無を確認する為に。
外へと踏み出す。眼前に広がる世界は光陰の流れが緩やかに感じる程の、何もかもを呑み込むような静寂を齎す白き光景。
緩やかな風に煽られ、ゆらゆらと漂い、深々と降り続く雪の群れ。風に煽られるままに揺らめき、景色の全てを染め上げていく。その色は純潔に、積もり隠す姿は生まれ変わる寸前を彩るよう。
心を鎮めて癒し、没入させるほどに清らかな光景を前にして、しばしトレイドは目を奪われる。玄関から数歩出てその身は硬直するように止めれていた。
立ち止まり、数分、雪が広がる景色を眺め続ける。身に伝わる冷たさを思う存分に感じて。
抱く不可解な居心地の良さを、吐き捨てる溜息に乗せる。そうして気持ちを切り替え、背にする建物を迂回していく。
村長が暮らす建物はやや広い。部屋を幾つか持ち、共同倉庫も管理している為に敷地と言える場所は広い。過去に伴侶が居たのだろう、その思い出が随所に見える建物を周り込めば、その共同倉庫に着く。
除雪に関する道具の他、一般的な日曜大工の道具、使い道の少ない農業道具の傍に、使い古された斧が数多く並べられる。その一つをトレイドは手に取った。
それは木を伐採する為のもの、想像出来得る形状を為した斧である。扇状刃は峰が大部分を占め、主たる刃は傷だらけで鈍き光を放つ。切れ味は悪そうであっても、昨日は問題なく使用出来たので引き続き同じ物を使う。
更に、倉庫に立て掛けていた橇に手を掛ける。木の搬送の為に作られたそれの長き縄を手にし、肩に掛けて歩み出す。そうして、村の外へと向かっていった。
外に、目的の場所に向かうには村を横断しなければならない。そうする中で思い知らされる。自身は招かれざる客、そして脅威でしかない事に。
静かな朝、外に出る者は少ない。けれど、それでも十分に感情を読めるほどの睥睨が向けられる。忌避と侮蔑、偏見ではなく実体験も含めた恨み。誰もが表情を険しくさせ、物陰や部屋に慌てて戻るなど、あからさまな拒絶反応を示していた。
#人族__ヒュトゥム__#を許容しない心で満たされた視線に晒され、トレイドは胸中を表情に反映させる。気分を悪くし、必要のない責任を感じ、憂いに暗く沈ませていた。
進み行けば極度な反応を示され、必要以上に距離を取られたり、顰めた声で会話を行うなど、#人族__ヒュトゥム__#に対する嫌悪感を隠さず。そこには興味心も少なからずあるかも知れない。けれど、それを上回る恐怖と畏怖が視線に敵愾心を含ませた。
無意識に溜息を零す。沈んだ思いを吐き捨てようとして、重々しく。やや消沈する彼は不意に誰かを発見する。その目には重そうに荷物を運ぶ姿に映った。
「・・・重そうだな、手伝おうか」
視界に入ったならば放って置く事は出来ず。呼び掛け、手伝おうと手を伸ばす。
「いえ、それほど・・・え!?貴方はっ!?」
最初は親切を喜び、友好的に反応した女性。けれど、目の前に立つ人物が#人族__ヒュトゥム__#であると知ると否や途端に態度を変え、慌てて逃げ出していった。
「・・・そうか」
普段通りに話し掛けた、他意はなく。だが、現実がそれを否定した。決定的とも言える反応を前に心には深い傷が刻み込まれる。少しずつ取り戻しつつある気力を折られかねない反応に、再び溜息が一つ。
歩みを再開した彼の面は悲しみに満ちる。足取りも重くなる。引き摺るように、斧を、習慣付いた帯剣である黒い剣を提げて、進んでいった。
追い出されるように村を後にしたトレイドは黙々と雪道を上がる。視界に映る雑木林を目指し、静けさに包まれた道を黙々と歩む。かなり緩やか、しかし積雪が足を絡めて疲労は溜まる。何度も往来を繰り返した箇所を通っても、変わらず。
雪を踏む独特の音色が響く。夜を経過し、多少積もったそれでも十分に音色を立てる。同時に、先に圧縮した雪は氷のようになり、割り、砕く音も混じって。
目的の場所は半時間経とうと着かない。見えていてももどかしく感じる距離を彼は進む。村の傍の木々を伐採せず、離れた場所の雑木林に向かう理由。種類が異なり、植林し易く育ちが早い。その上、乾燥させ易く、長時間燃えると言った特徴があるから。
長距離の移動に対する煩わしさは先日に薄れ、白い呼吸を繰り返して黙々と進む。余計な事は考えず、目的地だけ目指していれば案外早く着くものだ。
山の斜面に挟まれるように雑木林が存在する。鱗状の樹皮を纏い、風が吹けば折れそうな枝を数多く携える。その先端には四角く見える広葉を蓄える。だが、あまりにも少なく、雪が積もれば最早枯れ果てた姿に映ろう。それが鬩ぎ合うように乱立していた。
広きその場には異なる点があった。伐採した後の切り株が点々とし、積雪に隠れつつあるそれからは時間の流れを感じる。その中で無視出来ない物が一つ、切り倒されてしまった樹木。薄い積雪を被ったそれの幹は太いのだが、その丈は随分と短くなっている。自然によるものではなく、人の手が加わった痕跡が強く残る。
それは昨日、運搬出来なかった残りの分である。日没によって中途半端のまま切り上げた為、今日はその続きとも言えた。
切り倒したそれに近付き、橇を傍に置く。その上に剣を置いた後、木に近付いて静かに斧を振り上げた。
歳を重ねた樹木に斧を振り下ろせば、容易く刃を喰い込ませない感触が衝撃と共に斧へ伝わる。手に痛みを、僅かな痺れを抱く。それでも、息を吐きながら振り上げ、傷付けた箇所に目掛けて振り下ろす。地道に傷を大きくする事で分割するのだ。
無心に斧を振るうトレイド。他の心配事など頭から排除し、ただひたすらに腕を振るって樵る音を響かせる。響く音は弱くならず、一定間隔で鳴り渡る。けれど、音は遠くまで木霊せず、雪に吸い込まれて村までには届かずに。
作業中、彼の腕は、右腕は違和感なく動き、確かに柄を握っていた。斧を十全に振るえるのは右腕の調子が良かったから。辛うじて自分の意思で動かせた為、作業に然程支障が生まれなかった。
だが、代わりのように全身に小さな痛みを感じていた。何かしらの後遺症のように、麻痺に因る引き攣りのような小さな痛み。頭の片隅で存在を主張するようなそれを終始抱いていた。
それに疑問を然程に抱かないのは魔具の所持に因る影響が進んだと想像した為に。進展し、いよいよ後に戻れない段階に至ったのかと、諦めの境地で捉えた為、それほど気に留めず、寧ろ好都合と言わんばかりに与えられた仕事に没頭していた。
ある程度切り分け、程良い太さの枝も共に橇に積載したならば次は運搬のみ。取手たる縄を肩に掛け、すっかり重くなった橇を引き摺って村を目指して歩き出す。
緩やかに下る坂道、橇を使用する為にある程度負担は減るものの、息を切らして汗を流すほどの重さがある。そして、距離。一人であろうと、多人数であろうと重労働には変わりなく。
休み休み雪道を下る。動けば身体は多少温まっても手足の末端は寒気や冷気で悴み、度々吐息で縄を握る手を暖めて歩む。幾滴か、汗を雪道に散らした頃、村に到着する。そうなれば目的の場所に、最後の仕上げを行う場所は遠くない。
乾燥場を目指せば隣接する開けた空間へ先に着く。中心にその土台がある。それもまた切り株である。平らであった切り口はすっかり使い古され、無数の切り口を刻まれて無残に。其処に立て掛けられるのは薪割用の斧。太く厚く広い刃を先端に付ける柄は細く頼りなさげに。
付近には巨大な屋根を以って雪を防ぎ、乾燥させる為に作られた棚。それにはもう既に多くの切り分けられた薪が並べられる。それも驚くほど相当の量、年単位で集められ、且つ全ての家庭で使う為に。それに加えて昨日の半日近くを費やした量が加えられる。だが、素人目でも足りない事は明らか。
備えの為に持ってきた分割した生木。切り株の上に置き、使い古した斧で叩き割っていく。多少コツを掴んだ彼は一息で木を更に分割する。際に響かせる音は一瞬、されど心を弾ませる心地の良い音。手際良く準備し、斧の重さと無駄な力を篭めずに振るい、実に淡々と。
単純作業ながらも薪割りは大切な仕事と言える。寒き地なら尚更に。真剣にそれに携われば多少は充実感が生まれようか。
しかし、彼の心が満たされる事は無い。満足感を抱くにはまだ遠く、気持ちが晴れる事もまた。今はただ、無心に斧を以って薪を作り続けていた。
【2】
「悪いが、狩りに出てもらうぞ」
昼を迎えた魔族の村。降雪が少し薄らぎ、陽射しが強くなった薪の乾燥場の付近にて、休もうとしたトレイドにそう告げられていた。
やや息を乱して差し出された昼食を受け取った彼は不快そうな村長の顔を眺めて次の台詞を待つ。その反応に彼は煩わしそうに口を開く。
「村から西、丁度伐採する場所とは真逆の方角。その方面に進んでいけば吹雪荒ぶ場所に到着する。その付近で出現する魔物を狩ってもらう。良いな?」
「どれだけ、狩ればいい?」
簡潔に言い渡し、立ち去ろうとした彼を呼び止める。今の彼は単純とは言えど重労働を行った身、その上で魔物の狩猟は無理を強いていると言い得る。けれど、異論は唱えず、多少踏み込んで尋ねていた。
「取れるだけ、だな」
「・・・分かった」
挑戦とも言える発言を残して村長は立ち去っていく。名前すら教えてくれない老人の背を見送り、トレイドは小さく息を整いながら受け取った昼食を口に運ぶ。スープ、もう既に冷めて。
「少し聞きたい事があるんだが・・・」
「話し掛けるな」
通り掛かった魔族に呼び掛けたとしても話すら出来ない。突き放すではなく、橋を架ける対岸すらないように辛辣に吐き捨てた。
伸ばした手すらも叩き払われ、強烈な拒絶心を示して男性は立ち去っていく。
それ以上声を掛ける事も出来ず、痺れ、震えるように小さな痙攣を起こす右手が握られる。黒いグローブは擦れて音を鳴らす。力強く握った拳を眺め、心を痛めていた。顔すら見ずに拒絶した事に対し、その胸には貫かれたが如き痛みに襲われて苦しんでいた。
「・・・流石に、辛いな」
まだ此処に訪れて数日程度。それでも#人族__ヒュトゥム__#に対する反応、扱いは陰惨である事を身に染みて理解する。口惜しさではなく、偏に感じるのは突き放される寂しさ。そして抱く痛みに表情を暗くさせて。
尋ねようとした事はこの地で駆られる魔物の詳細。名前を知らなくても、どのような姿をしているのか、大まかでも良いから知りたかった。それが会話の糸口になると思い、見事に拒否された形に終わっていた。
息がし辛くなる思いに顔を歪め、降り積もった雪を眺めて溜息を零す。気持ちを切り替えようとし、尚も沈み込む思いを抱えて歩き出す。村長に言われた通り、伐採場と言える雑木林とは逆の方向にへと。
村を出て間も無く地形に変化が現れ出す。山の傾斜に囲まれ、吹き溜まりのような地形は次第に緩やかな傾斜となる。けれど、坂道とは思えぬほどに角度は緩やかで気付けないだろう。
周囲は依然と白に包まれる。積雪は何処に向かおうが降り続けて全てを覆い隠していく。風は吹いても音はなく、冷え込んでも穏やかで綺麗な風景は歩む者を飽きさせないだろう。気晴らしに歩くならば、打って付けと言えた。
しかし、十数分程度進めば環境は急激な変化を見せる。元より数少ない植物である樹木が途絶え、降雪の量が増えて視界は悪くなっていく。そして、景色は荒んだ。
とある地点を境に冷風は吹き荒れた。大粒の雪がそれに巻き込まれ、礫のように降り注ぐ。視界はまさに最悪、周囲確認など困難を極めた。
荒れ狂う冷風は踏み入る生物を強引に揺さぶり、雪は肌を赤く染めるほど強く叩き付ける。冷風は呼吸を困難にさせ、体温は容赦なく奪われる。歩行は出来ても上手く歩めず、膝を着き、転倒する事は避けられぬ程に。
四方八方に吹き荒ぶ風は舞う雪が柔らかければ霧散させ、白き風となって抉る。巻き上げた積雪で更に空中を染め、その一帯は別の白で埋め尽くされていた。
暴風雪が為す風力は何もかもを薙ぎ倒すだろう。故に、周辺に樹木が無いのだろうか。
穏やかな気候からの変化には多少の前兆があった。けれど、唐突の変化を前にトレイドは大きく煽られ、思わず転倒しそうになる。それでも踏み止まってみせた。歩けないほどではないが気を抜けば瞬く間に転倒するだろう。
暴風雪は四方から吹き乱れる。宛ら嵐、踏み入った者誰もがそう思うだろう。現に訪れたトレイドの衣服は激しく暴れ、彼の身に叩き付けるように。
前方確認は困難、腕を翳して瞼は半開以上には出来ず。立つだけでも身には大粒の雪が張り付き、細やかな雪は凍えさせる。進みには力任せに積雪ごと地面を踏み締め、身体を前屈みにさせてなければ難しい。当然、進む速度は遅くなる。それでも、進み行けばある程度は慣れが訪れるものだ。
自然の容赦ない在り方、そうそう人智には及べない力を前にトレイドは少々苦戦を強いられた。芯を確りし、転ばぬように気を払いながら進む。慣れてから歩く速さは少し上がったとしても。
まだ体調は優れない。身体の違和感とは別に右腕も何とか振るえるまで回復したとは言え、狩猟を行うのは大よそ一週間ぶりの事、油断は禁物。周囲の警戒を細心の注意で行い、一歩を確かに踏み締めて目を凝らす。
時間を掛けて下り続けていれば地形と環境に少しの変化が訪れる。やや起伏のある坂は平坦な広場となる。植物はなく、深い積雪が広く行き渡る。冷風の荒さに落ち着きが見え、降雪は激しく揺らめきながらも着地する。
すっかり冷え、身体を僅かに震わせるトレイドはその空間を眺める。身に着ける金属に触れないようにし、ただ溜息を吐いてゆっくりと歩む。曇天の灰色が混じる白い世界、暴れ落ちていく幾多の雪の行方。合わさった雪の風景を前にした彼に今受ける体験に因ってだろう、奥底に沈んだ記憶の一部が揺さぶられた。同時に一瞬記憶が霞んだ。
それは彼が与り知れない記憶、似たような場所を苦難して進む映像。暴風雪の中を何かを喋りながら懸命に。知らぬ記憶が霞掛かって浮上してきたのだ。細部は分からなくとも、歩む情景と抱く奇妙な孤独感が込み上げて。
「・・・」
自然と零す溜息。疑念をそれに混ぜる。今はその疑念を抱いても仕方なく、その原因も分かっていた。遺伝子記憶、その影響だろう。その記憶に沿うように、辿るように歩みを強くする。自然と身体も軽くなって。
一呼吸する内に天候は荒れる。緩急を付けるように、また風が荒び、雪は重さを増す。意識を張り詰めて暴風雪を受けるトレイドの表情は険しい。その面も途端に鬼気迫るものへ豹変した。
風荒ぶ中で力強く立ち止まり、所持する黒き剣を早急に構える。環境故にそれは純黒に見え、鋭き双眸と同様に研ぎ澄まされる。その視線、剣先には白い世界が広がるのみ。だが、彼は両耳を、聴覚に神経を集中させていた。
「・・・居るな」
小さく確信する彼の耳が、荒ぶ風の音に紛れて遠吠えのような音を聞き取った。覚えを抱くそれは獣、犬種の遠吠えに酷似する。ローウスのそれと類似する。だが、ローウスは森林地帯を好んで生息し、寒冷地帯に出向く事は無い。
冷静に記憶を模索する彼の脳裏はとある魔物の姿を過ぎらせる。即座に浮かんだそれに警戒し、一層表情を引き締めて周囲を睨み付けた。
白い吐息は風に消え、白き視界の中で数歩分進む。それは摺り足で踏み込み、足場の位置を確かめるもの。雪の擦れる音を耳に、雪に取られて遅くなる足をゆっくり曲げて待機する。
襲撃を撃退する姿勢と取り、やや揺れる重心を留めるその姿に僅かながらの隙が見える。気の昂りか、それとも戦い自体が久し振りだと言う気後れがあるのか。風に抗うその面は依然と険しい。警戒を解けない彼の脳裏にはこれから戦うであろう魔物に関して思考が広がっていく。
周囲からの微かな気配とさっきとは異なる意欲が含んだ視線が痛烈に彼の肌を刺す。風の音と積雪で聞こえ難いのだが、耳を澄ませば複数の足音が聞こえる為、何かが接近している事は確か。数に関しては暴風雪に紛れて識別は出来なかった。
人にとっては劣悪な環境。それを良しとする生物もまた存在する。外部の存在が踏み入れて分が悪くなった事を見計らい、陣形を展開させれば一方的に狩る事が出来よう。降雪と吹雪、色と音色に紛れて姿を隠し、隙を衝いて敵を仕留める。それがこの環境を根城とし、繁殖する魔物の常套手段。環境を利用すると言う事は、一筋縄ではいかない事を示唆しよう。
【3】
警戒して数分、緩急を付けて荒ぶ環境下で彼は沈黙していた。絶えず身体を揺さぶる冷風。それは身を凍えさせる為に纏わり付く。紛れる無数の雪は体温を容赦なく奪い取う。積雪は足を絡め取り、行動を束縛してくる。音色は脳を入り乱れさせて切り裂くが如く、反響を起こさせるほど騒音。
その劣悪な環境の状況、荒んだ白い光景を前にしてトレイドは佇む。その彼に襲い掛かる存在は無かった。けれど、身を隠して着実に接近していよう。気配は感じ取れても明確には悟らせない狡猾さである。
獲物を発見した直ぐに襲撃に向かう事はしない。それは慎重な判断ではなく高き統率に因って作られた状況。襲う機会を窺っているのだろうがその心境を知る由がない。ともあれ、焦らすように、暴風雪と冷気に晒されるトレイドは少しずつ焦りを蓄積させていった。
視線を浴び、待機するトレイドの呼吸は少しずつ大きくなりつつある。風に晒されての疲労とは別に、次第に大きくなる身体の不調。それを耐え凌ぐように一際大きな溜息を吐き捨てた。掻き消えた吐息の向こう、何時でも迎撃出来るように深呼吸を繰り返して自身を正して待機し続けた。
風の音が聞こえ続ける時間が長引く。皮膚を凍て付かせる風に晒され、赤みが差していた表面から色が薄れていく。寒さに当然悴み、凍傷してしまうのかと思えるほど。それに怯まず、警戒を一時も途切れさせず。
だが、緊張は少しずつ薄れる。警戒もまた、遠退く気配に張り詰めていた気は緩む。襲って来る気配は無く、気の所為かと言う考えが過ぎる。その思いに続き、構えを解く。周囲を睨んだ後、気分を切り替えて再び歩き出そうとした。その時であった。
「っ!」
気が緩んだ彼は咄嗟に身構えた。再び遠吠えのような声が聞こえ、その方向へ振り向く。その直後、積雪が唐突に弾け、何かの唸り声と共に何かが飛び出した。
飛散する積雪の中、動体が振り向くトレイドの視界を掠める。咄嗟に身体を仰け反らし、反撃に移ろうとも間に合わず。
「ぐっ!」
右腕に痛みが生じ、片目を瞑って怯む彼の視界に白い何かが通過した。それが生物である事は確か。けれど、過ぎた方向を確認しても積雪の地に奇妙な穴しか見当たらず。
腕に刻まれた爪の跡、軽傷を気遣いながら襲ってきた存在に確証を得る。ならばと、次の行動を予測して周囲に警戒を強め、即座に動けるように心構える。それに対抗するように意識が逸れた瞬間、彼の正面から何かが飛び出した。
「っ!?」
跳躍する音、雪を掘り起こした音を聞き取った直後に行動は移された。その反応速度は強めた警戒に相応しい速度であった。けれど、身体の不調はそれに響いた。
振り向く身体の僅かな動きに合わせる黒い剣を振るう。雪を抉り払う逆袈裟。それは空を滑り、何も捉えず。事前に重心がずれた為に。当たらない事を悟った時には遅く、腕を振り上げつつある彼に一撃が加わる。横を過ぎ去り、潜行したであろう音が響いた。痛みに怯みつつ確認するが新たな穴が出来ているだけであった。
右腕に血を僅かに伝わせ、上腹部を気にするトレイド。追加の攻撃は胸甲で阻み、服を掠めた程度で済んでいた。それを確認する彼は反撃を外した事を身体の不調と関連付けた。ブランクを感ずるほど戦闘から離れていない彼はやはり魔具の影響と推察した。
だが、今は現状に集中するしかない彼。視界、そして聴覚を研ぎ澄ませて出方を窺う。剣を握る腕は僅かに揺れる。それは周囲の環境の所為ではない。
再び訪れた風の音が響く間隔、耳孔の奥に入り込む騒音が探索を阻害した。その引き裂くような風の音の中、掻き消えそうな程微少な音が鳴る。積雪に作用するそれはトレイドの後方、彼にとって完全な死角で生じた。
雪に溶けるほどの純白の体毛、当然この地での擬態、潜伏には相応しい。その体格は狼と酷似、ローウスと同様。身体は一回り程大きく、雪を掘り進んで飛び出せるほどに四肢は強く発達する。
その生物は此処に生息する魔物、スノーローフと呼ばれる積雪する寒冷地帯を好む獣。ローウスと同等の体格から近縁の魔物である。強きものを長に立て、その命令の下で行動する知性の高い魔物因みに、雪に隠れられる体毛に包まれた毛皮高貴で美しく、それなりに高価に取引される。
雪に潜りながら忍び足で接近するスノーローフ。擬態能力は視界に入っても気付けないほど高い。しかし、襲い掛かる時はどうやっても動き、音を出す。その時は同時に隙でもある。それを見極める為、静かに待機を続けていた。
じわじわと接近するスノーローフの一体、一定の距離を詰めた時に動き出した。身を包む積雪を散らし、向けられた背に向けて飛び掛かった。
掘り起こされた積雪の音、急襲せんとするその音をトレイドは聞き逃さなかった。旋回して反撃に移行するのだが、身体はやはり小さな歪を主張する。思考と身体の動きは僅かにずれ、振り抜いた先には掠めた体毛が散るのみ。
「スノー、ローフ・・・」
過ぎ去った動体を目で追い、左脇付近を気にするトレイドは呟く。視線は潜行した穴だけを捉え、歯痒さに表情を険しくする。
身体の不調に思うように動けない彼は休められない。息を大きく吐き捨てた彼は急ぎ身体を逸らしながら腕を振り上げる。降雪を切り裂く黒き刃はそれ以上何も捉えず、白い体毛すらも散らせず、足に噛み付かれてしまう。
呻き、激痛に怯めども反撃しようとした手は別の衝撃に防がれる。彼の後方から雪を散らす音が二つ鳴り、攻撃の手を防ぐかのように右肩や左腕に重みと激痛が伝った。新たな獣が喰らい付いたのだ。
「ぐっ・・・クソッ!!」
激痛に襲われ、拘束され掛けた彼は叫び、牙に因る傷が深まろうと構わずに身を捩った。力任せに振り解き、襲撃してきた一体を仕留めようと剣を振るうが、虚しき音が暴風雪の合間に消えるのみであった。
振り解いた先の数体に合わせ、攻撃を行おうとした一体は即座にその場から飛び退き、再び雪に潜っていく。その姿を睨むトレイドは痛々しく血を流し、苦戦の只中である事はそれだけで読めた。
息を激しくし、潜行した位置を確認しようとした彼の死角から再び獣が来襲する。牙を剥き、爪を研ぎ澄ませ、別方向から同時に襲い掛かる。飛び出す音に反射的に剣が振るわれる。腰を回し、やや斜めに薙ぎ払う。その苦し紛れの一撃に成果があった。手に伝わる僅かな感触、それは彼の面を柔らかくせず。
姿勢低く過ぎた一体は足に更なる傷を加え、即座に飛び退いて雪に紛れる。だが、一体は違った反応を見せる。小さな悲鳴を零し、攻撃を行う事無く着地して距離を取った。珍しく姿を晒すスノーローフの顔には小さな傷が刻まれていた。白き顔にかなり目立つ赤色の雫が伝って。
傷を負った一体は直ぐにも積雪に潜る。同時に彼の後方で音が鳴る。細やかな雪を散らして襲い掛かる獣。僅かに時間を稼ぎ、体勢を整えたトレイドは即座に対応する。痛む足で振り返りながら剣を斜に構える。切先付近に腕を添え、接近する姿を視認した。
覆い被さるように襲い掛かるその身に剣を添え、獣の動きに合わせて腕力を以って軌道を逸らす。完全に往なし切った時、強引に剣を振り抜いた。
肩に僅かな衝撃を感じ、揺らす剣の先端には血が伝う。険しき面は地面に落下した一体を捉える。体勢を崩し、地面に倒れ込む身体、腹部から流血が伝う。積雪を濡らし、赤い溜まりが少しつづ作られる。深手である事は確実。
重傷のスノーローフを前にしたトレイドは歩み出す。警戒を解かず、距離を詰める。その姿は如何見ても止めを刺そうとしているとしか見えず、隙にも見えた。それが彼の作戦でもあった。
スノーローフは連帯感や仲間意識が強い。その意識が強みであり、弱点でもある。誘い出されるように獣は雪の中か飛び出す。数は一つ、優勢である事を無視して姿を現し、数メートルあろう距離を駆け出していく。
それはまさに陽動に引っ掛かったと言える。雪道を掻き分け、急ぎ襲い掛かるスノーローフ。だが、その牙がトレイドの身に届く事は無かった。
次に起こした攻撃は精確であった。確かな足取り、定めた重心からの一撃は正確に獣に命中した。振り払われた刀身は獣の口を捉え、異物の抵抗感なく引き裂いてみせる。結果、頭部が分断され、瞬く間に命は終わり、その身は積雪に落ちて埋もれた。周囲は一瞬にして赤く染まって。
「漸く、一体・・・」
あまりにも手間取ったと後悔する彼は零す。まだ数体に囲まれており、長丁場に繋がる事を覚悟する。掠めた肩や衣服に付着した返り血には反応を示さず、今は周囲に意識を集める。けれど、その警戒は薄れていく事となる。
周辺から気配が消えていく。音を残している訳ではないのだが、殺気や欲を交えた視線が無くなったと感じ取る。緊張を解き、構えを解いても接近する気配が感じられなかった。その事から撤退したと判断出来た。
トレイドに敵わないと判断したとでも言うのか。直前まで殺気等を放っていた魔物がそう簡単に撤退するのか、疑問が残る。けれど、去った以上、そう受け止めるだけだと溜息を零す。
白き地に、流血して動かなくなった獣が横たわる。満身創痍とも言える身になりながらも仕留めた一体、漸くの成果に近付く。
「ッ!!」
襲来は本当に唐突であった。潜伏すら悟らせなかった技術、殺気を漏らさず、敵が油断を晒す時期を待ち、見極める執念は賞賛に値しよう。実際、トレイドは思考する余裕は一切無かった。
だが、遺伝子記憶の体験と彼自身の経験がその不意打ちを僅かに上回った。瞬間に洩れた殺気、耳にした穿孔する音に気配を察知し、トレイドはその場から飛び退いたのだ。
新たな痛みに歪む面で睨む彼は腕から腕に掛けて痛々しい引っ掻き傷を負う。肉を抉り取ったそれは首筋にも達し掛け、流血が周辺を汚す。けれど、致命傷には至らぬもの。動きに支障を来たせども、戦闘不能にはならないものであった。
睨む先、距離を置き、恐怖させるほどの形相を浮かべて警戒して身構える白き獣が映る。スノーローフ、その身は一回りも大柄な体格をしており、佇まいからも異なる力強さを感じ取る。それは恐らく群れの長、先程襲ってきた数体のを率いる存在であろう。
敵討ちに赴いたかのように見えるその獣は暫くトレイドを睨んでいた。恨めしくするように彼を睨んだ後、表情を変えずに四肢を動かす。ゆっくりと振り返り、雪に紛れながら静かにその場から立ち去って行った。それはこれ以上の戦闘は不毛だと言わんばかりに。
群れの長が立ち去る光景を睨みながらトレイドは息を吐き、今度こそ自分が仕留めたものの元へ近付く。
既に息絶え、吹雪に隠されつつあるその獣に抱いた印象は貧相。痩せ細っていた。肋骨が浮き出し、四肢は細い。身体全体が細くされる。元より潜行する為に細身、なれど彼の記憶がそれを否定した。
導き出されるのはやはり、食料が困窮していると言う事。人のみならず魔物も食料確保が難しい、その現実を前にトレイドは暴風雪に身体を揺らしながら物思う。だが、彼は横たわる死体の処理を施す手に移っていた。
厳しい事態に直面し、危惧し、嘆こう。だが、今彼がすべき事は別にある。自身の負傷も鑑みて、早急に村に届けて傷の処置を優先された。
慣れた手付きで処置を行い、左肩に担いで歩き出す。風に揺られ、負傷でやや足取りは覚束ない。依然と身体に違和感を抱える。それでも、黙々と帰路に立っていた。
「・・・そうか。それはその辺に放置しても構わん。後で誰かに処理させておこう。お主には別の・・・」
トレイド自身、実りは少なかったと理解していた。けれど、実に淡泊なものであった。いや、反応が無かったとも言える。まるで当然の事だと分からせるように、淡々と次の仕事を言い渡す。その事に彼は物悲しさを感じて止まなかった。
また、その光景を見掛けた人物も居た。負傷しながらでも獲物を仕留めた。侮辱であれ、賞賛であれ、反応はあろうか。だが、指し示すものは無かった。ちらりと見ただけで関わりを避けるように、その場から離れていった。
隔たり以前に、余所者としての疎外感。それを一身に受け、認めたとは言え、傷の処置もままならないままに次の仕事を言い渡される。その扱いの中で心は冷めていく一方であった。
所詮彼等に、魔族とって、トレイドが行っている事は、命令されて行っているだけとしか映らないだろう。どれだけ真剣に取り組もうと、熱心に頑張ろうと、人族である以上、自分達を傷付ける者としての意識は消えず、疑いの思考は拭い取れないのだ。
意欲が薄れ、物事の関心も薄くなった今の彼でも、流石にこたえていた。行う事に、歩み寄るなどの思考は持ち合わせていない。せめて力に為りたいと言う善意。それすらも否定されているようで、辛く感じ取っていた。
積雪が音を吸い込む、些細な音は全て。故に、朝の訪れはとても静かに訪れる。ゆっくりと外が明るくなり、曇った窓に日射が降り注ぐまで気付けないほど。
舞い降りる雪の姿は神秘的で、積もれば可愛らしく、若しくは美しい光景を作る一方、儚い身でも触れる全てを凍えさせる力を有する。
美しく、けれど人を凍えさせる環境を作り出す積雪に囲まれた地にて、トレイドは目を覚ます。涙を流し、魘されていた彼が感じたのは寒気。少し引き攣るような感覚を覚えつつ身体を起こす。周囲を見渡して今置かれる現状を思い出す。
「・・・そう、だったな。此処に、居るんだった、な・・・」
昨日、行った作業が脳裏に浮かぶ。あれからほぼ一日中、村と近くの雑木林の往復を繰り返していた。樹木を斧で切り崩しては大まかに切り分け、橇を使って村に運ぶ。運んだ先で細かく割って薪とし、乾燥させる為の小屋に運び、また雑木林へと向かう。
その為だろう、身体が少々軋み、筋肉痛に似た痛みが全身に伝い続ける。だが、直ぐにも忘れられる程度のもの。彼の頭は別の事を思い浮かべていた。
「夢・・・か」
思い返すのは先程まで見ていた夢。記憶の集合でしかないそれは過去の体験の再現。抱くのは、当時と変わらぬ思い。
ベッドの上で静かに思い返す彼の元にノック音が響かれた。続き、扉が開かれる。入ってきたのは家主である、魔族の村長。敵意を剥き出しにした顰め面を見せて。
「朝になったぞ、早く・・・ふん、もう挫けたのか?」
涙を伝わせて佇む彼に厳しい言動を掛ける。それにトレイドは気性を荒めず。ただ静かに息を零していた。
「・・・いや、少し、昔を思い出してしまった、だけだ」
遠く、悲しい目で答える。涙を拭わず、彼方を眺めて物思う姿は哀愁を感じる。孤独感で不安定な様子に村長は皮肉を憚っていた。
「・・・そろそろ、朝食を食べて支度するのだな。昨日と変わらず、薪作りだ」
「ああ・・・分かった」
意志を無視して強行させず、急かす程度の台詞を残して立ち去る。昔と言う単語に彼も何かを思い出したのかも知れない。そうなれば、変に刺激する事は躊躇したのか。
扉が閉ざされた瞬間から静けさは戻される。僅かな物音でも響き渡り、直ぐに消える部屋の中で沈黙を守ったトレイドだが、ゆっくりと静寂を破る。静かに涙を拭い、身体を解しながら支度を行い、部屋を後にするのであった。
寒冷地での暖かさは生死に関わる。故に準備は怠れない。だが、同時にその事前作業は肉体労働でしかない。大事だが嫌がられる仕事。彼に任せたのは試す意図も含めているのだろう。真摯に取り組み、問題性の有無を確認する為に。
外へと踏み出す。眼前に広がる世界は光陰の流れが緩やかに感じる程の、何もかもを呑み込むような静寂を齎す白き光景。
緩やかな風に煽られ、ゆらゆらと漂い、深々と降り続く雪の群れ。風に煽られるままに揺らめき、景色の全てを染め上げていく。その色は純潔に、積もり隠す姿は生まれ変わる寸前を彩るよう。
心を鎮めて癒し、没入させるほどに清らかな光景を前にして、しばしトレイドは目を奪われる。玄関から数歩出てその身は硬直するように止めれていた。
立ち止まり、数分、雪が広がる景色を眺め続ける。身に伝わる冷たさを思う存分に感じて。
抱く不可解な居心地の良さを、吐き捨てる溜息に乗せる。そうして気持ちを切り替え、背にする建物を迂回していく。
村長が暮らす建物はやや広い。部屋を幾つか持ち、共同倉庫も管理している為に敷地と言える場所は広い。過去に伴侶が居たのだろう、その思い出が随所に見える建物を周り込めば、その共同倉庫に着く。
除雪に関する道具の他、一般的な日曜大工の道具、使い道の少ない農業道具の傍に、使い古された斧が数多く並べられる。その一つをトレイドは手に取った。
それは木を伐採する為のもの、想像出来得る形状を為した斧である。扇状刃は峰が大部分を占め、主たる刃は傷だらけで鈍き光を放つ。切れ味は悪そうであっても、昨日は問題なく使用出来たので引き続き同じ物を使う。
更に、倉庫に立て掛けていた橇に手を掛ける。木の搬送の為に作られたそれの長き縄を手にし、肩に掛けて歩み出す。そうして、村の外へと向かっていった。
外に、目的の場所に向かうには村を横断しなければならない。そうする中で思い知らされる。自身は招かれざる客、そして脅威でしかない事に。
静かな朝、外に出る者は少ない。けれど、それでも十分に感情を読めるほどの睥睨が向けられる。忌避と侮蔑、偏見ではなく実体験も含めた恨み。誰もが表情を険しくさせ、物陰や部屋に慌てて戻るなど、あからさまな拒絶反応を示していた。
#人族__ヒュトゥム__#を許容しない心で満たされた視線に晒され、トレイドは胸中を表情に反映させる。気分を悪くし、必要のない責任を感じ、憂いに暗く沈ませていた。
進み行けば極度な反応を示され、必要以上に距離を取られたり、顰めた声で会話を行うなど、#人族__ヒュトゥム__#に対する嫌悪感を隠さず。そこには興味心も少なからずあるかも知れない。けれど、それを上回る恐怖と畏怖が視線に敵愾心を含ませた。
無意識に溜息を零す。沈んだ思いを吐き捨てようとして、重々しく。やや消沈する彼は不意に誰かを発見する。その目には重そうに荷物を運ぶ姿に映った。
「・・・重そうだな、手伝おうか」
視界に入ったならば放って置く事は出来ず。呼び掛け、手伝おうと手を伸ばす。
「いえ、それほど・・・え!?貴方はっ!?」
最初は親切を喜び、友好的に反応した女性。けれど、目の前に立つ人物が#人族__ヒュトゥム__#であると知ると否や途端に態度を変え、慌てて逃げ出していった。
「・・・そうか」
普段通りに話し掛けた、他意はなく。だが、現実がそれを否定した。決定的とも言える反応を前に心には深い傷が刻み込まれる。少しずつ取り戻しつつある気力を折られかねない反応に、再び溜息が一つ。
歩みを再開した彼の面は悲しみに満ちる。足取りも重くなる。引き摺るように、斧を、習慣付いた帯剣である黒い剣を提げて、進んでいった。
追い出されるように村を後にしたトレイドは黙々と雪道を上がる。視界に映る雑木林を目指し、静けさに包まれた道を黙々と歩む。かなり緩やか、しかし積雪が足を絡めて疲労は溜まる。何度も往来を繰り返した箇所を通っても、変わらず。
雪を踏む独特の音色が響く。夜を経過し、多少積もったそれでも十分に音色を立てる。同時に、先に圧縮した雪は氷のようになり、割り、砕く音も混じって。
目的の場所は半時間経とうと着かない。見えていてももどかしく感じる距離を彼は進む。村の傍の木々を伐採せず、離れた場所の雑木林に向かう理由。種類が異なり、植林し易く育ちが早い。その上、乾燥させ易く、長時間燃えると言った特徴があるから。
長距離の移動に対する煩わしさは先日に薄れ、白い呼吸を繰り返して黙々と進む。余計な事は考えず、目的地だけ目指していれば案外早く着くものだ。
山の斜面に挟まれるように雑木林が存在する。鱗状の樹皮を纏い、風が吹けば折れそうな枝を数多く携える。その先端には四角く見える広葉を蓄える。だが、あまりにも少なく、雪が積もれば最早枯れ果てた姿に映ろう。それが鬩ぎ合うように乱立していた。
広きその場には異なる点があった。伐採した後の切り株が点々とし、積雪に隠れつつあるそれからは時間の流れを感じる。その中で無視出来ない物が一つ、切り倒されてしまった樹木。薄い積雪を被ったそれの幹は太いのだが、その丈は随分と短くなっている。自然によるものではなく、人の手が加わった痕跡が強く残る。
それは昨日、運搬出来なかった残りの分である。日没によって中途半端のまま切り上げた為、今日はその続きとも言えた。
切り倒したそれに近付き、橇を傍に置く。その上に剣を置いた後、木に近付いて静かに斧を振り上げた。
歳を重ねた樹木に斧を振り下ろせば、容易く刃を喰い込ませない感触が衝撃と共に斧へ伝わる。手に痛みを、僅かな痺れを抱く。それでも、息を吐きながら振り上げ、傷付けた箇所に目掛けて振り下ろす。地道に傷を大きくする事で分割するのだ。
無心に斧を振るうトレイド。他の心配事など頭から排除し、ただひたすらに腕を振るって樵る音を響かせる。響く音は弱くならず、一定間隔で鳴り渡る。けれど、音は遠くまで木霊せず、雪に吸い込まれて村までには届かずに。
作業中、彼の腕は、右腕は違和感なく動き、確かに柄を握っていた。斧を十全に振るえるのは右腕の調子が良かったから。辛うじて自分の意思で動かせた為、作業に然程支障が生まれなかった。
だが、代わりのように全身に小さな痛みを感じていた。何かしらの後遺症のように、麻痺に因る引き攣りのような小さな痛み。頭の片隅で存在を主張するようなそれを終始抱いていた。
それに疑問を然程に抱かないのは魔具の所持に因る影響が進んだと想像した為に。進展し、いよいよ後に戻れない段階に至ったのかと、諦めの境地で捉えた為、それほど気に留めず、寧ろ好都合と言わんばかりに与えられた仕事に没頭していた。
ある程度切り分け、程良い太さの枝も共に橇に積載したならば次は運搬のみ。取手たる縄を肩に掛け、すっかり重くなった橇を引き摺って村を目指して歩き出す。
緩やかに下る坂道、橇を使用する為にある程度負担は減るものの、息を切らして汗を流すほどの重さがある。そして、距離。一人であろうと、多人数であろうと重労働には変わりなく。
休み休み雪道を下る。動けば身体は多少温まっても手足の末端は寒気や冷気で悴み、度々吐息で縄を握る手を暖めて歩む。幾滴か、汗を雪道に散らした頃、村に到着する。そうなれば目的の場所に、最後の仕上げを行う場所は遠くない。
乾燥場を目指せば隣接する開けた空間へ先に着く。中心にその土台がある。それもまた切り株である。平らであった切り口はすっかり使い古され、無数の切り口を刻まれて無残に。其処に立て掛けられるのは薪割用の斧。太く厚く広い刃を先端に付ける柄は細く頼りなさげに。
付近には巨大な屋根を以って雪を防ぎ、乾燥させる為に作られた棚。それにはもう既に多くの切り分けられた薪が並べられる。それも驚くほど相当の量、年単位で集められ、且つ全ての家庭で使う為に。それに加えて昨日の半日近くを費やした量が加えられる。だが、素人目でも足りない事は明らか。
備えの為に持ってきた分割した生木。切り株の上に置き、使い古した斧で叩き割っていく。多少コツを掴んだ彼は一息で木を更に分割する。際に響かせる音は一瞬、されど心を弾ませる心地の良い音。手際良く準備し、斧の重さと無駄な力を篭めずに振るい、実に淡々と。
単純作業ながらも薪割りは大切な仕事と言える。寒き地なら尚更に。真剣にそれに携われば多少は充実感が生まれようか。
しかし、彼の心が満たされる事は無い。満足感を抱くにはまだ遠く、気持ちが晴れる事もまた。今はただ、無心に斧を以って薪を作り続けていた。
【2】
「悪いが、狩りに出てもらうぞ」
昼を迎えた魔族の村。降雪が少し薄らぎ、陽射しが強くなった薪の乾燥場の付近にて、休もうとしたトレイドにそう告げられていた。
やや息を乱して差し出された昼食を受け取った彼は不快そうな村長の顔を眺めて次の台詞を待つ。その反応に彼は煩わしそうに口を開く。
「村から西、丁度伐採する場所とは真逆の方角。その方面に進んでいけば吹雪荒ぶ場所に到着する。その付近で出現する魔物を狩ってもらう。良いな?」
「どれだけ、狩ればいい?」
簡潔に言い渡し、立ち去ろうとした彼を呼び止める。今の彼は単純とは言えど重労働を行った身、その上で魔物の狩猟は無理を強いていると言い得る。けれど、異論は唱えず、多少踏み込んで尋ねていた。
「取れるだけ、だな」
「・・・分かった」
挑戦とも言える発言を残して村長は立ち去っていく。名前すら教えてくれない老人の背を見送り、トレイドは小さく息を整いながら受け取った昼食を口に運ぶ。スープ、もう既に冷めて。
「少し聞きたい事があるんだが・・・」
「話し掛けるな」
通り掛かった魔族に呼び掛けたとしても話すら出来ない。突き放すではなく、橋を架ける対岸すらないように辛辣に吐き捨てた。
伸ばした手すらも叩き払われ、強烈な拒絶心を示して男性は立ち去っていく。
それ以上声を掛ける事も出来ず、痺れ、震えるように小さな痙攣を起こす右手が握られる。黒いグローブは擦れて音を鳴らす。力強く握った拳を眺め、心を痛めていた。顔すら見ずに拒絶した事に対し、その胸には貫かれたが如き痛みに襲われて苦しんでいた。
「・・・流石に、辛いな」
まだ此処に訪れて数日程度。それでも#人族__ヒュトゥム__#に対する反応、扱いは陰惨である事を身に染みて理解する。口惜しさではなく、偏に感じるのは突き放される寂しさ。そして抱く痛みに表情を暗くさせて。
尋ねようとした事はこの地で駆られる魔物の詳細。名前を知らなくても、どのような姿をしているのか、大まかでも良いから知りたかった。それが会話の糸口になると思い、見事に拒否された形に終わっていた。
息がし辛くなる思いに顔を歪め、降り積もった雪を眺めて溜息を零す。気持ちを切り替えようとし、尚も沈み込む思いを抱えて歩き出す。村長に言われた通り、伐採場と言える雑木林とは逆の方向にへと。
村を出て間も無く地形に変化が現れ出す。山の傾斜に囲まれ、吹き溜まりのような地形は次第に緩やかな傾斜となる。けれど、坂道とは思えぬほどに角度は緩やかで気付けないだろう。
周囲は依然と白に包まれる。積雪は何処に向かおうが降り続けて全てを覆い隠していく。風は吹いても音はなく、冷え込んでも穏やかで綺麗な風景は歩む者を飽きさせないだろう。気晴らしに歩くならば、打って付けと言えた。
しかし、十数分程度進めば環境は急激な変化を見せる。元より数少ない植物である樹木が途絶え、降雪の量が増えて視界は悪くなっていく。そして、景色は荒んだ。
とある地点を境に冷風は吹き荒れた。大粒の雪がそれに巻き込まれ、礫のように降り注ぐ。視界はまさに最悪、周囲確認など困難を極めた。
荒れ狂う冷風は踏み入る生物を強引に揺さぶり、雪は肌を赤く染めるほど強く叩き付ける。冷風は呼吸を困難にさせ、体温は容赦なく奪われる。歩行は出来ても上手く歩めず、膝を着き、転倒する事は避けられぬ程に。
四方八方に吹き荒ぶ風は舞う雪が柔らかければ霧散させ、白き風となって抉る。巻き上げた積雪で更に空中を染め、その一帯は別の白で埋め尽くされていた。
暴風雪が為す風力は何もかもを薙ぎ倒すだろう。故に、周辺に樹木が無いのだろうか。
穏やかな気候からの変化には多少の前兆があった。けれど、唐突の変化を前にトレイドは大きく煽られ、思わず転倒しそうになる。それでも踏み止まってみせた。歩けないほどではないが気を抜けば瞬く間に転倒するだろう。
暴風雪は四方から吹き乱れる。宛ら嵐、踏み入った者誰もがそう思うだろう。現に訪れたトレイドの衣服は激しく暴れ、彼の身に叩き付けるように。
前方確認は困難、腕を翳して瞼は半開以上には出来ず。立つだけでも身には大粒の雪が張り付き、細やかな雪は凍えさせる。進みには力任せに積雪ごと地面を踏み締め、身体を前屈みにさせてなければ難しい。当然、進む速度は遅くなる。それでも、進み行けばある程度は慣れが訪れるものだ。
自然の容赦ない在り方、そうそう人智には及べない力を前にトレイドは少々苦戦を強いられた。芯を確りし、転ばぬように気を払いながら進む。慣れてから歩く速さは少し上がったとしても。
まだ体調は優れない。身体の違和感とは別に右腕も何とか振るえるまで回復したとは言え、狩猟を行うのは大よそ一週間ぶりの事、油断は禁物。周囲の警戒を細心の注意で行い、一歩を確かに踏み締めて目を凝らす。
時間を掛けて下り続けていれば地形と環境に少しの変化が訪れる。やや起伏のある坂は平坦な広場となる。植物はなく、深い積雪が広く行き渡る。冷風の荒さに落ち着きが見え、降雪は激しく揺らめきながらも着地する。
すっかり冷え、身体を僅かに震わせるトレイドはその空間を眺める。身に着ける金属に触れないようにし、ただ溜息を吐いてゆっくりと歩む。曇天の灰色が混じる白い世界、暴れ落ちていく幾多の雪の行方。合わさった雪の風景を前にした彼に今受ける体験に因ってだろう、奥底に沈んだ記憶の一部が揺さぶられた。同時に一瞬記憶が霞んだ。
それは彼が与り知れない記憶、似たような場所を苦難して進む映像。暴風雪の中を何かを喋りながら懸命に。知らぬ記憶が霞掛かって浮上してきたのだ。細部は分からなくとも、歩む情景と抱く奇妙な孤独感が込み上げて。
「・・・」
自然と零す溜息。疑念をそれに混ぜる。今はその疑念を抱いても仕方なく、その原因も分かっていた。遺伝子記憶、その影響だろう。その記憶に沿うように、辿るように歩みを強くする。自然と身体も軽くなって。
一呼吸する内に天候は荒れる。緩急を付けるように、また風が荒び、雪は重さを増す。意識を張り詰めて暴風雪を受けるトレイドの表情は険しい。その面も途端に鬼気迫るものへ豹変した。
風荒ぶ中で力強く立ち止まり、所持する黒き剣を早急に構える。環境故にそれは純黒に見え、鋭き双眸と同様に研ぎ澄まされる。その視線、剣先には白い世界が広がるのみ。だが、彼は両耳を、聴覚に神経を集中させていた。
「・・・居るな」
小さく確信する彼の耳が、荒ぶ風の音に紛れて遠吠えのような音を聞き取った。覚えを抱くそれは獣、犬種の遠吠えに酷似する。ローウスのそれと類似する。だが、ローウスは森林地帯を好んで生息し、寒冷地帯に出向く事は無い。
冷静に記憶を模索する彼の脳裏はとある魔物の姿を過ぎらせる。即座に浮かんだそれに警戒し、一層表情を引き締めて周囲を睨み付けた。
白い吐息は風に消え、白き視界の中で数歩分進む。それは摺り足で踏み込み、足場の位置を確かめるもの。雪の擦れる音を耳に、雪に取られて遅くなる足をゆっくり曲げて待機する。
襲撃を撃退する姿勢と取り、やや揺れる重心を留めるその姿に僅かながらの隙が見える。気の昂りか、それとも戦い自体が久し振りだと言う気後れがあるのか。風に抗うその面は依然と険しい。警戒を解けない彼の脳裏にはこれから戦うであろう魔物に関して思考が広がっていく。
周囲からの微かな気配とさっきとは異なる意欲が含んだ視線が痛烈に彼の肌を刺す。風の音と積雪で聞こえ難いのだが、耳を澄ませば複数の足音が聞こえる為、何かが接近している事は確か。数に関しては暴風雪に紛れて識別は出来なかった。
人にとっては劣悪な環境。それを良しとする生物もまた存在する。外部の存在が踏み入れて分が悪くなった事を見計らい、陣形を展開させれば一方的に狩る事が出来よう。降雪と吹雪、色と音色に紛れて姿を隠し、隙を衝いて敵を仕留める。それがこの環境を根城とし、繁殖する魔物の常套手段。環境を利用すると言う事は、一筋縄ではいかない事を示唆しよう。
【3】
警戒して数分、緩急を付けて荒ぶ環境下で彼は沈黙していた。絶えず身体を揺さぶる冷風。それは身を凍えさせる為に纏わり付く。紛れる無数の雪は体温を容赦なく奪い取う。積雪は足を絡め取り、行動を束縛してくる。音色は脳を入り乱れさせて切り裂くが如く、反響を起こさせるほど騒音。
その劣悪な環境の状況、荒んだ白い光景を前にしてトレイドは佇む。その彼に襲い掛かる存在は無かった。けれど、身を隠して着実に接近していよう。気配は感じ取れても明確には悟らせない狡猾さである。
獲物を発見した直ぐに襲撃に向かう事はしない。それは慎重な判断ではなく高き統率に因って作られた状況。襲う機会を窺っているのだろうがその心境を知る由がない。ともあれ、焦らすように、暴風雪と冷気に晒されるトレイドは少しずつ焦りを蓄積させていった。
視線を浴び、待機するトレイドの呼吸は少しずつ大きくなりつつある。風に晒されての疲労とは別に、次第に大きくなる身体の不調。それを耐え凌ぐように一際大きな溜息を吐き捨てた。掻き消えた吐息の向こう、何時でも迎撃出来るように深呼吸を繰り返して自身を正して待機し続けた。
風の音が聞こえ続ける時間が長引く。皮膚を凍て付かせる風に晒され、赤みが差していた表面から色が薄れていく。寒さに当然悴み、凍傷してしまうのかと思えるほど。それに怯まず、警戒を一時も途切れさせず。
だが、緊張は少しずつ薄れる。警戒もまた、遠退く気配に張り詰めていた気は緩む。襲って来る気配は無く、気の所為かと言う考えが過ぎる。その思いに続き、構えを解く。周囲を睨んだ後、気分を切り替えて再び歩き出そうとした。その時であった。
「っ!」
気が緩んだ彼は咄嗟に身構えた。再び遠吠えのような声が聞こえ、その方向へ振り向く。その直後、積雪が唐突に弾け、何かの唸り声と共に何かが飛び出した。
飛散する積雪の中、動体が振り向くトレイドの視界を掠める。咄嗟に身体を仰け反らし、反撃に移ろうとも間に合わず。
「ぐっ!」
右腕に痛みが生じ、片目を瞑って怯む彼の視界に白い何かが通過した。それが生物である事は確か。けれど、過ぎた方向を確認しても積雪の地に奇妙な穴しか見当たらず。
腕に刻まれた爪の跡、軽傷を気遣いながら襲ってきた存在に確証を得る。ならばと、次の行動を予測して周囲に警戒を強め、即座に動けるように心構える。それに対抗するように意識が逸れた瞬間、彼の正面から何かが飛び出した。
「っ!?」
跳躍する音、雪を掘り起こした音を聞き取った直後に行動は移された。その反応速度は強めた警戒に相応しい速度であった。けれど、身体の不調はそれに響いた。
振り向く身体の僅かな動きに合わせる黒い剣を振るう。雪を抉り払う逆袈裟。それは空を滑り、何も捉えず。事前に重心がずれた為に。当たらない事を悟った時には遅く、腕を振り上げつつある彼に一撃が加わる。横を過ぎ去り、潜行したであろう音が響いた。痛みに怯みつつ確認するが新たな穴が出来ているだけであった。
右腕に血を僅かに伝わせ、上腹部を気にするトレイド。追加の攻撃は胸甲で阻み、服を掠めた程度で済んでいた。それを確認する彼は反撃を外した事を身体の不調と関連付けた。ブランクを感ずるほど戦闘から離れていない彼はやはり魔具の影響と推察した。
だが、今は現状に集中するしかない彼。視界、そして聴覚を研ぎ澄ませて出方を窺う。剣を握る腕は僅かに揺れる。それは周囲の環境の所為ではない。
再び訪れた風の音が響く間隔、耳孔の奥に入り込む騒音が探索を阻害した。その引き裂くような風の音の中、掻き消えそうな程微少な音が鳴る。積雪に作用するそれはトレイドの後方、彼にとって完全な死角で生じた。
雪に溶けるほどの純白の体毛、当然この地での擬態、潜伏には相応しい。その体格は狼と酷似、ローウスと同様。身体は一回り程大きく、雪を掘り進んで飛び出せるほどに四肢は強く発達する。
その生物は此処に生息する魔物、スノーローフと呼ばれる積雪する寒冷地帯を好む獣。ローウスと同等の体格から近縁の魔物である。強きものを長に立て、その命令の下で行動する知性の高い魔物因みに、雪に隠れられる体毛に包まれた毛皮高貴で美しく、それなりに高価に取引される。
雪に潜りながら忍び足で接近するスノーローフ。擬態能力は視界に入っても気付けないほど高い。しかし、襲い掛かる時はどうやっても動き、音を出す。その時は同時に隙でもある。それを見極める為、静かに待機を続けていた。
じわじわと接近するスノーローフの一体、一定の距離を詰めた時に動き出した。身を包む積雪を散らし、向けられた背に向けて飛び掛かった。
掘り起こされた積雪の音、急襲せんとするその音をトレイドは聞き逃さなかった。旋回して反撃に移行するのだが、身体はやはり小さな歪を主張する。思考と身体の動きは僅かにずれ、振り抜いた先には掠めた体毛が散るのみ。
「スノー、ローフ・・・」
過ぎ去った動体を目で追い、左脇付近を気にするトレイドは呟く。視線は潜行した穴だけを捉え、歯痒さに表情を険しくする。
身体の不調に思うように動けない彼は休められない。息を大きく吐き捨てた彼は急ぎ身体を逸らしながら腕を振り上げる。降雪を切り裂く黒き刃はそれ以上何も捉えず、白い体毛すらも散らせず、足に噛み付かれてしまう。
呻き、激痛に怯めども反撃しようとした手は別の衝撃に防がれる。彼の後方から雪を散らす音が二つ鳴り、攻撃の手を防ぐかのように右肩や左腕に重みと激痛が伝った。新たな獣が喰らい付いたのだ。
「ぐっ・・・クソッ!!」
激痛に襲われ、拘束され掛けた彼は叫び、牙に因る傷が深まろうと構わずに身を捩った。力任せに振り解き、襲撃してきた一体を仕留めようと剣を振るうが、虚しき音が暴風雪の合間に消えるのみであった。
振り解いた先の数体に合わせ、攻撃を行おうとした一体は即座にその場から飛び退き、再び雪に潜っていく。その姿を睨むトレイドは痛々しく血を流し、苦戦の只中である事はそれだけで読めた。
息を激しくし、潜行した位置を確認しようとした彼の死角から再び獣が来襲する。牙を剥き、爪を研ぎ澄ませ、別方向から同時に襲い掛かる。飛び出す音に反射的に剣が振るわれる。腰を回し、やや斜めに薙ぎ払う。その苦し紛れの一撃に成果があった。手に伝わる僅かな感触、それは彼の面を柔らかくせず。
姿勢低く過ぎた一体は足に更なる傷を加え、即座に飛び退いて雪に紛れる。だが、一体は違った反応を見せる。小さな悲鳴を零し、攻撃を行う事無く着地して距離を取った。珍しく姿を晒すスノーローフの顔には小さな傷が刻まれていた。白き顔にかなり目立つ赤色の雫が伝って。
傷を負った一体は直ぐにも積雪に潜る。同時に彼の後方で音が鳴る。細やかな雪を散らして襲い掛かる獣。僅かに時間を稼ぎ、体勢を整えたトレイドは即座に対応する。痛む足で振り返りながら剣を斜に構える。切先付近に腕を添え、接近する姿を視認した。
覆い被さるように襲い掛かるその身に剣を添え、獣の動きに合わせて腕力を以って軌道を逸らす。完全に往なし切った時、強引に剣を振り抜いた。
肩に僅かな衝撃を感じ、揺らす剣の先端には血が伝う。険しき面は地面に落下した一体を捉える。体勢を崩し、地面に倒れ込む身体、腹部から流血が伝う。積雪を濡らし、赤い溜まりが少しつづ作られる。深手である事は確実。
重傷のスノーローフを前にしたトレイドは歩み出す。警戒を解かず、距離を詰める。その姿は如何見ても止めを刺そうとしているとしか見えず、隙にも見えた。それが彼の作戦でもあった。
スノーローフは連帯感や仲間意識が強い。その意識が強みであり、弱点でもある。誘い出されるように獣は雪の中か飛び出す。数は一つ、優勢である事を無視して姿を現し、数メートルあろう距離を駆け出していく。
それはまさに陽動に引っ掛かったと言える。雪道を掻き分け、急ぎ襲い掛かるスノーローフ。だが、その牙がトレイドの身に届く事は無かった。
次に起こした攻撃は精確であった。確かな足取り、定めた重心からの一撃は正確に獣に命中した。振り払われた刀身は獣の口を捉え、異物の抵抗感なく引き裂いてみせる。結果、頭部が分断され、瞬く間に命は終わり、その身は積雪に落ちて埋もれた。周囲は一瞬にして赤く染まって。
「漸く、一体・・・」
あまりにも手間取ったと後悔する彼は零す。まだ数体に囲まれており、長丁場に繋がる事を覚悟する。掠めた肩や衣服に付着した返り血には反応を示さず、今は周囲に意識を集める。けれど、その警戒は薄れていく事となる。
周辺から気配が消えていく。音を残している訳ではないのだが、殺気や欲を交えた視線が無くなったと感じ取る。緊張を解き、構えを解いても接近する気配が感じられなかった。その事から撤退したと判断出来た。
トレイドに敵わないと判断したとでも言うのか。直前まで殺気等を放っていた魔物がそう簡単に撤退するのか、疑問が残る。けれど、去った以上、そう受け止めるだけだと溜息を零す。
白き地に、流血して動かなくなった獣が横たわる。満身創痍とも言える身になりながらも仕留めた一体、漸くの成果に近付く。
「ッ!!」
襲来は本当に唐突であった。潜伏すら悟らせなかった技術、殺気を漏らさず、敵が油断を晒す時期を待ち、見極める執念は賞賛に値しよう。実際、トレイドは思考する余裕は一切無かった。
だが、遺伝子記憶の体験と彼自身の経験がその不意打ちを僅かに上回った。瞬間に洩れた殺気、耳にした穿孔する音に気配を察知し、トレイドはその場から飛び退いたのだ。
新たな痛みに歪む面で睨む彼は腕から腕に掛けて痛々しい引っ掻き傷を負う。肉を抉り取ったそれは首筋にも達し掛け、流血が周辺を汚す。けれど、致命傷には至らぬもの。動きに支障を来たせども、戦闘不能にはならないものであった。
睨む先、距離を置き、恐怖させるほどの形相を浮かべて警戒して身構える白き獣が映る。スノーローフ、その身は一回りも大柄な体格をしており、佇まいからも異なる力強さを感じ取る。それは恐らく群れの長、先程襲ってきた数体のを率いる存在であろう。
敵討ちに赴いたかのように見えるその獣は暫くトレイドを睨んでいた。恨めしくするように彼を睨んだ後、表情を変えずに四肢を動かす。ゆっくりと振り返り、雪に紛れながら静かにその場から立ち去って行った。それはこれ以上の戦闘は不毛だと言わんばかりに。
群れの長が立ち去る光景を睨みながらトレイドは息を吐き、今度こそ自分が仕留めたものの元へ近付く。
既に息絶え、吹雪に隠されつつあるその獣に抱いた印象は貧相。痩せ細っていた。肋骨が浮き出し、四肢は細い。身体全体が細くされる。元より潜行する為に細身、なれど彼の記憶がそれを否定した。
導き出されるのはやはり、食料が困窮していると言う事。人のみならず魔物も食料確保が難しい、その現実を前にトレイドは暴風雪に身体を揺らしながら物思う。だが、彼は横たわる死体の処理を施す手に移っていた。
厳しい事態に直面し、危惧し、嘆こう。だが、今彼がすべき事は別にある。自身の負傷も鑑みて、早急に村に届けて傷の処置を優先された。
慣れた手付きで処置を行い、左肩に担いで歩き出す。風に揺られ、負傷でやや足取りは覚束ない。依然と身体に違和感を抱える。それでも、黙々と帰路に立っていた。
「・・・そうか。それはその辺に放置しても構わん。後で誰かに処理させておこう。お主には別の・・・」
トレイド自身、実りは少なかったと理解していた。けれど、実に淡泊なものであった。いや、反応が無かったとも言える。まるで当然の事だと分からせるように、淡々と次の仕事を言い渡す。その事に彼は物悲しさを感じて止まなかった。
また、その光景を見掛けた人物も居た。負傷しながらでも獲物を仕留めた。侮辱であれ、賞賛であれ、反応はあろうか。だが、指し示すものは無かった。ちらりと見ただけで関わりを避けるように、その場から離れていった。
隔たり以前に、余所者としての疎外感。それを一身に受け、認めたとは言え、傷の処置もままならないままに次の仕事を言い渡される。その扱いの中で心は冷めていく一方であった。
所詮彼等に、魔族とって、トレイドが行っている事は、命令されて行っているだけとしか映らないだろう。どれだけ真剣に取り組もうと、熱心に頑張ろうと、人族である以上、自分達を傷付ける者としての意識は消えず、疑いの思考は拭い取れないのだ。
意欲が薄れ、物事の関心も薄くなった今の彼でも、流石にこたえていた。行う事に、歩み寄るなどの思考は持ち合わせていない。せめて力に為りたいと言う善意。それすらも否定されているようで、辛く感じ取っていた。
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