Accarezzevole

秋村

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Ⅵ誰何の先に知る真実

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 上手く息ができない。どうやって呼吸をするのだったか。意識しても酸素が運べない。唇を噛み、頭を抱え、何かが崩れ落ちてしまったかのよう。冷たい床に擦りつけた額が小刻みに震え、涙が一粒音もなく零れ落ちた。

 それは、心の支えだった。心が壊れてしまわないように、奏人が生み出した自己防衛の結果だ。

 はじまりは日記。家庭環境に恵まれながら、どうでもいい愚痴を笑いながら吐き捨て、帰れば当たり前のように自分の時間を満喫できるクラスメイトたち。どうしても彼らへの違和感が払しょくできず、それをノートに書き留めたのが始まりだ。

 奏人には自分の時間なんて、ゼロに等しかった。学校から帰ると食事と風呂の準備をする。成績が落ちれば何を言われるか分からないため、必死に上位をキープし続けた。朝から晩まで、叔父の世話。叔父が寝付いた後にやってくる時間を使って勉強し、睡眠時間を削って日記を書く。

 必要最低限のものしか与えられなかった奏人に、娯楽なんてものは存在しない。そんな中で唯一、本だけは好きに読むことができた。学校や市の図書館を利用した。特に好きだったのは物語だ。幸せで、優しい物語。現実にはない、ハッピーエンド。読んでいる間は、幸せになれた。楽しかった。心の踊るひと時だった。

 物語の世界に没頭していった奏人は、いつしか理想の人物像をノートに書くようになっていた。明るく、活発で、誰に対しても隔てなく優しい青年。運動神経も良く頭もいいが、それだけだと面白くない。

 ――そうだ。歌にしよう。とても歌が上手いんだ。

 弾むような気持ちで、理想の人物をかき上げる。名前が付けたくなって、一生懸命に考えた。ほんの少しだけ自分の名前に似せたりして、だけど逆に自分にはない華やかさを付け足した。

 彼の名は、志木拓斗。同じ年で、クラスメイト。家は近所の、幼馴染。昔から奏人のことを心配してくれており、何かと親身に相談に乗ってくれる。文字で綴られただけの友達は、現実世界にいる誰より輝いて見えた。

 親の愚痴に付き合うこともなければ、今時スマートフォンも持っていないのかと嫌味ったらしく笑われることもない。どうでもいい異性の話もしないし、勉強もしないくせに試験の心配ばかりをすることもない。 

 何より、拓斗だけが奏人の怒りや悲しみを受け止めてくれる。両親が死んで叔父に引き取られていることまでは知っているクラスメイトたちだが、所詮はそこまでだ。奏人がどんな生活を送っているのか何も知らない。それは奏人が話してこなかったせいでもあるが、苦痛を打ち明けられるような相手がいなかったのが原因だった。

 何より、もし下手に話して大事にでもなれば叔父の機嫌を損ねる。それが一番怖かった。

 奏人は拓斗に日常の辛さをぶつけた。日記に書き綴ることで、心が軽くなった。

 そうやって自分の心を守り続けてゆくと、境界線があやふやになってゆく。拓斗に向かって愚痴を綴れば綴るほど、本当に拓斗が存在するような気がしてくる。一旦そうなると、もう止められない。奏人の中で拓斗は存在し、日記を開かずとも傍にいてくれるようになる。特に叔父から理不尽な仕打ちを受けた時は、その境界線は完全に消え去っていた。 

 それだけ奏人の内側は、本当に限界だった。拓斗という支えがなければ、既に壊れていただろう。いつしか奏人にとって拓斗は敬愛すべき親友であり、憧れの存在になっていった。辛い記憶を塗り替えて、心を守り、必死に生きていた。

 だが、そんな奏人に変化が起こり始める。

 律界へ、落ちたからだ。

 律界に落ちてきた当初は、やはり拓斗が心の支えであった。奴隷であること。己の立場の危うさ。恐怖と心細さ。既に一度目の記憶の塗り替えを果たした直後だった奏人は、心がそちらにシフトしていたせいで傍に拓斗を置けなかった。

 そのため、死にたがりな奏人が顕著に現れていた。死にたい。逃げたい。体を蝕む持病の発作は、ある意味で奏人には正常な反応でもあった。しかし、ソロの手によってそれが叶わなくなる。死ねない。逃げ出せない。こうなると、いよいよ奏人の心にヒビが入る。壊れてゆく。

 その、はずだった。

 出会った当初から優しかったシンが、フォニックから必死に守ってくれた。こんな自分を守り抜いてくれた。そのうちソロが駆けつけてきて、フォニックを殺そうとした。自分のせいで人が死ぬのは、奏人にとって禁忌に近い。

 自分が死ぬのはいつでも構わないが、他人は絶対に駄目だ。奏人の中にある奇妙なルールは、両親が自分のせいで死んだことが起因している。だからこそ、フォニックが自分のせいで死ぬことはあってはならない。必死になってフォニックを庇った。一生懸命ソロに頼み込んだ。

 結果的にソロが聞き入れてくれて、以来フォニックはシンとともに奏人の傍にいるようになった。最初は、フォニックを見張りが増えたとしか思っていなかった。だけど、フォニックは変わった。

 シンとフォニックは、奏人に優しかった。朝起きてから夜眠るまで、常に気にかけて世話を焼いてくれた。フォニックは奏人を殺そうとしたくせに、別人のような接し方で奏人に尽くしてくれるようになった。

 唯一口に運べるトニックでの、午後のお茶会。楽しかった。気付けば、拓斗がいなくても笑えるようになっていた。ソロのことはまだ好きなれなかったが、怖くはなかった。ソロは、ただの一度たりとも奏人に手を上げなかった。

 徐々にソロの優しさに気付き、傍にいることが苦痛ではなくなった。不思議なことに、奴隷の身でありながら意見を通してもらえる。嫌だと言えば無理強いはしてこない。こんなこと、初めてだった。

 フエテフォルツァの件で、更にソロの存在が大きくなる。死が怖いものだと知ったのも、誰かにしがみ付いて泣きじゃくったのも、初めてだった。そう。律界に落ちてきて、初めてだらけ。経験してこなかったことだらけ。

 ボロボロだった奏人の心に自己愛が生まれ、少しずつ自身の価値を見出し始める。自分は必要な存在だと、思えるようになってゆく。これは奏人にとって非常に大きなことだった。

 生じたひずみ。正常に戻りつつある心が、違和感を生んだ。拓斗という、違和感を。

 拓斗の笑顔を思い出せなくなったのも、そのせいだ。作り上げていたものが失せ、奏人にとっての重要度が拓斗からソロたちに移行した証拠でもあった。

 それでも声は聞こえていた。聞こえ続けていた。それこそが塗り替えた記憶。そのせいで律界に落ちた当初、拓斗は奏人の傍にいることができなかった。

「……」

 ゆっくりと、顔を上げる。何もかもを思い出し、理解し、前を向く。

「お久しぶりです。……千弥せんやさん」

 枇々木千弥。

 奏人が塗り替えた記憶。拓斗に改変させていた、本来の人物。

 あの日。背負っていたのは、拓斗ではない。叔父の千弥だ。趣味の登山に連れ出されて、身勝手な道を行った挙句に足を挫いた。天候も悪化し下山することになって、奏人が背負って下りた。散々文句を言われながら、それでも歯を食いしばって一生懸命に下山していた。

「何だよ、その目」

「……」

「僕をこんな目に遭わせておいて、謝罪もないのか?」

「その体、誰のですか?」

「あ? これ? さぁ、知らない。アンキェが持ってきた器だから」

 器。では、他人の体に魂を入れて生きているのか。今の人間の力では、無理なことだ。それがこの律界では可能なのだろう。律力で、そこまで出来てしまうわけだ。

 叔父は昔から童顔で、奏人とも兄弟に間違われるほどだった。外見は二十代にしか見えない。本来の体は既に失われているのだろうと予測する。叔父が落ちてきて既に数百年。人間の体が保持できているわけがない。

「律王はどこに?」

「寝てるよ。最近、寝てることが多いんだ。そろそろ死ぬんだろ。だから急いでるんじゃないか」

 どうでもよさそうに、叔父とは似ても似つかない青年が言う。

 律王はシキの虜となり、執政を放棄したと聞いた。王の立場にありながら一人の人間に心を奪われ、己の役目を放棄した。それほどに愛されていたというのに、叔父のこの態度は一体どういうことか。

 想い合っていたからこそ、今日まで生きてきたのではないのか。少なくとも律王はシキのために動いていた。黒の手や呪詛などがそうだ。

「律王を愛しているんじゃ……、ないんですか?」

「愛? 僕が、あいつを?」

 鼻で笑ったかと思えば、腹を抱えて爆笑し始める。

 その顔があまりに歪に見えて、奏人はきつく眉根を寄せた。

 この世界で人間が生きることは、まさに苦痛でしかない。この世界の常識では、人間は生きた玩具だ。奴隷は主に尽くすもの。人間に人権など存在しない。奏人がもしソロではなく別の律界人に拾われていたなら、既にこの命は果てていただろう。一瞬でも早く死に至ることを願っていたはずだ。

 その点、奏人は恵まれた。ソロは奏人を誰より大切にしてくれている。奏人以上にこの体のことを心配してくれている。だから奏人も自分を大切にしようと思えるようになった。ソロを悲しませたくなかった。フォニックやシン、コードだってそうだ。エレジーにも、もう泣いて欲しくない。

 叔父はシキとして律王に愛されていたのだろうに、この反応。

「アイツが惚れてたのは、シキだ。僕じゃない」

 どういう意味なのかが分からなくて叔父を見れば、叔父は面倒臭そうにしながらも口を開いた。誰かに話したかったのか、自分が落ちた頃のことを饒舌に語り始めた。
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