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もう会えないと嘆き、それでも誰かと出会って
雪解けは遠く、されどその兆しは確かに
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【1】
目覚めは倦怠感と共に。剥離したかのような意識の中で身体を起こし、疲労の溜息を零した事で正常に戻っていった。
トレイドは名を改めた地で縛られ、数日を経過していた。その日々は雑用を与えられ、ひたすらにこなす時間が流れていた。新しい環境に慣れる為ではなく、惰性のように雑用をこなす彼の面に映る感情は乏しくなっていた。
魔族からの待遇は変わらず冷淡であった。必要する時すらも関わりを避け、侮蔑の感情を隠さずに示す。それは今の彼でなくとも、心を痛め、嘆きたくなるだろう。
それでも、数日経過すれば彼等にも慣れが生まれる。同時にトレイドと言う人族に対する扱いにも変化が見られた。希少な労働源の一つとして見做したのか、仕事の時だけならば簡潔にでも支持するようになった。だがそれは進歩とは、関係改善とは言えない。寂しい変化、でしかなかった。
その中で彼に多く接する者が居る。二人、立場上仕方なく、事務的にでも指示を送る村長と、成り行きとは言えど危機を救われたクルーエである。恩を感じての事だろう、種族に因る隔たりとは関係なく感情を見せて積極的に彼と会話をしていた。
そんな彼女でも周囲の目がある時は余所余所しくなる。集団の中の一人、それは仕方のない反応。けれど、その事が彼には一番辛く感じていた。これほどまで悪化した現実に憤りを感じ、魔族から受ける悪意に憎めず、だからこそ辛かった。
寂しき思いの中、トレイドは連日狩りで村の外へと足を運ぶ。だが、ほぼほぼ収穫はない。あって、スノーローフを一頭であろう。遭遇しなければ、手ぶらでは帰られないとやや遠出して木を切り落して断片を引き摺って戻るか、野生の食料となる何かを片手に戻る、それが彼の役割になりつつあった。
繰り返される作業の合間、彼はただただ身体の乖離した感覚を抱いていた。違和感はやがて確かなズレとして変わりつつあった。思考と身体が如何にも合致せず、動き辛かった。それは魔具の影響だと諦めて。
体調が優れなくとも、彼は黙々と与えられた仕事をこなす。否定されようが、陰口を叩かれようが、黙々と目の前の事に集中して取り組んでいた。
それでも、ふと小休憩を挟んだ時に抱く。雪を降らす空を仰ぎ、溜めた息を零した際にふと抱く。
心に穴が開いたかのように、留まらずに吹き抜けていく感覚。どんな場所であろうと常に独りでしか居ないと錯覚する、孤独感。美しい景色の只中であろうと、取り残されたと感じて止まず。
溜息を何度も零し、視線を戻して見渡す。人が住み、その痕跡を深く刻んでいようと、冷たい風が吹き抜けるに相応しい、寂れた印象を受ける村の風景が映る。
何度目かの溜息を吐いた後、遣る瀬無い表情を滲ませた彼は手を、足を動かす。今の現状に、自身が置ける状況を噛み締め、それでもなお逃げるような足取りで。
【2】
その日もまた、先に行えと指示された薪製作に取り掛かっていた。切り倒した樹木の一部を運搬、指定した場所で叩き割って乾燥台に乗せる。その繰り返しを。
長時間薪を作り、抱いた疲労で小休憩を挟む。流石に休憩程度に文句を口にする者はなく、ぼんやりと周囲に広がる光景を眺めていた。そんな折、近付く小さな影に気付く。隠れ、様子を見るような姿は声を掛けるしかないだろうか。
複数、首を伸ばして眺める。小屋の影からトレイドの様子を窺う。表情は怖いもの見たさか。恐怖心はより強い好奇心に因って隠され、それに突き動かされた結果、今の現状であろう。ひそひそと話し合いながら観察する。
「俺に何か・・・」
流石に気になり、話し掛けながら近付こうとする。だが、立ち止まり、悲痛な表情に映していた。
トレイドが動き出したのを見た瞬間、小さな悲鳴を零して逃げ去っていったのだ。
彼を見ていたのは子供達、無論魔族である。純粋であり、感受性の高い子供の行動は実に素直。それ故に、どのような教育をされているのか一目で解ってしまう。
どうしようもない現実に胸を苦しめ、落胆した彼の溜息が響かれる。静かで透き通った空間には鮮明に響き渡っていった。
幾度と斧を振るって割り、幾つの薪を作っただろうか。手の平に鋭い痛みを感じたトレイドは手を止める。丁度区切りの薪を叩き割り、散らかる薪が彼の視界に入り込む。
小さく溜息を零してから寄せ集め、乾燥所に移してから再び一息挟む彼。伝った汗を拭い、切り株に戻っていく折であった。
「・・・ん?」
ふと、白が目立つ視界に何かが入り込んだ。小さく、動くもの。凝視しなくても人、子供である事は確かであった。またか、と思った彼だが、直ぐにも違う事に気付く。その子供は一人であり、何やら怒っている様子。ローブで包むその身は身長の割にはやけに着膨れしている。中に防寒着を着込んでいるのか。
何かブツブツと呟いて怒りを露わにして歩む。行先は決まっていないようで、雪を力一杯に踏み付けながらフラフラとする。その姿はやや危なく、転倒しそうな様子に眺めるトレイドは少し案ずる。
憂さを晴らしている様子の少女の足取りは次第にトレイドが立つ、薪割り場とも言える切り株へ進まれる。少女は踏む事に集中していて気付けず。しかし、地面の様子が異なれば気付けようか。
「あれ?・・・あれ?そこに居るのは・・・近付いたら駄目のお兄ちゃん?何をしているの?」
視線を上げた先でトレイドも気付き、直ぐにその正体を言い当てる。
言われた本人は小さく傷付いていた。影ではそんな風に言われていたのかと、子供達もそんな認識だったのかと、少し苦い顔で。
「薪を割っているんだ、村長に言われてな」
「そうなんだ」
子供、少女に対して口調を然程変えずに素直に答える。その最中、少女は露骨な嫌悪感を示さず、避けるような素振りも見せなかった。
「お手て、痛くならない?」
「ん?まぁ、そうだな。痛くなるが、しないといけないからな」
「大人の人はもっと楽にやるよ?魔操術で、スパってやるよ?お兄さんは出来ないの?」
「・・・聞き、覚えはあるが・・・出来ないな」
「出来なんだ。そうなんだ、なら、大変だね」
知らない筈の単語に少し聞き覚えを抱きつつ、警戒心を示さない、寧ろ人懐っこい少女と会話が続く。何時の間にか少女はトレイドの隣に立ち、やや悴んだ手の平に息を吐き掛けていた。
「君は出来るのか?」
「うん!まだ小さな火を出したり、雪を水にするぐらいしか出来ないけど、出来るよ!」
「そうか・・・それは、凄いな」
僅かな覚えから推察が広がる。それは聖復術の類であり、自然現象に作用する力か何かだと。そして、それは魔族にとっては常識的なものでもあると。
その認識は正しく、加えて、聖復術が使用者の思考に作用して生じる治す力ならば、魔操術は同様に生じる壊す力と言え、相反する能力と言えた。
えっへん、と誇らしげにする少女を眺め、トレイドは少しだけ心が救われていた。村長とクルーエ以外には接触を極力避けられた。まるで人肌が恋しくなる感覚の中、こんなにも積極的に、不快感を示さずに話してくれるのは感激せずには居られず。同時に疑問に思った。
「・・・君は、俺について、何も思わないのか?近付くな、と言われている筈だが・・・」
人族に敵愾心を示し、子供にも言い聞かせているだろう。少女が例に洩れるとは思えない。
「言われているけど・・・お兄ちゃんは悪い事をしたの?」
「いや・・・皆にはしていないな。寧ろ、恩人だな。だから、恩返しをしたくて、此処に居るんだ」
「そうなんだ、寂しくない?」
「・・・そうだな。でも、君が来てくれたから、大丈夫だな。ありがとう」
「?・・・どういたしまして!」
礼を告げられ、少女は首を傾げながらも笑みを浮かべて満面の笑みを浮かべた。
少女は然して気にしていない様子。何時の間にか目の間に居た人物が、例の人物であったとよう。寛容なのか、物事を深く考えない性格か。ともあれ、屈託のない笑みがトレイドの気持ちを幾分か和らげた。
「・・・それで、さっきまで怒っていたのは如何してなんだ?」
先程まで雪に八つ当たりするほど怒っていた。それが少し話し掛けただけでニコニコと笑うようになっていた。そして、問い掛けると忘れていた怒りを再燃させてぷりぷりと怒り出す。何とも起伏の激しい子供であろうか。
「えっとね、お兄ちゃんが村の外に行ったら駄目って言うんだよ!まだ小さいからって、連れて行ってくれないんだよ!」
「連れて行く?・・・狩りか何かに着いていこうとしたのか?」
「うん。そしたら、駄目、って!」
「それは俺でも止めるな、危ないからな。それに家で留守番するのも大事だぞ?」
「でも、つまんないよ!お外で遊んだら駄目って言うし、他の子も遊んでくれないんだよ!?お兄ちゃんも遊んでくれないんだもん!!」
少女は大層不満を募らせ、地団駄を踏む。トレイドの足の半分ほどの小さな足はその足裏の模様を雪に多く刻む。
「・・・そうか」
憤りを露わにする少女に対し、慰める言葉を言えずに口を塞ぐ。外で遊べず、他の子どもが応じられないのは自身が原因であると分かったから。
自分達を迫害する人族に子供を近付けさせたくないのは当然。接触する機会は外に出た瞬間から発生する。子供を案じ、守る為にはどうしても不自由を与えなければならない。
「・・・だが、あまり兄を困らせるような事はするな。君の事を思っての事だからな、妹に危ない事はさせたくない筈だ」
「あ!お兄ちゃんもそんな事を言うんだね!意地悪っ!」
親切心からの忠告に少女は頬を膨らませていじける。好奇心旺盛、遊びたがりの年頃の子供に自制は難しい。返って毒にもなる。それがこの反応だ。
「そうじゃない。狩りは危険を伴う、怪我をしてしまう。最悪の場合もある。その時、絶対守り切るなんて難しいんだ。もし、君に何かあったら、兄も辛いんだ」
「・・・お兄ちゃんが?私じゃなくて?」
「怪我したら痛くて辛い。でも、君の兄も守れなかったって辛くなる、苦しくなる。家族だからな、妹の事を大事に思って危ない事から遠ざけるのは普通の事だ」
「私のお父さんとお母さんも居たら、そうしてた?」
「!・・・ああ、絶対にな。俺の時も、そうだったからな・・・」
少女の発言にトレイドは激しく動揺する。両親の居ない事を告げられ、寂しさを思い出させたと言う罪悪感に囚われる。事実、少女の表情は寂しげに暗む。だからこそ断言した。自身の胸に過ぎった辛さも押し殺し、少女の鬱憤を発散させる為に告げた。
「・・・」
少女は難しい表情で黙り込む。トレイドの真剣な答えを受け、物耽る面は悲しげでも真剣に。
「・・・分かった、お家に帰る」
「・・・偉いぞ。物分かりが良い子で、君の兄も嬉しい筈だ」
思い返してくれたようで少女は元気良く告げてくれた。それに微笑みが自然と零されていた。
「バイバイ、お兄ちゃん」
「気を付けて帰れよ」
元気に手を振りながら少女は走り去っていく。やや危なっかしい姿に注意しながら見送る。本当に陽気な下で雪を物ともせずに走る。その足跡は最初のものとは違い、軽やかで無造作に荒らされていないそれが積雪に刻まれていた。
見送った後、トレイドは静かに切り株へ近寄る。十分に休息を取れたと斧を拾い、薪割りを再開させていた。その動きは心成しか軽やかに、何処か嬉しげに映ったのは気に所為ではないだろう。
【3】
正午近く、僅かばかり周辺が明るくなった頃。トレイドは再び暴風雪に包まれた場所に訪れていた。それは狩猟の為に。
風荒ぶ中に立つ彼の衣服が暴れ、彼を打ち付ける。身を守る為の防具の表面には雪が形を残してくっ付き、僅かに色を変えて凍て付く。素手で触る事は禁じよう。
その衣服、胸甲には血が付着する。その多くが返り血であり、点で織り成した線が起きた戦いの烈度を語る。そこには負傷に因る流血も含まれ、下方には赤くなった雪が点々と積雪を沈めていた。
已然としてトレイドは本調子には戻らなかった。身体の動きは正常だが、思うようには動いてくれず。どうしても対処が僅かに遅れ、要らぬ負傷を負ってしまう。攻撃を受けた衝撃、痛みに意識を分散する気疲れ、思うように動けない事への焦燥に息を切らして剣を構える。その足元には、動かなくなった獣が一つ。
返り血と自身の流血が混じった液体が、冷めたそれを伝わせて見渡す先には吹雪が舞う光景しか見当たらない。襲い来る存在は見えずとも、潜伏しながら襲う習性が、何より彼の傍で横たわるスノーローフの死骸が襲撃した存在を明確にする。
暴風雪舞う地帯に踏み入って直ぐにトレイドは襲われていた。それは環境を積極的に活用する習性があるものの、襲撃が早過ぎる事から先日戦闘を行った群れだと思われた。
一体を苦戦の末に打ち取り、呼吸を繰り返す彼の周囲の風の音は少しだけ治まる。それと同時に強襲の手が一旦止む。その隙に少しだけ身体の緊張を解いて脱力していた。
周囲を警戒しながら、積雪を使って刀身に纏う血を落とす。戦いを始めて数分、その行為に然したる意味が無くとも行われる。
多少血を残す刀身を一瞥して身体を起こす。構え直す直前、重なった音を彼の両耳を捉えた。
左右から一つ、同時攻撃である事は明白。若干、右側の出現が早く、その方向へ蹴り出した。
接近すると同時に右腕を振り上げていく。自身の動き、狼の動きに因って視覚では捉え切れず。彼の目が明確に捉えた時、自身が振るった剣、その剣が狼の肉体を切り裂いていた。
腕に伝わる異物を断つ感触を受けながらも振り抜く。吹雪に消えそうな小さき断末魔を後方に、冷風に因る肌の痛みを感ずる彼の至近距離に迫った物体が一つ。片方に対処している間、接近し、食い掛からんと爪と牙を尖らせて。
迎撃の為に身を動かす。けれど一歩遅く、またも身体の不調がまさに足を引っ張った。反撃の攻撃を行わんとした肩に噛み付かれてしまう。
「ッ!!」
激痛を受け、その苦痛に全力で噛み締める。顔を歪め、激痛に囚われながらも空手は即座に動いていた。
狼の首に掴み掛かり、全力を以て引き剥がす。歯型に沿って肩が引き裂かれるが構わずに。その動きのまま投げ捨てて反撃に映る。噛まれて下方に向けていた剣、それを破れかぶれに振り払う。だが、何も捉えなかった。
宙に浮いた狼は難なく態勢を整え、着地して見せた。血に染まった口を開き、歯を剥き出しにして威嚇して。
指示に忠実なのだろう、狼は即座に身を翻して積雪に潜る。潜行した穴を残し、姿は完全に隠された。
「はぁ・・・はぁ・・・」
肩を抑えて呼吸を繰り返すトレイドは警戒を解かない。周囲を睨み、次の動向を見定める。その目は白き空間しか捉えず、耳も雪に吸収されながらも荒れる風の音色だけを聞き取る。それ以上の音、雄叫びもまた聞こえなかった。
暫くその場で待機し、気配が感じられなくなった事を確認したトレイドは緊張を解く。群れは去ったと判断し、溜息を大きく吐き捨てた。その視線の先には、切断して死に至らしめたスノーローフが二つ転がる。
雪に融け込める白き身体、その切断面から流血が雪を染める。結果、その周辺はやけに目立つ赤色となる。何も知らぬ人が見たら、気分を悪くさせるに違いない。惨景の他のものでもない為に。
やや眉間に皺を寄せるトレイドは剣を握ったまま近付いていく。スノーローフの長を警戒しての事。もし来たら、対処出来るように心掛けて。
だが、襲来する事はなかった。警戒する片手間に処置を行い、肩に背負った彼はゆっくりと歩み出す。自分が来た道を引き返し、足跡を深く残して立ち去って行った。
【4】
「・・・ふぅ」
疲弊した溜息を零して担いだ戦利品を地面に落とす。乱雑に扱われたそれは積雪に埋もれて沈黙する。
あれから何事もなく村に戻ってきたトレイド。その姿に疲労の色は濃い。環境に晒され、身体の不調は消えず、その上に負傷を負う。気持ちは浮いている筈がない。負傷した傷には瘡蓋が出来て流血はないのだが、衣服に付着した血痕が彼の疲労を際立たせる。
ともあれ、見渡して誰かを捜す。食料であるスノーローフを手渡す為に、不快な表情を向けられてもしなければならない為に。
「あれは・・・」
人を探していた折、開けた場所故に遠方で動く何かを発見する。小さい何かが村の外へ出て行く姿が見えた。それは僅かな傾斜を持つ雪道を上がっていき、雑木林と山陰の向こうに消えていく。
数えて数秒程であろう。偶々発見しても然程気に留める事は無いだろう。しかし、トレイドは胸騒ぎを抱く。小さな身体に見えたのはただの遠近法、そう納得する事も出来る。けれど、その可能性も拭い切れなかった。
止めていた足がゆっくりと動き出す。雪を蹴り、踏み付ける強さと速さは増していく。同時に気持ちも逸り、焦りは思考を染めていく。
万が一、それを阻止する為に彼は必然的に走り、立ち去った小さな影を負って村を横断、再び外へ駆け出していった。
小さな影を追い、雪道を疾走したトレイド。足を取る積雪など意識から外し、点々と刻まれた小さな足跡を見逃さぬように神経を尖らせて。
その足跡は真新しいもの、降雪がまだなく、輪郭が崩れてもいない。それよりも足跡から明らかに子供である事知って焦りが深まっていた。先に見掛けた人影は子供であり、村の外に出たと判断して間違いなかった。
白い吐息で視界を霞ませるトレイドは遠くを睨む。既に薪となる雑木林は通り過ぎようとしている。やや曲がっていく地形の先に足跡は疎らに見えるものの、幾つかの足跡に因って識別はし辛い。けれど、雑木林には人影はない。
肩で息を切らし、頻りに視線を移動させる彼の足が再び動き出す。焦りが増していく中、判断したのは雑木林の先。まだそれほど離されていないと信じ、雪道を蹴り出していく。更に息を切らせども構わずに。
冷めた空気で凍て付いた肺が痛む。全身の節に痛みが走る。溜まる疲労に身体の動きは少しずつ鈍る。それでも、山肌に囲まれて曲がる地形を駆け抜けていく。丁度、曲がり角を曲がった彼は足を止めた。遠方に見える複数の人影を見て、気持ちが落ち着きを見せていた。けれど、少々様子がおかしく映る。悪い雰囲気を感じた。
「何で、外に出てきたんだ!弁当なんて、置いとけば良かっただろ!」
「でも、でも・・・」
「そこまで怒る必要はないだろ、セシア。責め過ぎだ」
「そもそも、お前が忘れてきたのが悪いんだろ。それをわざわざ届けてくれたのに、お前は・・・」
三人の青年と一人の少女が、無造作に立ち並ぶ森林の直前で立つ。何やら一人が少女に対して怒って諫め、同年齢と思しき二人が彼を慰めている様子。少女はひくひくと身体を震わせて泣く。セシアと呼ばれた彼は、トレイドを此処に運んできた一人。
その集まりが居る場所は多少開ける。急な角度を付けた山肌に囲まれ、何処まで続くか分からない森林が隙間を開けて存在する。別の方向には空間が続き、まだ奥がある様子。人が通った跡を思しき道が見え、再三に往来を繰り返しているよう。
多少の険悪な空気を作る四人を確認し、息を整えながら近付いていくトレイド。近付くにつれて声が聞け、次第にその内容を聞き取る事が出来た。途中からでも頻りに繰り返す単語から内容を大よそに把握した。
少女は狩猟に出掛けた兄が弁当を忘れた事に気付き、届ける為に言いつけを破って外に出た。丁度、それに気付いた兄も友人と共に引き返していた途中、妹と遭遇する。その時、兄であるセシアが言いつけを破った事に憤って叱り、友人がそれを宥めていた、これが大まかな全容である。
兄に叱られ、大粒の涙を流す少女。青年の一人がその頭を撫でて慰め、もう一人がセシアに言い過ぎたと諫める。ごめんなさいを繰り返し、涙する姿に反省したと見做したセシアは溜息を吐いて頭を掻く。
「・・・分かったんなら、良い。次から気を付けていればな」
流石に言い過ぎたと反省した彼は申し訳なさそうに弁当を受け取る。その所作で妹は多少安心し、涙を止めて笑顔を見せていた。
「しかし、妹ちゃんが此処に来ちまったし、送るしかねぇな」
「そうなるな。じゃあ・・・」
狩猟の再開よりもか弱い幼子の保護を優先し、誰かが送り届けなければならないと来た道を振り返る。何気ないそれによって、少女を追ってきたトレイドに気付く。彼もまた近付いており、距離は然程離れておらず。
傍に居る誰かがトレイド、人族だと理解した時、気付いた者の表情が一気に険しくなる。警戒心を深め、他の二人にも合図する。遅れて気付いた二人もまた敵意を露わにする。
特にセシアが武器に手を掛け、距離を詰めていった。
「人族が、何の用だ?如何して、後から出てきた。まさか、妹を追ってきたのか?」
「・・・ああ。丁度、狩りを終えて村に戻った時、あの子が外に出て行く光景を見た。何かあっては遅いと、追い駆けてきたんだ」
警戒心、敵愾心を剥き出しにして問う。その面は怒りよりも家族を守りたい思いが強く、それを受けてトレイドは疑われる事への怒りを抱かず、正直に経緯を語った。
「如何だかな。お前等人族は信用出来ない。実際は・・・」
「あ!あの時のお兄ちゃん!」
会話の途中、泣いていた少女が急激に元気を取り戻して駆け寄っていく。本当に人懐っこいと言えよう。だが、直前でセシアの顔色が変わる。
「ティナ!」
駆け寄ろうとした少女を名前で呼んで制する。声から怒りを抱いている事は明白、少女は転びそうになって立ち止まる。
「お前、こいつと会った事があるのか!?近寄るなと言った筈だぞ!それに、弁当以外でも外に出ていたのか!」
「で、でも・・・」
叱り付ける兄を、周囲は咎める事はしない。その点に関しては異論は無い様子。
「そんなに妹を責めるな。偶々会って、俺の方から話し掛けたんだ。それに付いては妹に落ち度はない」
午前に出会った少女はセシアの妹だと今知り、嘘を口にして庇う。その発言に鋭い視線が送られる。
「そうかよ、それが本当なら良いけどな」
怒りと敵意を隠さぬ彼だが叱責する言葉を止めていた。妹の反応から現状では害意を加えた訳ではないと判断したのか。
「・・・仕方ない。トレイド、だったか?俺の妹を村に、家に送ってくれ」
「おい、セシア」
「良いのかよ、こいつを信用して」
彼の判断に隣の二人が異論を挟む。人族を少しばかりでも信用したと判断したと考えられたから。
「仕方ないだろ、少しでも狩りの人手を割きたくない。俺の所為だが、時間を無駄にしてしまった。手が余っている奴が居るなら、そいつに任せたら良い」
「お前が、そう言うなら、良いけどよ・・・」
少なからずとも兄の判断、それ以上は口を挟まない。彼がそれに至ったのは、以前の功績を鑑みての事であろうか。
「・・・分かった、送り届ける」
「・・・ふん」
トレイドの真剣な承諾の言葉に、セシアは素っ気ない反応を見せて踵を返し、地形の奥へと歩き出す。取り巻く二人も同じように続く。
やや置いていかれ気味の少女、ティナは遅れて状況を理解して駆け出す。庇ってくれたトレイドに対して喜びと好意を抱いて笑みを浮かべて。
「そんなに走っていたら転ぶ・・・っ!?」
少女に注意を行おうとした声が途切れた。少々気に病む表情が急激に驚きと焦りに彩られていた。
距離を置いて話をさせられ、遠ざかる三人と近付く少女、それらを含めた光景を映す視界に異物がゆっくりと入り込んでいた。そのあまりにも自然に混入する様子に困惑し、思考が一瞬定まらなくなって。それでも衝動的に足は動いていた。
その存在は巧妙に姿を隠していた訳ではない。寧ろ、体色と図体から擬態は難しく、それに考えはないよう。だが、木々を視界の障害とし、隙を窺って身を潜めていた。人に類似した思考、的確に弱き者から狙う本能。それは人体と類似していた。
「如何したの?お兄ちゃん・・・え?」
血相を変えて近付くトレイドに異変に気付いた少女は立ち止まる。そして、横からの気配にも気付いて振り向く。その先には巨体の生物が巨大な何かを振り被っていた。そして、状況が追い付かない少女に目掛けて慈悲も無く振り下ろされた。
積雪が周辺に飛散する。雪、地を叩く音を響かせて何かは制止する。ゆっくりと持ち上げた生物は目の前の光景に疑念を抱いて顔を歪めていた。
強打された位置から少しばかり離れた位置、左腕をだらりと垂らして前傾姿勢のトレイドが立つ。左肩を手を添え、苦悶の表情を浮かべながらも戦意を昂らせる。その背には座り込むティナの姿、外傷はなく戸惑うのみ。
直前に気付いたトレイドは間一髪で救い出せた。けれど、攻撃までは避け切れず、左肩を強打させられてしまう。動作の機微だけで涙を出しそうになる激痛が伝う事から、骨折かそれに至りかねないヒビが入った事を懸念する。
「立てるな?」
「う、うん・・・」
「なら、俺の傍から離れるなよ」
それでもティナの安全を優先して姿勢を正す。身体を張って守り通す意思を過剰に奮い立たせ、痛みを振り切るように剣を構えた。
対峙する存在は緑の体色に包まれる。肌の露出がかなり多く、局部を隠す為の腰に薄い布を巻いただけの恰好。その為、肥えて巨大になった腹部が垂れて愚鈍さを引き立てる。動作ごとに若干に波打つ。その腹部だけでも並の生物以上の大きさを持つ。
それを確立させるのは体格、全身もまた丸みを帯びて肥えているものの随所に筋肉の筋を見せる。第一に大柄であった。人の何倍もの太く大きな体格を有する。それだけでどれ程の膂力を有するか想像に難くない。
極め付けて特徴的なのはその顔であろうか。整いの無い顔は醜いと言って差し支えないほど歪んでいた。閉じても隙間を見せる口から不揃いの牙が覗く。目の位置も不揃いであり、焦点がやや定まっていない。やや凹んだ頭部には伸ばし放題の頭髪が揃いも無く散らかされていた。
骨張って太い末端の先、ただの塊とも取れる木の棍棒を握り込むその生物は紛れもない魔物。名称をオーク、人型の生物であり、それなりの知識を有する群れを為す生物一つである。
そのオークは思いを頑なにしたトレイドに一歩踏み込むと無造作に棍棒を振るう。それは人が虫を払うように。
「くっ!」
何倍もの体格から繰り出される一撃、考えなくとも人を屠るには十分なものと言う事は本能で察する。だが、単純故に攻撃は躱す事は可能。けれど、ティナに及びかねず、全力を以て対処するしかなかった。
歯を食い縛り、全身の力を用い、まさに全力で下方から斬り上げる。右手の腕だけで、全身の筋肉を引き千切る勢いで振るい、無造作に振り上げる棍棒に打ち付ける。
彼の信念と力が勝ったか、単に狙いが外れただけなのか、棍棒の軌道は大よそ外れて大きな音を震わせて空を叩く。けれど、その先端には僅かに血が付着し、大きく仰け反るトレイドの姿があった。
オークの腕力を往なし切れず、頭部を打ち付けられたのだ。衝撃は彼の身を簡単に仰け反らせ、意識を遠退かせる。それほどに単純な力の差があった。
だが、トレイドは踏み止まる。遠退いた意識は気つけとなる痛みと意思に因って呼び戻し、額から多量の流血をさせながらも踏み止まってみせた。
その間、オークは疑問に満ちた顔を浮かべて動きを止めていた。己の力で砕けなかった事が不思議でならなかったのだろう。それは確かな隙でしかない。しかし、彼は踏み出さなかった。
彼は防戦に入るしかなかった。少女の足では逃げきれず、かと言って抱えて逃げるにも不調の身では出来るかどうか。なら、背にして諸共潰されないように守り通すしかなかった。そして、気付いてくれる事に希望を抱いていた。
不可解だと言う表情を浮かべながら武器を振り上げるオーク。動けぬトレイドごと少女を叩き潰そうとした寸前であった。
オークの蟀谷に矢が突き刺さる、軽い衝撃と共に的確に。それに巨体が若干傾く。それを機にしたのだろう、積雪が急激に盛り上がって幾多の氷柱となり、緑色の太き足に突き刺さった。
雁字搦めに縫い留めた氷柱に抵抗する間もなく、駆け抜けた透明な何かに因って棍棒を持つ手が切断された。
血だらけの手の欠片と棍棒が落ち行く間際、先の氷柱とは異なる別の個所で発生した巨大な氷柱が対する横腹を縫い通すように貫通する。それが決め手となった。
くぐもった断末魔を零して巨体は傾く。身体を貫いた氷柱を圧し折りながら地面に崩れて静かになる。事切れ、その周辺を僅かに赤色に染めていた。
それはあっと言う間であった。十分にも満たぬ出来事、オークが油断していた事も奇襲を掛けた事もあるだろう。けれど、その謎の猛攻には必死さ、人に対する配慮が感じられた。
「ティナ!!」
戦いが終わったと直後に名前が叫ばれた。呼んだのは違えようのなく、セシア。へたり込んだ少女に駆け寄って力の限りに抱き締めた。息を切らして駆け付けた共の二人もまた安堵を示す。
その姿を見て、トレイドは緊張を解いて膝を折る。大きく溜息を吐いて心の底から安心していた。
「・・・操魔術、か。助かった」
やや朦朧とする意識の中、そう判断した彼は謝意を口にする。オークを斃した不可思議な現象はそれでしか説明出来ず、それで彼も納得していた。受け入れられたのは事前に少女、ティナから教えられていたから。
小さな命を危なくとも助けられた事に小さな充実感、気分が少しばかり優れていく中、近付く影に気付いて見上げる。そこには真剣な顔の三人が立つ。少女ティナは少し涙ぐんで。
「ありがとう、妹を助けてくれて」
目元を赤くし、本気で心配した兄セシアは素直に感謝の言葉を告げた。其処に蟠りはない、本当にそう思ったからこそ告げていた。
「ああ、あんたが身を挺してくれなかったら、如何なっていた事か」
「誤解していたよ、あんたを」
残りの二人もまた同じように思いを改めていた。目の前で身を挺して助けていた姿を見ていれば見方は少しは変わろうか。
特にその思いが強いのはセシアであろう。クルーエを助けてくれたとは言え、不審は拭えていなかった。けれど、目の前で傷だらけになろうと妹を助けてくれた。その自己を犠牲にしてまで守る意思と行動力。もう否定など出来なかった。
「いや・・・偶然だ。俺が助けられたのは、運が良かっただけだ。此処に来てなかったら、そう思うとぞっとする。それに、倒したのはそっちだ。俺も助けられた、ありがとう」
「それでもだ、血を流してまで助けてくれたんだ。感謝しないと失礼だ」
「お兄ちゃん、ありがとう。頭、大丈夫?」
「ああ、何とも無い」
ティナも助けられた事を感謝し、額に手を伸ばして心配する。その心優しさに返すように、心配する少女の頭を撫でる。それを止める者など最早居なかった。
「さて・・・」
「お、おい、あまり無理は・・・」
膝を地に着けていたトレイドは立ち上がろうとして心配され、一瞬支えようする仕草が行われる。その細やかな心配だけでも彼は胸が少しだけ軽くなった。
「やる事が出来たからな。思わぬ事でオークが狩れたからな、運ばないとな」
「それはそうだが・・・」
「まぁ、それよりも村に戻らないといけない。何時までも、この子を外に出すのは気が引けるからな」
「あ、ああ、そうだな」
魔物に因る危険を先程思い知った。尚も晒したくない思いもあるだろう。それよりも何時までも冷気に子供を晒しておきたくない思いが強かった。
トレイドの発言に異論はなかった。先ずは村に戻る事を優先する。運搬にしても、子供の保護にしても村に戻らなければ始まらない為に。
そうして彼等は歩き出す。最初よりもずっと明るく軽くなった空気の中、各々の面は様々に。反省の色が強く、好意が多少交えて。けれど、当人だけは少しだけ難しい顔で思い返していた。
「・・・オーク」
道すがら、傷の手当を行いながら思い返していた。
高い知性を有し、人語ではない言葉を介してコミュニケーションを取れる魔物。人の社会に近い集団生活をし、道具などを作成して狩りを行える存在。人と変わらないと言っても過言では無い。
そんな存在を目の当たりにした。その事に対して危機感が生まれる。そう、オークもまた、群れを築き、集団で動く事が主な魔物。それが単体で居る事に疑問を感じていた。
その思いは嫌な予感、胸騒ぎとして彼に巣食う。その迷いを断ち切るには散策、調べると言った方法しかない。その為には直ぐにも捜索に手を着けるのが妥当。だが、今は出来ず、先に述べた事を片付ける事を優先していた。
この一件で彼の評価が劇的に変わる事は無かった。真偽はともあれ、信頼以前の話であった。彼の実力の程は知らなかった。だが、魔物を対処出来る実力はある。ならば少しでも戦える者が居た方が安心しよう。例え、人族であっても、その考えが多少生まれただけであった。
拠って、苦痛を感じる視線はまだ続く。敵意、疎外する思いは消えぬ事は無い。けれど、無我夢中の行為が少しずつ変化を齎している事は、彼自身気付けなかった。ただ、今の虚しさを払拭する為に、手を動かし続ける事を考え続けていた。
目覚めは倦怠感と共に。剥離したかのような意識の中で身体を起こし、疲労の溜息を零した事で正常に戻っていった。
トレイドは名を改めた地で縛られ、数日を経過していた。その日々は雑用を与えられ、ひたすらにこなす時間が流れていた。新しい環境に慣れる為ではなく、惰性のように雑用をこなす彼の面に映る感情は乏しくなっていた。
魔族からの待遇は変わらず冷淡であった。必要する時すらも関わりを避け、侮蔑の感情を隠さずに示す。それは今の彼でなくとも、心を痛め、嘆きたくなるだろう。
それでも、数日経過すれば彼等にも慣れが生まれる。同時にトレイドと言う人族に対する扱いにも変化が見られた。希少な労働源の一つとして見做したのか、仕事の時だけならば簡潔にでも支持するようになった。だがそれは進歩とは、関係改善とは言えない。寂しい変化、でしかなかった。
その中で彼に多く接する者が居る。二人、立場上仕方なく、事務的にでも指示を送る村長と、成り行きとは言えど危機を救われたクルーエである。恩を感じての事だろう、種族に因る隔たりとは関係なく感情を見せて積極的に彼と会話をしていた。
そんな彼女でも周囲の目がある時は余所余所しくなる。集団の中の一人、それは仕方のない反応。けれど、その事が彼には一番辛く感じていた。これほどまで悪化した現実に憤りを感じ、魔族から受ける悪意に憎めず、だからこそ辛かった。
寂しき思いの中、トレイドは連日狩りで村の外へと足を運ぶ。だが、ほぼほぼ収穫はない。あって、スノーローフを一頭であろう。遭遇しなければ、手ぶらでは帰られないとやや遠出して木を切り落して断片を引き摺って戻るか、野生の食料となる何かを片手に戻る、それが彼の役割になりつつあった。
繰り返される作業の合間、彼はただただ身体の乖離した感覚を抱いていた。違和感はやがて確かなズレとして変わりつつあった。思考と身体が如何にも合致せず、動き辛かった。それは魔具の影響だと諦めて。
体調が優れなくとも、彼は黙々と与えられた仕事をこなす。否定されようが、陰口を叩かれようが、黙々と目の前の事に集中して取り組んでいた。
それでも、ふと小休憩を挟んだ時に抱く。雪を降らす空を仰ぎ、溜めた息を零した際にふと抱く。
心に穴が開いたかのように、留まらずに吹き抜けていく感覚。どんな場所であろうと常に独りでしか居ないと錯覚する、孤独感。美しい景色の只中であろうと、取り残されたと感じて止まず。
溜息を何度も零し、視線を戻して見渡す。人が住み、その痕跡を深く刻んでいようと、冷たい風が吹き抜けるに相応しい、寂れた印象を受ける村の風景が映る。
何度目かの溜息を吐いた後、遣る瀬無い表情を滲ませた彼は手を、足を動かす。今の現状に、自身が置ける状況を噛み締め、それでもなお逃げるような足取りで。
【2】
その日もまた、先に行えと指示された薪製作に取り掛かっていた。切り倒した樹木の一部を運搬、指定した場所で叩き割って乾燥台に乗せる。その繰り返しを。
長時間薪を作り、抱いた疲労で小休憩を挟む。流石に休憩程度に文句を口にする者はなく、ぼんやりと周囲に広がる光景を眺めていた。そんな折、近付く小さな影に気付く。隠れ、様子を見るような姿は声を掛けるしかないだろうか。
複数、首を伸ばして眺める。小屋の影からトレイドの様子を窺う。表情は怖いもの見たさか。恐怖心はより強い好奇心に因って隠され、それに突き動かされた結果、今の現状であろう。ひそひそと話し合いながら観察する。
「俺に何か・・・」
流石に気になり、話し掛けながら近付こうとする。だが、立ち止まり、悲痛な表情に映していた。
トレイドが動き出したのを見た瞬間、小さな悲鳴を零して逃げ去っていったのだ。
彼を見ていたのは子供達、無論魔族である。純粋であり、感受性の高い子供の行動は実に素直。それ故に、どのような教育をされているのか一目で解ってしまう。
どうしようもない現実に胸を苦しめ、落胆した彼の溜息が響かれる。静かで透き通った空間には鮮明に響き渡っていった。
幾度と斧を振るって割り、幾つの薪を作っただろうか。手の平に鋭い痛みを感じたトレイドは手を止める。丁度区切りの薪を叩き割り、散らかる薪が彼の視界に入り込む。
小さく溜息を零してから寄せ集め、乾燥所に移してから再び一息挟む彼。伝った汗を拭い、切り株に戻っていく折であった。
「・・・ん?」
ふと、白が目立つ視界に何かが入り込んだ。小さく、動くもの。凝視しなくても人、子供である事は確かであった。またか、と思った彼だが、直ぐにも違う事に気付く。その子供は一人であり、何やら怒っている様子。ローブで包むその身は身長の割にはやけに着膨れしている。中に防寒着を着込んでいるのか。
何かブツブツと呟いて怒りを露わにして歩む。行先は決まっていないようで、雪を力一杯に踏み付けながらフラフラとする。その姿はやや危なく、転倒しそうな様子に眺めるトレイドは少し案ずる。
憂さを晴らしている様子の少女の足取りは次第にトレイドが立つ、薪割り場とも言える切り株へ進まれる。少女は踏む事に集中していて気付けず。しかし、地面の様子が異なれば気付けようか。
「あれ?・・・あれ?そこに居るのは・・・近付いたら駄目のお兄ちゃん?何をしているの?」
視線を上げた先でトレイドも気付き、直ぐにその正体を言い当てる。
言われた本人は小さく傷付いていた。影ではそんな風に言われていたのかと、子供達もそんな認識だったのかと、少し苦い顔で。
「薪を割っているんだ、村長に言われてな」
「そうなんだ」
子供、少女に対して口調を然程変えずに素直に答える。その最中、少女は露骨な嫌悪感を示さず、避けるような素振りも見せなかった。
「お手て、痛くならない?」
「ん?まぁ、そうだな。痛くなるが、しないといけないからな」
「大人の人はもっと楽にやるよ?魔操術で、スパってやるよ?お兄さんは出来ないの?」
「・・・聞き、覚えはあるが・・・出来ないな」
「出来なんだ。そうなんだ、なら、大変だね」
知らない筈の単語に少し聞き覚えを抱きつつ、警戒心を示さない、寧ろ人懐っこい少女と会話が続く。何時の間にか少女はトレイドの隣に立ち、やや悴んだ手の平に息を吐き掛けていた。
「君は出来るのか?」
「うん!まだ小さな火を出したり、雪を水にするぐらいしか出来ないけど、出来るよ!」
「そうか・・・それは、凄いな」
僅かな覚えから推察が広がる。それは聖復術の類であり、自然現象に作用する力か何かだと。そして、それは魔族にとっては常識的なものでもあると。
その認識は正しく、加えて、聖復術が使用者の思考に作用して生じる治す力ならば、魔操術は同様に生じる壊す力と言え、相反する能力と言えた。
えっへん、と誇らしげにする少女を眺め、トレイドは少しだけ心が救われていた。村長とクルーエ以外には接触を極力避けられた。まるで人肌が恋しくなる感覚の中、こんなにも積極的に、不快感を示さずに話してくれるのは感激せずには居られず。同時に疑問に思った。
「・・・君は、俺について、何も思わないのか?近付くな、と言われている筈だが・・・」
人族に敵愾心を示し、子供にも言い聞かせているだろう。少女が例に洩れるとは思えない。
「言われているけど・・・お兄ちゃんは悪い事をしたの?」
「いや・・・皆にはしていないな。寧ろ、恩人だな。だから、恩返しをしたくて、此処に居るんだ」
「そうなんだ、寂しくない?」
「・・・そうだな。でも、君が来てくれたから、大丈夫だな。ありがとう」
「?・・・どういたしまして!」
礼を告げられ、少女は首を傾げながらも笑みを浮かべて満面の笑みを浮かべた。
少女は然して気にしていない様子。何時の間にか目の間に居た人物が、例の人物であったとよう。寛容なのか、物事を深く考えない性格か。ともあれ、屈託のない笑みがトレイドの気持ちを幾分か和らげた。
「・・・それで、さっきまで怒っていたのは如何してなんだ?」
先程まで雪に八つ当たりするほど怒っていた。それが少し話し掛けただけでニコニコと笑うようになっていた。そして、問い掛けると忘れていた怒りを再燃させてぷりぷりと怒り出す。何とも起伏の激しい子供であろうか。
「えっとね、お兄ちゃんが村の外に行ったら駄目って言うんだよ!まだ小さいからって、連れて行ってくれないんだよ!」
「連れて行く?・・・狩りか何かに着いていこうとしたのか?」
「うん。そしたら、駄目、って!」
「それは俺でも止めるな、危ないからな。それに家で留守番するのも大事だぞ?」
「でも、つまんないよ!お外で遊んだら駄目って言うし、他の子も遊んでくれないんだよ!?お兄ちゃんも遊んでくれないんだもん!!」
少女は大層不満を募らせ、地団駄を踏む。トレイドの足の半分ほどの小さな足はその足裏の模様を雪に多く刻む。
「・・・そうか」
憤りを露わにする少女に対し、慰める言葉を言えずに口を塞ぐ。外で遊べず、他の子どもが応じられないのは自身が原因であると分かったから。
自分達を迫害する人族に子供を近付けさせたくないのは当然。接触する機会は外に出た瞬間から発生する。子供を案じ、守る為にはどうしても不自由を与えなければならない。
「・・・だが、あまり兄を困らせるような事はするな。君の事を思っての事だからな、妹に危ない事はさせたくない筈だ」
「あ!お兄ちゃんもそんな事を言うんだね!意地悪っ!」
親切心からの忠告に少女は頬を膨らませていじける。好奇心旺盛、遊びたがりの年頃の子供に自制は難しい。返って毒にもなる。それがこの反応だ。
「そうじゃない。狩りは危険を伴う、怪我をしてしまう。最悪の場合もある。その時、絶対守り切るなんて難しいんだ。もし、君に何かあったら、兄も辛いんだ」
「・・・お兄ちゃんが?私じゃなくて?」
「怪我したら痛くて辛い。でも、君の兄も守れなかったって辛くなる、苦しくなる。家族だからな、妹の事を大事に思って危ない事から遠ざけるのは普通の事だ」
「私のお父さんとお母さんも居たら、そうしてた?」
「!・・・ああ、絶対にな。俺の時も、そうだったからな・・・」
少女の発言にトレイドは激しく動揺する。両親の居ない事を告げられ、寂しさを思い出させたと言う罪悪感に囚われる。事実、少女の表情は寂しげに暗む。だからこそ断言した。自身の胸に過ぎった辛さも押し殺し、少女の鬱憤を発散させる為に告げた。
「・・・」
少女は難しい表情で黙り込む。トレイドの真剣な答えを受け、物耽る面は悲しげでも真剣に。
「・・・分かった、お家に帰る」
「・・・偉いぞ。物分かりが良い子で、君の兄も嬉しい筈だ」
思い返してくれたようで少女は元気良く告げてくれた。それに微笑みが自然と零されていた。
「バイバイ、お兄ちゃん」
「気を付けて帰れよ」
元気に手を振りながら少女は走り去っていく。やや危なっかしい姿に注意しながら見送る。本当に陽気な下で雪を物ともせずに走る。その足跡は最初のものとは違い、軽やかで無造作に荒らされていないそれが積雪に刻まれていた。
見送った後、トレイドは静かに切り株へ近寄る。十分に休息を取れたと斧を拾い、薪割りを再開させていた。その動きは心成しか軽やかに、何処か嬉しげに映ったのは気に所為ではないだろう。
【3】
正午近く、僅かばかり周辺が明るくなった頃。トレイドは再び暴風雪に包まれた場所に訪れていた。それは狩猟の為に。
風荒ぶ中に立つ彼の衣服が暴れ、彼を打ち付ける。身を守る為の防具の表面には雪が形を残してくっ付き、僅かに色を変えて凍て付く。素手で触る事は禁じよう。
その衣服、胸甲には血が付着する。その多くが返り血であり、点で織り成した線が起きた戦いの烈度を語る。そこには負傷に因る流血も含まれ、下方には赤くなった雪が点々と積雪を沈めていた。
已然としてトレイドは本調子には戻らなかった。身体の動きは正常だが、思うようには動いてくれず。どうしても対処が僅かに遅れ、要らぬ負傷を負ってしまう。攻撃を受けた衝撃、痛みに意識を分散する気疲れ、思うように動けない事への焦燥に息を切らして剣を構える。その足元には、動かなくなった獣が一つ。
返り血と自身の流血が混じった液体が、冷めたそれを伝わせて見渡す先には吹雪が舞う光景しか見当たらない。襲い来る存在は見えずとも、潜伏しながら襲う習性が、何より彼の傍で横たわるスノーローフの死骸が襲撃した存在を明確にする。
暴風雪舞う地帯に踏み入って直ぐにトレイドは襲われていた。それは環境を積極的に活用する習性があるものの、襲撃が早過ぎる事から先日戦闘を行った群れだと思われた。
一体を苦戦の末に打ち取り、呼吸を繰り返す彼の周囲の風の音は少しだけ治まる。それと同時に強襲の手が一旦止む。その隙に少しだけ身体の緊張を解いて脱力していた。
周囲を警戒しながら、積雪を使って刀身に纏う血を落とす。戦いを始めて数分、その行為に然したる意味が無くとも行われる。
多少血を残す刀身を一瞥して身体を起こす。構え直す直前、重なった音を彼の両耳を捉えた。
左右から一つ、同時攻撃である事は明白。若干、右側の出現が早く、その方向へ蹴り出した。
接近すると同時に右腕を振り上げていく。自身の動き、狼の動きに因って視覚では捉え切れず。彼の目が明確に捉えた時、自身が振るった剣、その剣が狼の肉体を切り裂いていた。
腕に伝わる異物を断つ感触を受けながらも振り抜く。吹雪に消えそうな小さき断末魔を後方に、冷風に因る肌の痛みを感ずる彼の至近距離に迫った物体が一つ。片方に対処している間、接近し、食い掛からんと爪と牙を尖らせて。
迎撃の為に身を動かす。けれど一歩遅く、またも身体の不調がまさに足を引っ張った。反撃の攻撃を行わんとした肩に噛み付かれてしまう。
「ッ!!」
激痛を受け、その苦痛に全力で噛み締める。顔を歪め、激痛に囚われながらも空手は即座に動いていた。
狼の首に掴み掛かり、全力を以て引き剥がす。歯型に沿って肩が引き裂かれるが構わずに。その動きのまま投げ捨てて反撃に映る。噛まれて下方に向けていた剣、それを破れかぶれに振り払う。だが、何も捉えなかった。
宙に浮いた狼は難なく態勢を整え、着地して見せた。血に染まった口を開き、歯を剥き出しにして威嚇して。
指示に忠実なのだろう、狼は即座に身を翻して積雪に潜る。潜行した穴を残し、姿は完全に隠された。
「はぁ・・・はぁ・・・」
肩を抑えて呼吸を繰り返すトレイドは警戒を解かない。周囲を睨み、次の動向を見定める。その目は白き空間しか捉えず、耳も雪に吸収されながらも荒れる風の音色だけを聞き取る。それ以上の音、雄叫びもまた聞こえなかった。
暫くその場で待機し、気配が感じられなくなった事を確認したトレイドは緊張を解く。群れは去ったと判断し、溜息を大きく吐き捨てた。その視線の先には、切断して死に至らしめたスノーローフが二つ転がる。
雪に融け込める白き身体、その切断面から流血が雪を染める。結果、その周辺はやけに目立つ赤色となる。何も知らぬ人が見たら、気分を悪くさせるに違いない。惨景の他のものでもない為に。
やや眉間に皺を寄せるトレイドは剣を握ったまま近付いていく。スノーローフの長を警戒しての事。もし来たら、対処出来るように心掛けて。
だが、襲来する事はなかった。警戒する片手間に処置を行い、肩に背負った彼はゆっくりと歩み出す。自分が来た道を引き返し、足跡を深く残して立ち去って行った。
【4】
「・・・ふぅ」
疲弊した溜息を零して担いだ戦利品を地面に落とす。乱雑に扱われたそれは積雪に埋もれて沈黙する。
あれから何事もなく村に戻ってきたトレイド。その姿に疲労の色は濃い。環境に晒され、身体の不調は消えず、その上に負傷を負う。気持ちは浮いている筈がない。負傷した傷には瘡蓋が出来て流血はないのだが、衣服に付着した血痕が彼の疲労を際立たせる。
ともあれ、見渡して誰かを捜す。食料であるスノーローフを手渡す為に、不快な表情を向けられてもしなければならない為に。
「あれは・・・」
人を探していた折、開けた場所故に遠方で動く何かを発見する。小さい何かが村の外へ出て行く姿が見えた。それは僅かな傾斜を持つ雪道を上がっていき、雑木林と山陰の向こうに消えていく。
数えて数秒程であろう。偶々発見しても然程気に留める事は無いだろう。しかし、トレイドは胸騒ぎを抱く。小さな身体に見えたのはただの遠近法、そう納得する事も出来る。けれど、その可能性も拭い切れなかった。
止めていた足がゆっくりと動き出す。雪を蹴り、踏み付ける強さと速さは増していく。同時に気持ちも逸り、焦りは思考を染めていく。
万が一、それを阻止する為に彼は必然的に走り、立ち去った小さな影を負って村を横断、再び外へ駆け出していった。
小さな影を追い、雪道を疾走したトレイド。足を取る積雪など意識から外し、点々と刻まれた小さな足跡を見逃さぬように神経を尖らせて。
その足跡は真新しいもの、降雪がまだなく、輪郭が崩れてもいない。それよりも足跡から明らかに子供である事知って焦りが深まっていた。先に見掛けた人影は子供であり、村の外に出たと判断して間違いなかった。
白い吐息で視界を霞ませるトレイドは遠くを睨む。既に薪となる雑木林は通り過ぎようとしている。やや曲がっていく地形の先に足跡は疎らに見えるものの、幾つかの足跡に因って識別はし辛い。けれど、雑木林には人影はない。
肩で息を切らし、頻りに視線を移動させる彼の足が再び動き出す。焦りが増していく中、判断したのは雑木林の先。まだそれほど離されていないと信じ、雪道を蹴り出していく。更に息を切らせども構わずに。
冷めた空気で凍て付いた肺が痛む。全身の節に痛みが走る。溜まる疲労に身体の動きは少しずつ鈍る。それでも、山肌に囲まれて曲がる地形を駆け抜けていく。丁度、曲がり角を曲がった彼は足を止めた。遠方に見える複数の人影を見て、気持ちが落ち着きを見せていた。けれど、少々様子がおかしく映る。悪い雰囲気を感じた。
「何で、外に出てきたんだ!弁当なんて、置いとけば良かっただろ!」
「でも、でも・・・」
「そこまで怒る必要はないだろ、セシア。責め過ぎだ」
「そもそも、お前が忘れてきたのが悪いんだろ。それをわざわざ届けてくれたのに、お前は・・・」
三人の青年と一人の少女が、無造作に立ち並ぶ森林の直前で立つ。何やら一人が少女に対して怒って諫め、同年齢と思しき二人が彼を慰めている様子。少女はひくひくと身体を震わせて泣く。セシアと呼ばれた彼は、トレイドを此処に運んできた一人。
その集まりが居る場所は多少開ける。急な角度を付けた山肌に囲まれ、何処まで続くか分からない森林が隙間を開けて存在する。別の方向には空間が続き、まだ奥がある様子。人が通った跡を思しき道が見え、再三に往来を繰り返しているよう。
多少の険悪な空気を作る四人を確認し、息を整えながら近付いていくトレイド。近付くにつれて声が聞け、次第にその内容を聞き取る事が出来た。途中からでも頻りに繰り返す単語から内容を大よそに把握した。
少女は狩猟に出掛けた兄が弁当を忘れた事に気付き、届ける為に言いつけを破って外に出た。丁度、それに気付いた兄も友人と共に引き返していた途中、妹と遭遇する。その時、兄であるセシアが言いつけを破った事に憤って叱り、友人がそれを宥めていた、これが大まかな全容である。
兄に叱られ、大粒の涙を流す少女。青年の一人がその頭を撫でて慰め、もう一人がセシアに言い過ぎたと諫める。ごめんなさいを繰り返し、涙する姿に反省したと見做したセシアは溜息を吐いて頭を掻く。
「・・・分かったんなら、良い。次から気を付けていればな」
流石に言い過ぎたと反省した彼は申し訳なさそうに弁当を受け取る。その所作で妹は多少安心し、涙を止めて笑顔を見せていた。
「しかし、妹ちゃんが此処に来ちまったし、送るしかねぇな」
「そうなるな。じゃあ・・・」
狩猟の再開よりもか弱い幼子の保護を優先し、誰かが送り届けなければならないと来た道を振り返る。何気ないそれによって、少女を追ってきたトレイドに気付く。彼もまた近付いており、距離は然程離れておらず。
傍に居る誰かがトレイド、人族だと理解した時、気付いた者の表情が一気に険しくなる。警戒心を深め、他の二人にも合図する。遅れて気付いた二人もまた敵意を露わにする。
特にセシアが武器に手を掛け、距離を詰めていった。
「人族が、何の用だ?如何して、後から出てきた。まさか、妹を追ってきたのか?」
「・・・ああ。丁度、狩りを終えて村に戻った時、あの子が外に出て行く光景を見た。何かあっては遅いと、追い駆けてきたんだ」
警戒心、敵愾心を剥き出しにして問う。その面は怒りよりも家族を守りたい思いが強く、それを受けてトレイドは疑われる事への怒りを抱かず、正直に経緯を語った。
「如何だかな。お前等人族は信用出来ない。実際は・・・」
「あ!あの時のお兄ちゃん!」
会話の途中、泣いていた少女が急激に元気を取り戻して駆け寄っていく。本当に人懐っこいと言えよう。だが、直前でセシアの顔色が変わる。
「ティナ!」
駆け寄ろうとした少女を名前で呼んで制する。声から怒りを抱いている事は明白、少女は転びそうになって立ち止まる。
「お前、こいつと会った事があるのか!?近寄るなと言った筈だぞ!それに、弁当以外でも外に出ていたのか!」
「で、でも・・・」
叱り付ける兄を、周囲は咎める事はしない。その点に関しては異論は無い様子。
「そんなに妹を責めるな。偶々会って、俺の方から話し掛けたんだ。それに付いては妹に落ち度はない」
午前に出会った少女はセシアの妹だと今知り、嘘を口にして庇う。その発言に鋭い視線が送られる。
「そうかよ、それが本当なら良いけどな」
怒りと敵意を隠さぬ彼だが叱責する言葉を止めていた。妹の反応から現状では害意を加えた訳ではないと判断したのか。
「・・・仕方ない。トレイド、だったか?俺の妹を村に、家に送ってくれ」
「おい、セシア」
「良いのかよ、こいつを信用して」
彼の判断に隣の二人が異論を挟む。人族を少しばかりでも信用したと判断したと考えられたから。
「仕方ないだろ、少しでも狩りの人手を割きたくない。俺の所為だが、時間を無駄にしてしまった。手が余っている奴が居るなら、そいつに任せたら良い」
「お前が、そう言うなら、良いけどよ・・・」
少なからずとも兄の判断、それ以上は口を挟まない。彼がそれに至ったのは、以前の功績を鑑みての事であろうか。
「・・・分かった、送り届ける」
「・・・ふん」
トレイドの真剣な承諾の言葉に、セシアは素っ気ない反応を見せて踵を返し、地形の奥へと歩き出す。取り巻く二人も同じように続く。
やや置いていかれ気味の少女、ティナは遅れて状況を理解して駆け出す。庇ってくれたトレイドに対して喜びと好意を抱いて笑みを浮かべて。
「そんなに走っていたら転ぶ・・・っ!?」
少女に注意を行おうとした声が途切れた。少々気に病む表情が急激に驚きと焦りに彩られていた。
距離を置いて話をさせられ、遠ざかる三人と近付く少女、それらを含めた光景を映す視界に異物がゆっくりと入り込んでいた。そのあまりにも自然に混入する様子に困惑し、思考が一瞬定まらなくなって。それでも衝動的に足は動いていた。
その存在は巧妙に姿を隠していた訳ではない。寧ろ、体色と図体から擬態は難しく、それに考えはないよう。だが、木々を視界の障害とし、隙を窺って身を潜めていた。人に類似した思考、的確に弱き者から狙う本能。それは人体と類似していた。
「如何したの?お兄ちゃん・・・え?」
血相を変えて近付くトレイドに異変に気付いた少女は立ち止まる。そして、横からの気配にも気付いて振り向く。その先には巨体の生物が巨大な何かを振り被っていた。そして、状況が追い付かない少女に目掛けて慈悲も無く振り下ろされた。
積雪が周辺に飛散する。雪、地を叩く音を響かせて何かは制止する。ゆっくりと持ち上げた生物は目の前の光景に疑念を抱いて顔を歪めていた。
強打された位置から少しばかり離れた位置、左腕をだらりと垂らして前傾姿勢のトレイドが立つ。左肩を手を添え、苦悶の表情を浮かべながらも戦意を昂らせる。その背には座り込むティナの姿、外傷はなく戸惑うのみ。
直前に気付いたトレイドは間一髪で救い出せた。けれど、攻撃までは避け切れず、左肩を強打させられてしまう。動作の機微だけで涙を出しそうになる激痛が伝う事から、骨折かそれに至りかねないヒビが入った事を懸念する。
「立てるな?」
「う、うん・・・」
「なら、俺の傍から離れるなよ」
それでもティナの安全を優先して姿勢を正す。身体を張って守り通す意思を過剰に奮い立たせ、痛みを振り切るように剣を構えた。
対峙する存在は緑の体色に包まれる。肌の露出がかなり多く、局部を隠す為の腰に薄い布を巻いただけの恰好。その為、肥えて巨大になった腹部が垂れて愚鈍さを引き立てる。動作ごとに若干に波打つ。その腹部だけでも並の生物以上の大きさを持つ。
それを確立させるのは体格、全身もまた丸みを帯びて肥えているものの随所に筋肉の筋を見せる。第一に大柄であった。人の何倍もの太く大きな体格を有する。それだけでどれ程の膂力を有するか想像に難くない。
極め付けて特徴的なのはその顔であろうか。整いの無い顔は醜いと言って差し支えないほど歪んでいた。閉じても隙間を見せる口から不揃いの牙が覗く。目の位置も不揃いであり、焦点がやや定まっていない。やや凹んだ頭部には伸ばし放題の頭髪が揃いも無く散らかされていた。
骨張って太い末端の先、ただの塊とも取れる木の棍棒を握り込むその生物は紛れもない魔物。名称をオーク、人型の生物であり、それなりの知識を有する群れを為す生物一つである。
そのオークは思いを頑なにしたトレイドに一歩踏み込むと無造作に棍棒を振るう。それは人が虫を払うように。
「くっ!」
何倍もの体格から繰り出される一撃、考えなくとも人を屠るには十分なものと言う事は本能で察する。だが、単純故に攻撃は躱す事は可能。けれど、ティナに及びかねず、全力を以て対処するしかなかった。
歯を食い縛り、全身の力を用い、まさに全力で下方から斬り上げる。右手の腕だけで、全身の筋肉を引き千切る勢いで振るい、無造作に振り上げる棍棒に打ち付ける。
彼の信念と力が勝ったか、単に狙いが外れただけなのか、棍棒の軌道は大よそ外れて大きな音を震わせて空を叩く。けれど、その先端には僅かに血が付着し、大きく仰け反るトレイドの姿があった。
オークの腕力を往なし切れず、頭部を打ち付けられたのだ。衝撃は彼の身を簡単に仰け反らせ、意識を遠退かせる。それほどに単純な力の差があった。
だが、トレイドは踏み止まる。遠退いた意識は気つけとなる痛みと意思に因って呼び戻し、額から多量の流血をさせながらも踏み止まってみせた。
その間、オークは疑問に満ちた顔を浮かべて動きを止めていた。己の力で砕けなかった事が不思議でならなかったのだろう。それは確かな隙でしかない。しかし、彼は踏み出さなかった。
彼は防戦に入るしかなかった。少女の足では逃げきれず、かと言って抱えて逃げるにも不調の身では出来るかどうか。なら、背にして諸共潰されないように守り通すしかなかった。そして、気付いてくれる事に希望を抱いていた。
不可解だと言う表情を浮かべながら武器を振り上げるオーク。動けぬトレイドごと少女を叩き潰そうとした寸前であった。
オークの蟀谷に矢が突き刺さる、軽い衝撃と共に的確に。それに巨体が若干傾く。それを機にしたのだろう、積雪が急激に盛り上がって幾多の氷柱となり、緑色の太き足に突き刺さった。
雁字搦めに縫い留めた氷柱に抵抗する間もなく、駆け抜けた透明な何かに因って棍棒を持つ手が切断された。
血だらけの手の欠片と棍棒が落ち行く間際、先の氷柱とは異なる別の個所で発生した巨大な氷柱が対する横腹を縫い通すように貫通する。それが決め手となった。
くぐもった断末魔を零して巨体は傾く。身体を貫いた氷柱を圧し折りながら地面に崩れて静かになる。事切れ、その周辺を僅かに赤色に染めていた。
それはあっと言う間であった。十分にも満たぬ出来事、オークが油断していた事も奇襲を掛けた事もあるだろう。けれど、その謎の猛攻には必死さ、人に対する配慮が感じられた。
「ティナ!!」
戦いが終わったと直後に名前が叫ばれた。呼んだのは違えようのなく、セシア。へたり込んだ少女に駆け寄って力の限りに抱き締めた。息を切らして駆け付けた共の二人もまた安堵を示す。
その姿を見て、トレイドは緊張を解いて膝を折る。大きく溜息を吐いて心の底から安心していた。
「・・・操魔術、か。助かった」
やや朦朧とする意識の中、そう判断した彼は謝意を口にする。オークを斃した不可思議な現象はそれでしか説明出来ず、それで彼も納得していた。受け入れられたのは事前に少女、ティナから教えられていたから。
小さな命を危なくとも助けられた事に小さな充実感、気分が少しばかり優れていく中、近付く影に気付いて見上げる。そこには真剣な顔の三人が立つ。少女ティナは少し涙ぐんで。
「ありがとう、妹を助けてくれて」
目元を赤くし、本気で心配した兄セシアは素直に感謝の言葉を告げた。其処に蟠りはない、本当にそう思ったからこそ告げていた。
「ああ、あんたが身を挺してくれなかったら、如何なっていた事か」
「誤解していたよ、あんたを」
残りの二人もまた同じように思いを改めていた。目の前で身を挺して助けていた姿を見ていれば見方は少しは変わろうか。
特にその思いが強いのはセシアであろう。クルーエを助けてくれたとは言え、不審は拭えていなかった。けれど、目の前で傷だらけになろうと妹を助けてくれた。その自己を犠牲にしてまで守る意思と行動力。もう否定など出来なかった。
「いや・・・偶然だ。俺が助けられたのは、運が良かっただけだ。此処に来てなかったら、そう思うとぞっとする。それに、倒したのはそっちだ。俺も助けられた、ありがとう」
「それでもだ、血を流してまで助けてくれたんだ。感謝しないと失礼だ」
「お兄ちゃん、ありがとう。頭、大丈夫?」
「ああ、何とも無い」
ティナも助けられた事を感謝し、額に手を伸ばして心配する。その心優しさに返すように、心配する少女の頭を撫でる。それを止める者など最早居なかった。
「さて・・・」
「お、おい、あまり無理は・・・」
膝を地に着けていたトレイドは立ち上がろうとして心配され、一瞬支えようする仕草が行われる。その細やかな心配だけでも彼は胸が少しだけ軽くなった。
「やる事が出来たからな。思わぬ事でオークが狩れたからな、運ばないとな」
「それはそうだが・・・」
「まぁ、それよりも村に戻らないといけない。何時までも、この子を外に出すのは気が引けるからな」
「あ、ああ、そうだな」
魔物に因る危険を先程思い知った。尚も晒したくない思いもあるだろう。それよりも何時までも冷気に子供を晒しておきたくない思いが強かった。
トレイドの発言に異論はなかった。先ずは村に戻る事を優先する。運搬にしても、子供の保護にしても村に戻らなければ始まらない為に。
そうして彼等は歩き出す。最初よりもずっと明るく軽くなった空気の中、各々の面は様々に。反省の色が強く、好意が多少交えて。けれど、当人だけは少しだけ難しい顔で思い返していた。
「・・・オーク」
道すがら、傷の手当を行いながら思い返していた。
高い知性を有し、人語ではない言葉を介してコミュニケーションを取れる魔物。人の社会に近い集団生活をし、道具などを作成して狩りを行える存在。人と変わらないと言っても過言では無い。
そんな存在を目の当たりにした。その事に対して危機感が生まれる。そう、オークもまた、群れを築き、集団で動く事が主な魔物。それが単体で居る事に疑問を感じていた。
その思いは嫌な予感、胸騒ぎとして彼に巣食う。その迷いを断ち切るには散策、調べると言った方法しかない。その為には直ぐにも捜索に手を着けるのが妥当。だが、今は出来ず、先に述べた事を片付ける事を優先していた。
この一件で彼の評価が劇的に変わる事は無かった。真偽はともあれ、信頼以前の話であった。彼の実力の程は知らなかった。だが、魔物を対処出来る実力はある。ならば少しでも戦える者が居た方が安心しよう。例え、人族であっても、その考えが多少生まれただけであった。
拠って、苦痛を感じる視線はまだ続く。敵意、疎外する思いは消えぬ事は無い。けれど、無我夢中の行為が少しずつ変化を齎している事は、彼自身気付けなかった。ただ、今の虚しさを払拭する為に、手を動かし続ける事を考え続けていた。
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