Accarezzevole

秋村

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Ⅰ閉じ込められた箱庭

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 単純に頷きかけて、ハッとする。

 待て。だとすれば、だ。人間が誕生した頃から第二次世界大戦の近代まで、彼らは戦争をしていたということになる。しかも彼は、原爆投下の事実を辛いと言った。見た目は二十代の彼が、見てきたかのような口ぶりだ。新たな疑問を胸に、奏人は彼に尋ねた。

「あの、実はここに来たばかりで。宜しければお名前と、目標のためにご年齢を教えて頂けませんか?」

 統括補佐になるには幾年務めあげればいいのかと、仕事意欲を匂わせて奏人が笑顔を浮かべる。年齢を聞き出せればそれで良かったが、名前も聞かずに年齢を尋ねるのは失礼な気がした。

「もちろん。僕はシン。年は三百四十歳だよ。君はまだ生体球ララバイから出てきたばかりなんだろう? 何もかも珍しいよね」

 笑顔でシンと名乗った彼に、奏人もまた笑顔のまま頷く。ただし、その胸中は穏やかではなかった。見た目と実年齢が、奏人の感覚で一致しない。奏人たちの世界とこの世界では、時間の流れが違うということだ。しかも新しい生命球というワードが出てきて、混乱するばかりだった。

「それで、君は」

「――カナト」

 声に、肩が震える。奏人が名を答えるより先に、別の声が名を呼んだ。
 振り返り、視界に入る蠱惑的な美貌。

 一歩、足が勝手に後退する。すぐそこに迫られるまで、足音も気配もなかった。白いシャツの上に紫紺の薄布を羽織り、彼は悠然とそこに立っている。

 すぐに隣でシンが動いた。片膝をついて頭を垂れ、両手を胸に当て敬服の意を示す。やはり、彼よりこの目の前の男が上なのか。シンがソロよりも上である可能性を失い、奏人はもう一歩後ろに下がった。

 膝を付かない奏人に、シンが青い顔で口をパクパクしている。早く膝を付けと言っているのだろう。だが、奏人にその気はなかった。拓斗が運良く見つかり、手持ちの情報を渡せればそれでいい。この男に飼われるつもりは更々ない。

「なんだ、もう逃げるのは終わりなのか?」

  愉しそうに唇を歪めるソロは、シンには見向きもせずに奏人へ両手を広げて見せる。奏人は睨むようにしてまた一歩、距離を取った。この爪が目の前の男の肌を溶かせるのなら、脅しの材料として最大限に使おうと構える。

「手が自由になったのか。シン、お前だな」

 それを見たソロが笑みを深くして、この時はじめてシンを視界に入れた。訳が分からないといった顔のシンは、自分の名が呼ばれたことにソロと奏人を交互に仰ぐ。

 咄嗟に彼の前に立ったのは、奏人だ。ほんの一瞬、コードの腕の件が脳裏を掠めた。奏人の拘束を解いたことでシンが似たような目に遭うのではないかと、それが怖かった。

 シンを庇う奏人に、ソロが声を出して笑う。一つ頷き、それが正解だと利き手を差し出した。

「来い。それで許してやろう」

 シンを見る。親切にしてくれた、何も知らない彼。巻き込むわけにはいかない。

 目の前が真っ暗になる心持ちで、奏人はようやく逃げることを断念した。俯く。それが、精一杯。笑みを浮かべてソロが近づく。奏人を薄布で覆うように抱き、壊れ物を扱うような仕草で抱き寄せた。

「あ、あの。恐れながら、我が君」
「なんだ」

「彼は、その……どういった罪を犯したのでしょうか。聞けばまだ生命球から出たばかりで、右も左も分からぬ赤子のようなものです。どうか、寛大な処置をお願い申し上げます」

 結果的に騙した奏人のために頭を下げてくれるシンに、奏人はきつく眉根を寄せる。申し訳なさが心を満たし、小さく謝罪の言葉を口にした。

 不思議がるシンに、答えを与えたのはソロだった。

「紹介しよう、シン。今日から私のものになった、人間のカナトだ」

「ッ?」

 瞠若したシンと目が合う。それに、再度スミマセンと呟くことしかできない。

 罵倒されるのも覚悟していた奏人だったが、シンから放たれた台詞は予想外のものだった。

「……その者の爪を、剥ぐのですか? まさか、指を切るなんてことは」

 人間だと分かり、シンはまた別の心配してくれる。張りつめた琴線に、シンの優しさが触れた気がした。視界が潤む。あまり他人に優しくされた経験のない奏人は、律界にこんな人物がいるのだと心が救われるようだった。

「いいんだ。ありがとう、シンさん」

 どうせ自分には、残された時間がもうあとわずかしかない。その、はずだ。

 正直、この世界と元の世界との時間の流れが違うことに、とても焦っている。人体の体内時計に変わりはないはずだから、そのうち医師が警戒していた症状は出ると思われる。

(拓斗……)

 奏人はまだいい。心配してくれる親もなければ、兄弟もいない。奏人がいなくなれば遺産だけが手に入り、万々歳だろう。叔父や親類たちの笑い顔が目に浮かぶようだ。

 けれど、拓斗は違う。優しい両親と兄を慕う二人の可愛い妹がいる。もしこの世界に拓斗がいるのなら、奏人の出来うる限りを以って家に帰してやりたい。

(俺の、せいだ)

 ここ半年、奏人の体調は本当に良かった。発作も起こらず、安定していた。ランニングや筋トレ、可能なことはなんでも手を出して体を鍛えてきた。今度のような軽登山は初めてではないし、奏人よりも細身の拓斗を背負って下山もできていた。

 転がり落ちたのは病のせいではない。単に、奏人が足元を見誤ったせいだ。割と急な坂だった。転んだ拍子に、崖の下へ転落した。

 自分だけがここに落ちてきたのなら、それはきっと罰。甘んじて受け止めよう。でももし拓斗もこの世界へ来ているのなら、それは奏人のせいでしかない。

(俺のせい、なんだ)

 俯き加減に拳を握る奏人の手を、冷たい手指が持ち上げた。

 咄嗟に顔を上げてソロを見る。彼の探るような視線が、そこにあった。

「さて、お前のことだ。シンから、色々と聞き出したのだろう?」

「……。爪がアンタたちの肌を溶かすってことと、人間界のこと」
 
 素直に答えれば、ソロが拳を握ったままの手の甲に口づけた。

 条件反射で手を引こうとするが、ソロがそれを許さない。

「その傷口が塞がらないことは、聞かなかったのか?」

「え」

 奏人の目を間近で見つめ、ソロが空色の右目を細めた。確認するように、シンを見る。彼は驚愕する奏人に、小さく頷いてくれた。

「我々は、この小さな凶器で負った傷を塞ぐ術を持たない。この世界中、どんな治癒師を探したところで叶わないだろう」

「そんな……」

「例え小さな傷口でも、我らとて有限ある生命体だ。体液を放出し続ければ、死ぬ」

 己の爪を見る。傷つけるとしても、ひっかき傷程度しか思い浮かばなかった。そのうち、放っておいても治ると。

「傷を塞ぐ方法は一つ。傷ごと、その箇所を削ぎ落とすんだ。傷口が大きければ手足を切断することもある。なんの力も持たない人間にとって、唯一我々に危害を与えられる方法だ」

 怖いと思った。その事実より、そんなことを笑顔で話すこの男を。本当に、怖いと思った。

 しかも彼は自ら爪のある手に口づけた。下手をすれば触れたかもしれない、爪のある手に。溶かす、ということはきっと触れるだけで危ないはずだ。簡単に肉が抉れてしまうのかもしれない。

 ゾッとする。そんなことをしたいわけではない。爪を使って脅してやろうと考えた自分自身に、心底恐怖した。ソロに持ち上げられたままの利き手とは別に、左手も同じように持ち上げる。

「好きにしろよ」

 自分のせいで誰かが傷つくのは見たくない。怖い。それが、これから自分を蹂躙しようとしている男だとしてもだ。諦めることには慣れていて、足掻く気もない。そんなことをしても結局無駄なことが多かったせいで、大きな流れに逆らうことをしなくなってしまった。これがいいのか悪いのか。拓斗は処世術だと笑ってくれたが、奏人はそう思わない。

 惨めだと、つくづく思う。それなのに変えられないのだ。

「面白くないな、それは」

 ふわり、前触れもなく体が宙に浮く。腕を掴まれ、ソロとともに中庭を抜けた。物凄いスピードだった。息を詰める奏人だったが、苦しさに負けて息を継げば呼吸が可能なことを知る。

 景色だけが猛スピードで流れ、あっという間に中庭の奥にある建物の前に到着した。

 腕を引かれるままに進み、奏人は案内された場所に素直な感想を零す。

(どこのリゾートだ、これ)

 目の前に広がる、大浴場。磨き上げられた石造りの浴槽は学校のプール並に広く、だ円形だ。
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