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Ⅳ奸悪の根に涙雨
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王城、謁見の間。
ここへ来るまで、奏人は誰にも会わなかった。わざとかとも思ったが、何か様子が変だ。この城の北側からは声が聞こえて人の気配もあったのに、この南側には人がいない。近衛も、侍従も。誰も。
足音だけが甲高く響く室内。磨き抜かれた床。豪奢な内装と荘厳な雰囲気。けれど、まるで飾り物のようだと奏人は思った。
王城に直接来たのは初めてだが、ソロの執務室なら何度か見たことがある。律王から王命が出て、ソロが執務の休憩中に奏人へ連絡を寄越してきたのだ。元気をなくしていた奏人を心配していたようで、フォニックたちがちゃんと奏人に付いているか確認する目的もあったようだ。
どういう仕組みなのかは分からないが、まるでビデオ通話だなと思った。遠征先から中庭に現れた時のように触れることはできないが、向こうの背景がこちらからも見えた。ソロの執務室は相当に広く、彼の周辺には色んなタイプの律界人が控えていた。
右腕のフォニックをはじめとする、屋敷の侍従。同じ侍従でも服装の違う律界人の姿もちらほらあり、明らかに身分の高そうな律界人も見ることができた。何度か連絡を寄越してきたが、いずれもソロの周辺には人の姿があった。
奏人見たさにソロの執務室を訪れていた貴族たちも、その顔触れは実に様々。若い男、年老いた男、幼い男の子まで。奏人がフエテに連れ去られて、後処理を手伝わされたと笑っていた貴族もいた。遠征に付き合って、日に日にソロの機嫌が悪くなったと可笑しそうに話す軍人もあった。
奏人が一番驚いたのは、彼らが奏人のことを名前で呼び始めたことだ。最初こそ「人間」と呼んでいた彼らも、ソロが不機嫌になって「カナトだ」と訂正したことを受け、慌てて改めていた。
すると不思議なもので、奏人を名前で呼び始めた貴族たちは妙に物言いが優しくなり、表情も柔らかくなった。何より奏人を見る目付きが違う。ソロが寸の間席を外した時も、今は辛いだろうが頑張れ、病はじきに良くなるなどと、励ましてくれた貴族もいたくらいだ。
本当に驚いた。信じられなかった。嬉しくなって笑顔で礼を言うと、その場に居合わせた年配の貴族たちは目を丸くし、若い貴族たちは顔を見合わせて黙り込んでしまった。
人間は奴隷だ。奏人と話すどころか、目を合わせることすら嫌う律界人もいる。
それなのに名前を呼ぶことで何かが彼らの中で変わったのか、奏人の好きな本を訊いてきたり、実際に本を贈ってくれた貴族もいた。鬱々とする奏人にとって、本当に嬉しい出来事だった。勝手な思い込みかもしれないが、ほんの少しだけ認めてもらえた気がした。
段々とソロを介さず直接話を振られることも増え、人間の奏人に対してもエレジーのように普通に会話をしてくるようになった。しかしそれもソロが王城にいた時だけだ。次第に王都を離れることが多くなったせいで、彼らとの縁も切れてしまった。
ここに人がいないのは、奏人の偽りの病が理由なのかもしれない。が、何かが奏人の中で引っかかった。
王座の向こう側。天幕の奥に人の気配。ゼローザの後ろで、平伏の姿勢を取る。
徐々に近づく足音が一つ。他はない。律界ではこれは普通なのだろうかと不思議に思いながらも、顔は上げられずに床を見つめたまま。息を殺して、ジッと飛び出そうな心臓の音を聞いていた。
「律王。ご命令通り、カナトを連れて参りました」
「ご苦労だった。下がっていい」
「ですが」
「下がれ」
沈黙が落ちる。ゼローザの立ち上がる音。きゅ、と目を強く瞑って、奏人は眩暈がしそうな恐怖と必死に戦う。
「なんの、つもりだ? ゼローザ」
すぐ正面に、人の気配。思わず顔を上げてしまった奏人は、目の前に広い背中を見つけて目を瞠った。まるで律王から奏人を庇うようにして、ゼローザが片膝を突いて控えている。
「律王。この者は、ソロの所有物です。正式な所有権は、あの男にあります。王命は登城させること。私には、この者をソロに返す義務がございます」
「私を誰だと思っている? あの男がなんだというのだ!」
「確かに貴方様はこの世界の、偉大なる王。四律将の束ねとはいえ、貴方様の配下に過ぎない」
「分かっているのなら、さっさと下がらぬかぁッ」
「……本気であの男を、敵に回すおつもりですか?」
「なん、だと」
「ご存知でしょうが、あの男はこの者を大変深く寵愛しております。もはや、貴族であれば誰もが知るほどに。フエテフォルツァの一件はもちろん、エレジーが直接屋敷に出向いて彼の往診をしていることも知れ渡っております。何より、各有力貴族たちもこの者と既に面識がある様子」
「何?」
「ソロが執務室から屋敷へオルタナディブを使って、カナトを紹介しているのです。人間の珍しさに惹かれて代わる代わる、毎日のように貴族たちが奴の執務室を訪れておりました。その上で彼らは、カナトに自由に発言する権利を与えております」
「……ば、馬鹿な。それは人間だぞッ?」
「はい。ですが、貴方様のシキも、また人間でございました」
「私のシキをそれと同等に扱うな無礼者ッッ」
ドンッ、と目の前で何かのぶつかる音と、焦げた臭い。息を呑む。ゼローザの左肩。焼け焦げた衣服と、赤く爛れた皮膚。鮮血が滲み、左腕を濡らしている。
「ゼロさん!」
痛々しい姿に、奏人は首に巻いていたストールを押し当てて止血した。ゼローザは驚いた様子で、だがすぐに奏人を自らの背に庇おうとする。
「……人間。誰が勝手に動いていいと言った」
ひどく冷たい、地を這うような声。ギクリとして、奏人は声のした方を振り向いてしまう。ゼローザが腕を引いたが、もう遅い。目が合ってしまった。
やつれた男。皺くちゃの男。ぎょろり、視線だけが鋭い男。艶のない灰色の髪。深い紫色の瞳。生気が、ない。それでいて深紅の外套だけがやけに神々しく、異様なアンバランスさに何故ここに人の気配がないのかを理解した気がした。
律王が利き手を掲げる。同時に体が大きく傾いた。奏人を背に庇い負傷したゼローザに、奏人は悲鳴を呑み込む。
「カナトッ」
しかし次の瞬間には体が宙に浮き、一気にゼローザの声が遠くなった。玉座を立ち上がった律王の足元。冷たく見下ろしてくる、鋭い律王の瞳。体が動かない。動けない。髪を掴まれる。細いが身長はある律王だ。無理矢理立たされて痛みに顔を歪めた。
「ご慈悲をッ」
「ならぬ! 不敬である。人間ごときが、我が許しもなく勝手に目を開き足を動かすとはっ」
奏人と同じ人間を飼っていたらしいが、人間自体にいい印象は持っていないようだ。
(シキ……)
それは、拓斗と同じ名。だが、いくらなんでも落ちてきた時代が違い過ぎる。拓斗は一緒に落ちた。シキであるはずがない。
一体、どんな人物だったのだろう。フエテの塔で律王が人間に溺れていたようなことを聞いたが、律王のこの様子では同じ人間欲しさに奏人を登城させたとは考えにくい。
―リィィィィンンンッ
(え……?)
泣き声。いや、叫び声だ。やめろ、と。そう叫ぶ声を聞いた。
「し、シキ……? 嗚呼……そうか。分かっている、分かっているよ。すぐに用意するからね」
律王の目の色が変わり、恍惚にも似た表情を浮かべて天井を見上げている。髪を掴んでいた律王の手が離れ、奏人は周囲を見回して呼びかけた。
「……拓斗。拓斗だよねっ? 拓斗ッ?」
間違いない。あの声、まさしく拓斗のものだ。優しくて、力強くて、聞き覚えのある大切な人の声。間違えるはずがない。
髪を掴んでいた手が離れたのも、束の間。またすぐに髪を掴まれる。
「その名を口にするなッ! 汚らわしいッッ!」
放り投げられて、床に体を強く打ち付けた。転がった先で正面から攻撃を受け、全身に激痛が走る。的確に両足の腱を切られてしまい、立つことすらできなくなった。全身に、ぬるり、血が溢れて流れる。
それでも生きていたのは、おそらく彼のお陰。
(ゼロ、さん……)
可視化する結界。黄金色の盾。それが奏人を守り、致命傷を防いでくれた。
「私の邪魔をするなぁぁぁああああああッッ!」
血走った目で結界を砕き、ゼローザを足蹴りにする律王。ゼローザは抵抗しない。深く垂れた頭を何度も蹴りつけられて、しかし微動だにせず耐えている。
悲鳴どころか息さえ乱さないゼローザ。律王は口惜しそうに奥歯を噛み締め、渾身の力で彼を吹き飛ばした。
打ちのめしていたはずの律王が肩で息をしながら奏人へ近づき、その細い首を掴む。血に濡れた床に体を押し付け、おどろおどろしい声で呪文を唱えた。
「苦しみの・吐息」
「っ? っ、く、っっ……ぐっ」
喉が、詰まる。のたうち回るほどの激痛。首がもげそうだ。奏人は呼吸も忘れて、もがき苦しんだ。
「カナト!」
「消失・無」
「おやめください律王ッッ」
耳鳴りがした。それだけだった。音が、消える。高らかに笑う律王の姿はそこにあるのに、何も聞こえない。痛みにではなく、恐怖に心臓が冷たく脈を打った。
ゼローザと目が合う。こちらに駆けて来ようとしてくれた彼を押し退けて、律王が目の前に立った。ゼローザが何か叫んでいる。だが何も聞こえない。物音一つしない。
人差し指の、その先。すぐ目の前。目を真っ直ぐに指差している。次に何をされるのか、瞬間的に理解をした。後ずさる。怖くてたまらなかった。上手く体が動かせない。逃げられない。腱を切られているのだから、当然だ。笑う律王。狂気じみた黒い笑顔を浮かべて、奏人の動きを封じる。動けない。目も閉じられない。律王の指先。黒い閃光。悲鳴が悲鳴にならず、奏人は全身で絶望を感じた。無力な自分では、ただその時をただ待つことしかできない。
(……いい王様になってね、ソロ)
彼ならきっと、こんな男よりも素晴らしい律王になる。なってくれる。今度落ちてきた人間も、彼に拾われたなら幸せだろうに。痛む胸の奥で、そう思った。
(好き……、でした)
生まれて初めての告白は、伝える相手もなく声にもならなかったけれど、それで奏人には十分だった。
(え)
風が、頬を撫でる。背中に触れる温もり。腰を抱かれ、引き寄せられた。律王の手首を掴む、大きな手。漆黒の光が消えた。
一瞬のこと。まさに、一瞬。
真後ろから現れた、白い手。
みるみる律王の顔が驚愕していく。そこには恐怖が見え隠れしていて、奏人はその様子を信じられない面持ちで見ていた。ゼローザに対する怒りとは違う、明らかな恐れ。
力強い左腕が、更に奏人を抱き寄せる。奏人は、この腕を知っていた。振り返らずとも、背後に誰がいるのか分かってしまう。
奥歯を噛んだ。引き結んだ唇が震える。勝手に屋敷から出てきたくせに、この有様。律王から睨まれずに済むと思ったのに、これでは意味がない。
申し訳なくて、申し訳なくて。また迷惑をかけただけの結果に、歯がゆくてたまらなかった。助けられるだけの立場が悔しい。少しでいいから役に立ちたい。その一心だったのに。
―リィィィィンン
聞こえなくなったはずの耳に、涼やかな音が通る。
―リィィィィン
怒っている。いや、嘆いている。音は言葉になってはくれなかったが、それでも感情は伝わってきた。
(俺、……間違ってた、の?)
急にそんな気がしてきて、大きく戸惑う。
ソロや屋敷の侍従に、あれ以上迷惑がかからないように出てきた。それが一番いい方法だったから。自分は奴隷だ。ペットで、ただのオモチャである。いくらでも代えはきく。すぐに新しいお気に入りが見つかる。
それなのに何故、間違ってしまったと思ったのだろう。
(……)
落とした視線の先。見えたのは、うっすらと汗の滲む彼の腕。しっかりと抱き寄せて離さない、力強い腕。
言葉にはできなかったけれど、奏人にはそれが答えに見えた。
(俺、は)
奴隷で、ペットで、オモチャだ。
(でも)
ずっと、大切にされてきた。
答えは腕の中。まさに、ここ。己自身。
それをやっと理解できた気がして、奏人は腰を抱く腕にそっと利き手を添えた。
ここへ来るまで、奏人は誰にも会わなかった。わざとかとも思ったが、何か様子が変だ。この城の北側からは声が聞こえて人の気配もあったのに、この南側には人がいない。近衛も、侍従も。誰も。
足音だけが甲高く響く室内。磨き抜かれた床。豪奢な内装と荘厳な雰囲気。けれど、まるで飾り物のようだと奏人は思った。
王城に直接来たのは初めてだが、ソロの執務室なら何度か見たことがある。律王から王命が出て、ソロが執務の休憩中に奏人へ連絡を寄越してきたのだ。元気をなくしていた奏人を心配していたようで、フォニックたちがちゃんと奏人に付いているか確認する目的もあったようだ。
どういう仕組みなのかは分からないが、まるでビデオ通話だなと思った。遠征先から中庭に現れた時のように触れることはできないが、向こうの背景がこちらからも見えた。ソロの執務室は相当に広く、彼の周辺には色んなタイプの律界人が控えていた。
右腕のフォニックをはじめとする、屋敷の侍従。同じ侍従でも服装の違う律界人の姿もちらほらあり、明らかに身分の高そうな律界人も見ることができた。何度か連絡を寄越してきたが、いずれもソロの周辺には人の姿があった。
奏人見たさにソロの執務室を訪れていた貴族たちも、その顔触れは実に様々。若い男、年老いた男、幼い男の子まで。奏人がフエテに連れ去られて、後処理を手伝わされたと笑っていた貴族もいた。遠征に付き合って、日に日にソロの機嫌が悪くなったと可笑しそうに話す軍人もあった。
奏人が一番驚いたのは、彼らが奏人のことを名前で呼び始めたことだ。最初こそ「人間」と呼んでいた彼らも、ソロが不機嫌になって「カナトだ」と訂正したことを受け、慌てて改めていた。
すると不思議なもので、奏人を名前で呼び始めた貴族たちは妙に物言いが優しくなり、表情も柔らかくなった。何より奏人を見る目付きが違う。ソロが寸の間席を外した時も、今は辛いだろうが頑張れ、病はじきに良くなるなどと、励ましてくれた貴族もいたくらいだ。
本当に驚いた。信じられなかった。嬉しくなって笑顔で礼を言うと、その場に居合わせた年配の貴族たちは目を丸くし、若い貴族たちは顔を見合わせて黙り込んでしまった。
人間は奴隷だ。奏人と話すどころか、目を合わせることすら嫌う律界人もいる。
それなのに名前を呼ぶことで何かが彼らの中で変わったのか、奏人の好きな本を訊いてきたり、実際に本を贈ってくれた貴族もいた。鬱々とする奏人にとって、本当に嬉しい出来事だった。勝手な思い込みかもしれないが、ほんの少しだけ認めてもらえた気がした。
段々とソロを介さず直接話を振られることも増え、人間の奏人に対してもエレジーのように普通に会話をしてくるようになった。しかしそれもソロが王城にいた時だけだ。次第に王都を離れることが多くなったせいで、彼らとの縁も切れてしまった。
ここに人がいないのは、奏人の偽りの病が理由なのかもしれない。が、何かが奏人の中で引っかかった。
王座の向こう側。天幕の奥に人の気配。ゼローザの後ろで、平伏の姿勢を取る。
徐々に近づく足音が一つ。他はない。律界ではこれは普通なのだろうかと不思議に思いながらも、顔は上げられずに床を見つめたまま。息を殺して、ジッと飛び出そうな心臓の音を聞いていた。
「律王。ご命令通り、カナトを連れて参りました」
「ご苦労だった。下がっていい」
「ですが」
「下がれ」
沈黙が落ちる。ゼローザの立ち上がる音。きゅ、と目を強く瞑って、奏人は眩暈がしそうな恐怖と必死に戦う。
「なんの、つもりだ? ゼローザ」
すぐ正面に、人の気配。思わず顔を上げてしまった奏人は、目の前に広い背中を見つけて目を瞠った。まるで律王から奏人を庇うようにして、ゼローザが片膝を突いて控えている。
「律王。この者は、ソロの所有物です。正式な所有権は、あの男にあります。王命は登城させること。私には、この者をソロに返す義務がございます」
「私を誰だと思っている? あの男がなんだというのだ!」
「確かに貴方様はこの世界の、偉大なる王。四律将の束ねとはいえ、貴方様の配下に過ぎない」
「分かっているのなら、さっさと下がらぬかぁッ」
「……本気であの男を、敵に回すおつもりですか?」
「なん、だと」
「ご存知でしょうが、あの男はこの者を大変深く寵愛しております。もはや、貴族であれば誰もが知るほどに。フエテフォルツァの一件はもちろん、エレジーが直接屋敷に出向いて彼の往診をしていることも知れ渡っております。何より、各有力貴族たちもこの者と既に面識がある様子」
「何?」
「ソロが執務室から屋敷へオルタナディブを使って、カナトを紹介しているのです。人間の珍しさに惹かれて代わる代わる、毎日のように貴族たちが奴の執務室を訪れておりました。その上で彼らは、カナトに自由に発言する権利を与えております」
「……ば、馬鹿な。それは人間だぞッ?」
「はい。ですが、貴方様のシキも、また人間でございました」
「私のシキをそれと同等に扱うな無礼者ッッ」
ドンッ、と目の前で何かのぶつかる音と、焦げた臭い。息を呑む。ゼローザの左肩。焼け焦げた衣服と、赤く爛れた皮膚。鮮血が滲み、左腕を濡らしている。
「ゼロさん!」
痛々しい姿に、奏人は首に巻いていたストールを押し当てて止血した。ゼローザは驚いた様子で、だがすぐに奏人を自らの背に庇おうとする。
「……人間。誰が勝手に動いていいと言った」
ひどく冷たい、地を這うような声。ギクリとして、奏人は声のした方を振り向いてしまう。ゼローザが腕を引いたが、もう遅い。目が合ってしまった。
やつれた男。皺くちゃの男。ぎょろり、視線だけが鋭い男。艶のない灰色の髪。深い紫色の瞳。生気が、ない。それでいて深紅の外套だけがやけに神々しく、異様なアンバランスさに何故ここに人の気配がないのかを理解した気がした。
律王が利き手を掲げる。同時に体が大きく傾いた。奏人を背に庇い負傷したゼローザに、奏人は悲鳴を呑み込む。
「カナトッ」
しかし次の瞬間には体が宙に浮き、一気にゼローザの声が遠くなった。玉座を立ち上がった律王の足元。冷たく見下ろしてくる、鋭い律王の瞳。体が動かない。動けない。髪を掴まれる。細いが身長はある律王だ。無理矢理立たされて痛みに顔を歪めた。
「ご慈悲をッ」
「ならぬ! 不敬である。人間ごときが、我が許しもなく勝手に目を開き足を動かすとはっ」
奏人と同じ人間を飼っていたらしいが、人間自体にいい印象は持っていないようだ。
(シキ……)
それは、拓斗と同じ名。だが、いくらなんでも落ちてきた時代が違い過ぎる。拓斗は一緒に落ちた。シキであるはずがない。
一体、どんな人物だったのだろう。フエテの塔で律王が人間に溺れていたようなことを聞いたが、律王のこの様子では同じ人間欲しさに奏人を登城させたとは考えにくい。
―リィィィィンンンッ
(え……?)
泣き声。いや、叫び声だ。やめろ、と。そう叫ぶ声を聞いた。
「し、シキ……? 嗚呼……そうか。分かっている、分かっているよ。すぐに用意するからね」
律王の目の色が変わり、恍惚にも似た表情を浮かべて天井を見上げている。髪を掴んでいた律王の手が離れ、奏人は周囲を見回して呼びかけた。
「……拓斗。拓斗だよねっ? 拓斗ッ?」
間違いない。あの声、まさしく拓斗のものだ。優しくて、力強くて、聞き覚えのある大切な人の声。間違えるはずがない。
髪を掴んでいた手が離れたのも、束の間。またすぐに髪を掴まれる。
「その名を口にするなッ! 汚らわしいッッ!」
放り投げられて、床に体を強く打ち付けた。転がった先で正面から攻撃を受け、全身に激痛が走る。的確に両足の腱を切られてしまい、立つことすらできなくなった。全身に、ぬるり、血が溢れて流れる。
それでも生きていたのは、おそらく彼のお陰。
(ゼロ、さん……)
可視化する結界。黄金色の盾。それが奏人を守り、致命傷を防いでくれた。
「私の邪魔をするなぁぁぁああああああッッ!」
血走った目で結界を砕き、ゼローザを足蹴りにする律王。ゼローザは抵抗しない。深く垂れた頭を何度も蹴りつけられて、しかし微動だにせず耐えている。
悲鳴どころか息さえ乱さないゼローザ。律王は口惜しそうに奥歯を噛み締め、渾身の力で彼を吹き飛ばした。
打ちのめしていたはずの律王が肩で息をしながら奏人へ近づき、その細い首を掴む。血に濡れた床に体を押し付け、おどろおどろしい声で呪文を唱えた。
「苦しみの・吐息」
「っ? っ、く、っっ……ぐっ」
喉が、詰まる。のたうち回るほどの激痛。首がもげそうだ。奏人は呼吸も忘れて、もがき苦しんだ。
「カナト!」
「消失・無」
「おやめください律王ッッ」
耳鳴りがした。それだけだった。音が、消える。高らかに笑う律王の姿はそこにあるのに、何も聞こえない。痛みにではなく、恐怖に心臓が冷たく脈を打った。
ゼローザと目が合う。こちらに駆けて来ようとしてくれた彼を押し退けて、律王が目の前に立った。ゼローザが何か叫んでいる。だが何も聞こえない。物音一つしない。
人差し指の、その先。すぐ目の前。目を真っ直ぐに指差している。次に何をされるのか、瞬間的に理解をした。後ずさる。怖くてたまらなかった。上手く体が動かせない。逃げられない。腱を切られているのだから、当然だ。笑う律王。狂気じみた黒い笑顔を浮かべて、奏人の動きを封じる。動けない。目も閉じられない。律王の指先。黒い閃光。悲鳴が悲鳴にならず、奏人は全身で絶望を感じた。無力な自分では、ただその時をただ待つことしかできない。
(……いい王様になってね、ソロ)
彼ならきっと、こんな男よりも素晴らしい律王になる。なってくれる。今度落ちてきた人間も、彼に拾われたなら幸せだろうに。痛む胸の奥で、そう思った。
(好き……、でした)
生まれて初めての告白は、伝える相手もなく声にもならなかったけれど、それで奏人には十分だった。
(え)
風が、頬を撫でる。背中に触れる温もり。腰を抱かれ、引き寄せられた。律王の手首を掴む、大きな手。漆黒の光が消えた。
一瞬のこと。まさに、一瞬。
真後ろから現れた、白い手。
みるみる律王の顔が驚愕していく。そこには恐怖が見え隠れしていて、奏人はその様子を信じられない面持ちで見ていた。ゼローザに対する怒りとは違う、明らかな恐れ。
力強い左腕が、更に奏人を抱き寄せる。奏人は、この腕を知っていた。振り返らずとも、背後に誰がいるのか分かってしまう。
奥歯を噛んだ。引き結んだ唇が震える。勝手に屋敷から出てきたくせに、この有様。律王から睨まれずに済むと思ったのに、これでは意味がない。
申し訳なくて、申し訳なくて。また迷惑をかけただけの結果に、歯がゆくてたまらなかった。助けられるだけの立場が悔しい。少しでいいから役に立ちたい。その一心だったのに。
―リィィィィンン
聞こえなくなったはずの耳に、涼やかな音が通る。
―リィィィィン
怒っている。いや、嘆いている。音は言葉になってはくれなかったが、それでも感情は伝わってきた。
(俺、……間違ってた、の?)
急にそんな気がしてきて、大きく戸惑う。
ソロや屋敷の侍従に、あれ以上迷惑がかからないように出てきた。それが一番いい方法だったから。自分は奴隷だ。ペットで、ただのオモチャである。いくらでも代えはきく。すぐに新しいお気に入りが見つかる。
それなのに何故、間違ってしまったと思ったのだろう。
(……)
落とした視線の先。見えたのは、うっすらと汗の滲む彼の腕。しっかりと抱き寄せて離さない、力強い腕。
言葉にはできなかったけれど、奏人にはそれが答えに見えた。
(俺、は)
奴隷で、ペットで、オモチャだ。
(でも)
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答えは腕の中。まさに、ここ。己自身。
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